偽りの聖者と枯れぬ羨望   作:かなりゆっくりめ

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今回は、人間を演じ続けたアレンが、仲間だけでなく妻と家庭まで得るお話です。

人間に必要なものはすべて揃ったはずでした。



幸福の模倣

【復興した町・酒場】

 

町へ来てから、三年が過ぎた。

 

ガルドと二人で始めた冒険者稼業も、今では四人になっている。

 

旅の途中で、治癒魔法と補助魔法を得意とする僧侶のカルラが加わり、その後、長槍を自在に操る槍使いのエリーも仲間になった。

 

カルラは穏やかで面倒見がよく、傷ついた者を放っておけない。エリーは酒と喧嘩を好む豪快な女で、戦いになれば誰よりも早く敵陣へ踏み込む。

 

俺と剣士のガルド、僧侶のカルラ、槍使いのエリー。

 

前衛二人、後衛一人、そして俺。人間の冒険者パーティーとしては、かなり均整の取れた構成らしい。

 

魔物や盗賊の気配に怯え、日が落ちると同時に家々の閂が下りていた境界の集落も、今では劇的な変貌を遂げている。

 

街道沿いの脅威は低減し、商隊の馬車が頻繁に行き交うようになった。灰燼に帰した建屋は建て直され、夜が深まっても酒場からは宴の熱気が絶えない。

この復興のプロセスに、俺たちの存在が大きく寄与したのだという。

 

「寄与した」と口にするのは、周囲の人間たちがそう評価を下しているからに過ぎない。

 

俺は頼まれた魔物を殺し、襲ってきた魔族を殺し、対価を受け取った。町の防壁が壊れれば修復し、病人が出ればカルラの治療に必要な薬草を採った。食料が不足すれば獣を狩り、盗賊が現れれば捕らえた。

 

人間という種の中に埋没し、生活を維持するために必要なタスクを、必要な精度で遂行した。

それだけの処理をこなした結果、町の人間は俺たちを英雄の型に当てはめて扱っている。

 

「ねえ、アレン」

 

向かいの席に位置するエリーが、酒杯を傾けながら顔を寄せてきた。

発酵した酒の酸味と、炙った肉の油脂が混ざり合った匂いが鼻腔を突く。

 

「ガルドとカルラ、付き合ってるらしいよ」

 

視線で確認するまでもなく、すでに把握している事象だった。

同一の卓の隣側では、ガルドとカルラが肩の肉を互いに触れ合わせていた。カルラが耳元で言葉を紡ぐたび、ガルドの表情に不均衡な弛緩が生じる。先ほどから一枚の皿を共有して咀嚼を繰り返しており、卓の下では膝から下を接触させ続けている。

この状態で無関係であると主張する方が、論理的な破綻をきたしている。

 

「そうらしいな」

 

付き合う。

すなわち、互いを生殖行動の優先対象として認識し、精神的および社会的な結合を強固にする人間独自のプロセスだ。

 

必ずしも生殖行動へ直結するわけではなく、ただ同一空間を共有するのみで終わる事例も存在する。純粋な生存効率の観点から見れば、きわめて迂遠なシステムと言えた。

 

しかし、つがいとなった人間は、時に自己保存の本能を上書きし、相手の安全を最優先させる異常な出力を発揮する。

 

あの二人がその段階に到達しているなら、観察の標本としてきわめて高い価値を有する。

そして現在の俺に求められている役割は、二人の関係に対して好意的な反応を提示することだ。

 

親しい個体の幸福を肯定する。

それが、人間社会における「良き友人」という定義に合致する振る舞いだった。

 

「下世話な話をするなよ、エリー」

 

呆れを含ませた笑みを口元に作り、演技を開始する。

 

「ガルドはいい男だ。カルラが選ぶのも当然だろ」

 

「ほら! また出た!」

 

エリーは酒杯を雑に卓へ叩きつけると、弾むように立ち上がった。

衝撃で杯から跳ねた液滴が、木目へ染み込んでいく。

 

