偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
二つを両立する方法を考える中で、彼は人間が世代を越えて受け継いでいくものへ目を向けます。
――アレン――
人間は、どちらも捨てられない二つのものを前にすると葛藤する。
領主として街を治めたい。
同時に、エレナたちと冒険者として旅をしたい。
一方を選べば、もう一方を諦めなければならない。何を優先すべきかは理解しているのに、望みまでそれに従ってはくれない。
目の前には、決裁を待つ書類が山積みになっている。
先日、一晩中書類を読まされたばかりだというのに、仕事は翌日になれば新しく生まれる。人間の暮らしは止まらない。橋は傷み、商人は許可を求め、村は種籾の貸し付けを申し出る。領主が恋に忙しいからといって、収穫期が待ってくれるはずもなかった。
しかし、俺の意識は最上段の報告書ではなく、その向こうにある冒険者ギルドへ向いていた。
エレナたちは、今日にも次の依頼を受けるかもしれない。
俺がここで書類を読んでいる間に、三人だけで街を出る可能性がある。
俺の知らない場所で戦い、俺の知らない話を増やし、帰ってきたときには俺だけが共有できない冗談で笑うことになる。
それは好ましくない。
だが、今度も領主の責務を放り出せば、好ましくないでは済まない。
「うむ……。自分としては、エレナたちと冒険者をやりたい。だが、それをすると領主としての仕事がおろそかになる……」
同時に、別の感慨も湧いた。
「……うむ! このようなことで悩むということ自体、それだけ俺が人間に近づき、皆のことを考え、葛藤できる存在になっているということ……! さすがは俺だ。素晴らしい成長ぶりではないか」
我ながら見事な葛藤である。
かつての俺なら、価値の高い方を選んで終わっていた。
比較するまでもない。必要ならばエレナたちの行動を制限し、俺の都合へ合わせさせる方法もあった。
今の俺は、それを選べない。
領民の生活を軽んじることも、エレナたちの意思を力で縛ることもしたくない。
双方を尊重したまま、自分の望みも捨てたくない。
俺は、悩んでいた。
そして悩めている自分に、かなり満足していた。
もっとも、人間らしい葛藤を獲得したことと、目の前の問題が解決することは別である。このまま自分の成長へ感心していても、書類の山は一枚も減らず、エレナたちは出発してしまう。
「さて……では、分身を作る魔法などはどうだ?」
姿だけを増やす幻影や、命令された動作を繰り返す複製体なら、いくつも知っている。だが、決裁には思考と判断が必要だ。
先日使った自動筆記の魔法と同じく、俺が答えを与えなければ動けない分身では意味がない。
必要なのは、俺と同じ記憶、知性、判断力を持ち、自らを俺自身だと認識するもう一人のアレンである。
古い魔導書には、その条件を満たす禁術が記されていた。
肉体だけではなく、魂と魔力を二つに裂き、どちらにも術者の全記憶を与える。
生まれた二人に本体と分身の区別はなく、双方が自分こそ本物だと認識する。
解除すれば一つへ戻るとされているが、その時点で二人の意思が一致していなければ、相手の人格を呑み込んだ側だけが残る。
魔族がそのような術を使えば、どうなるか。
考えるまでもなかった。
「俺自身を二つに分割する魔法があれば、半分でエレナたちと冒険し、もう半分でデスクワークをこなせる。…………駄目だ」
分かれた直後までは、二人とも同じ計画へ同意しているだろう。
だが、冒険へ行く側はエレナと時間を過ごし、書類を処理する側はその記憶を持たない。いずれ統合するとしても、机に残された俺が、自分では経験していない時間をもう一人から受け取るだけで満足するとは思えなかった。
何より、エレナの隣をもう一人の俺へ譲ることになる。
「俺ほどの存在が二人もいれば、間違いなく主導権を巡って自分同士で殺し合いになりかねん。却下だ」
分身との戦闘を想定してみる。
魔力量も術式も等しく、互いの思考と手札を知り尽くしている。
決着には相当な時間がかかる。領主の仕事は今以上に滞り、街は戦場になり、エレナからは二人まとめて愛想を尽かされるだろう。
「……いっそ、アルトをこの街の町長にするのはどうだ?」
