偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
泣けないフリーレンと、悲しむことのできないアレンが、初めて同じ死と向き合います。
ヒンメルが死んだ。
五十年に一度のエーラ流星を、かつての仲間たちと見届けてから間もなくのことだった。
勇者として魔王を討ち、数え切れないほどの人間を救い、老いてなお下手な魔族より強かった男の命は、驚くほど呆気なく尽きた。
教会に据えられた棺の中で、ヒンメルは目を閉じている。
白くなった髪は丁寧に整えられ、曲がっていた背も、横たわった今は分からない。顔に刻まれた皺さえ穏やかで、ただ眠っているようにも見えた。
だが、心臓は動いていない。呼吸も、体温も、魔力の循環も完全に停止している。
死んでいる。
俺の心臓はいつもと同じ間隔で脈打っていた。呼吸も魔力も乱れていない。胸の内側に痛みはなく、熱も冷たさも、何かを失ったときに人間が感じるという空虚ささえ生じていなかった。
もともと空洞なのだから、そこから何かが失われるはずもない。
分かっていたことだ。
エリーが死んだときも、ガルドが死んだときも、カルラやルカ、その子孫たちを見送ったときにも、俺は悲しまなかった。どれほど親しい人間が目の前で命を失っても、人間と同じ感情が俺の中に生まれたことは一度もない。
それでも、ヒンメルならばと思っていた。
俺が四百年以上かけてもたどり着けない、人間の強さの頂点にいた男。俺が魔族だと知り、胸の内側に人間と同じ心がないことまで見抜いたうえで、なお友人だと言った男。
その死でさえ、俺を変えることはできなかった。
一年ほど前、城塞都市ガルドのテラスで交わした会話も、鮮明に思い出せる。
『君は、やはり僕の友人だよ』
何一つ忘れてはいない。
だが、それは記憶だ。
記録と同じように保存された、過去の情報でしかない。
「残念だよ、ヒンメル。お前でも、駄目だった」
葬儀へ参列した人々が、教会を埋め尽くしていた。
王侯貴族や聖職者だけではない。かつてヒンメルに救われたという老人、その子や孫、勇者に憧れて剣を取った冒険者、花を抱えた子供たちまで、立場も年齢も異なる人間が同じ場所に集まっている。
すすり泣く声が至るところから聞こえた。
彼らの多くは、生前のヒンメルと一度も言葉を交わしていない。それでも、その死を悲しむことができる。
五十年来の友人である俺には、できないことだった。
棺から離れると、周囲の参列者たちが左右へ分かれ、俺のために道を空けた。深く頭を下げる者もいれば、祈るように両手を組む者もいる。
俺が城塞都市ガルドの領主であり、四百年以上にわたって人間を守り続けてきた魔族であることは、今では広く知られている。
人間の女と生涯を共にし、その死後も彼女の町と子孫を守り続けている特別な魔族。
人々が信じている、偽りの聖者アレンだ。
その中から、喪服を着た恰幅のよい貴族が進み出てきた。赤くなった目元をハンカチで押さえながら、俺へ向かって頭を下げる。
「アレン様。遠方の城塞都市より、わざわざお越しくださったのですね」
「ええ。彼とは五十年来の友人でしたから」
「私が魔族である以上、最初に町を訪れた目的には、私を見極める意味もあったのでしょう。それでもヒンメルは、その後も幾度となく会いに来てくれました。私にとって彼が友人であったことに、偽りはありません」
これは事実だ。
人間たちの定義に従えば、俺とヒンメルは間違いなく友人だった。一緒に食事をし、酒を飲み、街の問題を解決し、くだらない昔話も聞かされた。
俺が人間と同じ感情を持っていたかどうかは、関係の名称を決めるうえでは問題にならない。
「彼を失ったことは……とても悲しいことです」
貴族の顔が歪み、新たな涙が頬を伝った。
「なんと温かいお言葉でしょう。種族を越えて、勇者様をそこまで……。アレン様は、やはり特別なお方です」
何も答えず、静かに目を伏せた。
貴族はそれを、悲しみで言葉を失った姿だと解釈したらしい。俺の手を両手で包むように握り、もう一度深く頭を下げてから離れていった。
嘘だ。
ヒンメルが友人だったことは嘘ではない。
彼の死が悲しむべき出来事であることも、人間社会の基準に照らせば間違いではない。