「何がだよ」

 

「アレンのガルド贔屓だよ! お前、ガルドのことになるとすぐ褒めるよな!?」

 

「客観的な事実を述べたまでだ」

 

「さてはお前、男もイケる口だな!?」

 

周囲の卓にいた数名の視線が、一斉にこちらへ集束した。

なぜそのような思考の躍進が発生するのか。

 

俺はガルドという個体を人間として高く採点したに過ぎない。腕力、状況判断力、集団に対する自己犠牲の傾向。いずれも優れた数値を記録している。それを言語化しただけで、なぜ同性愛的な文脈へと結合されるのか。

 

人間という種は、しばしば論理の幾何学的なステップをすべて跳び越え、無脈絡な結論へと着地する。

 

「俺は普通に女が好きだっての」

 

そう出力しておくのが、最も摩擦の少ない選択肢だ。

実際に女性という性別に傾倒しているかと問われれば、嗜好という感覚の構造自体がいまだ解明できていない。しかし、人間の男性として生活を偽装する以上、女性を好むと応答するのが標準的なプロトコルだった。

 

「だったら!」

 

エリーが両掌を押し付け、さらに顔面を接近させてくる。

頬の毛細血管が拡張し、赤い斑点が浮き上がっていた。単なるアルコール摂取による反応だけではないように観測できる。

 

「私がこんなに誘ってるのに、なんで全然なびかねえんだよ!」

 

酒場全体の雑音が止まり、興味の視線が集中した。

ガルドは喉を鳴らして飲み物を気管へ詰まらせ、カルラが慌てた動作でその背中を叩き始めている。

 

「お前のは、ただの性欲だろうが……」

 

胸の中の空気を静かに抜きながら返すと、エリーは胸部を大きく張ってみせた。

 

「ハッハッハ! いいじゃねえか!」

 

何が肯定的な要素として機能しているのか、理解が及ばない。

 

「やりたいときにやる! 食いたいときに食う! そうでもしねえと、こんな時代で生きていけねえよ!」

 

「お前は毎日、過剰なほど生命活動を維持しているだろ」

 

「おう! 今日も酒がうまい!」

 

言語の整合性が失われている。

エリーは満足感を表情に浮かべると、残されていた液体を一気に嚥下した。

離れた座席から、ひそひそと交わされる音声が耳に届く。

 

「エリーも可哀想にな……」

 

「あれだけアレン一筋なのにな」

 

「アレンは町のために働いてばかりだからな。自分の幸せなんて、何も考えていないんだろう」

 

「故郷を魔族に滅ぼされたんだったか」

 

「ああ。自分だけ幸せになることに、罪悪感でもあるんじゃないか?」

 

人間は、当事者への事実確認を経ることなく、他者の内面構造を勝手に捏造する。

俺がエリーの誘引を排除するのは、彼女という個体に対して一切の感情機能が作動していないからだ。町のために各種タスクをこなしているのも、人間社会の深部へ潜入し、より強固な社会的信用を獲得するための合理的な手段に過ぎない。

己の幸福とやらを遅延させている覚悟など存在しない。

 

俺にとって必要なサンプルと環境を、必要な手順に従って収集しているだけだ。

それにもかかわらず、周囲の人間は勝手に俺を憐憫の対象に仕立て上げ、勝手に不遇な過去で補完し、勝手に高潔な善人としての動機を付与して納得している。

修正行動を起こすべきだろうか。

 

いや、この誤解によって無償の信頼が得られているのであれば、一切の支障はない。

むしろ、実験計画は極めて順調に推移していると言える。

 

「おかわり!」

 

「やめておけ」

 

立ち上がり、その指先から杯を滑り込ませるように取り上げる。

 

「まだ飲める!」

 

「明日も任務が入っている」

 

「二足歩行できるから問題ない!」

 

エリーは膝を伸ばそうとした瞬間、重心を失って卓の上へ顔面から倒れ込んだ。

 

「まともに立てていないだろ」

 

