偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
彼の魔力は、最後まで何一つ変わりませんでした。
エリーの魔力が、底なしに膨れ上がっていく。
血液を流し尽くし、骨を折られ、直立することすら不可能なはずの身体から、本来ならあり得ないはずの力が溢れ出していた。
血に濡れた長槍が空気を鋭く切り裂く。
エリーは地表を強く踏み鳴らし、渾身の突きを繰り出した。
魔族は片手でそれを受け止めようと腕を掲げたが、判断が一歩遅かった。
魔族の腕が力任せに弾かれ、砕けた石畳を削りながら後方へ押し込まれる。
穂先が腕の皮膚を切り裂き、黒い血が飛び散った。
「……ふむ」
魔族は自分の傷口をそっと撫でた。
先ほどまでとは明らかに違う。
エリーの攻撃は、確実に重くなっていた。
それでも、まだ足りない。辛うじて食らいついているに過ぎなかった。
魔族は爪に付着した自身の血を見つめ、退屈そうに口を開く。
「強くなったな」
エリーは返事をしなかった。
答えるだけの呼吸の余裕すらないのだろう。
荒い吐息を繰り返しながら、それでも俺の前から一歩も退こうとしない。
その背中を見つめながら、俺はもう一つの可能性に思い当たっていた。
エリーは俺を守るために限界を超えた。
ならば、今度は――。
俺がエリーを失う局面に立たされたとき、同じ現象が俺の内側でも起きるのではないか。
観察の中で、人間が強くなる瞬間を何度も見てきた。だが、人間は自分自身が追い詰められたときだけに真価を発揮するわけではなかった。
仲間を傷つけられたとき。
家族を奪われたとき。
大切な者を守れなかったとき。
むしろ、自分以外の存在を失った瞬間にこそ、より大きな暴走とも言える力を生み出す例が多かった。
俺はエリーと五年の歳月を重ねてきた。
同じ屋敷で暮らし、同じ食卓を囲み、同じ寝台で朝を迎えてきた。
彼女が好む味付けも、無意識の癖も、背負ってきた過去もすべて知っている。
正式に婚姻を結び、街の人間から夫婦として扱われてきた。
客観的な事実に照らせば、エリーは俺にとって最も失ってはならない人間であるはずだ。
もしもエリーが目の前で死ねば、俺も――。
人間と同じように、理屈を超えた力を手にできるのかもしれない。
「エリー!」
俺は杖を固く握り、いまにも崩れそうな声を作ってみせた。
「もう無理だ! 下がってくれ!」
口元から赤い筋を垂らしながら、それでも強がって笑っていた。
「何言ってるんだよ……」
「その体じゃ、もう戦えない!」
「じゃあ……アンタが代わってくれるかい?」
俺は言葉を詰まらせて見せた。
エリーはその沈黙を、傷ついた夫が自分を守れない悔しさに耐えているのだと解釈したようだった。
「そんな顔をするなよ」
「あとは、アタシに任せておきな」
お膳立ては整いつつある。
俺自身の姿も、外見だけならボロボロだった。服は引き裂かれ、血と泥に汚れている。息の乱れも完璧に演じ切っていた。
もちろん、この傷の大部分は偽装だ。
だが、エリーにそれを知る術はない。
自分が倒れれば、守るべき夫も殺されると思い込んでいる。
愛する者を守るために、死の恐怖を跳ね返した。
なら、次は俺の番だ。
妻を失う深い絶望。
守れなかった後悔。
大切なものを奪われた理不尽な怒り。
それらが引き金となり、俺の魔力を爆発させるはずだ。
そうなるはずだった。
己の胸の奥へ意識を深く潜らせた。
魔力の総量。
密度。
流れる速さ。
何一つ、変化していない。
どこまでも静かで、正確で、平坦なままだ。
――なぜだ?
