偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
隣領からの救援要請を受けたアレンは、久しぶりに同族と対峙します。
面汚しの聖者と、甦る面影
焼け焦げた土に、血と鉄の臭いが染みついていた。
ここはグラナト伯爵領。
陣地は既に半ばまで踏み潰され、砕けた防柵の向こうでは、首のない鎧が幾重にも列を成している。北方諸国の紋章に混じって、百年以上前に滅びた国の紋章まであった。
その包囲の中心で、グラナト伯爵は折れた剣を杖代わりに立っていた。額から流れた血で片目が塞がり、右肩の鎧も失われている。周囲を固める兵は百人にも満たず、いずれも次の攻撃を受ければ立っていられるか怪しい。
傍らへ降りると、頭上へ迫った槍の穂先が見えない壁に弾かれた。死者の軍勢が一斉に武器を構え直す。突撃してこないのは、主からの命令を待っているためらしい。
「グラナト伯爵、遅くなった。ここからは俺も加勢させていただく」
「アレン卿……来てくれたか」
伯爵は安堵とともに大きく息を吐いたものの、剣から手を離そうとはしなかった。
「北の陣は破られた。退路もじきに塞がれる。兵だけではない。息子まで、あの女の傀儡にされた」
彼が見ている先には、青い外套を残した鎧が立っていた。胸に刻まれているのはグラナト家の紋章。その手には、伯爵が持つものとよく似た剣が握られている。
「……あれが、ご子息ですか」
「ああ。私を逃がすために殿を引き受け、そのまま首を落とされた。ようやく追いついたと思えば、今度は私へ剣を向けてきたよ」
慰めになる言葉など、おそらく存在しない。
「お気持ち、お察しします」
伯爵は返事をせず、しばらく息子の鎧を見つめていたが、やがて俺の頭上へ視線を移した。
「この有様を見ても、人間を助けに来るのだな。卿は本当に魔族なのか?」
「先々代からのお付き合いでしょうに。貴方がまだ幼かった頃から、俺はこの姿ですよ。継承式で、宣誓文を二度読み間違えたところも見ています」
「あれは私が十歳の頃だぞ」
「ええ。立派になられたものです」
その手から余計な力が抜けていくのを確認して、俺は包囲の外へ目を向けた。
グラナト伯爵領が潰れれば、ガルドへ通じる街道の一つも死ぬ。
食料と木材の値は上がり、商人は遠回りを強いられ、行き場を失った避難民も流れ込んでくるだろう。兵を率いて長期戦をするより、俺一人が出向いて原因を排除したほうが安く済む。伯爵家との関係まで強化できるのだから、救援を断る理由はなかった。
もっとも、あの女にその理屈を話したところで理解はしないだろうが。
死者の軍勢の遥か後方。岩山の上に、長い紫色の髪を風へなびかせた魔族が立っている。両手で掲げた金色の天秤と、小柄な姿には覚えがあった。
「断頭台のアウラか。随分と兵を増やしたものだ」
「知っているのか?」
「最後に会ったのは四百年以上前です。あの頃は、俺もアウラも若かった」
「人間の私はどう反応すればよいのか分からんな。それで、勝てるのか?」
「魔力量だけで勝敗を決める相手です。ならば、負けようがありません」
待ち構えていた死者が動き出す。最前列の槍兵が穂先を揃え、その後ろで弓が引き絞られ、さらに後方では杖を持った者たちが魔力を集めている。数千の足音が一つに重なり、踏み締められた大地が低く唸った。
そのすべてが攻撃へ転じるより早く、身体の内側に溜めていた魔力を解き放った。
光が戦場を走り抜ける。曇天の下に沈んでいた陣地が一瞬で照らし出され、岩山の上では、アウラの天秤が彼女の手ごと激しく揺れ始めた。
