偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
ただし、その答えを見せることになるのは、彼を心から愛する妻でした。
破裂音と共に、街道を挟む建造物が崩落を起こした。
砕け散った石壁と、黒煙を纏って落下する巨大な梁が路面を打つ。四散して逃げ迷う人間の悲鳴が充満し、上空の視界を濃密な煙が覆い尽くしていく。
その光景を、一人の魔族が視認していた。
倒壊した瓦礫の頂に優雅な姿勢で腰を下ろし、逃走を図る人間たちの動態を退屈そうに観察している。頭部から突き出た二本の角と、全方位へ放散される高密度の魔力。人間への擬態を最初から放棄している構えだ。
俺は手中の杖を保持しつつ、その魔力の波長を分析した。
――記憶の照合が完了した。
以前、遠隔感知した個体だ。
発生から百載程度の年月に過ぎない魔族。若年ではあるが、個体性能としては十分な数値を保持している。
現状の偽装状態においては、勝算が薄い。
正確には、魔族としての本性を遮蔽し、人間の術士として自然な出力に制限を加えた状態では、撃破の計算が成立しづらい。
本来の魔力を全面開放すれば即座に処理可能だ。
だが、その選択は五年をかけて構築した人間社会での生活基盤を水泡に帰す。
ガルドも、カルラも、エリーも、俺の本性を認識することになる。
せっかく確保した相棒、家族、そして配偶者という実験サンプルを、一から再収集するのは極めて非効率的だ。
「ガルド!」
「この個体は危険だ! 町の住民を即座に退避させろ!」
「お前はどうするつもりだ!?」
「ここで俺が足止めを行う」
発言と同時に、杖の先端を魔族へ向けた。
自らを危険領域に残置し、同行者と無能力者を優先して離脱させる。
負傷の危険を認識した上で他者の防衛へ向かう。
過去の人間社会のデータにおいて、「英雄」と分類される個体が頻繁に選択する行動パターンだ。
「私も残ります!」
カルラが杖を強く握り締め、俺の側方へ一歩を踏み出そうとする。
「拒絶する」
「後衛の術士が二名残存する合理性がない。退避行動を取る集落の者には負傷者が含まれている。お前はガルドの追従に回れ」
「でも――」
「カルラ」
意図的に周波数を低く設定して圧を加えると、カルラの運動が停止した。
思考の停滞が起きている。
決定打となるトリガーを提示する。
「ガルドを頼む」
その言語を受信した瞬間、カルラは短く呼気を呑み込んだ。
彼女はガルドへ強い執着を寄せている。
俺が自己の生存を委ねる形式を取れば、拒絶の選択肢は消失する。
計算通り、カルラは下唇を噛み締め、頸部を縦に振った。
「……承知しました。絶対に、死なないでください」
「当然だ」
帰還の意思に偽りはない。
観察実験の完了には、まだ程遠いからだ。
「なら、アタシが残留するよ」
側方で長槍が鋭い風切り音を立てて回転した。
エリーが石突きを石畳へ叩きつけ、笑みを口元に浮かべる。
「アタシは前衛だからね。文句はないでしょ、アレン?」
客観的な戦闘数値において、エリーはガルドの上位に位置する。
純粋な筋力値はガルドが優るが、運動速度、精密性、危機察知能力はエリーが凌駕している。特に極限状態に追い込まれてからの耐久力には異常な数値が観測されていた。
時間稼ぎの防衛戦線としては、十分な耐久時間を期待できる。
そしてエリーは、俺の配偶者だ。
俺へ強い感情を注ぎ、他者の防衛を試みようとしている。
今回の実験対象として、これ以上の精度を持つ標本は存在しない。
「頼む」
俺の頷きを確認すると、エリーは白い歯を剥き出しにして笑った。
「おう。任された」
「クソッ……!」
「頼んだぞ、アレン! エリー! 無事でいろよ!」
「そっちこそ、足をすくわれるんじゃないよ!」
「誰がすくわれるか!」
ガルドはカルラを伴い、瓦礫の奥へ消えていく避難民の追従へ走った。
◇◇
瓦礫の上に座る魔族は、その背中を追おうとしなかった。
ただ静かに見送っている。
やがてガルドたちの姿が煙の向こうへ消えると、エリーが不審そうに眉をひそめた。
「……ずいぶん簡単に逃がしてくれたね」
魔族は答えない。
「追わなくていいのか?」
エリーが挑発するように尋ねると、魔族はようやく俺たちへ視線を戻した。
整った顔立ちが、わずかに歪む。
人間の笑みを模倣しようとして、失敗したような表情だった。
「背を向けた者を討つのは、卑怯と言うのだろう?」
考えながら、気取った仕草で顎へ手を添えた。
「ええと……『騎士道』的に?」
「そりゃあ……どうも!」
エリーが唾を吐き捨てた。
妙な魔族だ。
人間の言葉を知っているだけではない。
騎士道という概念を理解したうえで、その表層だけをあえて真似している。
人間の道徳を面白がっているのか。
あるいは、俺と同じように、人間が持つ不合理な力へ何かを感じ取っているのかもしれない。
「向かってくるなら殺す」
その顔から笑みに似たものが消え、濃密な殺気が広場を満たす。
エリーも槍の穂先を向けた。
「お前が町を襲ってるんだろうが!」
「そうだ」
「何のために!?」
魔族は心底不思議そうに首を傾げた。
「腹が減ったからだが?」
実に魔族らしい。
合理的で、無駄がなく、わかりやすい理由だ。
空腹を満たすために、人間を食べる。
そこに憎悪も悪意もない。
人間が家畜を殺すのと、何も変わらない。
だが、今の俺にとってそんな動機はどうでもよかった。