「床の位置が不規則に変動したんだよ……」

 

「そうか。明日、床へ謝罪しておけ」

 

「ほら、休め。宿まで搬送してやる」

 

「お前……」

 

エリーは卓に頬を押し付けたまま、視線だけをこちらへ持ち上げた。

 

「ほんっと、そういうところだぞ……」

 

「言ってろ」

 

外套を掴むようにしてエリーの体を拾い上げ、肩の上へと担ぎ直す。

背後から、ガルドの笑い声が届いた。

 

「そのまま部屋まで運んでやれよ!」

 

「その予定だ」

 

「そういう意味じゃねえ!」

 

「では、どのような意図だ?」

 

「知らねえよ! 自分で考えろ!」

 

人間は、自らの言語化能力が破綻した際、頻繁にこの丸投げのフレーズを使用する。

自分で思考を重ねた結果、論理的な意味が抽出できないから問いただしているのだが。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

宿へ到着した後も、エリーは意識の混濁した状態で脈絡のない言葉を吐き出し続けていた。

 

「アレンの馬鹿……」

 

「そうか」

 

「唐変木……」

 

「その単語は過去にも受信した」

 

「男色……」

 

「否定したはずだ」

 

「なら、私を抱け……」

 

「素面の時に発言しろ」

 

「酔ってなくても言ってる……」

 

そうであったかもしれない。

エリーの体を寝台へ降ろし、拘束具となる靴を外す。毛布を胸元まで引き上げ、水分補給用の水差しを手の届く可動域に配置して、部屋の扉を閉めた。

 

人間の中には、相手の意識が不鮮明な状態に乗じ、生殖行動に及ぶ個体も存在する。

単純な交配の機会という観点のみであれば、理解不能な行動ではない。

 

ただし、人間社会の倫理規範においては、相手の判断能力が奪われた状況を利用する男は強い社会的制裁を受ける。

 

対極として、性欲を制御し、相手の意思を優先する振る舞いを見せる男は高い評価と信用を獲得する。

 

だからこそ、俺はそのように行動を選択する。

エリーの肉体に対して性的欲求が発生しないからではない。

 

欲求を抱かないという状態を含め、人間として「正しいとされる挙動」を忠実にトレースしているだけだ。

 

もっとも、俺と人間の間に遺伝子の結合による生殖が可能か否かは未検証だ。

魔族と人間の交配によって個体が発生した記録は、俺の知識領域には存在しない。

人間の生殖器の構造は正確に把握しているが、魔族の遺伝情報と適合するかまでは未知数だ。

 

検証実験だけであれば、エリーは喜んでサンプルとして機能するだろう。

だが、現段階でそのデータは不要だ。

 

俺が欲しているのは子孫という個体ではなく、人間が不可欠な存在のために限界を超えて叩き出す「異常な出力」そのものだ。

 

夜の静寂が広がる街道を進んでいると、前方に佇む影を感知した。

街灯の光が届かぬ陰影の中に、一つの個体が立っている。

 

「ガルド?」

 

問いかけると、影が緩やかに回転した。

やはりガルドだ。

 

「カルラはどうした?」

 

「先に帰した」

 

「なぜ、お前だけがこの場所に留まっている」

 

「お前と話したくてな」

 

ガルドがこの時間帯に、単独で俺を待ち伏せていた。

話がある。

 

――俺が人間ではないという事実に到達した可能性がある。

どのプロセスで不具合が発生したか。

角を透過させる術式に破綻があったか。肉体の損壊に対する修復速度が人間の数値を逸脱していたか。極限状態での栄養摂取の少なさを不審に思われたか。

 

あるいは、森で怪鳥に襲われた際、無意識のうちに本来の魔力を漏出させてしまったか。

ガルドの生体反応に、まだ明確な殺意は感知されない。

 