「嘘を現実に変える魔法(リュグヴァール)――『目の前の死者は、今、成仏する』」
事実ではなかった言葉を魔力が掴み、世界の側へ押しつける。
槍を突き出そうとしていた鎧の隙間から、淡い光が漏れた。それは瞬く間に隣の死者へ広がり、さらにその隣へ、後方へと連なっていく。
突撃の勢いは一列ずつ失われ、やがて戦場を埋め尽くしていた軍勢のすべてが動きを止めた。
鎧の内側に残されていた肉も骨も、アウラの魔力に縛られた魂も、無数の光となって空へ昇っていった。支えを失った甲冑と武器が次々に地面へ落ち、その音が戦場の端から端まで波のように伝わっていく。
青い外套の鎧も、膝から崩れた。
背後で、グラナト伯爵が息子の名を呼んだ。
「な……何をしたのよ」
アウラは、空になった戦場を見下ろしたまま動かなかった。蓄えた軍勢が、一言で消えたことを受け入れられずにいるらしい。
やがて彼女の目が俺を捉え、その顔に驚愕と嫌悪が同時に浮かんだ。
「『嘘のアレン』……! なんであんたがここにいるのよ! あんたの領地は隣でしょう!?」
「援軍要請を受けたのでね。隣領が滅べば、こちらにも迷惑がかかる」
「そういうことを聞いているんじゃないわよ。どうして、あんたほどの魔族が人間の頼みなんか聞くのかって聞いているの!」
「俺は人間だ。魔族から人間を守るのは、何もおかしなことではないだろう」
「あんたは魔族よ。頭にそんなものを生やしておいて、何を言っているの?」
「精神性の話だ。俺は人間の街で暮らし、人間の法に従い、人間の営みを守っている。肉体の構造だけを理由に魔族と呼ばれても、俺にはそちらのほうが実感に乏しい。もっとも、本能に従って人を殺し、死体の数を誇るお前には理解できないだろうが」
しばしの沈黙ののち、アウラは吐き捨てた。
「……魔族の面汚しめ。気持ち悪い」
同族からそこまで嫌悪されるのであれば、俺の模倣も随分と完成度を増したらしい。
「感想はそれだけか、アウラ。せっかく天秤を持ってきたのだ。使ってみればいい」
魔力をアウラへ向けると、岩山の周囲から色が失われた。地面が耐えきれずに裂け、落石が斜面を転がり落ちる。
「お前の魔法は、互いの魂を天秤へ載せ、魔力の少ない側を服従させるものだったな。四百年前より俺の魔力が減っていると思うなら、試してみるといい」
アウラの指先が天秤へ触れた。
それ以上は動かなかった。
魂を載せるまでもなく、彼我の差は既に目の前へ示されている。
勝敗を魔力量へ委ねる魔法を極めたからこそ、彼女はその差を見誤らない。
「……覚えていなさい」
「四百年前にも聞いたな」
「うるさい!」
アウラの足元から黒い影が立ち昇り、身体を呑み込んだ。岩山を覆った魔力が霧散したときには、彼女の姿も気配も消えている。
追おうと思えば追えたが、負傷者を置き去りにしてまで仕留める必要はない。
俺が受けた依頼は伯爵領の救援であり、その目的は既に果たされている。アウラが再び軍勢を整えるまでには時間もかかるだろう。
振り返ると、グラナト伯爵は空になった息子の鎧を抱き締めていた。
彼が立ち上がるまで待った。
「領地だけではない。息子まで解放してくれた。この恩には必ず報いる。再建の目処が立ち次第、十分な謝礼をガルドへ届けさせよう」
「では、遠慮なくいただきます。アウラが戻ってくる可能性もありますから、街道沿いの防備を強化しておきましょう。そちらの再建が滞るほどの金額を請求するつもりはありませんので、ご安心を」
「そこで建前だけでも辞退しないところは、実に卿らしいな」
「辞退して喜ばれる謝礼であれば、最初から提示なさらないほうがよろしいでしょう」
