偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
本人はすべてを実験だと考えていますが、少しずつ説明できない行動が増え始めています。
エリーが息絶えてから、三か月の時が流れた。
広場には朝早くから、木材を叩く槌の乾いた音が響き渡っている。
焦土と化した建屋は、すでに半数以上が骨組みを立ち上げていた。瓦礫は綺麗に撤去され、砕けていた石畳も少しずつ隙間を埋め直されている。
人間という種は、実にあいまいだ。
一度破壊された場所に、わざわざ前と同じ形状の家屋を建てる。
再び同種の脅威に晒される可能性を考慮すれば、別の領域へ遷移するのが合理的であるはずなのに、誰もこの土地を離れようとしない。
ここが故郷だから。
問いかけると、誰もが判で押したようにそう答えた。
故郷という概念には、単なる地理的条件以上の意味が紐づいているらしい。
「アレンさん、それはこっちです!」
肩に担ぎ上げた角材の角度を微調整し、建築中の建屋へ向けて歩みを進めた。
身体強化の術式を内部で循環させれば苦にもならない。
ただし、町の人間へ開示している「魔法使いのアレン」の運動能力から逸脱せぬよう、歩幅を意図的に狭く保つ。
地表へ降ろす際も、膝を深く折り、両腕の筋肉に力を込める演出を怠らない。
「よし。これでいいか?」
「ああ、助かるよ。まったく、魔法使いなのに俺たちより力持ちなんだから、嫌になっちまうな」
大工の男が額に浮かんだ汗を拭いながら、顔を綻ばせる。
「魔法使いは杖より重いものを持たないと思っていたのか?」
「違うのか?」
周囲から控えめな笑いが漏れる。
今の一巡は過不足なく機能した。
会話の脈絡に同調し、自分自身を軽妙に扱うフレーズを選択する。
人間は、これを「冗談」と定義する。
以前であれば適した回答を選出するまでに一拍の猶予を要していたが、今ではほぼ思考のラグなしに言葉が出てくるようになった。
やはり、習熟には反復の試行が不可欠だ。
「アレンさん!」
二人の女性が、竹で編まれた籠を抱えて近づいてくる。
一人は水の詰まった革袋を、もう一人は焼き上がった菓子の香りを漂わせていた。
「いつも本当にありがとうございます。少し休んで、お茶でもいかがですか?」
「ありがとう」
目を緩やかに細め、口角を持ち上げ、声のトーンをわずかに落とす。
この表情を向けると、人間の女性は明確な好意の反応を示す。
エリーを相手に、何度も微調整を繰り返した表情だった。
「だが、この基礎部分だけは今日中に終わらせたい。家を失った人たちも、早く自分の屋根の下で眠りたいだろうからね」
「まあ……」
「本当に立派な方ですね。エリーさんも、きっと天国で喜んでいますよ」
エリー。
視線を緩やかに地面へ落とす。
完全に伏せるのではなく、相手から表情の影が観察できる絶妙な角度を維持する。
唇には、消えかけた笑顔の残像だけを微かに残した。
悲痛を押し殺しながら、周囲に気遣いさせまいと微笑む男の顔だ。
「……ああ。そうだといいな」
意図した通り、女性たちは言葉を失った。
やがて恐縮したように深々と頭を下げ、静かに離れていく。
何度も後ろを振り返る気配を感じた。
その視線が完全に届かなくなってから、俺は顔面から一切の感情表現を消去した。
再び角材を持ち上げる。
あの日以来、俺は以前にも増して町のための活動を精力的にこなしていた。
倒壊した家屋を修繕し、深い森から木材を切り出し、害をもたらす魔物を狩る。
街道の警戒に当たり、時には行商の護衛も買って出た。
夜間に侵入した危険をひそかに排除し、朝になれば何事もなかったかのように復旧作業の現場へ加わる。
当然の行動だ。
実験の分母を増やさなければならない。
魔力を爆発的に増幅させるには、まず対象となる存在を大量に確保する必要がある。
