偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
変わらぬアレンと老いたヒンメルが、流星を待つ夜に互いの生き方を語ります。
魔王が勇者ヒンメルに討たれてから、五十年になる。
共通の脅威が消えたことで、人間の領域はさらに広がった。新たな街道が敷かれ、各地に町が生まれ、かつて魔族の支配下にあった土地へも人間が住み始めている。
城塞都市ガルドも例外ではない。
五十年前には一国の首都を凌ぐ規模にまで発展していたが、今では周囲の町や村を束ねる巨大都市となっている。俺が管理しなければならない人間の数も、それに伴って増え続けた。
人間は生まれ、成長し、結婚し、子を残し、やがて死ぬ。
その循環を、俺はもう四百年以上見てきた。
執務室で最後の書類へ署名を終えた俺は、机上に新たな魔法陣を展開した。指先から流した魔力が細い光の糸へ変わり、幾重にも重なった術式の上を走っていく。
やがて室内に、無数の名前が浮かび上がった。
エリー。
ガルド。
カルラ。
ルカ。
ほかにも、俺がこの町で出会い、すでに死んでいった人間たちの名がある。
救った者もいれば、救えなかった者もいた。俺を聖者と呼んだ者、領主と呼んだ者、ただのアレンと呼んだ者もいる。名前の横へ指を触れれば、その者の顔や声、出会った場所、交わした会話まで再現できた。
光で構成された文字に触れたところで、何かが変わるわけではない。それでも、同じ動作をするたび、人間はそれを愛おしむ仕草と判断する。
今では誰も見ていないときにもやっているが、長年続けた模倣が習慣になっただけだろう。
「友の記憶を忘れない魔法――エルネフロイ」
魔法陣から伸びた光が俺の額へ入り込み、四百三十年の間に蓄積された記憶を呼び起こした。
記憶は時間とともに劣化する。人間ほどではないが、魔族であっても、何百年も前に聞いた声の細部まで完全に保存できるわけではない。
だから作った。
死者に関する記憶だけを選別し、何度でも鮮明な状態へ復元する魔法だ。
戦闘には何の役にも立たず、魔力を増幅する効果もない。
これを使ったところで、俺の胸に悲しみが生じるわけでもなかった。
それでも俺は、定期的に術式を発動している。
「エリー。ガルド。カルラ。ルカ……」
もちろん、分かっている。死者の名を呼ぶ行為に実利はなく、彼らの魂が俺の声を聞いているという証拠もない。
だが、人間は言う。
死者は、誰からも忘れられたときに本当に死ぬのだと。
それが事実なら、俺が覚えている限り、こいつらは消えない。
「お前たちのことは忘れない。忘れてなるものか」
魔王が討たれてから五十年。次の年には、五十年に一度のエーラ流星が夜空を覆うという。
ヒンメルは、もうずいぶん年老いた。
髪は白くなり、背も曲がった。若い頃と同じ速度で歩くことはできず、階段を上ったあとは息を整えるために足を止める。
そのヒンメルは今、領主館に滞在している。
この五十年の間、彼は幾度となく城塞都市ガルドを訪れた。一緒に食事をし、酒を酌み交わし、街の困りごとを解決したこともある。魔物退治へ向かう彼に同行し、どちらが先に片づけるか競ったこともあった。
くだらない昔話を聞かされた回数に至っては、数える気にもならない。
人間たちの定義へ照らし合わせるならば、俺とヒンメルの関係は明確に友人へ分類される。
ハイターも、相変わらず酒を飲みながら生きているらしい。
あの男が今まで肝臓を壊していないことは、女神が実在する証明に使えるかもしれない。アイゼンはドワーフだから、少なくとも俺が急いで寿命を心配する必要はない。
フリーレンについては、消息を聞くだけだった。
あのエルフは、俺だけではなく、ヒンメルたちのところにも一度として顔を見せていないという。
俺に会いに来ないのは理解できる。
だが、共に魔王を討った仲間にまで五十年間会おうとしないのは、さすがに理解しがたかった。
