偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
そこで彼は、人間について「知っていること」と「理解すること」の違いを、思わぬ形で知ることになります。
――アレン――
最後の書類を片づけた頃には、窓の外が白み始めていた。
シュリフトヴェルクのおかげで書く手間だけは省けたものの、判断を下す作業までは消えてくれない。
結局、俺は夜のほとんどを執務室で過ごし、町長が満足するまで領主の責務を果たすことになった。
その間に酒場は閉まり、アルトたちも宿へ戻っている。
夜回りの兵士によれば、エレナはアルトに背負われて帰ったらしい。
だからといって、何かがあったと決めつけるのは早計だ。
アルトは欲望に忠実な俗物だが、エレナが意識を失っている隙に手を出すほど腐ってはいない。はずだ。
確認する必要はある。
朝日が差し込むラウンジには、昨夜の酒と料理の匂いがまだ微かに残っていた。
泊まり客の姿はまばらで、給仕が椅子を卓上から下ろしている。
カウンターの端では、クラウが一人で茶を飲んでいた。
「クラウ、エレナを知らないかな?」
「ん? エレナなら、部屋で二日酔いになって死んでいるよ」
死んでいる、という言葉に緊迫感はない。
文字どおりではないと判断し、魔力を探る。
上階にいるエレナの反応は弱っているものの、生命に異常はなかった。
「アルトなら、あっちで朝から勉強だね」
「…………勉強? あのチンピラが?」
「そうそう。あのチンピラが」
「あの子は昔から、頭だけはいいからねぇ」
長く見守ってきた者が、本人の知らない美点を語るときの顔だ。
「なんだか、年寄りのような言い方だな。クラウ」
「それはまた、ひどい言い方だ。僕は、見た目はぴちぴちの十八歳だよ?」
「自分で見た目と付け加える十八歳は、あまりいないと思うがね」
「細かいことを気にすると老けるよ、アレン様」
問い返しても、まともな答えを寄越す気はないらしい。
◇◇
アルトは窓際の卓に一人で座り、分厚い本を開いていた。
酒場から戻ったのが深夜だったことを考えれば、睡眠はほとんど取っていないはずだ。
それでも眠気を見せず、難しい顔で紙面を睨み、指で文字を追っている。
本の表題は、北側諸国で編纂された魔物学概論。
ちょうど、魔族についての項目を読んでいるところだった。
「なになに……。『概ね人間とほぼ同じ姿形をしているが、思考形態は人間とは大きく異なっており、人間の感情を知識としては知っていても、理解することはできない。そのため、話し合いで分かり合うことは決してできない』」
「『言葉をもって人を欺き、油断させて屠ることを常套手段としている』」
その記述も間違いではない。
魔族にとって、言葉は人間と感情を通わせるために生まれたものではない。
人間を効率よく狩るために獲得した手段であり、人間が何を聞けば警戒を解くのかを学び、使っているにすぎない。
俺も、そうして言葉を覚えた。
今では詩を読み、領民の訴えを聞き、死者の墓前で思い出を語る。
しかし、魔族が言葉を獲得した起源について述べるなら、本の記述は正しい。
正しいことと、個体のすべてを説明できることは同じではない。それだけの話だ。
「『強力な魔力を持つ強者こそが偉いという実力主義的な社会を形成している。魔力は地位や財産に相当し、同時に尊厳と誇りでもある。そのため、魔力制限を行うという発想を持たず、また持つことができない』……」
「……でたらめじゃねえか」
おそらく、目の前にいる俺と合わないから、すべてでたらめだと判断したのだろう。
標本の偏りとしては致命的だ。
「いや、概ね合っているぞ」
「あ? いきなり現れるんじゃねえよ」
本を脇へ置き、煩わしそうに片手を払う。
「……その割には、少しも驚いていないようだが?」