伯爵は疲れ切った顔で、それでも今度は声を上げて笑った。
◇◇
城塞都市ガルドへ戻った頃には、西へ傾いた陽が城壁を赤く染めていた。
門をくぐれば、朝と変わらぬ街の営みが続いている。荷車を押す商人が道を塞ぎ、仕事を終えた職人たちが酒場へ急ぎ、遊び足りない子供を母親が夕食の匂いで家へ連れ戻そうとしていた。
この街がまだ小さな町だった頃を知る者は、もう俺しか残っていない。
ガルドもカルラも、その子供たちさえ歴史の中へ消えた。それでも彼らの名や仕事は形を変えながら街に残り、何も知らない人々が、その上で今日の暮らしを続けている。
それを維持することが、今の俺の役目だ。
伯爵から受け取る謝礼は、北側城壁の障壁強化へ回せばよい。アウラの再襲来を考えれば無駄にはならない。残額が出るなら西地区の水路改修も前倒しできるだろう。
何一つ、計算から外れていない。
◇
大通りの酒場から、皿か酒瓶の割れる音が響いたのは、そのときだった。
「このアマ、さっきから黙って聞いてりゃ――!」
「聞いてねえから、同じこと言ってんだろうが。先にアタシの槍へぶつかって酒をぶちまけたのはテメェだろ。勝手に弁償しやがれ。アタシに払わせようとしてんじゃねえぞ、クソ酔っ払い」
若い女の声に怯えた様子はなく、続いて椅子が倒れる音がした。巡回の兵を呼ぶより、自分で収めたほうが早い距離だった。
扉を開けると、酒と焼いた肉の匂いが熱気とともに流れ出してきた。
五人の冒険者が、店の中央に立つ小柄な人物を囲んでいる。彼らの足元には砕けた皿と倒れた椅子が散らばり、カウンターの奥では店主が額を押さえていた。
「そこまでにしろ。事情は双方から聞くが、まずは怪我人の確認と、壊した品の弁償を――」
冒険者たちがこちらを向き、その隙間から、囲まれていた女の顔が見えた。
続けようとした言葉が消えた。
長い髪の下にある目も、真っ直ぐに通った鼻筋も、不機嫌そうに結ばれた唇も知っている。自分より大きな男たちに囲まれながら一歩も退かず、いつでも背負った槍を抜けるよう、僅かに半身を引いた立ち方まで記憶の中にあった。
俺はその姿を、忘れたことがない。
忘れることができなかったのではない。
忘れないようにした。
雨に濡れた髪を乱暴に絞る姿も、俺の杯を奪って酒が薄いと文句を言った声も、槍を肩へ担いでこちらを振り返る横顔も、すべてを魔法で保存した。人間の記憶が歳月とともに形を変えるのなら、俺だけは一つも変えずに残しておこうと決めた。
だから、間違えるはずがなかった。
彼女が俺を庇って前へ出た瞬間も、胸から両断されて倒れた姿も、腕の中で呼吸が止まるまでの時間も、埋葬した場所も覚えている。
目の前にいるはずがない女だった。
女の魔力を探る。幻術ではない。変身ではない。精神操作を受けた痕跡もない。呼吸も体温も鼓動も、若い人間のものだ。
人間は四百年生きない。
死者は酒場で男たちと言い争わない。
その程度のことは考えるまでもない。
女が訝しげに眉を寄せた。
それも、記憶の中の彼女と同じだった。
人間の感情が分からなくても、どのような顔を作り、何を言えばよいのかは選べた。
今は何一つ選べない。
誰に向けるためでもない言葉が、勝手に喉を通った。
「……エリー」
四百年以上続いてきた空洞に、初めて亀裂の走る音がした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
四百年以上忘れないようにしてきた顔を、再び目の前にしたアレン。
最後に現れた彼女について、感想や予想をいただけると嬉しいです。