偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
聖都を訪れたアレンは、隠居したハイターと、彼が引き取った一人の少女に出会います。
ヒンメルが死んでから、十九年が過ぎた。
その間にも、俺の治める城塞都市ガルドは成長を続けた。
発展は望ましい。
人が増えれば税収が増え、知識と技術が蓄積され、より多くの人間を守れるようになる。俺が人間から奇跡を学ぶための観察対象も増える。
ただし、人間が増えれば、当然ながら面倒も増える。
利権を求める貴族、権威を振りかざす聖職者、何百年も前の盟約を持ち出して口を挟んでくる王家。都市が小さかった頃には見向きもしなかった連中が、今ではガルドの将来を憂えているという顔で俺の前へ現れる。
今日、聖都まで俺を呼びつけた者たちも、その一種だった。
北方で再び魔族の目撃例が増えている。俺が同族と密かに通じている可能性はないのか。魔王が討たれて長い年月が過ぎた今も、俺が人間を守り続けている真の目的は何なのか。
四百年以上も同じことを答え続けている俺より、尋ねる側のほうが飽きないのだから大したものだ。
俺が魔族と通じて人間を滅ぼすつもりなら、わざわざ聖都まで出向いて弁明する必要などない。そう教えてやろうかとも思ったが、高徳な聖職者というものは冗談への耐性が低い。
仕方がないので、いつもどおり穏やかに笑い、人間を愛しているからだと答えておいた。
嘘ではない。
俺はガルドに住む者たちを愛している。彼らも俺を愛している。それは四百年以上の歳月をかけて証明されてきた事実だ。
それでも疑われるのなら、俺の示し方に何かが足りないのだろう。
俺はまだ、人間の愛を正しく再現できていない。
◇
聖都を出た俺は、街道の途中から森へ入った。
木々の間を抜ける細い道の先に、石造りの小さな庵が見えてくる。高位の聖職者として聖都にいた頃のハイターからは想像もできない、実に質素な隠居先だった。
説教を受けに来たついでに、最近この辺りへ移り住んだ生臭坊主の顔でも見ておこうと思っただけだ。
その証拠に、事前の手紙すら送っていなかった。
庵の庭へ入ると、ハイターは日当たりのよい縁側に腰掛けていた。
白くなった髪は薄く、頬の肉も落ちている。俺の気配に気づいて顔を上げるまでの動作も、若い頃より明らかに遅かった。
「久しぶりだな、ハイター。先に知らせると居留守を使いそうだったので、手紙は出さなかった。代わりに、聖都の地下酒蔵で眠っていた逸品を持ってきてやったぞ。お前なら泣いて喜ぶだろう」
掲げた葡萄酒へ、ハイターの視線が吸い寄せられた。
老いても変わらない反応に安心したが、意外にも手は伸びてこなかった。
「せっかくですが、酒はやめたのですよ。この年になりますと、さすがに身体へ障りますので。それに、貴方を相手に居留守が通用するとは思っていません。扉を閉めたところで、壁ごと入ってくるでしょう?」
冗談を言える程度には元気らしい。
しかし、本当に酒は断っているようだった。
表面上は穏やかに過ごしていても、内臓の衰えまでは隠せない。魔力の循環にも、若い頃にはなかった濁りが生じている。
残された時間は、それほど長くない。
「今さら更生しても、女神がお前の過去を忘れてくれるとは思えんがな。まあ、お前が酒を断つ可能性も考えて、果実水も用意してある。そちらを飲め。葡萄酒はアイゼンが来るまで預けておくが、勝手に二人で飲むなよ。これは俺が持ってきた酒だ」
木箱から果実水を取り出すと、ハイターの顔が露骨に明るくなった。
聖都の連中へ嫌味を言っても、彼らは裏にある意味を理解しない。ハイターなら半分ほどは正確に受け取る。残りの半分を勝手に善意として解釈するのが難点だが、会話の相手としては悪くない。
庵の奥から、陶器同士が触れ合う小さな音がした。
ハイター以外の魔力反応がある。