口は悪く、品性には重大な問題がある。
しかし、頭はいい。勉強を欠かさず、状況を見る目もあり、危険を察知すれば悪態より先に身体が動く。
領民へ威張り散らす可能性はあるが、弱い者を見捨てるような男ではない。
何より強い。
ガルドという前例もある。今の町長の補佐を受けさせれば、統治を覚えることも不可能ではないだろう。
そうすれば、俺は領主として最終的な決裁だけを行い、エレナたちとの冒険へ集中できる。アルトは町長としてガルドへ留まる。エレナたちも、この街を活動の拠点に――。
「いや、待て」
アルトが町長になれば、安定した地位と収入を得る。
人間社会において、それらは配偶者を得る際の明確な利点となる。
日中は町長として働き、仕事を終えれば宿へ戻る。エレナも拠点を同じくする以上、二人が街で過ごす時間は今より増える。
やがてアルトは宿を出て、自分の家を持つかもしれない。
そこへエレナが移り住む可能性は、決して低くない。
さらに年月が過ぎれば、町の公的な記録へ『町長夫人エレナ』と記されることさえ――。
想像の中で、町長の椅子へ座ったアルトが勝ち誇った顔をしている。
その隣ではエレナが、事情も分からず楽しそうに笑っていた。
「駄目だ! 絶対に阻止せねばならん!」
扉が控えめに叩かれた。
「入ってもよろしいでしょうか、アレン様」
町長の声だった。
「ああ。入れ」
町長は茶器を載せた盆を両手で持ち、執務室へ入ってきた。俺の前へ茶を置いてから、床に残っていた一枚と、僅かにずれた書類の山へ目をやる。何も聞かなかった。
「アレン様。この間は、貴方が突然にいなくなったから業務が止まったのであって……」
「出かける際に、しっかり引き継ぎさえしていただければ、私どもで回せる仕事も多いのですよ」
「おお! そうか!」
分身も、禁術も、アルトの町長就任も必要なかった。
「……さすがはガルドとカルラの子孫だ。話が分かる」
二人の名を口にした瞬間、町長の表情が変わった。
彼の顔は、ガルドと同じではない。
初めて会った頃のガルドより、今の町長の方が年上に見える。
声も、背丈も違う。カルラとも似ている箇所より、似ていない箇所の方が遥かに多かった。
それでも、言葉を告げる前に一度だけ相手の目を見る癖にはガルドの面影がある。
こちらを咎めながら、最後には逃げ道を一つ残す話し方はカルラに似ていた。
彼の父親にも、その父親にも、二人とは異なる形で同じものがあった。
人間の子は、親と同じ個体にはならない。
記憶をすべて受け継ぐこともなく、同じ望みを持つこともない。顔や声や仕草の一部を継ぎ、教えられた話を覚え、それぞれ別の人生を生きる。
完全な分身ではないからこそ、互いを殺して一つへ戻ろうとはしない。
俺がガルドと過ごした時間を、町長は知らない。
それでも彼は、自分が生まれるより遥か以前に交わされた約束の続きへ立っている。
「…………貴方には感謝しておりますから。先祖の代から、ずっと」
感謝の理由なら、いくつも思い当たる。
俺はガルドが死んだあとも、その家族を保護した。カルラが老いてからは生活に不自由がないよう取り計らい、その子供たちが望む教育と仕事を与えた。
世代が替わっても扱いを変えず、この街で生きる限り、不当に害されないよう目を配ってきた。
始まりについてなら、いくらでも説明できる。
人間の友情を知り、その関係が人間へ何をもたらすのかを観察するため。
彼を助け、彼から頼られ、やがて親友と呼ばれるまでになった。
その過程には、俺が求めていたものがあった。
「ガルドのことか?そんなものは、お前が気にする必要はない」
ガルドは、もういない。
死んだ人間へ返すことのできない恩を、子孫が背負い続ける必要などない。
俺が彼を助け、彼の家族を守ったのは、未来の人間から感謝を取り立てるためではなかった。
「……ただの俺の『親友』だったから、贔屓にした」
親友。
人間の関係を分類するために覚えた言葉の一つだ、ガルド以外の誰かへ使おうとすると、今でも違和感が残る。
だが、彼へ使うときだけは迷わない。
「……どうだ。人間らしいだろう?」
冗談めかして言えば、彼も軽く肯定し、この話は終わる。そう考えていた。
町長は笑わなかった。
「ええ」