確証を得るために口を割らせようと接触してきたのだろう。

ならば、尋問を受ける前に生命活動を停止させるのが最善だ。

頸椎を断裂させ、肉体を完全燃焼させ、骨の組織まで消滅させる。町へは、帰路の途上で強力な魔物に遭遇したと捏造すればいい。

 

エリーとカルラは精神的な不調を来たすだろう。

俺もまた、深い喪失感を模倣して見せる必要がある。加害者である魔物を討伐する見せ場を構築すれば、俺に対する疑惑は完全に霧消するはずだ。

 

問題は、ガルドという優秀な観察対象を失った場合、三年かけて構築した環境を一から再構築せねばならない点だ。

 

コストの観点からはきわめて非効率的だ。

だが、リスク管理としては避けられない。

指先に高密度の魔力を収束させかけた、その刹那。

 

「……お前は、本当にいい奴だな」

 

集めていた魔力を霧散させる。

 

「……どうした」

 

「何だよ、その面は」

 

「お前らしくない言語を出力したからだ」

 

「俺を何だと思ってやがる!」

 

「平時は感謝の表明よりも先に、音量を上げて騒ぎ立てる個体だと認識している」

 

「間違っちゃいねえが、もうちっと言い方があるだろうが!」

 

ガルドは頭髪を掻きむしり、視線を所在なさげに泳がせた。

正体の露見に関する事態ではないようだ。

 

では、この反応の要因はどこに存在するのか。

俺と二人きりになるタイミングを計り、弛緩した表情で感謝を伝えようとしている。

 

酒場においてエリーは、俺がガルドに対して性的な傾倒を見せていると指摘した。

あれは、俺の態度ではなくガルド側の心理変化を察知した発言だったのではないか。

 

つまりガルドは、俺に対して同性愛的な好意を寄せている?

 

それならば、整合性が示せる。

少なくとも、先ほどの殺意の可能性よりは論理的だ。

 

仮にガルドが俺に好意を抱いているのであれば、その感情を利用価値へ変換することも可能だ。

同性間の愛情が生殖に結びつくことはないが、人間の伝承においては強固な結合として描写される事例が多い。命を破棄する理由としては十分な動機となり得る。

 

俺の目的である「不可欠な人間」の枠組みへガルドを配置するのも、悪くない選択だ。

 

「ええと……」

 

慎重に確認の文脈を構築した。

 

「それは、俺に対して性的な関心を抱いているという意味か?」

 

「何を言ってやがる!」

 

「俺は至って普通だ! 女が好きだ!」

 

「そうか」

 

推測は外れたようだ。

では、この挙動の真意は何なのだ。

 

「お前に、この三年で何度救われたか解らねえ」

 

「戦闘の時だけじゃねえ。無一文の奴がいれば、何も言わずに金を貸す。仲間が負傷すれば、不眠不休で看病する。防壁が崩れれば、対価も受け取らずに修復しやがる」

 

対価を受け取らなかったのは、無償の奉仕という形式を取った方が効率的に社会的信用を獲得できると弾き出したからだ。

 

金銭についても、維持に必要な分量は十分に確保されている。余剰の貨幣を他者に譲渡し、引き換えに高い評価を得られるのであれば投資として非常にリターンが大きい。

 

看病も同様だ。

人間は、肉体的・精神的に衰弱している局面で介入してきた対象に対し、盲目的な信頼を寄せる特性がある。

 

すべては、俺自身の目的のために遂行した処理だ。

 

「町の奴らも、お前を心から頼りにしてる」

 

「エリーだって、お前にずっと好意を寄せてる。お前は、それに気づいてるのか知らねえが、いつも笑って受け流しやがる」

 

「認知はしている」

 

「あれだけ露骨なら、流石に気づくよな」

 

「だが、なぜその話題へ着地する」

 

「だからよ」

 

ガルドの眼が、まっすぐに俺を捉えた。

 

「お前も、そろそろ自分のために時間を使っていいんじゃねえかと思ってな」

 

言っている意味が理解できない。

俺は最初から、一ミリたりとも他者のために動いてなどいない。

 