改めて探れば、魔力の循環も足音も、人間の子供のものだった。
「中に子供がいるな。お前、その年で外に子供を作ったのか? それが聖都を離れた理由なら一応は納得できる。元から酒と女にだらしのない男だったが、まさか晩年になってまで醜聞を増やすとは――」
「貴方が聖都で何を言われたのかは知りませんが、その鬱憤を私の名誉で晴らすのはやめてください。私の子供ではありませんし、貴方が次に口にしようとしている、さらにロクでもない推論も外れています」
先回りされてしまった。
まだ童女趣味という可能性を提示していない。
俺のことをよく理解しているのかもしれないが、結論へ到達する前に否定するのは推論を妨害する行為である。
「人間社会で過去に起きた不祥事を参考に、合理的な可能性を挙げようとしただけだ。俺は学習する魔族だからな」
「その学習成果は、もう少し人の役に立つ方向へ使ってください」
怒って追い返すつもりはないらしい。俺は招かれるまま、庵の中へ入った。
室内も庭と同じく質素だった。必要最低限の家具と食器しかなく、元高位聖職者の住居とは思えない。
ただし、壁際には小さな服が畳まれ、机の上には初歩的な魔法書が何冊も積まれている。何度も読み返されたのだろう。ページの端には癖がつき、表紙も擦れていた。
やがて奥の部屋から、一人の少女が姿を現した。
紫色の髪を肩の辺りで切り揃えた、小さな人間だった。両手で盆を持ち、その上に俺とハイターの分の茶を載せている。
少女は俺を見るなり、足を止めた。
盆は傾かなかった。呼吸も大きく乱れてはいない。それでも俺から目を離さず、ハイターの側まで来ると、その身体へ半分ほど隠れた。
「フェルン。この方はアレン。魔族ですが、私の古い友人ですから、ひとまず襲われる心配はありません」
紹介の仕方に問題があった。
古いという部分にも、ひとまずという部分にも異議がある。
だが、少女の警戒は正しい。
「こいつが友人と呼んだからといって、すぐに俺を信用する必要はない。人間の姿をした魔族へ無防備に近づかないのは賢明な判断だ。恐怖を感じながら盆を傾けず、魔力の乱れも抑えているところもいい」
近くに魔族がいると知ってなお、少女の魔力はほとんど乱れていなかった。
幼い人間の魔力は、感情に引きずられやすい。恐怖や動揺によって無意識に膨れ上がり、体外へ漏れ出すのが普通だ。
この子には、それがない。
「恐ろしく才能があるな。今の時点でも並の子供とは比較にならん。育て方を間違えなければ一流――いや、超一流の魔法使いになれるだろう」
「……そうですか」
褒められたというのに、フェルンは喜ばなかった。
むしろ眉を寄せ、俺の意図を探ろうとしている。自分へ向けられる好意や称賛を無条件では信じない。育った環境が想像できる反応だった。
ハイターに促され、フェルンは俺たちの前へ茶を置いた。
その手にも震えはない。
「ありがとうございます。お話が終わるまで、奥で魔力操作の練習をしていなさい。アレンが帰る前に、あとで少し見てもらいましょう」
フェルンは小さく頷いた。俺を一度だけ振り返ってから、奥の部屋へ戻っていく。
「どこで拾った。それから、なぜ引き取った」
窓の外へ目を向け、遠い昔を見ているような顔をしている。人間がこうした表情を見せるとき、意識の大半は目の前ではなく、記憶へ向けられている。
「南側諸国を訪れたとき、崖の上にいたのですよ。戦争で故郷と家族を失い、自分だけが生き残ったことを受け入れられなかったのでしょう。あのまま放っておけば、遠からず死んでいました。ですから連れ帰りました。子供の育て方など知りませんでしたが、必要になれば覚えるものです。酒を断つよりは、ずっと簡単でしたよ」
それは比較の対象がおかしい。
しかし、ハイターにとっては本当にそうだったのだろう。
