偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
彼女との距離を少しずつ縮めていたアレンの前に、思わぬ恋敵が現れます。
ヒンメルの死から二十六年後、エレナたちのパーティーは城塞都市ガルドへ拠点を落ち着けた。
四方へ延びる街道、豊富な依頼、腕のよい鍛冶師と神官。
冒険者が腰を据える理由には事欠かない。
俺が領主を務める都市だから選んだわけではないと、エレナは繰り返している。
ならば、そういうことにしておけばよい。
彼女たちがここにいる限り、確かめる時間はいくらでもある。
ただし、最高級の武具を一式用意しようとしたことについては、少々急ぎすぎたらしい。
「何度言われてもいらねえ。武器も防具も、自分で稼いだ金で揃える。アンタに買ってもらった物なんか身につけたら、アタシが領主サマに囲われてるみてえじゃねえか」
高級酒場で、エレナは安酒の杯を卓へ置いた。俺が選んだ葡萄酒には一口も手をつけず、料理も上品に盛られたものより、骨付き肉ばかりを食べている。
「囲われるのが嫌なら、妻になればいい。夫が妻へ贈り物をするのは、人間として自然な行為だろう」
「もう夫婦の理屈を持ち出してんじゃねえよ。そもそも、アンタからもらった武器で魔物を倒したところで、ちっともアタシの手柄って気がしねえんだ」
エリーならば、俺が金を出すと聞いた時点で武具店へ走っていただろう。
必要な装備を揃えたあと、残金で酒を買い、翌朝には一文無しになっている。
二人の顔と声と魂の輪郭は酷似しているが、金に対する考え方は正反対だった。
俺はその違いを好ましく思っている。
それならば、エレナをエリーの代わりにしようとしているわけではない。
エリーへの愛とは別に、俺はエレナへ新たな恋をしている。その結論に間違いはないはずだ。そうに違いない。
「何をニヤニヤしてやがる」
「断られているのに、以前より君を魅力的に感じたのが不思議でね」
「筋金入りの馬鹿だな、アンタ。黙って金を受け取る女なら、ほかにいくらでもいるだろ。領主で、金持ちで、見た目も……まあ、悪くねえ。魔族ってところを気にしねえ女なら選び放題じゃねえか」
「その中に君がいないからね」
エレナは呆れたように鼻を鳴らしたものの、席を立とうとはしなかった。
2回目の求婚は、槍を向けられて終わった。その後も花、宝石、武具、邸宅への招待と、思いつく限りの方法を試したが、成果は芳しくない。それでも食事への誘いには応じるようになった。俺の試みは、少しずつではあるが前進している。
もっとも、エレナ自身は別の疑いを抱いていたらしい。
「どうせ、領主サマのお遊びだろ。珍しい女がいたから口説いてみて、手に入ったらそれで終わり。金持ちのお偉いサマにはよくある話だ」
「俺は四百年以上、妻を迎えていない」
軽口を続けるつもりだったエレナが、口を閉じた。
「妻は一人だけだ。彼女が死んでから、誰かに結婚を申し込んだこともない。君が二人目だよ」
「……そんなに長く一人だったのか。てっきり魔族ってのは、百年くらい経ったら何もかも忘れちまうもんだと思ってた」
「俺も、そのつもりだった」
忘れようとしたことはない。
だが、人間の記憶は時間とともに薄れるという。俺も人間に近づいているなら、いつかエリーの顔を思い出さなくなるのかもしれないと考えた時期はあった。
今でも、あの雨の日のことだけは鮮明に残っている。残さなければならないんだ。
「どんな女だったんだ、前の奥さん」
「君と比べるような話になりそうだから、答えたくないな」
「今さら気を遣うな。アンタが惚れた女なら、少しくらい興味も湧くだろ」
どこから話すべきか考えた。
美しかったと答えれば、エレナは自分の容姿と比較する。槍の名手だったと答えても同様だろう。
「酒癖が悪く、金遣いも荒かった。酔えば人前でも平気で脚を開いて座り、夜になると俺を寝台へ引きずり込もうとした。借金を立て替えたことも一度や二度ではないが、最後まで一枚も返してもらえなかったな」
「…アンタ、女を見る目がねえんじゃねえか?」
「そうかもしれない」