人間社会で高い信頼を獲得することも、ガルドたちと行動を共にすることも、町を防衛することも、すべては「限界を超越する魔力」を手に入れるための下準備だ。

 

人間が絶望的な状況下で発現させる、異常な出力の上昇。

あれを解析し、俺自身の機能として組み込む。

その一点のために、人間の模倣を継続している。

 

俺のすべての行動は、最初から最後まで俺自身の利益へ帰結している。

どこを探しても、自己犠牲などの非合理的な概念は混入していない。

しかし、そのロジックをそのまま開示するわけにはいかない。

 

ガルドの認知においては、俺が自己の欲求を抑圧し、町や仲間のために献身しているように映っているらしい。

 

滅私奉公の精神は、人間に強く好まれる美徳ではなかったのか。

俺の模倣データに歪みが生じているのだろうか。

 

完璧すぎる善人は、かえって周囲へ不自然な違和感を提示してしまうのか。

そうであれば、即座に軌道修正を行う必要がある。

 

俺は表情の緊張を解き、柔らかな歪みを作ってみせた。

 

「別に、無理をしているわけではないよ」

 

「俺はこの町に受け入れられたからね。その恩を返しているだけだ」

 

一度言葉の切れ目を作り、ガルドの視線を受け止める。

 

「お前に対してもだ」

 

完璧な応答だ。

ガルドは感極まり、俺の肩を強く抱きすくめるだろう。

感情の昂ぶりによっては涙を流すかもしれない。

 

そうして友情の結合度がさらに上昇し、俺を命を懸けるべき存在として深く刻み込むはずだ。

 

だが、ガルドは微動だにしなかった。

眉を歪ませ、顔面の筋組織を苦痛そうに硬直させている。

憐憫と、ぬぐいきれない申し訳なさが交錯したような表情だった。

 

「……お前……」

 

「どうした?」

 

「いや……」

 

「頼むぞ、相棒」

 

俺の肩へ、軽く拳を打ちつけてくる。

それだけの動作だった。

 

なぜ、そのような感情表現を見せるのか。

俺の返答に論理的な間違いは存在しないはずだ。

 

故郷を喪失した男が、救いの手を差し伸べた町と仲間へ恩義を果たす。人間が熱狂する物語の古典的なパターンそのものだ。

 

それなのにガルドは、感銘を受けるどころか、俺を哀れみの視線で見つめている。

人間が、取り返しのつかない傷を負った同族を視認する時の顔だ。

 

違う。

俺は傷ついてなどいない。

困窮もしていない。

 

その事実を明確に言語化して伝えるべきか。

しかし、直接的な否定は「強がり」として解釈され、さらに誤解を深める危険性がある。

 

アプローチを変更する必要がある。

自己の欲望を保持している人間であることを提示すればいい。

 

俺は参ったというように苦笑を浮かべた。

 

「そうだな。あえて望みを口にするなら……」

 

何が欲しいか。

貨幣は過剰に保有している。武具の強化も不要だ。食糧の備えも問題ない。

人間が抱く、わかりやすく肥大化した欲求。

 

「大きな屋敷が欲しいな」

 

「屋敷?」

 

「そろそろ、全員で生活できる規模の家を建ててもいい頃だ」

 

反応は良好だ。

 

「広い庭園と、それぞれの個室が存在する屋敷だ。これまでより多少の贅沢を許容してもバチは当たらないだろう」

 

「お、おい!」

 

ガルドの顔面から陰りが消え、一気に血色が戻った。

 

「いいな、それ! カルラとエリーも、四人で住むのか!」

 

「その構想だ」

 

「お前もとうとう身を固める覚悟を決めたか!」

 

ガルドが俺の背を何度も力任せに叩いてくる。

痛覚として処理するほどではないが、振動が不快だ。

 

「そうかそうか! よく決断した! エリーの奴も跳び上がって喜ぶぞ!」

 

「待て。俺はエリーと婚姻を結ぶとは一言も――」

 

「皆まで言わなくていい!」

 