扉の向こうでは、微かな魔力の動きが続いている。フェルンは俺たちの会話を盗み聞きすることもなく、言われたとおり魔力操作の練習を始めていた。
「だが、お前の寿命は長くない。数年、運がよくても十年は保たんだろう。あの子が一人で生きていけるようになる前に、お前は死ぬ。自分が先に死ねば、フェルンはもう一度家族を失うことになる。それを考えなかったわけではあるまい」
事実をぼかす必要はない。
ハイター自身、自分の身体については理解しているはずだ。それでも幼い子供を引き取った。
「死ぬのが怖くなったのですよ。ヒンメルが死んでから、自分が死んだ後のことを考えるようになりました。残された者が何を思い、どうやって生きていくのか。以前の私は、自分が死ぬことばかり考えて、その先に残される者のことを、それほど真剣には考えていなかったのでしょうね」
ハイターが恐れているのは、自分の命が失われることではないだろう。
その視線は、自分の手でも、窓の外でもなく、フェルンが消えた扉へ向けられていた。
「あの子を残して死ぬことが怖いのだろう。お前らしくもないな。察してほしいことを、わざわざ遠回しに話すとは」
「そこまで分かっているのでしたら、私が頼む必要はありませんね。貴方は昔から、人の気持ちが分からないと言いながら、こういうときだけは妙に鋭いですから」
困ったように笑うハイターの顔を見ているうちに、言葉が先に出た。
「俺が教える」
フェルンに魔法を教えることは難しくない。日に数時間を使う程度なら、領主としての仕事にも大きな支障は出ないだろう。
だが、俺がそうしなければならない理由はなかった。
あの子の才能を伸ばしたところで、ガルドが利益を得られるとは限らない。将来、俺の都市へ仕える保証もない。ハイターから報酬を受け取るつもりもなかった。
合理的な判断ではない。
「俺がフェルンへ魔法を教える。まずは自分の身を守れるところまで鍛え、その先へ進めるかは本人の適性を見て判断する。もし、一人前になる前にお前が死んだ場合はガルドで引き取ろう。住居も食事も教育も保証する。成長して別の道を望むなら、好きに選ばせればいい。魔法使いとして旅をしたいのなら、フリーレンへ預けることもできる。アイゼンを頼っても構わん。あの二人なら、ヒンメルの仲間が育てた子供を見捨てはしないだろう」
ハイターは何も言わず、俺の顔を見ていた。
その沈黙が気に入らず、説明を加えようとした。
フェルンほどの才能を腐らせるのは資源の浪費だ。ハイターが死後の心配をしなくなれば、残された時間を有意義に使える。俺にとっても、優れた人間の魔法使いが成長する過程を観察する機会になる。
理由はいくらでも用意できる。
ヒンメルならどうしただろう。
考えるまでもなかった。
助けただろう。
あの男は、そういう人間だった。
「分かりました。フェルンのことを、お願いいたします」
ハイターが姿勢を正し、深く頭を下げた。
予想していたよりも、遥かに素直な反応だった。
「俺は魔族だぞ。もう少し警戒するか、少なくとも条件を確認するものだと思っていたが、随分と簡単に信用するのだな」
「私が頼んでいるのは、正体の分からない魔族ではありません。四百年以上も人間を守り続け、私たちと一緒に旅をした、友人のアレンですよ。それとも、友人として信用されることに何か不都合でもありますか?」
十九年前にも、同じことを言った男がいた。
友人。
人間が俺へ向けるその言葉は、随分と用途が広い。共に過ごした時間を示すためにも使われる。親しみや信頼を伝えるためにも使われる。そして時には、相手を逃がさないための鎖にもなる。
ハイターにフェルンを託されれば、俺は見捨てられない。
この男はそれを理解したうえで、俺を友人と呼んだのだろう。
実に狡猾な生臭坊主だった。
「不都合はない。むしろ、人間であればここで喜ぶところなのだろうな。俺には相変わらず何も感じられんが、言うべき言葉は分かる。ありがとう、ハイター」