だが、俺自身は悲しんでいないはずだ。
棺に入っている男を見ても、胸の中では何一つ動かなかった。
俺が作った表情と声に、人々は温かな心を見いだす。それは四百年以上繰り返してきた、いつもどおりの反応だった。
やがて、教会の後方で小さなざわめきが起こった。
視線を向けると、そこにフリーレンが立っていた。
五十年前と何も変わらない姿だった。
白い髪も、幼く見える顔立ちも、周囲の人間に関心がないような目も、俺の記憶にあるままだ。ヒンメルが青年から老人へ変わり、ついには棺へ入るまでの時間を、このエルフはほとんど変化せずに過ごした。
フリーレンは泣いていなかった。
棺へ目を向けたまま、声を上げることも、顔を歪めることもなく立っている。
その様子を見た参列者たちが、互いに顔を寄せて囁き始めた。
「勇者様と旅をした魔法使いだろう?」
「十年も一緒にいた仲間なのに、悲しくないのかしら」
「五十年ぶりに会ったと思ったら、これでは……」
声量を抑えているつもりなのだろうが、俺にも、当然フリーレンにも聞こえていた。
彼女の表情は変わらない。
人間が葬儀の場で求める反応を理解していないのか、理解していても必要だと考えていないのか。少なくとも、周囲へ納得できる形で悲しみを示すつもりはないようだった。
不穏な空気が広がりかけたところで、場違いな笑い声が教会に響いた。
「いやあ、思い出してしまいましてね。ヒンメルは昔から、実に格好をつけたがる男でしたから」
酒瓶を片手にしたハイターが、肩を揺らして笑っている。
すぐ隣にいたアイゼンが、その脇腹へ容赦なく肘を入れた。
「葬式だぞ、ハイター」
「分かっていますとも。だからこそ、湿っぽい顔ばかりではヒンメルも落ち着かないかと思いまして」
「お前は普段どおり酒を飲みたいだけだろう」
参列者たちの非難は、フリーレンからハイターへ向いた。
さすがは生臭坊主だ、葬儀で酒を飲むとは何事だと、先ほどよりも遠慮のない声が飛び始める。
ハイターは困ったように笑いながら頭を下げていたが、その目は笑っていなかった。
なるほど。
あえて自分が道化になり、非難の矛先を引き受けたのか。
酒を飲んで騒いだところで、長年聖職者として積み上げてきた評価が消えるわけではない。多少評判を落とすだけでフリーレンを庇えるなら、安いものだと判断したのだろう。
実に人間らしく、そして不器用な方法だった。
俺は参列者の間を進み、祭壇の前で振り返った。
俺の動きに、教会中の視線が集まる。騒ぎは自然と収まり、酒瓶を取り上げようとしていた者たちも手を止めた。
「皆様」
声を張り上げる必要はなかった。
「故人との別れ方は、人によって異なります。声を上げて泣く者もいれば、言葉を失う者もいる。楽しかった日々を思い出し、思わず笑ってしまう者もいるでしょう」
「ヒンメルは優しい男でした。そして、何より愉快な男でした。ハイターが酒を飲めば呆れながら笑い、アイゼンが黙っていれば、その隣で勝手に話し続ける。フリーレンが何も言わなければ、彼女が口を開くまで待つことのできる人でした」
人々は黙って聞いている。
「彼の仲間たちが、皆様の望む形で悲しみを示さなかったとしても、それを薄情と決めつけることは、ヒンメルも望まないでしょう。どうか彼らに、彼らなりの別れをさせてあげてください」
すすり泣く声が戻ってきた。
先ほどフリーレンを非難していた者たちは気まずそうに目を伏せ、何人かはハイターへ向かって小さく頭を下げている。
ハイターは俺と目が合うと、酒瓶を胸元へ掲げ、わずかに目を細めた。
礼を示しているらしい。
フリーレンもこちらを見ていたが、その目に感謝はない。なぜ余計なことをしたと言いたげな、五十年前と変わらない死んだような目だった。
それで構わない。
彼女に感謝されることが目的ではなかった。
葬儀を終えたあと、ヒンメルの棺は教会に隣接する墓地へ運ばれた。
◇◇
空は晴れていた。
陽光が木々の葉を透かし、墓地の地面へ細かな光の模様を作っている。遠くでは鳥が鳴き、風が吹くたび、棺に添えられた花の香りが広がった。
棺を支えていた縄が、少しずつ緩められていく。
地面に掘られた穴の底へ、ヒンメルが降ろされていく。棺が見えなくなり、聖職者の祈りが終わると、土が一杯ずつ投げ入れられた。