長命種にとって五十年など短い時間だということは、俺にも分かる。
それでも、待つ側の五十年まで短くなるわけではない。
浮かんでいた名前を消し、俺は椅子から立ち上がった。
扉を開くと、冷たい夜風が室内へ流れ込んだ。
ヒンメルは手すりの前に立ち、眼下に広がる街の灯りを眺めていた。背中は記憶にある青年よりもずっと小さくなっている。傍らには杖があり、その細くなった手が柄を握っていた。
俺が近づいても、彼は振り返らなかった。
「君は、友人のことを忘れないのかい?」
どうやら、執務室で発動した魔法を見ていたらしい。
俺は答える代わりに隣へ立ち、片方のグラスへワインを注いで差し出した。
ヒンメルは礼を言って受け取ると、街の灯りを見つめたまま言葉を続ける。
「最初の奥さんや親友が亡くなってから、もう三百年以上になるのだろう?」
「ああ。忘れない」
エリーがどのように笑ったのかも、ガルドがどのような声で俺の名を呼んだのかも、今でも昨日の出来事と変わらない精度で思い出せる。
魔法で保全しているからだと言われれば、そのとおりだ。
だから、何だというのだ。
「死者は、存在を忘れられたときに本当に死ぬ。人間はそう言う。ならば、俺が覚え続けている限り、あいつらは俺の中で永遠だ」
「たとえ模倣でも、偽善でもな。何もしないよりはマシだろう」
その目は老いても変わらない。俺の言葉だけではなく、その奥にある意図まで読み取ろうとする、実に不愉快な目だ。
「君は、本当に変わらないね」
「魔族は変わらない」
生物としての性質は、四百年程度では変化しない。人間の言葉を学び、行動を模倣し、表情や声の調子を再現できるようになっても、その根底にあるものは魔族のままだ。
だが、それで結論とするつもりはなかった。
「それでも、俺はいつか変わってみせる」
ヒンメルの視線を感じながら、俺は夜空を見上げた。
「悲しみで胸を痛めてみたい。誰かに恋をして、姿を見ただけで胸を躍らせてみたい。失うことを恐れ、失ったあとには、立っていられなくなるほど泣いてみたい」
エリーが死んだときにも、俺は倒れなかった。
ガルドが老衰で息を引き取ったときにも、その手を握りながら、心臓の停止時刻を正確に把握していた。
カルラを送り、成長したルカと別れ、その子孫たちが一人ずつ死んでいくのを見届けても、俺の魔力は一度として増幅しなかった。
何百回経験しても、死者の想いが俺へ力を与えることはない。
「お前のようにな」
「僕のように、か」
ヒンメルは少し照れたように笑い、ワインを口へ運んだ。
「来年は、五十年に一度の流星群だ。フリーレンに会える」
五十年待った相手にようやく会える。そんな未来を、疑いもせずに喜んでいる。
思わず息を吐いた。
「あいつは、結局この半世紀、一度も会いに来なかったのか。いくら何でも、焦らすのにも限度があるだろう」
「本当にね」
「しかし、今さら会えたところで、その身体では抱くのも難しいかもしれないな」
細くなった肩から曲がった腰へ目を走らせると、ヒンメルは呆れたように片手を広げた。
「抱くどころか、世話されることになってしまうよ」
「本人に会ったら試してみろ。案外、抱き上げてもらえるかもしれんぞ」
「それは格好がつかないなあ」
「何を今さら。もう十分に格好はつけただろう」
魔王を討ち、世界を救い、数え切れないほどの人間から英雄と呼ばれた。
多少格好の悪い姿を見せたところで、勇者ヒンメルの評価が覆ることはない。
それに、老いたとはいえ、この男は今でも常人より遥かに強い。
杖を奪い、魔物の群れへ放り込んだとしても、そこらの冒険者より先に帰ってくるだろう。
「まだ、下手な魔族より強いくせに」
「そう見えるかい?」
「俺の前で老衰死するまで、油断するつもりはない」
「それは頼もしいな」
眼下では、遅い時間になっても街の灯りが消えない。夜番の兵士が城壁を巡回し、酒場から出てきた男たちが歌いながら大通りを歩いている。
俺が守り続けてきた町だ。