「俺を舐めるんじゃねえ。てめえがこの建物に入ってきたときから、気配で分かってんだよ」
体内の魔力も、熟練した魔法使いが至近距離で注視しなければ人間と区別できない水準まで制限してある。
アルトは魔法使いではない。魔力探知を使った形跡もなかった。
「…………お前は、本当に人間か?」
ようやく顔をこちらへ向けた。
「どういう意味だよ」
「いやな……。まともな人間に感知できるような、生ぬるい隠蔽をしたつもりは一切ない。完璧に気配を消して近づいたはずなのだが……」
「てめえ、気配を消して近づいてきやがったのかよ!」
今になって怒っている。俺が気配を消していたこと自体には、言われるまで気づいていなかったらしい。
「それに気づいていない者に気取られるとは……。お前の感覚はどうなっているんだ……」
「こっちが聞きてえよ! 朝っぱらから何しに来やがった!」
説明を求めても、おそらく答えは得られない。
人間は、ときおりそれを勘と呼ぶ。
構造として説明することは可能だ。
だが、同じ経験を持たない俺が、その説明を記憶したところで、アルトと同じものを感じ取れるわけではない。
先ほどの本には、人間の感情を知識として知っていても、理解できないと書かれていた。
では、理解とは何だ。
理由を説明できることか。同じ結論へ辿り着くことか。
それとも、説明するより先に身体が答えを知っている状態を指すのか。
アルトは、自分が何を感じ取ったのかも知らない。
それでも俺を見つけた。
既知の術式を破られたときとは異なる不快感が、身体の奥に残った。
方法が分かれば対策を立てられる。
だが、本人にさえ方法が分からないものは、奪うことも、再現することもできない。
「アルトは頭がいいんだから、そのクズっぷりと俗物っぷりを直せば、もっと大成するだろうにねぇ」
「うるせえ! 誰がクズだ!」
「駄目だ、クラウ。こいつから、その二つを取ってしまったら、存在する理由がなくなって消えてしまうぞ」
「失礼どころの話じゃねえぞ!俺は品行方正な男だ!」
「……『俗物』であることは否定しないのだな」
「おおよ!人生を楽しむための秘訣だぜ? 領主サマも、たまには試したらどうだ?」
俗物とは、世間的な名誉や金銭、酒、異性への欲を重んじる者を蔑む言葉である。
少なくとも俺が読んできた書物では、そのように扱われていた。
しかしアルトは、自分の欲望を恥じていない。
なぜ酒を飲みたいのか。なぜ金を得たいのか。なぜエレナを抱きたいのか。
それが崇高な感情か、獣の衝動か、誰かの模倣かと分解する前に、自分が望んでいるという事実を引き受けている。
知性が足りないわけではない。朝から専門書を読み、自分が知らないものを学んでいる。その頭で考えたうえで、なお俗物であることを選んでいる。
「…………検討しよう」
「何をそんなに真剣に考えてんだよ。気味が悪ぃな」
アルトは顔を引きつらせたが、俺は本気だった。
◇◇
そのとき、奥の階段から、不規則な足音が聞こえてきた。
一段降りるたびに、長い間が空く。
最初に見えたのは、壁を掴む青白い手だった。
次いで、乱れた髪が現れる。エレナは片手で頭を押さえ、もう片方の手で壁を伝いながら、ほとんど這うように階段を降りてきた。
顔から血の気が失せ、目の焦点も合っていない。
「…………ううう……。頭に斧が突き刺さっている……」
実際に負傷しているわけではない。
「誰か……介錯を……。とどめを……」
「おお、エレナ! 安心しろ。俺がたちどころに、その二日酔いを治してやろう!」
ずっと以前、フリーレンから教わった民間魔法を思い出していた。
名称どおりなら、今のエレナへ使うために存在する魔法である。
ただし、俺自身は一度も試したことがない。
だが、エレナは苦しんでいる。