乾いた音が、棺の蓋を叩いた。
「……だって私、この人のこと、何も知らない」
フリーレンの声が聞こえた。
彼女は墓穴の前に立ち、土に埋もれていく棺を見下ろしていた。
「一緒に旅をしたのも、たった十年だけだ。人間の命が短いことくらい、分かっていたのに……」
声が震えた。
フリーレン自身も、その理由が分からないようだった。戸惑ったように目元へ触れた指先が、涙で濡れている。
「どうして私は、もっと知ろうとしなかったんだろう……」
彼女の両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
一度流れ始めた涙は止まらなかった。フリーレンは顔を歪め、呼吸を乱し、子供のように泣き始めた。
ハイターとアイゼンが、その傍らに立っている。
二人とも、もう彼女を庇う必要はなかった。
フリーレンを薄情者と呼んでいた参列者たちまで、彼女の姿を見て涙を拭っている。
俺は少し離れた木陰から、その光景を見つめていた。
ほらな。
俺の言ったとおりだろうが。
自分が仲間たちを理解していると思うのなら、彼らが死んだときにも同じことを言えるといい。失ってから知らなかったことに気づいても、遅いのだと。
あのときのフリーレンは、俺の言葉を認めなかった。
だが、俺の予測は正しかった。
彼女は後悔している。
ヒンメルを知ろうとしなかったことを、今になって悔やみ、涙を流している。
それを見ても、俺の胸は動かない。
でも、予測したとおりの反応をフリーレンが示したことのほうへ、意識は強く向いていた。
俺は正しかった。
だが、勝ったとは思えなかった。
フリーレンは、たった十年の旅で得たものによって泣いている。
五十年も離れていた男の死を悼み、自分が何も知らなかったことを後悔し、立っていることさえ難しいほど顔を歪めている。
俺にはできなかったことだ。
エリーと過ごしても、ガルドと親友になり、その生涯を見届けても、俺は一度として泣けなかった。死者の顔も声も、交わした会話も、作った魔法によって完全に保存している。それでも、記憶が胸を締めつけたことはない。
フリーレンと俺は、どちらも人間より遥かに長く生きる。
ヒンメルが生きた時間など、俺たちの寿命から見れば僅かなものだ。
それでも彼女は、その僅かな時間を失って泣くことができた。
俺には、それができない。
背を向け、墓地を離れようとした。
今のフリーレンへ、俺がかけられる言葉などない。人間の悲しみを知らない魔族が慰めたところで、彼女を不快にさせるだけだろう。
それに、俺がここへ来た目的は果たした。
友人であるヒンメルの葬儀へ参列し、人間の作法に従って別れを済ませた。これ以上この場所に残る合理的な理由はない。
だが、数歩進んだところで足が止まった。
言わなければならないことがあるような気がした。
誰に求められたわけでもない。言葉をかけても俺の利益にはならず、フリーレンから感謝される可能性もない。
それでも、俺は引き返した。
ハイターとアイゼンが少し離れたのを見計らい、泣き続けているフリーレンの傍らへ立つ。
「……悲しいか、フリーレン」
「何だよ。見れば分かるだろ」
「そうだな」
泣いているのだから悲しい。それくらいは俺にも分かる。
「お前は、ようやく戸口に立ったわけだ」
フリーレンの眉が寄った。何を言われているのか理解できないという顔で、俺を睨み続ける。
「だから……何だよ」
「俺は、お前が羨ましい」
フリーレンの表情から、怒りが消えた。
俺は人間へ向けるための笑顔を作らなかった。声を穏やかに整えることも、目元を悲しげに見せることもしない。
今の俺を見ているのは、俺の正体を知っているフリーレンだけだ。
演じる必要はなかった。
「ヒンメルは、よく昔の旅を懐かしんでいた」
「あの頃は何もかもが新鮮で、世界中が煌めいて見えたそうだ。魔王を倒すまでの十年間を語るとき、あいつの話にはいつも、お前とハイターとアイゼンが出てきた」
フリーレンの瞳から、また涙があふれた。
「お前がいなければ見つけられなかった魔法や、くだらないことで言い争った話も聞かされた。お前が宝箱へ頭から突っ込んだ回数については、何度聞かされたか分からない」