まだ、エリーの命が途絶えていないからか。
喪失という事実が確定していない以上、条件が満たされていないのかもしれない。
ならば、最後までこの一部始終を見届ける必要がある。
魔族が、退屈そうに俺へ視線を移してきた。
「さっきから、お前が邪魔だな」
指先に高密度の魔力が収束していく。
狙いは、エリーではない。
俺だ。
「なら、まずお前から消えろ」
「アレン!」
「エリー! 避けるんだ!」
相手の意識を自分へ引きつけるため、俺は石畳から無数の岩尖を突出させた。
「石の槍よ――ドルグレイゼ!」
石畳を破り、鋭利な岩の槍が魔族へ殺到する。
魔族は軽やかに身を翻し、その大半を不快そうにかわした。数本が衣類を裂いたものの、傷には至らない。
「鬱陶しいな」
魔族がこちらへ指先を差し向ける。
空間が不気味に軋み始め、周囲の空気が重く沈んだ。
「この魔法で終わらせてやる」
視界に映らない圧力が、一点へと集中していく。
「音の塊で砕く魔法――クランゼルク」
凝縮された振動の塊が解き放たれる。
俺なら、問題なく回避できる。
飛行魔法の応用でも、軌道さえ読めれば十分に間に合う。
むしろ、一度かわしてから反撃し、エリーへ注意を引いた方が都合がいい――。
そう思考を巡らせた瞬間だった。
「アレン!」
俺の回避行動より早く、横から影が飛び込んできた。
血の匂いを纏った腕が俺の頭を強く抱え込み、そのまま石畳へと押し倒す。
直後。
肉が酷く引き裂かれる、生々しい音が響き渡った。
◇◇
「あ――」
彼女の口から、掠れた息が零れ落ちる。
背中から胸へかけて、不可視の圧力が容赦なく貫通していた。
弾け飛んだ防具の破片と共に、赤の飛沫が舞う。
温かい血が、俺の顔面へと降り注いだ。
唇を拭い、舌先でそれを味わう。
――なかなか美味い血だ。
そんな思考が、真っ先に脳裏を掠めた。
だが、余韻に浸っている余裕はない。
これは完全な致命傷だ。
魔力による障壁の展開すら間に合っていない。内臓の大半が押し潰され、胴体そのものが半ばから断ち切られている。
どんな術式を用いても復元は不可能だ。
今ここにカルラがいたとしても、手遅れだろう。
エリーは死ぬ。
「エリー!」
目を剥き、倒れ込む彼女の身体を抱き留めた。
声を悲痛に震わせる。
「しっかりしろ! エリー!」
最愛の妻を失いかけた夫として、これが満点の挙動だ。
俺を庇う行動自体は、予測の範疇にあった。
エリーが命を落とす可能性も十分に折り込んでいた。
それでも、攻撃へわざわざ割り込んで受けて立ったという事実だけが、どうしても論理的に処理できない。
エリーは、自分の身に起きた破綻を理解しているのだろうか。
焦点の定まらない瞳が、俺の顔を探すように彷徨う。
血に濡れた手が持ち上がり、俺の頬へ触れた。
「アレン……」
「もう喋るな」
その言葉自体は、きわめて合理的な指示でもある。
息を吸うたびに、傷口から溢れ出る血の量が増していた。言葉を発すれば、それだけ生命の終焉が早まる。
エリーの指先が、俺の頬をゆっくりとなぞった。
「ごめん……」
なぜ謝罪する。
命を落とそうとしているのはエリーだ。
俺ではない。
恨み言の限界をぶつけられる場面ではないのか。
自分一人なら容易に脱出できたはずだ。
お前を守ろうとしたせいで命を落とす。
そう罵られても、何ら不思議はない。
俺がこれまでに喰らってきた人間たちは、死の間際には例外なく呪詛を吐いた。
許さない。
殺してやる。
呪ってやる。
家族を返せ。
追い詰められた人間は、肉体の損壊に比例するように言葉を醜く汚していくものだ。
だが、エリーは俺を責めなかった。
「逃げて……」
口唇が細かく震える。
隙間から、赤い泡が溢れ出した。
「アレン……」
苦痛に引きつり、いまにも崩れ落ちそうな、歪な笑みだった。
それでも彼女は、俺を安心させようと試みていた。
「愛して…………」
頬に触れていた指先から、一気に感覚が失われた。
腕が重力に従って地面へ落ちる。
瞳から光の色彩が消え去った。
エリーの身体は、それきり微動だにしなくなった。
死んだ。
俺を守るために。
最後まで怨嗟の言葉を吐かず、俺の生存を願い、俺を愛していると伝えて死んだ。
――なるほど。
