偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
グラナト伯爵領へ届いた、断頭台のアウラからの和平交渉。
魔族でありながら人間の領主でもあるアレンは、その報せを無視することができませんでした。
「なに……。グラナト伯爵が、『断頭台のアウラ』と和睦だと?」
勇者ヒンメルが死んでから二十八年。
俺は早馬が運んできた報告書を三度読み返していた。
北方諸侯から届く報せには、誇張も誤りも珍しくない。
アウラの軍勢がまた動き始めた、というだけなら、多少の疑いを挟みながらも理解はできた。
だが、封蝋の下にはグラナト家の紋章があり、和睦の申し出を受けて使者との協議に入ったことまで、伯爵自身の署名で記されている。
二年前、アウラは死者の軍勢を率いてグラナト伯爵領へ攻め込んだ。俺が救援へ入ると、あれは逃げた。追えば捕らえられた可能性はある。それでも俺は、負傷者と崩れかけた防壁を置き去りにしてまでは追わなかった。
あの判断を誤りだったとは思わない。
俺がアウラの首を持ち帰ったところで、救えるはずだった人間が死ねば、領主としては敗北でしかない。そう考えて追跡を捨てたし、今も同じ状況へ戻されれば同じものを選ぶ。
ただし、アウラもそれを見ていた。
剣ではなく和平を差し出せば、俺は人間の領主として無視できない。
あれが俺の選択を理解し、それを利用しようとしている。そうであるなら…実に厄介だ。
「うん。なんでもアウラ側から申し出て、今は条件を調整しているところだとか」
クラウは、こちらが報告書から顔を上げるのを待っていたらしい。
いつもの笑みを浮かべたまま肩をすくめたが、その指は弓の弦を確かめるように、何度も親指の腹を擦っている。彼女も、この報せを朗報とは受け取っていなかった。
「伯爵め……血迷ったか? 魔族と話をしようなど、正気の沙汰ではないな」
リリアは俺の執務机に頬杖をつき、半分ほど閉じた赤い目でこちらを見上げている。
仕事を邪魔しないよう大人しく本を読んでいたはずだが、開いた頁は随分前から一枚も進んでいなかった。
「……お父さん。『ブーメラン』って言葉、知ってる?」
妙な質問だ。
和睦について話している最中に、なぜ投擲武器が出てくるのかは分からない。
だが、娘から物を尋ねられた父親は、知識を示しつつ分かりやすく教えるべきである。
投擲武器の歴史を学んでいて生じた疑問なら、詳しく答えてやる価値はある。
「何を言う。もちろん知っているとも。ブーメランとは人間の使う投擲武器だ。弓矢が台頭してからは戦場で廃れたが、今でも狩猟や遊戯に用いられている。戻ってくる性質ばかり有名だが、狩猟用のすべてが投げた者の手元へ戻るわけでは――」
「…………てめえ、本気で言ってんのか?」
アルトよ、俺を鈍感な男だと思っているのか?
