偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
ヒンメルが死んでから、二十四年が過ぎた。
朝から空を覆っていた雲は、昼を迎える頃には森全体を呑み込むほど黒くなっていた。
湿った風が木々を揺らし、遠くで雷が鳴っている。
間もなく雨が降る。
それも、傘で防げる程度の雨ではない。
フェルンは、庵の裏手にある森から戻ろうとはしなかった。
杖の先から放たれた白い光が、巨大な岩へ突き刺さる。
重い衝撃音とともに岩肌が砕け、石片が弾け飛んだ。だが、魔法は途中で勢いを失い、向こう側まで貫くことなく消える。
フェルンは荒い呼吸を繰り返していた。
衣服も髪も泥に汚れ、杖を握る手には細かな傷が増えている。既に何度も限界だと告げたが、休もうとはしなかった。
今朝、ハイターが倒れた。
以前から寝台で過ごす時間は増えていたが、今朝は自力で起き上がることさえできなかった。
フェルンも、あの男に残された時間がほとんどないと理解したのだろう。
だから今日中に、あの岩を打ち抜こうとしている。
自分はもう一人前になったのだと、ハイターが生きているうちに示すために。
「もう一度お願いします、アレン様」
「今の一撃で照準が僅かに下へずれた。魔力の収束も、発動の直前に乱れている。焦るな。岩を壊そうとするのではなく、その向こう側へ魔法を通すことだけを考えろ」
「はい」
止めたところで、今のフェルンは納得しない。
ならば、せめて体調を崩す要因だけでも取り除いておくべきだろう。
片手を空へ向け、上空へ魔力を流し込んでいた。
風の流れを変え、頭上へ集まっていた雨雲を押し退ける。
森の周囲では既に雨が降り始めていたが、フェルンが立つ岩場だけには雲の切れ間から陽光が差していた。
「アレン」
振り返らなくとも、誰が来たのかは分かる。
「何している?」
「雨雲を散らしている。見れば分かるだろう」
「それは分かるよ」
フリーレンは少し離れた場所で杖を構えているフェルンへ目を向けた。
「どうして、そんなことをしている?」
「ハイターが倒れてから、フェルンは鍛錬へ没頭している。無理に連れ戻しても、ハイターのことを考えて休めんだろう。ならば、雨に濡れて風邪をひかないようにするのが師匠の務めというものだ」
「甘やかしすぎじゃない?」
「体調を崩させることと、厳しく鍛えることは違うぞ」
「ふうん」
フリーレンは、僅かに目を細めて俺を見た。
「私の師匠は、雨どころか嵐を直接ぶつけてくるような人だったけどね」
「それは、厳しく接しなければ、お前がすぐに怠けるからだろう」
黙った。
どうやら正解だったらしい。
「フランメも苦労したのだろうな。千年以上を経て、ようやくその心情が理解されたわけだ」
「……別に、サボってなんかないよ」
「ならば、なぜ目を逸らす?」
「雲を見ていただけ」
「雲なら、お前の頭上には残っているぞ」
俺が散らしているのは、フェルンのいる場所へ雨を降らせる雲だけだ。
直後、フリーレンの頭へ大粒の雨が落ちた。
「私のところも散らしてよ」
「嫌だ。俺は今、弟子のために魔法を使っている」
「けち」
悪態をつきながらも、フリーレンが別の場所へ移動する様子はなかった。
「……それも、計算?」
視線は俺ではなく、雲の切れ間から差し込む陽光へ向けられている。
俺がフェルンを濡らさないようにしている理由。
師として弟子を守るのは正しい。庇護する子供の体調へ配慮するのも、当然の行為だ。
フェルンが俺へ抱いている信頼を保ち、将来的にも良好な関係を維持するという点でも意味がある。
尋ねられれば、いくらでも合理的な理由を並べられた。
「親心だよ。少なくとも、俺はそう信じている」
フリーレンが俺を見る。
憐れんでいるようにも、悲しんでいるようにも見えたが、俺には正確な判別ができなかった。
「……どこまでも魔族だよね」
「ああ」
否定する理由はない。
フェルンを守りたいと思う心が、俺の内側から生まれたものなのか。
人間の親ならば、師ならば、聖人ならばそうするはずだと考え、正しい行動を選んだだけなのか。
俺自身にも分からない。
「だから、人間になりたいんだ」
次の瞬間、森を揺らす轟音が響いた。
眩い光が岩の中心へ吸い込まれ、その背後から突き抜ける。一直線に穿たれた穴の向こう側から、陽光が差し込んでいた。
