偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
アレンは、エリーではない彼女を前に、自分の中に生じたものの正体を確かめようとします。
「……エリー」
思考を経ずに零れた名に、女は怪訝そうだ。
「はぁ? 誰だよ、それ。いつまで人の顔ジロジロ見てんだ。気色わりぃぞ、アンタ」
声まで同じだった。
エリーも、初対面の男から見つめられれば同じように罵っただろう。
喧嘩を売るように顎を突き出す癖も、槍へ添えた親指で柄を二度叩く仕草も、俺の記憶に保存されている彼女と寸分違わない。
ただし、俺の名を知っていた冒険者たちは、女の暴言を聞いた途端に揃って青ざめた。
「ば、馬鹿野郎! このお方が誰だか知らねえのか!?」
「知るかよ。どこの色男だろうが、気色わりぃもんは――」
「アレン様だ! この城塞都市ガルドの領主様だぞ!」
俺の顔と頭上の角を何度も見比べ、先ほどまで自分を囲んでいた男たちへ目を向ける。
全員が嘘ではないと訴えるように激しく頷いたことで、ようやく事態を理解したらしい。
「……あー。なんつーか、その……気色わりぃってのは、別に悪口じゃねえっす。いや、悪口だけど、アンタが領主だって知らなかったんで……じゃなくて、知ってても言うことは変わらねえけど……ああ、クソッ。面倒くせえな、もう」
まともな敬語を組み立てられず、最後にはすべてを放棄して頭を掻く。
それも、よく似ていた。
人間の外見が偶然一致する可能性はある。肉体の特徴は親から子へ受け継がれるため、遠い子孫に先祖とよく似た者が現れることもあるだろう。
しかし、エリーに子供はいなかった。
声や仕草まで一致する確率となれば、どれほど低く見積もればよいのか分からない。
何より、感じられる魂の輪郭が、俺の記憶にあるものとあまりにも近かった。
同一ではない。
だが、無関係と切り捨てることもできない。
死者は蘇らない。命が死を境に失われることは確認している。
転生を説く宗派はいくつか存在するものの、死者の魂が新たな肉体へ宿ったと証明できた者はいなかった。
目の前にいる女は、エリーではない。
その結論だけは揺るがない‥‥はずだ。
「アレン様、本当に申し訳ありません! この女が急に突っかかってきやがりまして、俺たちは何も――」
「あぁ!? テメェがアタシの尻を触ろうとしたから、酒を頭からぶっかけてやったんだろうが! 都合の悪いところだけ腐った脳みそから抜け落ちてんのか!?」
「触ってねえ! 手が当たりそうになっただけだ!」
「同じだ、クソ酔っ払い! 次はその手を槍で壁に縫いつけんぞ!」
男が取り繕おうとしたことで、止まっていた騒ぎが再び動き出した。
「事情は分かった。誰が何をしたのかは、店主と周囲の客から兵に確認させる。責任の所在も、それから決めればよい。少なくとも、これ以上ここで争う必要はないだろう」
冒険者たちは揃って頭を下げたが、女は納得していないらしく、男たちを睨みつけたまま鼻を鳴らした。
「ご領主サマがそう言うなら、アタシは構わねえよ。けど、そこのハゲがまた触ろうとしたら、今度こそケツから槍を突っ込んで口から出してやるからな」
「誰がハゲだ!」
笑い方まで同じだった。
◇
俺は、エリーが死んだあとも彼女を忘れなかった。
忘れられなかったのではない。忘れないことを選び、魔法を使って記憶を保存した。彼女の姿だけではなく、声の調子、表情の変化、歩幅、食事の好み、酔ったときに繰り返す話まで、四百年近く一つも失わずに保管してきた。
それが人間の愛情に相当する行為なのか、単なる記録の維持なのか、今も答えは出ていない。
だが、もしも。
もしも女神が、人間の営みを見守っているのなら。
俺が積み重ねてきた善行を認め、死によって失われたものを別の形でもう一度与えたのだとしたら。
「それで、ご領主サマ。話が終わったんなら、そろそろ道を空けてもらいてえんだけど。さっきからアタシの顔に何かついてんのかよ?」
女は笑いを収めると、再び訝しげに俺を見た。
「いや、すまない。貴女があまりにも美しいので、つい見惚れていた」
酒場から音が消えた。
俺を囲んでいた冒険者も、カウンターの奥にいた店主も、料理を運ぼうとしていた給仕まで動きを止めている。
「はぁ!? 初対面の女に何ほざいてんだ、この色ボケ野郎! 領主だからって、口説き方まで偉そうにすんじゃねえぞ!」
「失礼した。偉そうに聞こえたのであれば謝ろう。ただ、美しいと思ったことまで取り消すつもりはない」
「そういう問題じゃねえんだよ! つーか、何でそんな平然としてんだ! アタシだけ馬鹿みてえじゃねえか!」
女が赤くなった頬を隠すように顔を背けると、止まっていた店内の時間が一斉に動き出した。
「アレン様が女を口説いたぞ!」
「嘘だろ!? 四百年以上女の噂一つなかったアレン様が!?」
「酒だ、酒を持ってこい! 今夜は祝いだ!」
まだ何も決まっていないにもかかわらず、冒険者たちは杯を掲げ、勝手に祝宴を始めようとしている。
彼らにとって、俺はこの街とともに生き続けてきた領主であると同時に、生きた伝説でもあるらしい。
俺の私生活は住民の関心事であり、その俺が女へ告げたことは、アウラの軍勢が隣領へ現れたことより大事件なのだろう。
「静かに。彼女が困っている」