「まさか。娘の冗談を理解できない『不器用な父』を演じているだけだ。わざと知識の方向を外し、場を和ませた。どうだ、エレナ。ユーモアがあるだろう?」
「アタシにはよく分からんが、とりあえずダサいことだけは分かる」
もっと遠回しに欠点を指摘するか、努力だけは評価するのが人間の情ではないのか。
アルトやクラウに笑われるだけなら無視できるが、エレナに迷いなく切り捨てられると、父親役に失敗したというより、俺自身が格好悪いと判定されたようで面白くない。
だが、彼女は再び長椅子の上に並べた槍の穂先へ目を戻し、布を滑らせ始めている。言い直す機会すら与えられなかった。
父親という役割は、夫や友人とは別の技術を必要とするらしい。
人間社会へ入って四百年以上になるが、誰かの父を演じたことだけは一度もなかった。
「笑うな」
「笑ってないよ。お父さん、格好良かったよ。ぷっ」
「人間を騙すなという契約を忘れたか?」
「今のは、お父さんを騙そうとしただけだもん」
俺が魔族である以上、確かに違反ではない。
首に刻んだアイトゼーゲルからも罰の兆候は返ってこなかった。
そこでようやく、リリアが何を言いたかったのかへ思考を戻す。
俺は魔族である。伯爵が話そうとしているアウラも、和睦の使者も同じ魔族だ。
その俺が人間の領主として同族を信用するなと言えば、投げた言葉は大きく弧を描き、俺自身へ戻ってくる。
説明されるまでもなく、最初から分かっていた。分かっていたとも。
だからリリアに言われる前にアウラと自分の違いを並べていたのだ。
俺は人間を喰わない。領民を守る。結んだ約束は守る。四百年以上を人間の中で過ごし、街を築き、昨日生まれた子供が老いて死ぬまで見届けてきた。
たった一度、和平を申し出ただけのアウラと同列に扱われてたまるものか。
伯爵が俺を信じ、アウラを疑うのは当然であり、それこそが正しい人間の判断だ――
そう言い切りたかった。
だが、伯爵にとって俺だけを例外にする根拠は、俺がこれまで見せてきた言葉と行動しかない。
ならば使者の言葉と行動も確かめてから判断したいと言われたとき、魔族だからという理由だけで退ければ、俺が人間から与えられた信頼まで同時に否定することになる。
何より、俺が人間へ近づいた目的は、人間が起こす奇跡を手に入れ、最強の魔族になることだ。
そのために笑い、愛し、悲しむ者の隣へ入り込み、相手が望む顔を選び続けてきた。
城門を開かせるために和平を語るアウラと、目的が違うだけで、始まりまで違っていたとは言えない。
それでも、同じではないと言ってほしかった。
誰に、と考えかけてやめた。
「……にしし」
「その笑い方もやめろ」
「どうして?」
「腹が立つ」
このままでは、執務室の話題までリリアに奪われる。
「ゴホン。……とにかく、伯爵が危険だ。俺は直ちにグラナト伯爵領へ向かう」
言葉にした途端、予定表へ書き込まれていた本日の会議と三件の決裁が目に入った。
以前の俺なら、そのまま窓から出ていたところである。
だが、無断で抜け出せば町長がどういう顔をするか、今では想像するまでもない。
机の引き出しから紙を出し、会議を明朝へ延期する旨と、緊急時の決裁権を町長へ委ねる旨を書き始める。
「また抜け出したら、町長にこっぴどく怒られるよ? にしし」
「抜け出すのではない。引き継ぎを済ませたうえで出発する。転移魔法があるから、長く留守にするとも限らん。それに、アウラには二年前に一度勝っているからな」
帰還日時だけは書けない。
俺が一人でアウラを退けるだけなら、さほど時間はかからないだろう。
だが、伯爵がすでに使者を城内へ入れているなら、問題は戦闘だけでは済まなかった。
背後で革が軋み、金具同士が触れ合う。
振り返ると、アルトが剣を腰へ吊り直していた。