まさか、あの爆発的な出力を生むには、こうした異常な精神構造まで必要なのか。
己の生命より他者を優先する。
死の直前にあっても負の感情に屈せず、大切な者の生存を祈る。
確かに、過去に観察した人間たちも、限界を超えた際には似たような挙動を見せていた。
エリー。
見事だ。
これ以上ないほど優秀なサンプルだ。
彼女の亡骸を抱き締め、空を仰いだ。
俺もまた、これまで高潔な人間を演じ切ってきた。
町を防衛した。
弱者を救済した。
仲間を作った。
妻を愛する夫として振る舞い続けた。
今、その妻が俺を庇い、理不尽に命を奪われた。
条件はすべて揃った。
肉体的な危機。
大切な者の喪失。
敵に対する強い情動。
己を犠牲にしてくれた者への執着。
人間が極限の力を叩き出すための要素は、完全に満たされた。
今度こそ届く。
内側から、今まで存在しなかった力が溢れ出す。
魔力が何倍にも跳ね上がる。
あるいは、エリーが見せた以上の爆発的な現象が起きるかもしれない。
ついに俺は、人間が持つ最強の仕組みを手にするのだ。
エリーの亡骸を抱いたまま、魔族を鋭く見据えた。
肩を小刻みに震わせる。
喉を詰まらせ、途切れ途切れの呼気を出す。
涙こそ出なかったが、血と煤で汚れた顔なら誤魔化しが利く。
「……お前……!」
「よくも……!」
魔族が、つまらなそうに俺を見下ろしている。
悲しみと怒りに引きつった顔を作り、腹の底から声を張り上げた。
「よくもエリーを殺したな!!」
そして、意識のすべてを己の内側へと注ぎ込んだ。
魔力の総量。
変化なし。
密度。
変化なし。
流れる速さ。
変化なし。
放出量。
変化なし。
俺の魔力は、どこまでも平穏に静まり返っていた。
何一つ、起きていない。
「…………」
理解不能だ。
エリーは紛れもなく俺の妻だった。
俺を愛していた。
俺を守って命を落とした。
俺も五年もの間、夫として正しく接してきた。
条件は完璧に満たしているはずだ。
それなのに、なぜ――。
「……お前」
「なぜ笑っている?」
思考が途絶えた。
笑っている?
誰が。
俺が?
己の口元へ触れる。
確かに、唇の端が歪に持ち上がっていた。
何を不審がっている。
当然ではないか。
これから俺に、莫大な力がもたらされるはずなのだ。
長年追い求めてきた仮説が実証される。
磨き上げた術式が完成へ至る瞬間ほど、魔族にとって歓喜すべき事態が他にあるか。
こいつも魔族なら、それくらい理解できるはずだ。
「何を言うか!」
「我が妻の仇だ! 喰らえ!!」
怒りに任せて魔力を解き放つ演出を取り、杖を力任せに振りかざす。
――しかし、風一つ巻き起こらなかった。
俺の魔力は増えない。
何一つとして変わりはしない。
エリーを得る前と同じ。
ガルドと出会う前と同じ。
人間の町へ踏み込む前と同じ。
俺の中には、ただ積み重ねてきた力だけが存在している。
「なぜだ……?」
理解が追いつかない。
すべての条件は揃えたはずだ。
俺はエリーを抱きかかえている。
エリーは命を落としている。
だが、俺の魔力は爆発しない。
思考が乱れる。
同時に、長年維持してきた魔力の制御が崩れ去った。
頭蓋の内側へ押し込んでいた角が、皮膚を押し上げていく。
顔や腕を覆っていた傷の偽装も解けていく。泥に見せていた魔力が霧散し、引き裂かれていたはずの皮膚が滑らかに戻った。
そこに佇んでいたのは、傷ついた人間の魔法使いではない。
冷ややかな視線と二本の角を持つ、一人の魔族だった。
「なんだ……」
「お前も同族か」
「む……その角」
魔族は俺の顔面をまじまじと観察した。
「まさか、『嘘のアレン』か?」
その異名を聞くのは久しぶりだった。
「数年、姿を見ないと思っていたが。討たれて果てたものだと思っていたが……」
周囲へ視線を巡らせた。
燃え盛る町。
崩落した建造物。
逃走した人間たち。
そして、俺の腕の中に収まるエリーの亡骸。
一つの結論へと達したらしい。
「悪かったな。ここは、お前の狩場だったか」
「…………」
「人間に紛れ込み、時間をかけて信頼を勝ち取る。相変わらず、面倒な狩りを行っているらしい」
違う。
俺は人間の持つ出力を手に入れるために、この町へ来たのだ。
エリーは喰らうための肉ではない。
観察対象だ。
妻だ。
俺にとって不可欠な人間として設定された存在だ。