「……馬鹿」
「まったくだ。同じ話を何度もする老人だった」
ヒンメルは、あの十年間を何度も語った。
話の細部は少しずつ変わっていた。新たな記憶を付け加えたのか、老いによって記憶が曖昧になったのかは分からない。
ただ、どの話の中でも、彼は楽しそうに笑っていた。
「ヒンメルは、きっと楽しかったんだろうさ」
「お前たちと旅をした十年間も、五十年ぶりに再会して流星を見に行った最後の旅もな」
「……お前が言うなよ」
掠れた声だった。
「魔族のくせに。ヒンメルが楽しかったかどうかなんて、お前に分かるわけないだろ……」
「ああ。分からない」
「俺には、あいつの表情や言葉から推測することしかできない。ヒンメルが感じていた楽しさも、お前が今感じている悲しみも、俺の中には存在しない」
「だったら――」
「だから、お前が羨ましいと言っている」
フリーレンの言葉を遮り、泣き濡れた顔を見下ろした。
「お前は、自分がヒンメルを知らなかったことを知った。もっと知りたかったと、失ってから気づいた。その後悔で、今、泣いている」
俺には、死者について知らないことなどほとんどない。
エリーの好物も、嫌いな食べ物も、眠るときの癖も知っている。ガルドが剣を振るときにどちらの足から踏み込むかも、カルラが嘘をつくときに耳へ触れることも、ルカが幼い頃に怖がっていた魔物の名も覚えている。
だが、それらは知識だ。
彼らを観察し、情報を集め、魔法によって保存した。
フリーレンが今、ヒンメルについて知りたいと願っているものとは、きっと違う。
「知らなかったと気づくことが、人間を知るための戸口なのだろう。お前は今日、ようやくそこへ立った」
「お前は……?」
「俺か」
これは、何のための表情だったのだろう。
それでも、人間ならばこのようなときに笑うだろうと、長年の模倣によって身体が覚えていた。
「俺は四百年以上、その戸口を探している」
エリーを愛する夫を演じた。
ガルドと友情を育み、カルラたちを家族として守った。何百人もの死を見送り、何万人もの人間を救い、今もその子孫たちへ人生を捧げている。
それでも、まだ入り口さえ見つからない。
「だからお前は、これから人間を知ることができる。ヒンメルの死を後悔したお前なら、次に出会う人間を知ろうとするかもしれない。その者が死ぬまでの時間を、今までとは違うものとして見るかもしれない」
背を向けた。
これ以上、ここにいる必要はない。
「またな、フリーレン」
少し離れた場所では、ハイターが赤くなった鼻をすすり、アイゼンが墓へ土をかけている。参列者たちは二人の周囲を囲み、ヒンメルとの別れを惜しみ続けていた。
葬列から離れ、森へ続く道を歩いた。
来年のお前が羨ましい。
再来年のお前が羨ましい。
ヒンメルを知らなかったことから目を背けず、新たに出会う人間を知ろうとするかもしれないお前が羨ましい。
誰かと過ごした時間を懐かしみ、その者がいなくなったことを悲しみ、もっと話せばよかったと後悔できるお前が羨ましい。
どれほど力を込めても、胸の空洞から悲しみが湧き上がることはない。
「……エリー」
俺はお前について、何もかも覚えている。
そのはずだった。
だが、フリーレンがヒンメルを知らなかったというのなら、俺もまた、お前を知らなかったのかもしれない。
何を知らなかったのかさえ、俺には分からない。
フリーレンは今日、戸口に立った。
俺は今も、戸口がどこにあるのか分からないまま歩き続けている。
背後では、ヒンメルのために鳴らされた鐘が響いていた。
何人もの人間が足を止め、頭を垂れ、勇者の死を悼んでいる。
俺だけが一度も振り返らなかった。
木漏れ日の下を歩く俺の姿は、エリーと出会った頃からほとんど変わっていない。ヒンメルが青年から老人となり、棺へ入るまでの年月を経ても、俺は若いままだ。
人間たちが暮らす温かな家の戸口を探して。
その場所がどこにあるのかも知らない、永遠の迷子のまま。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
人間を知るための戸口へ立ったフリーレンと、今もその場所を探し続けるアレンについて、感想をいただけると嬉しいです。