頼んでもいないのに外套まで羽織り、わざとらしく肩を回して首を鳴らしている。
「……しゃあねえな。付き合ってやるか!」
「俺は、そんなことは頼んでいないが」
「最近、手応えがねえ雑魚ばっかりで退屈してたんだよ。七崩賢が出るってんなら、剣の錆落としにはちょうどいい」
だが、アルトは話している間も俺を見ず、留め具を三度も掛け直していた。
二度目で正しく留まっていたものを、わざわざ外してやり直す必要などない。
「この間、魔族と大立ち回りして、『死にかけたけど最高に楽しかった』って言ってたじゃねえか?」
エレナが磨き終えた槍を担ぐと、アルトの手が止まった。
「あんなんじゃ駄目だ! 俺はもっとギリギリの戦いがしてえんだよ! 七崩賢のアウラなら多少はやり合えんだろ!」
「それ以上ギリギリになったら死ぬぞ?」
「死なねえからギリギリって言うんだよ!」
アルトは怒鳴りながら扉へ向かった。エレナも当然のようにその後へ続き、クラウは壁から背を離して弓を取る。誰一人として、同行の許可を求めなかった。
二年前の戦いについては三人にも話してあるし、アウラを追わなかった理由も知っている。
それでも、俺が和睦の話を聞いた瞬間、アルトは剣を帯び、エレナは槍の手入れを終わらせ、クラウはすでに矢筒の中身を確かめていた。
置いていく方が安全だ、と言うべきだった。
アウラ一人なら俺が対処できる。未知の配下がいたとしても、一人であれば退く判断も容易い。
行くなという言葉は出てこなかった。
扉へ向かう三人の背を見ていると、口元が緩みそうになり、俺は礼より先に実戦上の不利益を探していた。見つけた不利益はどれも正しく、それでも同行を断る理由にはならなかった。なぜだろうな。それをここと良く感じている自分がいる。
まるで…、ガルドたちと冒険をしていたころのような…。
「お前ら……」
「みんな、なんだかんだ言って、お父さんが心配なんだよ」
「向こうでアウラと組んで、人間を殺し始めないか、怖いんだよ。ね?」
アルトの手が扉の取っ手に触れたまま止まり、エレナは担いだ槍を危うく天井へぶつけかけた。クラウだけが溜息をつき、弓の先でリリアの頭を軽く叩く。
「…………君は、もう少し人間の感情について学ばないと、すぐ魔族だってばれそうだね」
「どうして? 合ってるでしょ?」
リリアは本気で分からないらしい。叩かれた場所を押さえながら、三人へ答えを求めている。
心配だからついて行く。それだけを口にすればよいのに。
言葉と行動が一致していないのなら、魔族はどちらかを嘘と判断する。
だが、人間にとっては、口に出さないことまで含めて意思を伝える方法になるのだ。
もっとも、リリアの読みは肝心なところで外れている。
こいつらが本当に俺とアウラが組むことを恐れているなら、これほど無造作に背を向けて出発の準備などしない。
俺が裏切らないと決めつけたうえで、それでも一人では行かせたくないから、わざわざ筋の通らない口実を並べている。
今は、その嘘が何を隠すためのものかまで分かってしまった。
分かるようになったことを喜ぶべきか、そのせいで置いていけなくなったことを嘆くべきかは、まだ判断がつかない。
「まあ、実際にばれたから、今ここにいるわけだ。今さら取り繕う必要もあるまい」
「……みんな、ありがとう。アウラが連れているのは、死体の軍勢だけではないだろう。使者を務められる魔族がいる以上、他にも配下が潜んでいると考えるべきだ。数を増やすのに、死体だけを使う道理はないからな」
アルトは振り返らず、鼻を鳴らした。その耳が僅かに赤い。
エレナは照れる様子もなく槍を頭上で回し、穂先が天井の燭台を掠めた。
「よし! アタシの槍が唸るぜ!」
「室内で振り回すな! それは初代領主の時代から残っている燭台だぞ!」