「最後まで発言させろ」

 

「解ってる! 照れ隠しをするな!」

 

「俺は照れてなどいない」

 

「そういうことにしておいてやるよ!」

 

どのようなロジックで処理されたのか理解不能だ。

ガルドは上機嫌な足取りで町の方角へ歩き出した。

 

「善は急げだ! 明日、カルラとエリーにも言おうぜ!」

 

「話を聞け、ガルド」

 

「新居か! 四人暮らしだな! 楽しみになってきたぜ、相棒!」

 

「会話を成立させろ」

 

ガルドが立ち止まることはなかった。

 

翌日、情報を受信したエリーは俺の胸元を強く掴み上げ、「ついに覚悟ができたんだな」と口にした。

 

何の覚悟かと問い返すと、彼女は顔面を沸騰させたように赤く染め、俺の足甲を強く踏みつけた。

 

カルラは瞳から水分を溢れさせながら俺の手を包み込み、「幸せになってください」と呟いた。

幸福を追求するなどとは発言していない。

 

ただ、共同生活のための拠点が欲しいと口にしただけだ。

しかし、噂は町の住民へまで瞬く間に伝播した。

 

土地を破格の条件で譲渡する者が現れ、建設作業を無償で手伝う志願者が集結し、カルロは高級家具を寄贈してきた。クラウスは祝い品と称して酒樽を運び込んできた。

 

誰一人として、俺の真意を正確に確認しようとする者はいなかった。

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

それから二年の歳月が経過した。

俺がこの町へ潜入してから、通算で五年。

 

町外れの小高い丘の上に、大きな石造りの屋敷が佇んでいる。

 

二階建ての堅牢な構造で、内部の空間は十分に広い。庭園にはカルラが丹精した花壇と薬草が緑をたたえ、裏手にはガルドが設営した訓練場が存在する。

 

屋敷を構築するという目的は完遂された。

そのプロセスの途上で、ガルドはカルラと婚姻関係を結んだ。

そして俺もまた、エリーと婚姻の契りを交わした。

 

どのような経緯でその結論へ至ったのか、順を追って説明するのは困難を極める。

屋敷の構想を提示した時点で、周囲の認知においては「俺がエリーとの結婚を決意した」という事実が確定していた。否定の言語を出力するたび、過去のトラウマを恐れている、エリーを危険に巻き込みたくないのだと勝手に解釈が重ねられた。

 

誰も俺の言葉を、そのままの意図で受信しなかった。

ただし、婚姻という制度自体は観察実験においてきわめて好都合だった。

 

人間が構築する関係性の中でも、夫婦は特に強固な精神的・社会的結合とされている。

配偶者の座を与えることで、エリーは名実ともに俺の「不可欠な人間」へと昇格する。

そのように計算を弾き出し、俺は結婚を受け入れた。

 

エリーは歓喜の涙を流した。

俺は、そんなエリーの身体を抱き寄せた。

 

夫として求められる適切な圧力と、適切な時間だけ。

 

今では、エリーが好む料理の味付けも、酒の銘柄も、好む花の種類も完全にデータ化されている。

 

睡眠時に右側へ寄ってくる習性も、降雨の前には過去の傷痕が痛むことも、討伐から帰還した日は普段よりスキンシップを要求してくることも把握している。

 

頭髪を褒めれば表情が弛緩し、武器の手入れを手伝えば頬を染めて歓喜する。

俺は一度として結婚記念日の日付を忘却したことがない。

 

彼女が欲する言語を、欲する瞬間に正確に供給できる。

町の人間は、俺を理想的な夫だと評した。

 

今日も庭園では、ガルドとカルラが声を上げて笑い合っている。

エリーは洗濯籠を抱え、俺の衣類を日差しに干していた。

 

二階の窓辺に立つ俺の存在に気づき、大きく腕を振ってくる。

 

「アレン!」

 

光の粒が降り注ぐ下で、エリーは満たされた笑顔を浮かべていた。

俺も唇の端を持ち上げ、同様に手を振り返す。

 