そして、発動には口づけが必要だった。
「『口づけによって二日酔いを治す魔法(クスヴァッハ)』でな!」
「てめえ! どさくさに紛れて何しようとしてやがる!」
予想どおり、俺とエレナの間へ割り込もうとする。
「どうする……? このまま、エレナを苦しませ続けるつもりか……?」
治療を妨げるなら、エレナの苦痛を長引かせることになる。
アルトは俺を疑っている。俺がエレナへ口づけたいだけだということにも気づいている。それでも、エレナの苦痛を代価にしてまで自分の嫉妬を優先することはできない。
こいつは根に持つ。口も悪い。自分の欲望にも忠実だ。
だが、選択を迫れば、最後には自分より他人を優先する。
「ううう……。アレン、頼むぅ……」
「ぐううううう……!」
アルトの拳が震えている。
自分では治せない。ならば、俺を止めることもできない。
「よし……。行くぞ」
「『口づけによって二日酔いを治す魔法(クスヴァッハ)』――!」
俺は、エレナの唇へ自分の唇を重ねた。
触れたのは一瞬だった。
それでも、唇の柔らかさと、酒の微かな匂いは分かった。
黄金の光が接触した場所から溢れ、細い流れとなってエレナの身体から俺へ注ぎ込んでくる。
治癒魔法に似た光だった。
ただし、流れる方向が逆だった。
気づいたときには、すでに術式が完了していた。
「……はっ!?」
「すっかり治った! ……ん? アレン?」
頭蓋の内側へ斧が振り下ろされた。
視界が激しく揺れる。
胃が裏返り、喉の奥まで酸味が込み上げた。
平衡感覚が失われ、立っている床が左右へ傾く。
毒ではない。呪いでもない。
膝から床へ崩れ落ちた。
「こ……これは……!二日酔いを『治す』のではなく……相手の二日酔いを『自分へ移す』魔法だな……!?」
フリーレンは、効果について嘘をついてはいない。
エレナの二日酔いは消えた。目の前で苦しんでいた者は、確かに救われている。
ただ、苦痛そのものが世界から消滅するとは、一言も言っていなかった。
二日酔いという現象は知っていた。
大量の酒を飲んだ人間が翌朝に頭痛や吐き気を訴え、光や音を嫌うことも知識として理解していた。
エレナが階段を降りてきたときも、症状を見ただけで原因を判断できた。
だが、頭へ斧が刺さっているという彼女の言葉が、比喩でありながら誇張ではなかったことを、俺は今まで知らなかった。
魔族は酒をいくら飲んだところで二日酔いなどにはならない。おそらく俺は歴史上初めて二日酔いを経験した魔族だ。
「だ、大丈夫か、アレン? 頭に斧が刺さってるだろ?」
労るつもりなのだろうが、一度叩くたびに頭痛が強くなる。
「なるほどねぇ。エレナを治す魔法であることは、間違っていなかったわけだ」
「詐欺師の理屈だ……!」
「でも、アレン様も、エレナが治ればいいと思って使ったんだろう?」
「口づけをしたかっただけだろうが、こいつは」
否定はできない。
エレナの苦痛を利用してアルトへ選択を迫り、自分の望みを果たした。
先ほど読んだ本の記述どおり、言葉を使って人間を欺いたのである。
動機だけを見れば、本に書かれた魔族から外れてはいない。
結果だけを見れば、まるで逆だった。
どちらが俺を定義するのか。
考えようとするたび、頭の内側で斧が振り下ろされた。
「フリーレンめぇぇぇぇぇっ!またしても欠陥魔法を教えおってぇぇえええっ!」
欠陥だったのは、本当に魔法なのだろうか。
魔族は、人間の感情を知識として知ることはできても、理解できない。
その記述が正しいのか、今の俺にはまだ分からない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
人間の感情を知ることと、実際に理解すること。
そして人生初の二日酔いを経験したアレンについて、感想をいただけると嬉しいです。