「おっと、悪い」
槍を下ろしたエレナの横で、今度はリリアが扉から離れていった。
何をしているのかと思えば、読みかけの本を閉じ、机の陰へ押し込んだ椅子へ座り直そうとしている。
「……何をしている?」
「お留守番。私、まだ死にたくないもん。七崩賢相手だと普通に死ねるんですけど」
契約の気配はグラナト伯爵領からでも辿れるし、こいつが人間を襲えば罰が先に命を奪う。町長へ監督させ、屋敷から出さなければ、それで十分なはずだ。
俺の留守中にアウラの手がガルドへ伸びる可能性は、決して高くない。
二年前に逃げたあとで俺の素性を調べ、魔族の小娘を娘として扱っていることまで知り、そのうえでリリアを俺への切り札に選ぶ――いくつもの仮定を重ねなければ成立しない。
普段の俺なら、起こりにくい事態へ備えて目の前の危険へ連れていく方が愚かだと切り捨てている。
その不合理を認める代わりに、アウラなら俺を動かす材料としてリリアを狙う、と理由を整え、椅子へ戻りかけた頭へ手を置いた。
「お前は俺が守ってやる」
「だから俺の役に立て。『愛娘を守る逞しい父』を演出するための、引き立て役としてな」
「……お父さんが格好つけるために、私も七崩賢のところへ行くの?」
「そうだ」
「やっぱりダサいね」
父親としての学習には、まだ相当の時間が必要らしい。
「まあ、行きますか!」
前庭へ出るまでに、アルトはいつもの調子を取り戻していた。
先頭を歩きながらエレナへ何かと話しかけていたが、途中で足を止め、俺の隣にいたリリアを振り返る。
「おい、リリア」
「なに?」
「まあ……あれだ。人間ってのは、すぐに他人を疑う生き物だがよ。それと同じくらい、『背中を預けた奴』のことは無条件に信頼するんだよ」
自分たちが同行する理由を、リリアにも分かる形で説明し直そうとしているのかもしれない。
「…………裏切られたら?」
「それでも、人間は強えんだ」
「まあ、俺は背中にも目がついてるから、裏切られても余裕で躱すがな!」
最初の言葉だけで終えておけば、少しは兄らしく見えただろう。
「へん! いっちょ前に兄貴気取りか! この、このっ!」
エレナは嬉しそうに駆け寄り、アルトの背後から両腕を回した。
ただ褒めている。それは見れば分かるのだが、抱きつかれた側には刺激が強すぎたらしい。
「な……何しやがる!?」
「なんだよ。褒めてんのによ」
「抱きつくのは、俺が許したときだけにしろ!」
「はあ? なんでだよ?」
「主導権の話だ! 男が上!」
逃れようと暴れるほど、二人の身体が余計に密着していく。
その光景を見ていると、先ほどまでアウラについて考えていたはずの頭へ、アルトの背中にあるエレナの胸や、回された腕の位置ばかりが入ってきた。
助ける必要はない。むしろ槍で殴られればよい。
「アルト……分かったから、もうやめろ。これ以上お前のクズぶりが上がるのは、俺もたくさんだ。そのうち、お前を『クズト』と呼ぶことになるぞ」
「誰がクズトだ! てめえにだけは言われたくねえ!」
「俺のどこがクズだ」
「女に何百年も求婚し続けて、今はガキまで利用して父親ごっこしてるところだよ!」
「利用ではない。これは教育と保護を兼ねた実地訓練だ」
言い返す間に、俺は庭へ五人分の転移陣を描いていた。
転移魔法そのものは、以前から使える。
長く研究を続け、ようやく最近になって複数人を安定して運べるようになった。
「全員、線から出るな。途中で身体の一部を失っても、俺は責任を取らん」
「随分、嬉しそうだねぇ」
「当然だ。これで毎回、馬車の中でアルトとエレナが隣り合うのを見ずに済む」
「そこなのかよ!」
アルトの怒鳴り声ごと、前庭の景色が金色に染まった。
◇◇
次に靴底へ硬い感触が戻ったとき、グラナト伯爵領の城壁が視界を塞いでいた。