エリーが満足したように洗濯作業へ戻ったのを確認し、俺は手を下ろした。

 

顔面から笑みの形跡を消去する。

 

己の掌を見つめる。

 

俺には、命を委ね合う相棒が存在する。

どれほど過酷な領域へ踏み込もうと、ガルドは疑いもなく追従してくる。

俺が損傷を受ければ激昂し、自らの肉体が破壊されることも恐れずに俺を防衛する。

 

俺には、俺を心から愛する妻が存在する。

エリーは俺のためであれば命を投げ出すだろう。俺の帰還を待ち続け、俺の衣類を洗い、俺との未来を一切疑わずに信じ切っている。

 

共に生活を営む家族が存在する。

俺を称賛し、依存し、必要不可欠とみなす町が存在する。

 

人間が極限の出力を発揮するために必要な前提条件は、すべて揃えたはずだった。

 

左胸へ掌を押し当て、自身の内部状態へ意識を集中させた。

 

魔力の総量。

密度。

循環速度。

 

五年前のデータと、寸分違わず同一数値を維持している。

静寂で、一定で、狂いがない。

ガルドと初めて仲間という関係を定義したあの日から、微増すらしていない。

 

エリーと唇を重ねた瞬間も。

結婚の誓いを立てた瞬間も。

夫婦として初めて同一の寝台で夜を明かした瞬間も。

 

内部に存在する魔力は、何一つとして変容を起こさなかった。

 

庭から、エリーの華やかな笑い声が届く。

ガルドが何かヘマをやらかしたらしい。カルラまで楽しそうに声を弾ませている。

 

その音波を受信していた。

 

胸の深部を走査する。

 

歓喜の感情は存在しない。

安らぎも存在しない。

保護したいという衝動すら見当たらない。

 

仮に俺の目の前でガルドが命を落とせば、俺は加害者を確実に抹殺するだろう。

エリーが殺害されれば、俺は犯人を追跡し、徹底的に排除する。

 

だが、それは怒りや悲哀といった感情機能の作動ではない。

実験計画に必要なリソースを奪われたため、損失を発生させた要因を排除する処理を実行するだけに過ぎない。

破損した道具の補償を請求することと、構造上の違いを見出せない。

 

俺には理解できなかった。

エリーの満面の笑みを視認しても、胸の奥には無の空間が広がっているだけだ。

何も生み出されない、虚無の領域。

五年前から、そこには何一つとして新しい機能が芽生えていない。

 

俺は人間の言語を完全習得した。

人間と同一の物質を摂取した。

 

人間の防衛のために戦闘を行った。

仲間という関係を構築した。

 

配偶者を獲得した。

家族として生活を営んだ。

 

人間から絶大な愛を受けた。

 

五年間、寸分の狂いもなく完璧に人間を演じ続けてきた。

だが、演劇の精度がどれほど極限へ達しようと、俺の内部構造は魔族のままであり続けていた。

 

「何が足りない?」

 

誰も存在しない部屋の中で、呟きを漏らす。

応答は返ってこない。

 

窓の外から、エリーが再び俺の名を呼ぶ声が届く。

 

俺は即座に、笑顔を顔面に形成した。

今回も何一つ狂いはない。

 

「今行くよ」

 

温かみのある音声を返し、窓を閉じる。

 

部屋へ差し込んでいた斜陽の光が、緩やかに細くなっていく。

 

俺の足元には、濃い影が伸びていた。

 

人間の外見を纏い、人間の家に居住し、人間の妻から愛を向けられている。

 

それにもかかわらず、その影の色彩だけは、五年前の廃屋にいた時から何一つ変わっていない。

 

冷たく、黒く、どこまでも空虚だった。

 

俺はまだ、人間へと変質できていない。

 

なぜ俺は、人間のように強くなれないのだろう。




ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

理想の夫を演じながら、何も感じることのできないアレンについて、感想をいただけると嬉しいです。
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