「否定しろよ。死んだ嫁が浮かばれねえだろ」
「事実だから仕方がない。ただ、彼女は強かった。自分が傷つくことには頓着しないくせに、仲間が傷つけられると烈火のように怒る人だったよ」
怪鳥の爪を槍で弾いた背中が浮かんだ。
俺の手を引いて酒場へ走り、酔い潰れたまま朝まで離さなかった手。結婚を申し込んだとき、嬉しくないと叫びながら泣いていた顔。魔法が胸を貫く直前、俺へ向けて笑った顔。
一つ思い出せば、次の記憶が勝手に続いている。なのに、魔力は全く変わらない。
いや、それを考えるな。だが‥‥。
「愛の深い人だった。俺は彼女が死ぬまで、そのことに気づけなかったが」
「愛してたのか?」
すぐに答えればよかった。
迷うべきところではない。だが、俺は今も、その言葉が正しいのか確信を得られずにいる。
「愛していたのだと思う」
「妙な答え方だな」
「俺は魔族だからね。彼女が俺を庇って死んだときにも、自分の中にあるものが悲しみなのか、怒りなのか、それとも観察対象を失った損失感なのか分からなかった。今でも答えは出ていない。それでも、彼女のことを忘れた日は一日もないよ」
同情を得るためなら、もっと人間らしい悲嘆を見せるべきだ。
俯いて声を震わせ、四百年消えない傷を打ち明けたように振る舞えば、エレナの警戒は薄れる。そう分かっていたのに。
そうだな。ヒンメルなら、そんなことを言えば俺を見て、「君の胸の中には誰もいない」とでも言うのだろう。
「悪かったな。面白半分で聞く話じゃなかった」
エレナは残っていた酒を飲み干し、乱暴に頭を掻いた。
「けど、少し安心した。アンタが本当にその女を忘れてねえなら、アタシに言ってることも、全部が遊びってわけじゃなさそうだ」
望んでいた言葉を得たはずなのに、計画どおりだという満足はなかった。
代わりに、胸の奥へ沈んだ記憶の重さだけが残っている。
その感覚を検討する前に、個室の扉が勢いよく開いた。
「エレナ、こんなところにいやがったのか!」
銀髪に赤い目をした若い剣士が、扉の前で肩を怒らせていた。
エレナと同じパーティーに所属するアルトとかいう男だ。
整った顔立ちをしているが、今は怒りで台無しになっていた。
「おお、アルト。ちょうどいいところに来たな。ここの肉はうまいぞ。酒は上品すぎて水みてえだけどな」
「食い物の話をしてんじゃねえ! 宿にも戻らず、何で魔族の領主と二人で飲んでやがる!」
アルトは大股で入ってくると、エレナの腕を掴んだ。
俺の指先へ魔力が集まる。
骨を砕くほどではなくとも、手を離させる程度の痛みは与えるべきだと考えた直後、エレナが自分でその腕を振り払った。
「誰とどこで飲もうが、アタシの勝手だろうが。それより、何でテメェがアタシの行き先を勝手に探し回ってんだ」
「お前がまたこいつに媚び売ってんじゃねえかと思ったんだよ。個室で二人きりになって、これが媚びてねえなら何だってんだ」
「アタシが頼んで口説いてもらってるわけじゃねえ。勝手にモテてるだけだ」
「だったら、さっさと断れ! 金も地位もある男なら誰でもいいのかよ!」
エレナが椅子を蹴って立ち上がった。
「テメェ、もういっぺん言ってみろ。今度は歯を全部折ってから飲み込ませてやる」
「そいつの前でいい顔してたのは事実だろうが!」
「アタシのどこがいい顔だったんだ! ずっと悪態ついてただろ!」
二人は額が触れそうな距離で睨み合っている。
言葉は荒くとも、本当に争う者同士の間合いではなかった。
アルトはエレナが拳を振るわないと知っている。
エレナも、アルトが剣を抜かないことを疑っていない。
信頼している者同士だけが持つ距離だ。俺達も‥‥そうだったよな。ガルド、カルラ。
「だいたい、お前は俺の女だろうが。ほかの男と二人で飲んでんじゃねえよ」
アルトはそう言って、エレナの肩を抱き寄せた。
「誰がテメェの女だ! 寝言は寝て言え!」
「じゃあ今決めろ。こいつと俺のどっちを選ぶんだよ」
「何でテメェが選択肢に入ってんだ。今まで一度も聞いたことねえぞ!」
「言わなくても分かるだろ!」
「分かるか、馬鹿!」