城門から少し離れた街道脇である。
転移陣の光が薄れる前に全員の魔力を確かめたが、誰一人欠けていない。
「……なんで街の外に出るんだよ。中へ出れば楽じゃねえか」
「俺一人なら構わん。だが、お前たちまで連れて他領の城下へ直接転移すれば、侵入と見なされても文句は言えない。領主である俺が他領の法を破る方が、余計な疑いを招く。手続きを踏んで入るぞ」
「魔族のお父さんが堂々と入るのはいいのにねぇ」
「人聞きの悪い言い方をするな。俺は正式な領主だ」
「そんなもんさ。アレン様々ってやつだ」
「誰何はされるでしょうけど、アレン様がいれば大丈夫でしょう」
実際、手続きらしい手続きは何も起こらなかった。
俺たちを止めようと槍を交差させた衛兵は、俺の顔を確かめた途端、弾かれたように穂先を上げた。
身分証を取り出す前に全員が背筋を伸ばし、道の両側へ分かれて深々と頭を下げた。
「ガルド領主、アレン様とは存じ上げず! 大変なご無礼を!」
「いや、職務を果たしただけだ。謝る必要はない」
むしろ、俺が謝りたいほど恐縮されている。
横を通り抜けてから振り返っても、衛兵たちはまだ頭を上げていなかった。
「……で、当然ながら俺は顔パスだ。だが、あれは少々大げさではないか? こちらが悪いことをしたような気分になる」
「街を救った大魔法使いが、前触れもなく来たんだよ? ああもなるさ」
俺には、衛兵が顔だけで槍を退けたことの方が引っかかった。
人間を救ったという過去を信用し、今日の俺も同じ側に立つと疑っていない。
もし俺がアウラと同じ魔族なら、今の一礼だけで門は内側から破られている。
俺が四百年かけて得たものを、アウラは数度の協議で手に入れようとしている。
その図々しさに腹が立つ一方で、衛兵たちの無防備な信頼を心地よいと思った自分まで、ひどく都合がよかった。
「……少し、ぴりぴりしてるな」
「衛兵が多い。魔族の使者が来ているなら当然ではあるが、伯爵は領民へ事情を伏せていないらしい」
俺ならどうする。
魔族と協議している事実を伏せれば、領民は普段どおりに過ごせる。
しかし、使者が街中で牙を剥いたとき、何も知らぬ者は逃げることさえできない。
公表すれば備えはできるが、今目の前にあるような緊張が街全体を締めつける。
どちらを選んでも、伯爵は責められる。
だからこそ、判断を迫らせた時点でアウラの側に利があるのだ。
「強い魔法使いが一人……いや、二人いるね」
クラウから笑いが消えた。
通りを歩きながら目を閉じ、街へ薄く広げた意識で魔力を拾っている。
「もちろん魔族じゃない。随分と上手く抑えているけど、隠しきれてはいない。あちらに伯爵もいるね」
示された方角には、城へ続く中央広場がある。
俺も魔力を探ったが、石造りの建物と人の気配が重なり、最初は細部まで掴めなかった。が、ひどく見覚えのある静かな魔力が一つ、深い水の底へ沈むように息を潜めている。
その隣には若く、それでいて密度の高い魔力が寄り添っていた。
まさか、と考えた途端、その周囲に重なる別の気配まで輪郭を結んだ。
人間へ似せて形を整えていても、魔族の魔力には癖が残る。
一つ、二つ、五つ。
三人までは想定していた。使者と護衛が二人。その程度なら、伯爵を救い出しながらでも俺たちで制圧できる。
残る二つを拾ったところで、その見積もりは捨てた。
片方は隠す気がないのではなく、抑えてなお隠れない。もう片方は逆に、俺が探っていると知ったうえで、こちらへ底を見せぬよう沈黙している。
少なくとも、アウラの命令へ素直に従うようなレベルの魔力ではなかった。
「魔族……一人、二人……五人」
問いかけようとした瞬間、広場の魔力が鋭く膨れ上がった。
見覚えがあるどころではない。
圧縮の仕方も、撃つ直前まで殺意を魔力へ混ぜない癖も、俺はよく知っている。