ただし、期待に満ちた視線だけは一斉に少女へ集まっている。
「騒がせた詫びも兼ねて、今夜の勘定は俺が持とう。皆、好きに飲み食いしてくれて構わない」
酒場を揺らすほどの歓声が上がった。
店主まで満面の笑みで酒樽を開け始め、給仕たちが一斉に杯を並べていく。
女は完全に逃げ時を失い、背負っていた槍を胸の前へ抱えながら俺を睨んだ。
「アンタ、最初からこれが狙いだったんじゃねえだろうな。周りを酔わせて、アタシを逃げられなくする気か?」
「それはない。貴女が帰りたいのであれば、誰にも止めさせないとも」
「だったら帰る。こんな場所にいたら、何を肴にされるか分かったもんじゃ――」
女が出口へ向こうとしたところで、先ほどの荒くれ者が酔いの回り始めた顔を近づけてきた。
「それにしてもアレン様、随分と惚れ込んだもんですな。まさか本当に、一目惚れってやつですかい?」
答えを探そうとして、女の顔を見た。
エリーではない。
別の人間だ。
それでも、ここで彼女を行かせれば、二度と会えなくなるかもしれない。その可能性を思い描いた瞬間、胸の空洞が大きく軋んだ。
脈拍にも、魔力にも変化はない。肉体はどこも異常を示していなかった。
ならば、この感覚は肉体の反応ではない。
存在しないはずの心が生み出したものではないのか。
「一目惚れかどうかは、まだ俺にも分からない。ただ、妻に迎えたいと思うほどには惹かれている」
今度の歓声は、先ほどまでの比ではなかった。
杯から酒が飛び散り、誰かが椅子の上へ立って叫び、酒場の床板まで震え始める。
女は槍を抱えたまま数歩後退し、壁へ背中をぶつけてようやく止まった。
「ふざけんな! 話が三段どころか十段くらいすっ飛んでんだろうが! アンタ、頭ん中に魔物でも飼ってんのか!?」
もっともな指摘だった。
出会ったばかりの相手へ求婚する行為は、人間社会においても一般的ではない。
領主である俺が口にすれば、彼女へ与える圧力も大きくなる。
だからこそ、誤解させてはならなかった。
警戒を解くため、俺は彼女の前で片膝をついた。
酒と脂で汚れた床へ領主が膝をついたことで、あれほど騒がしかった冒険者たちも再び静まり返った。
「返事を急がせるつもりはない。俺の地位や力を使って、貴女の意思を曲げるつもりもない。嫌であれば断ってくれて構わないし、この街を出たいのであれば安全に送り届けよう」
女は警戒したまま、俺を見下ろしている。
その顔へ向けて、俺は手を差し出した。
「俺は貴女に恋をしたのだと思う。これが恋であるのか、俺にはまだ確信がない。だが、貴女をこのまま行かせたくないという思いだけは、偽る必要がない」
しばらく待っていると、少女は槍から片手を離した。
恐る恐る差し出された手を取り、指先へ唇を近づける。
その手には硬いタコがあった。エリーの手にも、同じ場所に同じ形のタコがあった。
「どうか、貴女の名前を聞かせてほしい。一輪の花のように美しい人よ」
「一輪の花って……アンタ、よくそんな恥ずかしい台詞を素面で吐けんな。聞いてるアタシのほうが死にそうだぞ」
女は耳まで赤くしながら、俺の手を振りほどかなかった。
「エレナだよ。これで満足か、魔族のご領主サマ。つーか、いつまで握ってやがる。さっさと離せ、クソ恥ずかしい」
エレナ。
その名が耳へ届いた瞬間、ばらばらだった事実が、俺の中で一つの形を作り始めた。
エリーの蘇生ではない。
過去をやり直す機会でもない。
目の前にいるのはエレナという、エリーとは異なる一人の人間だ。
だからこそ、確かめることができる。
俺がエリーへ向けていたものは、本当に愛だったのか。
同じ顔、同じ声、同じ魂の輪郭を持つ人間へ、もう一度同じ行為を積み重ねれば、今度こそ人間の感情を得られるのか。
かつての俺は、エリーが命を投げ出す瞬間まで、彼女の愛を理解できなかった。
俺を庇って死んだ彼女を腕に抱きながらも、胸の内側にあるものへ名前を与えられなかった。
ならば今度は、死なせなければよい。
俺の持つ力、財産、地位、知識、そのすべてを使ってエレナを守り、誰よりも長く、幸福に生かす。
愛が人間を限界の先へ進ませるというのなら、犠牲ではなく幸福の果てにも、同じ奇跡が存在するはずだ。
エレナを愛する。
エレナから愛される。
そのすべてを観察し、理解し、今度こそ俺のものにする。
四百年答えの出なかった実験を、もう一度始められる。
「俺はアレンだ」
立ち上がりながら、ようやく彼女の手を離した。
「アレン様でも、魔族の領主でもない。貴女には、アレンと呼んでほしい」
「初対面で求婚して、次は呼び捨てにしろってか。アンタ、本当に面の皮が分厚いな」
俺自身にも、まだ何が真実なのか分からない。
胸の奥で感じた熱が恋なのか。
過去を取り戻したいという執着なのか。
それとも、人間になるための新たな可能性を見つけた興奮に過ぎないのか。
◇
今度こそ、彼女を愛し抜こう。
今度こそ、一つも間違えずに幸福へ導こう。
そうすれば、いつかきっと理解できる。
俺の胸を焼いているこの熱が、人間の愛なのか。
それとも、魔族の歓喜なのかを。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
エレナへ抱いたものは恋なのか、それとも別の何かなのか。
アレンの二度目の「愛」について、感想や予想をいただけると嬉しいです。