フェルンは杖を構えたまま、その穴を見つめている。
「……できました」
「ああ」
岩を貫いた穴は僅かに歪んでいたが、照準も魔力の収束も十分な水準に達している。
四年前には、岩の表面を削ることさえできなかった。
「合格だ、フェルン。お前はもう、一人前の魔法使いだ」
笑うのかと思ったが、そうはならなかった。
杖を抱き締めるように胸へ引き寄せると、すぐに庵の方角を振り返る。
「ハイター様に、お伝えしてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ。そのために、今日まで続けてきたのだろう」
フェルンは深く頭を下げ、庵へ向かって駆け出した。
泥に足を取られながらも、一度も立ち止まらなかった。
「行こう、フリーレン」
「うん」
雲を散らす必要は、もうない。
◇◇
ハイターは寝台へ横たわり、浅い呼吸を繰り返している。
顔からは血の気が失われ、閉じた瞼が僅かに震えていた。
俺とフリーレンが部屋へ入ると、ハイターはゆっくりと目を開いた。
「どうでしたか……?」
声は、以前よりも遥かに細い。
それでも視線はまっすぐに、俺たちへ向けられていた。
「フェルンは、一人前と言っていい腕前になったよ」
フリーレンの答えを聞いた途端、ハイターの顔から力が抜けた。
苦痛が増したのではない。
最後まで抱えていた懸念を、ようやく手放したのだろう。
「そうですか……。よく、頑張りましたね。フェルン」
「はい」
フェルンはそれだけを答え、ハイターの手を握り直した。
声を震わせないようにしている。
泣けば、この男を不安にさせると思っているらしい。
「それから、やっぱりあの魔導書に不死の魔法なんて載っていなかった」
「本当に不死の魔法があるのなら、著者本人が今も使っているでしょうからね」
「そうかな」
腕を組み、少し考えた。
「不死など、決して良いものではないと知っているからこそ、自分では使わなかったのかもしれないぞ。永遠に近い時間を得た者が、必ずしもそれを幸福だと考えるとは限らん」
フリーレンが目を見開いた。
長命のエルフにとって、多少は思うところのある話だったらしい。
「……その発想はなかったな」
「ははは。解釈も、アレンにかかれば哲学になりますね」
ハイターは小さく息を吐き、フリーレンへ顔を向けた。
「では、フリーレン。フェルンはもう、貴方の足手まといにはなりませんね」
やがて、自分が何のために四年間もこの庵へ留められていたのか、ようやく理解したらしい。
「……そういうこと。まんまと騙された。生臭坊主め」
「申し訳ありません。ですが、貴方なら最後まで付き合ってくださると思っていました」
「本当に不死の魔法が見つかったら、どうするつもりだったの?」
「そのときは、もう少しフェルンと暮らすのも悪くなかったでしょうね」
フェルンが俯いた。
ハイターはその姿を見つめ、穏やかに目を細めた。
「昔は、自分が死ぬことなど少しも怖くありませんでした。女神様のもとへ行き、先に逝ったヒンメルと再会できるのなら、それも悪くないと思っていたのですが……」
一度、言葉が途切れた。
「死ぬのが怖くなったのですよ」
フェルンは顔を伏せたまま、ハイターの手を離さない。
寝台の側へ寄り、その反対側の手を握った。
乾いて、驚くほど軽い手だった。
「ハイター」
「はい」
「まだ死ぬなよ」
口にしたあとで、自分でも無茶な要求だと思った。
この男の肉体は既に限界へ達している。
どれほど高度な治癒魔法を使っても、老衰によって尽きる命を元へ戻すことはできない。
「随分と無理を仰いますね……。私だって、頑張ったほうですよ」
「もう少し頑張れ。百年程度では長生きしたうちに入らん」
「それは、アレンやフリーレンの基準でしょう。人間には酷な要求です」
「では、死後の予定を変更しろ。お前が逝ったら、墓には毎日酒をかけてやるからな」
ハイターの顔が、僅かに引きつった。
「……毎月でお願いします。命が持ちません」
細く息を吐き、困ったように笑う。
「いえ……そのときには、もう死んでいますが」
フリーレンが小さく笑った。
フェルンも泣きながら、僅かに口元を緩めた。
俺も、人間ならばそうするであろう笑みを浮かべた。
静かな笑い声が消えたあと、ハイターは満足そうに目を閉じた。