あれから何度か顔を合わせているとはいえ、こんな状況で見つけることになるとは思わなかった。
懐かしいと感じるより先に、なぜよりによって今ここで撃とうとしている。
「……フリーレン!」
通りを塞ぐ荷車と衛兵の間を抜け、中央広場へ飛び込む。
杖を構えたエルフの正面には、グラナト伯爵と三人の衛兵、そして五人の魔族がいた。
伯爵のすぐ傍らに立つ一人は、上質な衣服と穏やかな微笑で和睦の使者らしい姿を作っている。その後ろには少女と少年の姿をした二人。
少し離れた場所には、巨大な剣を背負った屈強な男と、魔力を深く沈めたもう一人が並んでいた。
フリーレンは五人すべてを敵と見定め、彼らを一つの射線へ収めるよう術式を組んでいる。周囲の建物を巻き込まぬよう緻密に絞られてはいたが、命を消すには十分すぎる魔力だ。
俺一人なら、撃たせて反応を見てもよかった。
リュグナーと後ろの二人は、初撃で消せる可能性が高い。
生き残る二体がどのような魔法を使うにせよ、フリーレンと二人なら対処の方法はある。
だが、射線のすぐ脇には伯爵がいる。背後からはアルトたちが走ってきており、リリアもいる。フリーレンの一撃を受けた二体が反射的に周囲を薙げば、誰が死ぬかを選べない。
ここは仲間を連れて帰るための順序を選ぶ。杖を上から掴んで射線を石畳へ押し下げた。
「邪魔」
久方ぶりに聞いた声の第一声が、それだった。
「久しぶりに会って、それだけか?」
「アレンが邪魔するから」
フリーレンは術式を解かなかった。
放てば地面が抉れ、少なくとも伯爵の靴は使い物にならなくなる。
俺が手を離さないと分かると、ようやく小さく息を吐き、集めた魔力を霧のように散らした。
周囲では、何が起きたか理解できなかった衛兵たちが一拍遅れて槍を向けている。
俺へ向けるべきか、フリーレンへ向けるべきか、それとも伯爵の傍らにいる魔族を守るべきか。
命令がなければ選べず、穂先だけが迷うように揺れていた。
ここでフリーレンへ説教を始めれば、余計に事態がこじれる。
「グラナト伯爵。お久しぶりですな」
二年前より頬が痩せ、目の下には濃い影が落ちている。
決断を急かされ、眠る時間まで奪われたのだろう。
「おおっ、アレン卿! どうなされた。このような城下町まで」
「アウラと和睦なさると耳に挟みましてね。少々、心配になったものですから」
「こちらは私の旧知の友人、フリーレンです。それから、我が弟子のフェルン」
「お久しぶりです、アレン様」
フェルンは状況を確かめるより先に、丁寧に頭を下げた。
フリーレンが横で僅かに頬を膨らませたように見えたが、今は触れない方がよい。
「後ろにいるのは、私のパーティーの仲間です」
口にしてから、妙に収まりのよい言葉だと思った。
紹介を受けると、アルトは腕を組み、伯爵の傍らにいる五人を睨んだまま名乗った。
「アルトだ」
「エレナだ……です!」
途中で身分差を思い出したらしいエレナの横で、クラウは別人のように淑女らしく裾をつまみ、優雅に腰を折る。
「クラウと申します、伯爵閣下」
「リリアです。アレン様の、娘です♪」
リリアまで、どこで覚えたのか分からない礼を披露した。
アイトゼーゲルは沈黙している。人間を騙してはならない契約は、今の名乗りを嘘とは見なさなかった。グラナト伯爵も疑う様子はなく頷いている。
訂正するなら、今しかない。
俺はこいつの実の父ではなく、罰として契約を結び、監視下へ置いているだけだ。
娘という呼称は、正体を隠して人間の街で暮らすために選んだ便宜にすぎない。
「……娘?」
案の定、フリーレンの目が細くなる。
「話せば長い。俺の許可なく攻撃するな」
「人を殺した?」
「殺した。だから今は、二度とできないようにしてある」
「そう」