こいつの目的にも、町が受ける被害にも興味はない。
俺が見たいのは、エリーがこれから何を見せるかだ。
魔族の姿が掻き消えた。
次の瞬間、強烈な魔力の波が広場を薙ぎ払う。
石畳が弾け飛び、巻き上がった土煙が視界を奪う。
魔族はその隙に紛れ、エリーの死角へ回り込んでいた。
速い。
だが、俺の目には見えている。
「エリー! 右だ!」
エリーが振り返るより早く、俺は杖を構えた。
「――風の刃で切り裂く魔法・フェルライゼン!」
凝縮された風の刃が、土煙を切り裂いて飛び出していく。
魔族の脇腹へまっすぐに直撃した。
衣服が裂け、その下の皮膚から黒い血が飛び散る。
だが、浅い。
魔族はわずかに体勢を崩しただけだった。
「……生ぬるい魔法だな」
その評価は正しい。
人間のふりをして魔力を極限まで抑えている以上、俺の魔法で致命傷を与えることは不可能だ。
もう少し魔力を込めれば、胴体ごと両断できる。
だが、それでは駄目だ。
人間の魔法使いであるアレンは、そこまで強くないのだから。
魔族が地面を蹴った。
魔力をまとった爪が、エリーの胸元を狙って振り下ろされる。
「ちっ!」
エリーは長槍を横へ寝かせ、その柄で攻撃を受け止めた。
槍は折れなかったが、衝撃を殺しきれず、エリーの身体が石畳から浮いた。
そのまま弾丸のように吹き飛ばされ、地面を何度も跳ねる。瓦礫の山へ背中を強く打ちつけ、ようやく動きが止まった。
「エリー!」
声の張り方や悲痛な響きは、自分でも感心するほどうまく出せた。
エリーは口から血を吐き、槍を杖代わりにしながら立ち上がろうとする。
「カハッ……! くそっ……!」
足が震えている。
肋骨も折れているはずだ。
それでもエリーの視線は、魔族から離れなかった。
「強い……!」
俺は傷ついた妻の背中を見つめた。
その向こうでは、町が燃えている。
逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえる。
エリーがこの町で出会い、酒を飲み、笑い合ってきた人々だ。
すぐ後ろには夫である俺がいる。
ガルドとカルラも、まだ近くにいるはずだ。
エリーがここで倒れれば、あの魔族は俺たちを殺し、逃げた人々を追うだろう。
条件はすべて揃った。
愛する町。
大切な仲間。
命を懸けて守りたい夫。
そして、自分より圧倒的に強い敵。
人間が限界を超えるために必要と思われる要素を、すべてこの場へ集めた。
俺の心臓は、驚くほど静かに脈打っていた。
妻が血を吐いている。
次の攻撃を受ければ、死ぬかもしれない。
それでも、胸の奥は少しも乱れなかった。
恐怖はない。
哀れみもない。
助けたいという情動も湧いてこない。
あるのは、実験結果を待つ期待だけだ。
そうだ、エリー。
立て。
お前の愛するものが、すべて奪われようとしている。
恐怖しろ。
怒れ。
絶望しろ。
そして、それでも守りたいと願え。
五年前、泥の中で立ち上がった、あの人間の魔法使いのように。
本来なら存在しないはずの力を叩き出せ。
理屈を無視し、限界を超えてみせろ。
俺に見せてくれ。
俺が人間になるための答えを。
「エリー……!」
声を細かく震わせ、いまにも泣き出しそうな響きを混ぜ込む。
傷ついた妻を案じる夫なら、間違いなくこんな声を出すはずだ。
「立つんだ……!」
エリーの指が動いた。
血に濡れた手で、長槍を握り直す。
「頼む……!」
もちろん、本当に危険になれば、魔力を解き放って目の前の魔族を殺せばいい。
エリーが死んでも、俺は死なない。
だが、エリーはそれを知らない。
彼女にとって、今の俺は自分が守らなければ殺されてしまう頼りない夫だ。
「アレン……」
エリーが、俺の名を呼んだ。
何度も倒れそうになりながら、槍を支えに立ち上がる。
足元から流れる血が、石畳の隙間へ落ちていく。
若い魔族が、退屈そうに片手を持ち上げた。
その掌に、先ほどとは比べものにならないほどの魔力が集まっていく。
今度こそ、直撃すれば死ぬ。
それでもエリーは逃げなかった。
俺を背中にかばい、両足を大きく開いて踏み止まる。
ゆっくりと槍を構え直した。
「アタシの旦那に……」
「手ぇ出してんじゃねえよ……」
その瞬間。
エリーの内側で、明確な変化が起きた。
弱まりかけていた魔力が、再び脈打ち始める。
一度。
二度。
心臓の鼓動と重なるように、その波が急速に大きくなっていく。
俺は思わず目を見開いた。
魔力が増えている。
傷による錯覚ではない。
体内に残っているはずの量と、外へ溢れ出している魔力が明らかに矛盾している。
人間の肉体が耐えられる限界を、完全に超えていた。
エリーの瞳に宿っていたのは。もっと静かで、ずっと強い何か。
死を受け入れ、それでも一歩も引かない者だけが持つ、覚悟の光だった。
これだ。
俺が見たかったもの。
俺の中には存在しない、人間の力。
「……見つけた」
俺はその背中を見つめていた。
妻としてではない。
ついに望んだ現象を見せてくれた、最高の観察対象として。
俺の胸は、今も静まり返ったままだ。
ただ、口元に浮かんだ笑みだけは。
夫の演技ではなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
命を懸けて夫を守ろうとするエリーと、その姿を観察するアレンについて、感想をいただけると嬉しいです。