◇
その日のうちに、フェルンの力量を詳しく確かめた。
魔力量だけではない。集中力、魔力操作の精度、術式を記憶する速度、恐怖の中で判断を維持する能力。どれを取っても、幼い人間としては異常な水準にある。
俺が簡単な術式を一つ見せると、フェルンは三度目で再現した。威力は弱く、形も不安定だったが、それは経験の不足によるものだ。修正すべき箇所を一度教えると、次には同じ失敗をしなかった。
予想以上だった。
教え方さえ誤らなければ、間違いなく強くなる。
日が傾く頃、俺は庵を出た。
見送りに出てきたフェルンは、相変わらず俺を警戒していた。それでいい。初日に懐かれても、こちらがどう扱えばいいのか分からない。
「しかし、アレン。貴方には領主としてのお仕事があるのでしょう。ここまで通ってフェルンへ魔法を教えるとなれば、往復するだけでも相当な時間がかかるのではありませんか?」
ハイターの疑問に答えるため、足元へ魔力を流した。
幾重もの術式が淡い光となり、地面の上で組み上がっていく。フェルンの視線が、初めて俺の顔ではなく、魔法そのものへ向けられた。
「一度訪れた場所へ瞬時に移動する魔法、ヴィーデルライゼだ。俺が独自に開発した。術式の規模が大きく、座標の計算も複雑だから、今のところ俺自身しか移動させられん。人間の魔力量で使えば、目的地へ着く前に身体が砕けるだろうな」
フェルンは魔法陣を食い入るように見つめていた。
興味を隠すつもりもないらしい。
「覚えたいなら、まずは基礎からだ。自分の魔力を正確に把握し、それを完全に隠し、相手の魔力を見抜けるようになれ。この術式を教えるのは、お前が俺の計算へ間違いを指摘できるようになってからだ」
無理だとも、何年かかるのかとも聞かなかった。
フェルンは魔法陣から目を離さないまま、はっきりと答えた。
「分かりました、先生」
先生。
初めて呼ばれたその言葉に、人間が感じるという喜びはなかった。
だが、嫌ではない。
少なくとも訂正する必要はないと判断した。
「明日から始める。朝食を終えた頃に来るから、それまでに準備をさせておけ。それから、お前もせいぜい長生きしろ。俺の記憶にも限りがある。死んだ友人の分まで覚えておくのは意外と場所を取るのでな。見送る友人は、少ないに越したことがない」
ハイターはしばらく俺を見つめ、それから穏やかに笑った。
「私も、友人より先に死ぬのは心苦しいのですが、貴方より長生きするのは難しそうです。それでもフェルンが一人前になるまでは、できるだけ努力するとしましょう。女神様へも、少しくらい寿命を融通していただけないか、祈っておきますよ」
お前の祈りで寿命が延びるのなら、ヒンメルは今も生きている。
そう言いかけて、やめた。
ヒンメルは既に死んでいる。
その事実を認識しても、胸は痛まない。魔力にも呼吸にも変化はない。
ただ、今ここで口にするのは、なぜか気に入らなかった。
「女神に頼る前に、自分で努力しろ。フェルンを一人前にするまでは、お前の責任だ。勝手に俺へ押しつけて死ぬことは許さん」
「ええ。承知しています」
ヴィーデルライゼの術式を起動させる。
「本当に、優しい魔族になりましたね」
否定しようとしたときには、既に庵の庭は消えていた。
◇
俺は優しくなどない。
フェルンを教えるのは、優れた才能を腐らせないためだ。引き取ると約束したのも、ハイターが安心して残りの時間を過ごせるようにするためでしかない。
ハイターが安心すれば…知らん。
合理的な判断だ。
そう結論づけてから、明日の予定を確認した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
ハイターからフェルンを託され、初めて「先生」と呼ばれたアレンについて、感想をいただけると嬉しいです。