フリーレンはそれ以上尋ねなかった。ただ、リリアの首元へ一度だけ目を落とし、俺へ戻す。
契約の術式まで見抜いたのか、俺が責任を持つという言葉だけを受け取ったのかは分からない。少なくとも杖先は上がらなかった。
「…………ところで、その少年は?」
俺も改めて見る。赤い髪。大きな斧。前衛として鍛えられた筋肉。
フリーレンの仲間であることは分かるが、記憶のどこにも該当する顔がなかった。
「…………フリーレン。誰だ、これは?」
「シュタルク」
それだけ答えて、フリーレンは口を閉じた。
「……俺だけ、扱いが雑……」
説明を求めてフリーレンとフェルンを交互に見るが、フェルンまで目を逸らしている。
師弟揃って、紹介が不得手らしい。
謝るべきかと考えたところで、五人の魔族から向けられる視線が、俺の顔へ一斉に集まった。
リュグナーは二年前にアウラの近くで見たときよりも洗練されているが、その奥にあるものは何一つ変わっていない。
だが、残る二人には見覚えがない。
もし戦闘になれば、リュグナーたち三人は問題ではない。フリーレンが一人を、フェルンとクラウが一人を抑え、残る一人をアルトとエレナへ任せられる。
俺が一人を引き受けている間、もう一人を止められるのはフリーレンだけだ。
そうなれば、他の三人からリリアたちを守る者が減る。
全員を生かしたまま勝てる形が見つからない。その程度には、二人の存在が邪魔だ。
…強いな。
「それで、和睦の使者というのは……お前か、リュグナー」
使者を演じる間は、何を言われても表情を崩さないつもりだったのだろう。
額へ一筋の汗が浮かんだ。嫌悪と警戒が隠しきれずに滲んでいる。
「…………『嘘の大魔族』、アレン」
俺の嘘は同族にとって別の意味を持つ。
人間を欺くために聖者となり、領主となり、友人となった。
演じ続けるうちに、人間だけでなく魔族へも、人間を守る側の論理を向けるようになった。
魔族から見れば、自分で作った虚構の中へ入り込み、同族まで殺して守り続けるものを持った、理解不能な大魔族なのだろう。
リュグナーの呼び方には畏敬がない。嘘を武器として認める響きでもない。異常者を呼ぶ声だった。
以前なら、それでよかった。同族に理解される必要などなく、恐れられさえすれば十分だ。
「リュグナー殿……? アレン卿のお知り合いか?」
「ええ。アウラの部下ですから、当然、私も見知っています。なかなかの魔族ですよ」
「…………『なかなかの』、ね」
何がなかなかなのか、伯爵には説明しなかった。
人間を騙す技術か。アウラへの忠誠か。
あるいは、今ここで俺に殺されず立っていられるだけの実力か。
選ばなかった意味は、すべてリュグナーへ届いたらしい。
額の汗は頬へ流れたが、拭おうとはしなかった。
「……貴方がここへ来るとは。耳の早いことだ」
「領主同士の繋がりを侮るな。人間は、魔族が思っているより頻繁に言葉を交わす」
「ところで伯爵、立ち話もなんです。お話は城で――ということで、よろしいですな?」
「あ、ああ。そうですな。アレン卿にも、ぜひお聞きいただきたい」
伯爵は俺が協議へ加わることに安堵したのか、返事と同時に肩を僅かに下ろした。
伯爵はすでに魔族へ心を許したのではない。
疑いながらも、領民のために和平の可能性を捨てきれず、誰かが判断を分け持つのを待っていた。
ならば、俺が来たことを正解にすればよい。
魔族である俺を信じて下ろした肩を、同じ魔族に食い破らせるわけにはいかないだろうから。
リュグナーは異を唱えず、再び使者の笑みを貼りつけて伯爵の隣へ並ぶ。
俺を排除するか、利用するか。それとも、アウラへ判断を仰ぐまで時間を稼ぐか。
選べるものなら、好きに選べばよい。
人間側へ立つとは、こういうことなのだろう。
勝てる戦いを選ぶのではなく、誰も失わずに済む勝ち方を選ばされる。