エリーもガルドも知らない建物が増え、彼らの顔を知る者は、もう俺しか残っていない。それでも、この町は今も彼らが生きていた時代の延長に存在している。
「アレン。君は、やはり僕の友人だよ」
「親友にはしてやらんがな」
間を置かずに返すと、ヒンメルは可笑しそうに首を傾けた。
「どうしてだい?」
「その席は、ガルドで埋まっている」
胸の中で、何かが動くことはない。
それでも俺は、遠い昔に冒険者として旅をしていた頃の景色を思い浮かべていた。
「三百年以上前から、ずっとな」
ガルドは、とっくに死んでいる。
死者が席を占め続ける必要はない。
親友という関係に定員があるわけでもなく、新たな人間を同じ場所へ加えたところで何の問題も生じない。
だが、俺はガルドの席を空けたくなかった。
合理的な理由は説明できない。
「ふふ。君は本当に、人間みたいなことを言うんだね」
「訂正しろ。今の言葉に限っては、俺自身の判断だ」
「そういうことにしておくよ」
やがて夜風に身体が冷えたのか、ヒンメルが小さく身震いした。若い頃ならば気にもしなかった程度の寒さに、今では肉体が耐えられないのだろう。
「そろそろ寝るよ。長く立っていると腰にくるんだ」
「部屋まで運んでやろうか?」
「遠慮しておく。まだ自分で歩けるからね」
ヒンメルは空になったグラスを俺へ渡すと、杖をつきながら扉へ向かった。
扉の前まで来たところで一度だけ振り返り、おやすみと言い残して部屋へ戻っていく。
ヒンメルは老いた。
誰が見ても分かるほど、死に近づいている。
俺が次に会ったとき、さらに老いている可能性がある。あるいは、次に会う機会そのものが存在しないかもしれない。
その事実を認識しても、俺の心臓は一定の間隔で脈打ち続けていた。
呼吸にも魔力にも変化はなく、胸の内側に痛みも熱も生じない。
そうだ。
俺は、人間になりたい。
始まりは、強さを得るためだった。
人間が仲間や愛、覚悟、死者への想いによって限界を超える仕組みを手に入れれば、俺はほかのどの魔族よりも強くなれる。そのために人間の中へ入り、人間の行動を学び、人間と同じ経験を積んできた。
四百三十年、続けてきた。
だが、いつからだろう。
強くなるために人間になりたかったはずなのに、今では強くなれなくても人間になりたいと思っている。
エリーを愛したかった。
ガルドを失って泣きたかった。
カルラの死を嘆き、ルカや、その子孫たちの人生を、自分の胸の中へ刻みたかった。
俺が生涯を捧げて守ってきたものを、事実や記録としてではなく、感情として残したかった。
ヒンメルのように笑い、愛し、時には憎み、失うことに怯えてみたい。
そうした想いを積み重ね、百年にも満たない短い人生を、自分にとってのすべてにしてみたい。
愛という感情一つで満たされることができたなら、どれほど素晴らしいだろう。
視界が、わずかに歪んだ。
人間であれば、これを涙と呼ぶのかもしれない。
周囲には誰もいない。声を震わせる必要も、悲嘆を示して信用を得る必要もない。
涙を流すことで、ヒンメルの同情を引くこともできない。
それなのに、目元に溜まった雫が頬を伝った。
「俺は……人間になりたい」
魔族では得られない強さを手に入れるためではない。
何百年生きても満たされない、この空洞を終わらせるために。
「お前が羨ましいよ、ヒンメル」
わずかな生涯を、一人のエルフへの想いだけで満たすことのできた人間。
五十年待ち続け、それでも再会を疑わず、子供のように笑うことのできる男。
俺がどれほど行動を積み重ねても、どれほど多くの人間を救っても、まだ手に入れられないものを持っている。
エーラ流星は、まだ夜空に現れない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
強さではなく、人間の心そのものを求めるようになったアレンと、彼がヒンメルへ抱いた羨望について、感想をいただけると嬉しいです。