そのエリーが死んだ。
それなのに俺は、何も手に入れられなかった。
五年だ。
五年もの歳月を投資した。
人間の言語を習得し、人間の食事を摂り、人間の衣服を纏った。
魔力を抑え込み続け、何度も無力な振りを演じた。
町を守り、仲間を救い、妻を抱いた。
その結果が、これか。
証明までされているというのに。
エリーは限界を超えた。
ガルドも、追い詰められるたびに本来以上の力を叩き出す。
カルラですら、ガルドが傷つけば術式の精度を跳ね上げる。
俺だけが、変わらない。
俺に存在し、奴らに存在しないものは何だ。
いや、逆だ。
奴らに存在し、俺に存在しないものは何だ。
関係性は構築した。
行動も完璧にトレースした。
言語も覚えた。
ならば、残されている要素は――。
心。
設計図の存在しない、心。
何だ、それは。
どこに存在する。
どうやって形成する。
全く見当がつかない。
◇◇
「そうだ」
エリーを抱いたまま立ち上がった。
「この町は俺の所有物だ」
「俺が好きな時に、好きなように喰らう」
「……去れ」
魔族は肩をすくめてみせた。
「解った。先に見つけたのはお前だ。なら、狩場は譲ろう」
素直に撤退を選択するらしい。
同族同士で無益な争いを避けるのは、きわめて合理的な判断だ。
「ただし」
「その人間の死体をよこせ。それで手を打ってやる」
血に汚れた顔。
開かれたままの瞳。
何度も褒めてやった長い髪が、泥と血で濡れている。
「これは、俺の妻だ」
魔族は一瞬、口を閉ざした。
それから、蔑むように笑った。
「妻?」
「もういないだろう」
「そうだ」
「なら、妻ではない。ただの肉だ」
魔族は片手をこちらへ差し出した。
「喰らう以外に、何の使い道がある?」
「代替が必要なら、また作ればいい。お前ほど欺くのが上手ければ、別の人間を騙すことなど容易いだろう」
確かに、言う通りだ。
エリーは死んだ。
死体と化した以上、これ以上の生体反応は観察できない。
妻という役割も果たし得ない。
別の人間を選び、同一の関係性を構築し直せばいい。
今度は、異なる性格の人間を選ぶのが合理的かもしれない。
エリーでは満たせなかった条件を、別の個体なら満たせる可能性がある。
「……それもそうだな」
「では――」
なぜか、腕の筋肉が硬直して動かなかった。
エリーを渡せば済む話だ。
きわめて合理的な提案だ。
使い道のない肉を渡せば、あの魔族は去る。
これ以上、町が破壊されることもない。
すべて円滑に収束する。
分からない。
なぜ指示に従えない。
この死体に、もう価値は残っていないはずだ。
「早く渡せ」
「…………」
「どうした?」
「お前が不要だと言ったのだろう」
俺は不要だなどと言っていない。
代替を作ればいいという言葉に、同意を示しただけだ。
なぜ、そのような細かな区別にこだわっているのか自分でも理解できない。
「やはり、撤回する」
「何?」
「――嘘を現実に変える魔法」
空間が、微かに歪んだ。
「リュグヴァール」
一瞬の静寂。
「お前が生きているのは、嘘だ」
魔族の胸部が、内側から弾け飛んだ。
心臓と魔力核が、一瞬で消滅する。
「なっ……」
胸の中央に空洞を作られた魔族が、よろめいた。
何が起きたのか理解できないまま、俺を見つめている。
「お前……何を……」
「知らん」
本当に解らなかった。
殺害する合理的な理由は存在しなかった。
そいつは俺の本性を知ったが、同族の狩りに干渉してくるような性格でもない。
去らせれば、それで終わる話だった。
だが、殺した。
なぜなら――。
エリーを肉塊と呼んだから。
その答えが脳裏に浮かんだ。
だが、それが何を意味するのかは、どうしても理解できなかった。
俺の見つめる前で、魔族の肉体が光の粒子へと分解されていく。
角が崩れ、腕が消え、最後には困惑に歪んだ顔だけが残った。
それもやがて塵となり、風に流されて消えた。
広場に、静寂が戻る。
遠くで建物の燃える音が響いている。
町は救った。
敵は排除した。
俺は妻を失いながらも町を守り抜いた、悲劇的で高潔な人物だ。
人間なら、俺を英雄と呼ぶだろう。
だが、俺は一ミリも強くなれていなかった。
◇◇
「アレン!」
遠くから立ち込める煙を切り裂き、駆け寄ってくる足音が響いた。