「……貴方がそうしてくださるから、私たちはいつの時代も、安心してこの街で生きていけるのです」
人間らしいかどうかを、彼は判定しない。俺が何者で、何を理解しているのかにも触れなかった。
俺が一つの約束を続けている間に、彼らは何代にもわたり、その結果を受け取っていた。
それでも、すぐには受け取れなかった。
受け取ってしまえば、ガルドの死後に続けてきた数百年へ、俺が考えていたものとは別の意味が生じる。
俺は、親友だったから贔屓にしただけだ。
ただ、それだけのはずだ。
「…………お前は昔から、嘘が上手いな」
昔、叱られると分かっていながら木へ登り、落ちて腕を折ったときも、彼は痛くないと言い張った。
町長になる前、初めて任された仕事で失敗したときも、自分一人で立て直せると笑っていた。
あの頃から、相手を安心させるための嘘だけは上手かった。
「……ありがとう」
声は、自分で予想していたよりも小さかった。
すべての確認を終えると、町長は書類の大半を抱えて立ち上がった。
「お気をつけて、アレン様。今度は、置き紙一枚ではございませんからね」
「分かっている。帰還予定が遅れる場合は伝令を出す。村の状況によっては、現地から追加の指示も送ろう」
「結構です」
自動筆記が、俺の判断を紙へ記していく。
今日は、その羽根ペンが俺を嘲笑っているようには見えなかった。
◇◇
正装から旅装へ着替え、東門へ向かうと、アルトたちはすでに待っていた。
「領主サマは、ずいぶん優雅なご出勤だな」
「引き継ぎを済ませてきた。今回は、貴様に文句を言われる筋合いはない」
「俺らにゃ関係ねえ話だろうが」
その割には、置き去りにせず待っていた。
俺がそう指摘すれば、依頼内容を聞くためだと反論するだろう。
村までは徒歩で半日ほどだ。俺は意識して歩調を抑えていたが、それでも普段より足が軽い。
「さて、今回の依頼は領地の東側にある村でな。……どうやら、魔族が出たらしい」
「……てめえ。俺たちを便利屋か何かと思ってねえか?」
「報酬は相場より高く設定している。便利に使われるのが嫌なら、受けなければいい」
「受けたのはクラウだ! 俺は今朝聞かされたんだよ!」
「いいじゃないか~」
クラウは両手を頭の後ろで組み、散歩へでも行くような足取りで俺たちの横へ並んだ。
「アレン様が後衛に入ってくれたら、心強いしね」
クラウにとっては大した問題ではないらしい。
戦力が増えるなら使い、依頼料がよければ受ける。その判断は単純だが、合理的だった。
「けっ。俺が目立たねえんだよ!」
「アタシは、どこへ行っても目立つけどな!」
「お前は女だからだろ!」
アルトは半ば呆れたように言い返し――不自然な間を置いて、視線を逸らした。
「……美人だからだよ!」
本人は乱暴に吐き捨てたつもりなのだろう。しかし、語尾だけが僅かに上ずっていた。
何を言われたのか分からないように目を瞬かせる。
やがて無邪気に首を傾げ、アルトの顔を下から覗き込んだ。
「何を言ってるんだ……。アルトも、相当いい男だぞ?」
「ぶっ――!」
口を開いても声にならず、両目だけが助けを求めるように左右へ泳いだ。
「な……あ……っ!? そ……っ、む……っ」
一語も形になっていない。
エレナは、相手を喜ばせるために言葉を選ばない。思ったことを、思ったまま口にする。だからこそ、今の評価を社交辞令として退けることはできなかった。
エレナはアルトを、いい男だと思っている。
その事実が、胸の内側へ小さく刺さった。
「……では、俺はどうかな? エレナ」
「あ?」
「アルトが相当いい男なら、俺はどう見える?」
問い直すと、エレナは俺の顔を間近から見つめた。
「うーん……。アレンは『いい男』というよりも……こう……」
「こう……?」
「……『芸術品』?」
「…………芸術品?」
予想していなかった分類だった。
人間は優れた絵画や彫刻を芸術品と呼ぶ。
それらは美しさを賞賛され、長く保存され、ときに人間より遥かに高い価値を与えられる。
「生き物としての温かみがないと言いたいのか……?」
「ギャハハハハ! ざまあみろ! 人間扱いされてねえぞ、領主サマ!」
不快だった。
反論する言葉なら、いくつもあった。
人間離れした美しさという評価なら、アルトより上であることに変わりはない。