それきり、再び開くことはなかった。
握っていた手から力が抜けていく。
やがて、脈も途絶えた。
俺はその手を離さなかった。もう握っている意味はない。
それでも、いつ手放せばよいのか、判断できなかった。
◇◇
葬儀から数日後。
新しく建てられた墓標には、ハイターの名が刻まれていた。
その前に、黒い旅装へ着替えたフェルンとフリーレンが並んでいる。
フェルンはフリーレンと共に旅立つことを選んだ。
俺の町で暮らす道も用意していた。
このまま聖都へ残り、魔法使いとして生きることもできる。
それでもフェルンは、フリーレンと世界を見ることを望んだ。
ならば、師である俺が反対する理由はない。
墓前での祈りを終えたフェルンが、俺の前まで歩いてきた。
「アレン様」
深く、頭を下げる。
「これまで、本当にありがとうございました。魔法の基礎も、戦い方も、心構えも……すべて、アレン様から教えていただきました」
「すべてを教えたつもりはないぞ。お前が学ぶべきことは、まだいくらでもある」
「はい」
「だが、基礎は十分に身についた。あとは旅の中で学べばいい」
「フリーレンと行くか」
「はい。フリーレン様と、いろいろな場所を見てみたいです」
「そうか」
これも、ハイターが望んだ答えなのだろう。
「ならば行ってこい。ただし、旅先で困ったことがあれば、いつでも『ヴィーデルライゼ』でガルドへ戻ってこい。住む場所も、お前の部屋も残しておく。いつ帰ってきても歓迎する」
「……よろしいのですか?」
「当然だ。旅立ったからといって、師弟でなくなるわけではない。お前がどこへ行こうとも、俺の弟子であることに変わりはないからな」
フェルンは目を伏せ、もう一度深く頭を下げた。
「ありがとうございます、アレン様」
「その魔法すごく便利だよね。私にも教えてよ」
「嫌だ」
「……なんで?」
「お前に教えたら、『歩けば三か月かかる場所だから、今日から三か月間は怠けても問題ない』などと言い出しかねん」
フリーレンの表情が固まった。
何かを反論しようとして口を開き、そのまま閉じる。
「ふふ。よくお分かりですね、アレン様」
「当たり前だ。何年こいつと付き合いがあると思っている」
「……この庵で一緒にいたのは、たった四年でしょ」
フリーレンが横を向き、聞き取れる程度の声で呟いた。
「お前が俺を討とうとして、百九十三年前に殺しに来たことは、記憶から一度も消えたことはないぞ?」
顔を覗き込むと、フリーレンは露骨に目を逸らした。
「……そんな昔のこと、もう覚えてないよ」
「ほう。都合の悪いことだけを忘れる魔法でも習得したのか?」
「知らない」
「俺はあのとき、お前に消し飛ばされた館の修繕費まで覚えている」
「魔族のくせに細かいね」
「領主だからな。金勘定には細かくもなる」
フェルンが、また笑った。
ハイターを失ってから初めて聞く、抑えていない笑い声だった。
覚えていなくとも構わない。
フリーレンはヒンメルと旅をした記憶を持ち、フェルンはハイターと暮らした記憶を抱えている。
「行け、フリーレン、フェルン」
二人の背中へ向け、もう一度手を振った。
「良い旅を」
フリーレンは振り返らなかった。
代わりに片手だけを上げ、面倒そうに左右へ振ってみせる。
フェルンは何度もこちらを振り返りながら、次第に遠ざかっていった。
墓地の向こうには、再び黒い雲が集まり始めていた。
放っておけば、間もなく雨が降るだろう。
旅人ならば、多少の雨に濡れることなど珍しくもない。
フリーレンもフェルンも、雨に打たれた程度で体調を崩すほど軟弱ではなかった。
それでも俺は、空へ手を掲げた。
二人が進む道の上から、雨雲を押し退ける。
理由なら、いくらでも用意できる。
旅立った初日から服を濡らせば不快だろう。
視界が悪くなれば、魔物や盗賊への対処も遅れる。
体力を温存させることは、旅を続けるうえで合理的な判断だ。
だから、これは人間の師ならばそうするだろうと考え、その行動を模倣しているだけだ。
二人の姿が見えなくなったあとも、俺はしばらく手を下ろさなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
フェルンを一人前と認め、旅立つ弟子の帰る場所を残したアレンについて、感想をいただけると嬉しいです。