ガルドとカルラだ。
「アレン! 無事か!」
「魔族はどうした!? お前たちだけで退けたのか!?」
俺の姿を捉えたガルドの表情に、安堵の光が灯る。
「すげえじゃねえか、アレン! やっぱりお前は――」
だが、その言葉は途中で途絶えた。
カルラの視線が俺の足元に広がる赤へ注がれ、そのまま俺の腕の中へと固着する。
「エ……」
カルラの指先から力が抜け、杖が石畳へ落ちて甲高い音を立てた。
「エリー……?」
俺は問いに答えなかった。
「エリー!」
取り乱した足取りで駆け寄ってきたカルラが、エリーの傷口へ両手をかざした。
淡い光の粒子が、破壊された肉体を包み込んでいく。
しかし、生命の鼓動はすでに潰えている。
損傷の規模も、治癒の領域を遥かに超えていた。
術式は何の反応も示さず、光はむなしく空へ霧散していく。
「そんな……」
「お願い……戻ってきて……」
何の意味もない処理だ。
復元が不可能なことなど、僧侶であるカルラ自身が誰よりも理解しているはずだった。
それでも彼女は、術式を解こうとしない。
「エリー!」
ガルドが俺の腕からエリーの体を引ったくるように抱き寄せ、その肩を激しく揺さぶった。
「起きろ! おい、エリー!」
返答があるはずもない。
「嘘だろ……」
「こんなの……嘘だろ……!」
「エリー! 目を開けろ! ふざけるな! 起きろよ!」
俺はその二人の姿を静かに見下ろしていた。
なぜ、それほどまでに感情を乱せるのか。
エリーは生命活動を停止した。
その事実を客観的に認識すれば、それ以上の処理は不要なはずだ。
涙を流したところで、肉体が巻き戻るわけではない。
魔力の数値が増加するわけでもない。
何一つ、合理的な意味を持たない行動だった。
「二人とも……」
俺が言葉をかけると、ガルドがゆっくりと顔を上げた。
涙と鼻水で汚れた顔に、激しい怒りの色が混ざり合っている。
「アレン……」
「お前……その角……」
指先で己の額に触れる。
二本の角が、隠されることなく突き出たままだった。
隠蔽の術式をかけるのを失念していた。
思考の整理が追い付かず、処理能力が低下している。
五年間、一度として犯したことのない初歩的な過ちだった。
「アレン……?」
カルラもまた、俺の顔を凝視した。
怯えに顔をひきつらせ、緩やかに後退していく。
「貴方……魔族だったの……?」
ここに至っては、虚構を重ねる意味もない。
二人は明確に角を視認している。
今さら偽装を施したところで、錯覚として処理させるのは不可能だ。
ならば、事実のみを出力すればいい。
「ああ」
「そうだ」
「ずっと……私たちを騙していたの?」
確認するまでもない問いだ。
魔族が人間の集落に潜入して生活しているのだ。
欺くのは前提条件に過ぎない。
「種族の偽装については、その通りだ」
「だが、魔物や同族からこの町を防衛してきた事実に偽りはない。お前たちを救助してきた行動も、すべて本物だ」
「ふざけるな!」
背の大剣を引き抜き、その切っ先を俺へ突きつける。
「じゃあ、エリーのことも騙していたのかよ!」
「…………」
「あいつがお前をどれだけ思っていたか、分かっているのか!」
「お前の帰りを毎日待っていたんだぞ! 怪我をして戻るたびに泣いて、お前が眠ったあともずっと手を握っていたんだ!」
知っている。
俺は一度も覚醒を解いていなかったからだ。
「お前のためなら死んでもいいって、本当に……!」
「実際に死んだ」
「てめえ!」
俺は回避の動作を取らなかった。
殺害される恐怖はない。
ガルドの出力では、俺の肉体を両断することは不可能だからだ。
「エリーは俺の妻だ」
「俺を愛していたのだろう?」
「だから何だ!」
「その事実に偽りはないはずだ」
「お前はどうなんだよ!」
俺はエリーを愛していたのだろうか。
愛しているという言語は、何度も出力した。
彼女が望むたびに身体を抱き寄せた。
好むものを与え、忌避する事象を排除した。
婚姻の記念日を忘却したこともない。
妻として扱い、他の人間より明確に優先度を高く設定していた。
だが、それは愛という現象なのか。
ただ既定の公式をなぞっていただけではないのか。
そもそも、愛とはどのような構造を指すのか。
俺には、いまだ解明できていない。