そもそも俺は人間ではなく魔族なのだから、人間扱いされていないという指摘は事実にすぎない。
それでも。俺は…俺はな。エリー。…いや、エレナ。
芸術品。
彼女はただ、いい男という身近な言葉では収まらないほど、顔立ちが整っていると言いたかっただけだ。
「ふふっ。美しすぎて人間離れしている、という意味じゃないかい?」
「それだ! アタシが言いたかったのは!」
「自分の言葉くらい、自分で説明したらどうだ」
「分かったんだからいいだろ」
エレナは悪びれずに笑った。
その笑い方は、エリーとよく似ていた。
顔立ちだけではない。答えに窮したとき、考えることを諦めて笑うところまで同じだった。
だが、エリーは俺を芸術品と呼ばなかった。
彼女なら、もっと別の言葉を選んだだろう。
あるいは、考えるより先に俺の胸を叩き、くだらないことを聞くなと笑ったかもしれない。
似ている。
けれど、同じではない。
「さあさあ、お喋りはそこまでにして、さくっと魔族退治と行こうか!」
クラウが両手を打ち、止まっていた俺たちを促した。
「誰のせいで止まったと思っている」
「アレン様が自分の評価を聞いたからじゃないかな?」
「違いねえな!」
「うるさい。貴様は先ほど一言もまともに話せなかっただろう」
「ああ!? 話せてたわ!」
「『な、あ、そ、む』のどこが言葉なのだ?」
「てめえ、正確に覚えてんじゃねえ!」
ここには静かに考えをまとめる時間がない。
それぞれが、俺の予測どおりには動かない。
人間が受け継ぐものは、同じ存在を繰り返すためのものではない。
「何を一人で満足そうな顔してやがる!」
「貴様には関係ない。自分の成長を確認していただけだ」
「また始まったよ、この自惚れ領主!」
「アレンは昔からこうなのか?」
「昔どころじゃないと思うよ。筋金入りさ」
言い返しながら、三人のあとを追う。
目指す村には、魔族がいる。
人間の言葉を使い、人間の姿で、人間へ近づこうとする同族かもしれない。
あるいは、そんなことを考えたことすらなく、村人を狩るためだけに言葉を使う魔族かもしれない。
どちらであっても、俺はガルドの領主として討つ。
それが、死んだ親友の死後も、自分で続けると決めた役目だからだ。
追いついたアルトが、わざと肩をぶつけてくる。俺も同じ強さで押し返した。
二人の間へ石突きが差し込まれ、これ以上やれば二人とも殴ると警告される。
クラウは止めもせず、先へ進みながら笑っていた。
四人の喧噪は、街道の先まで途切れなかった。
最近、アレンの性格が少し変わったように感じる方もいるかもしれません。
実際、彼自身も少しずつ変化しています。
ただ、急に別人になったというよりは、これまで長い時間をかけて人間の感情や関係を学び続けてきた結果が、少しずつ表へ出るようになってきた、というイメージです。
特に「恋」や「愛」は、アレンが人間社会へ入った当初から追い続けてきた、かなり重要な研究テーマでもあります。
そこへ、かつての妻エリーとあまりにもよく似たエレナが現れました。
そのため今のアレンは、長年研究してきた題材を突然目の前へ突きつけられたような状態で、普段よりだいぶ暴走しています。
本人は相変わらず「これは人間を理解するための研究だ」と考えていますが、その説明だけでは片づかない行動も少しずつ増えてきています。
そのあたりも含めて、アレンが今後どう変わっていくのか見守っていただければと思います。
次の章はアウラ編の予定です。アウラはアレンとどうなると思いますか?
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同盟する
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ガルドに招き入れる
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殺し合う
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フリーレンと戦う(原作通り)
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直接会わない