それを窮屈だと思いながら、捨てる気はなかった。
袖が二度、軽く引かれた。
隣を見ると、フリーレンが不満そうな目を向けている。
「なんで邪魔するの? あれ、五人とも魔族だよ」
「お前が、こんな街中で後先も考えずに攻撃魔法を放とうとするからだろうが。あの角度で撃てば手前の三人は巻き込めただろうが、残る二人まで殺せた保証はない。伯爵の目の前で和睦の使者を攻撃すれば、その後を説明するのは俺たちだぞ」
「少なくとも三人は殺せた」
「殺したあとに人間同士で揉めると言っている」
「アレンなら、どうにかできるでしょ」
「俺を便利な後始末役だと思うな」
このエルフは、昔から変わらない。変わっていないはずなのに、袖を掴む指は、以前より僅かに強く感じられた。
俺が本気でリュグナーを庇った可能性を、まったく考えなかったわけではないのかもしれない。
「そうですよ、フリーレン様。アレン様のおっしゃるとおりです」
「フェルンまで」
「街中で攻撃魔法を撃ってはいけません。少し考えれば分かることです」
「ちゃんと考えたよ」
「では、もっと考えてください」
シュタルクが、両腕で自分の身体を抱くようにして歩いている。
視線の先にはアルトがいた。アルトは前を行く五人へ殺気を向け、いつでも抜刀できるよう右手を柄へ添えている。
魔族へ向けたものだと分かっていても、近くにいる者の肌を刺すには十分な濃さだった。
「……こ、この人たち……怖い……」
「あ?」
シュタルクの声が自分へ向けられたと分かると、額へ青筋が浮かぶ。
だが、その次にシュタルクの視線が俺へ逃げたのを見て、なぜか怒りの向きまで変わった。
「てめえ……アレンに向かって、なんて口の利き方しやがる。城塞都市ガルドの領主サマを知らねえのか、田舎者が」
「えっ、いや、俺は別に、この人のことだけを言ったんじゃ……」
「だけ、だと? アレンのどこが怖いってんだ!」
「ひぃぃっ! す、すみません!」
シュタルクは先ほどのリュグナーよりも分かりやすく青ざめ、フェルンの背後へ逃げ込んだ。
自分の方が背も身体も大きいというのに、完全に盾として使っている。
フェルンが冷たい目を向けると、今度はフリーレンの後ろへ移った。
「なんでアルトが怒るんだよ」
「いつも、あんたが一番、アレンと仲悪いじゃないか」
「……けっ!」
アルトは顔を背け、魔族を睨む作業へ戻った。
図星を突かれて反論できないときの癖である。
「……なかなか愉快な仲間だね、アレン」
「ああ。最高に手のかかる連中さ」
分からないものを、魔族は恐れる。
俺も、背中を預けられたときに感じた重さを、まだうまく言葉にできない。
だが俺の場合、その分からないものは背後に立っている。
「魔族と魔族の論戦か……どっちが上かな?」
嘘なら、あれも巧い。
人間の感情を理解せず、相手が聞きたがる言葉と表情だけを正確に選ぶ。
伯爵が平和を望むほど、その望みを映した顔で近づいてくるだろう。
だが、人間を騙すことしかしてこなかった魔族が、その嘘を抱えたまま人間側へ立ち続けてきた俺に、言葉で勝てるはずがない。
「…………無論、俺だ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
人間を騙すために言葉を使う魔族と、同じように嘘から始まりながら人間側へ立ち続けてきたアレン。
リュグナーとの交渉がどうなるのか、感想や予想をいただけると嬉しいです。
次の章はアウラ編の予定です。アウラはアレンとどうなると思いますか?
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同盟する
-
ガルドに招き入れる
-
殺し合う
-
フリーレンと戦う(原作通り)
-
直接会わない