意識を向け、魔力を操作した。
露出していた二本の角を、再び頭蓋の内側へ収納する。
血だまりの中へ膝をつき、エリーの亡骸を腕の中へと横抱きにした。
肉体にはまだ、かすかな体温が残されている。
「何をするつもりだ」
「どこへ行く!」
振り返り、エリーが好んでいた「優しい夫」の表情を作り上げた。
鏡で確認するまでもなく、完璧に再現できている確信があった。
「エリーを弔う」
「……何?」
「住民へ安全が確保されたことを伝える。その後、被害状況を確認し、救助可能な者を救う」
「俺は、この町を救った英雄だからね」
「喰べないの……?」
「何をだ」
「エリーを……」
腕の中の亡骸へ視線を落とした。
先ほど息絶えた魔族の言葉が脳裏をかすめる。
喰らう以外に使い道のない肉。
俺は、それを渡すことができなかった。
「喰べない」
「どうして……?」
「エリーは俺の妻だ」
「でも……貴方は魔族でしょう?」
「そうだ」
「なら、どうして……」
問いに答えるロジックを、俺は持ち合わせていなかった。
「この町は俺が守る」
それだけで、説明としては十分なはずだ。
「そういうものだ」
「俺たちが、お前の正体を町の連中に暴露するとは思わないのか?」
「思わない」
「何だと?」
「ガルド」
俺は、いつもと同じ声で名を呼んだ。
「お前は、いい奴だ」
「…………」
「仲間を売るような男ではないと、知っている」
俺は客観的な事実を口にしたに過ぎない。
ガルドは仲間思いで、情に脆い。
命を預け合ってきた相手を、正体が魔族であったという理由だけで即座に告発できる男ではない。
特に現在の俺は、町を襲撃した魔族を退治し、エリーを弔おうとしている。
ガルドの思考回路の中では、俺が敵なのか味方なのか、まだ結論が導き出せていないのだ。
だからこそ、彼は剣を振り下ろすことができない。
二人へ背を向けた。
ガルドが追ってくる気配はない。
カルラも動こうとしなかった。
◇
今回の実験は失敗に終わった。
原因は未解明だ。
計算式のどこかに不備が存在する。
関係性の名称を付与するだけでは不十分なのか。
共に過ごした歳月が不足していたのか。
あるいは、エリーと俺という個体間の適合率が悪かったのか。
判明していない。
だが、一度の実験失敗に過ぎない。
研究を諦める理由にはならない。
そうであるならば、試行回数を増やせばいい。
この町を徹底的に防衛し、何度でも「大切な人間」を構築する。
妻。
親友。
弟子。
子。
家族。
人間が特別と定義するあらゆる関係性を、片っ端から試行していく。
そして、可能な限り多くのパターンを検証する。
そのデータの中に、俺の魔力を爆発させるトリガーが必ず存在するはずだ。
いつか必ず、俺にも適用できる公式を解き明かしてみせる。
そのためには、この町という環境が不可欠だ。
俺を英雄として称賛し、絶大な信頼を寄せ、不可欠な存在を与え続けてくれる人間たちが必要なのだ。
ここは、俺の実験場だ。
誰一人として破綻させはしない。
魔物にも。
同族の魔族にも。
人間自身にすら。
この町を、永遠に守り続けてやる。
腕の中に収まるエリーを見下ろした。
閉じられることのない瞼。
朱に染まった髪。
二度と俺の名を刻むことのない唇。
代わりのサンプルなど、いくらでも構築できる。
そのはずだった。
「……それで、良いだろうか」
なぜそのような問いを発したのか、自分でも理解できなかった。
「エリー」
応答はない。
当たり前の帰結だ。
死体が言語を出力することはない。
俺もまた、エリーからの返答を必要としてはいない。
やがて、遠方から人間の叫び声が届き始めた。
俺の存在を探している。
町を危機から救った、英雄の名を呼んでいる。
再び、歩行を開始した。
俺の心臓は、変わらず一定の周期で静かに拍動を刻み続けている。
魔力数値の増加もない。
悲哀という感情の構造も解明できない。
俺は今も、人間ではない。
ただ、エリーを抱く腕の力だけは。
どうしても、緩めることができなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
人間にはなれなかったと結論づけながら、エリーを手放せないアレンを、どのように感じたか教えていただけると嬉しいです。