怒鳴りながらも、エレナはアルトの腕を振り払わなかった。
俺が彼女へ触れようとすれば、槍の柄が飛んでくる。あの男には怒鳴るだけで済ませるらしい。
気づけば、俺は椅子から立ち上がっていた。
「アルトと言ったな」
「エレナを侮辱したことについては、今ここで謝罪しろ。彼女が地位や財産を目当てに男へ媚びる人間ではないことくらい、同じパーティーにいる貴様が最もよく知っているはずだ」
部屋へ漏れた魔力に、卓上の酒が細かく波打った。
アルトは全く動じずにエレナの肩から手を退けず、俺を睨み返した。
「領主サマに俺たちのことを説教される筋合いはねえよ。俺が気に食わねえなら、パーティーごとこの街を出ていってやる」
「君一人なら、今日中に出ていってもらって構わない」
「エレナも一緒に行くに決まってんだろ。こいつは俺の仲間だ」
肩に回されていた腕が、今度はエレナの腰へ移った。
「その手を離せ」
「嫌だと言ったら?」
アルトを殺すのは容易だ。
だが、エレナの前で殺せば嫌われる。
腕だけを切断した場合にも、似たような結果になるだろう。
どの程度までなら許容されるのか判断していると、エレナが俺たちの間へ身体をねじ込んだ。
「二人とも、いい加減にしやがれ! アルト、テメェは勝手にアタシを自分の女にするな。アレンも六百年以上生きてんのに、何でこんな馬鹿の挑発を真に受けてんだ。領主が冒険者相手に魔力を撒き散らすんじゃねえ!」
纏めて怒鳴られた。
反論する間もなく、エレナはアルトの耳を掴んで扉へ向かった。
「痛え! 引っ張んな!」
「うるせえ! 宿に戻るぞ。アタシを探し回った理由も、今夜きっちり聞かせてもらうからな!」
「だから、お前が心配だっただけだって言ってんだろ!」
「一言も言ってねえよ! 今初めて聞いたぞ!」
扉の前で、エレナがこちらを振り返った。
「アレン、今日のところは帰る。話の続きは、また今度だ」
「分かった」
「それと、こいつを街から追い出すなよ。追い出したら、アタシも一緒に出ていくからな」
俺が返事をするより早く、エレナはアルトを廊下へ引きずり出した。
閉じた扉の向こうからも、二人の怒鳴り声が遠ざかっていく。
◇
俺は席へ戻り、アルトが触れていたエレナの肩と腰を思い出した。
今すぐ追いかけて、二人を引き離したい。
アルトだけを街の外へ転移させれば、少なくとも今夜はエレナと同じ宿へ帰れない。
危険な依頼を選んで斡旋することも、パーティーから外れるようほかの仲間を説得することもできる。
どれも簡単だった。
しかし、俺の力でアルトを排除したところで、エレナが俺を選んだことにはならない。
あの男には、俺が持っていないものがある。
ともに旅をし、同じ敵と戦い、互いの背中を預けてきた時間。
かつて俺とエリーの間にもあったものだ。
◇
酒場の壁に掛けられた鏡へ目を向けた。
顔立ちならば、俺が劣っているとは思えない。
アルトは肌が病人のように白く、目も血のように赤い。
角さえ生えていれば、魔族と間違えられても不思議ではない姿だった。
魔族の俺が言うのも奇妙だが、人間離れした男である。
財産も地位も、魔法も戦闘能力も俺が上だ。
それでも、エレナはあの男に触れられることを許した。
胸の奥に生じた熱は、先ほどエリーを思い出したときのものとは異なっている。
落ち着きがなく、アルトの顔を思い浮かべるたびに激しくなる。
おそらく、これが嫉妬なのだろう。
人間の感情を得る方法を探し続けた生涯で、俺は初めて恋敵を憎んでいる。
ならば、この状況も無駄ではない。
アルトを殺さず、権力で追い払わず、そのうえでエレナに選ばれることができれば、俺は人間の恋をさらに深く理解できる。
鏡の中の俺は、いつもと変わらない穏やかな顔をしていた。
「……負けんぞ」
恋敵が現れたのなら、正面から勝てばよい。
「俺は絶対に、人間になってみせる」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
力でも地位でも手に入らない「選ばれること」に初めて挑むアレンと、恋敵アルトについて、感想をいただけると嬉しいです。