妻一人だけでは、条件に達しなかった。
ならば、より多くの人間と、多様で特別な関係性を構築すればいい。
何が正しい鍵なのか判明していない以上、可能な限りあらゆる条件を網羅しておくべきだ。
そのため最近は、住民が集まる場にも好んで顔を出すようにしていた。
男たちの相談に耳を傾け、老人の荷を引き受け、子供には安全な生活魔法を見せてやる。
女性たちに対しても、親愛を込めた笑みを返すよう徹底した。
俺を慕う人間が増加すれば、そこから新たな関係の芽が発芽する確率も高まる。
計画は順調だった。
現在の俺は以前よりも遥かに深く、この集落へ根を張り巡らせている。
「…………」
広場の対角から、こちらを探る二つの気配を感じ取る。
直接視線を向けずとも判別できる。
ガルドとカルラだ。
あの日を境に、二人は俺と明確な距離を置くようになった。
俺が近寄れば身体を強張らせ、二人で密談している場に俺が足を踏み入れれば、途端に言葉を途絶えさせる。
カルラは俺と二人きりの空間を作ろうとせず、ガルドは常に剣の柄へ手が届く位置をキープしている。
それでも、二人は俺の正体を周囲に漏らしていない。
あの日、俺は自らの本性を二人にさらした。
魔族であること。
五年もの間、人間のふりをして潜伏していたこと。
人間固有の出力を手に入れるため、エリーを妻として選択したこと。
すべてを知られた。
それにもかかわらず、ガルドとカルラは黙秘を貫いている。
住民から事態の経緯を問われた際も、魔族を排除したのは俺だと証言した。
エリーは町を防衛するために戦い、俺の腕の中で絶命したのだと説明した。
俺がエリーの亡骸を喰らわなかったことも、丁寧に土へ還したことも知っている。
なるほど。
俺が魔族だと判明しても、あいつらは俺を完全な敵として切り捨てることができないらしい。
共有した時間が、彼らの合理的判断を狂わせている。
それは裏を返せば、俺を今も「仲間」の枠組みから外せていない証左でもあった。
良好な傾向だ。
機会があれば、評価してやるべきだろう。
俺は充足感を覚えながら、目の前の作業へ意識を戻した。
◇◇
俺が毎日、欠かさず足を運ぶ場所が存在する。
町外れの小高い丘に作られた、エリーの墓標だ。
太陽が地平の彼方へ傾きかける頃、俺は一人で墓地へと向かった。
赤く染まった光が、立ち並ぶ石の柱を長々と影へと引き伸ばしている。
その一角に、まだ削られて間のない新しい石が佇んでいた。
表面には、エリーの名前と生きた年数が刻まれている。
石の下には、エリーの肉体が埋められている。
人間は死した肉体を穴へ落とし、その上に目印となる石を配置する。
当初は腐敗する肉体を居住域から隔離するための衛生的な処理だと考えていた。
実際、それも理由の大部分を占めているのだろう。
感染症を予防するという点においては合理的だ。
だが、人間は衛生のためだけに墓を作るわけではない。
死者を記憶に留めるため。
死者との繋がりを維持するため。
死者の遺志を継承するため。
僧侶は、そのように言葉を重ねていた。
絶命した存在に意思など残存しない。
魂という概念を否定するわけではないが、死者が石を通して生者の言語を受信するような現象は、いかなる術式を用いても確認されていない。
それにもかかわらず、人間は石に向かって語りかける。
ならば、俺もそれを追体験すべきだ。
持参した布を水で濡らし、石の表面を上から丁寧に拭い改めた。
土の汚れを落とし、根元に生えた雑草を指で摘み取る。
枯れかけた花を片付け、摘んできたばかりの瑞々しい花へと差し替えた。
エリーが以前、好んでいた花だ。
街道沿いに群生していたものを見つけ、綺麗だと口にしていた。
なぜ、そのような無益な情報を覚えているのだろう。
生存に必要なデータではない。
おそらく、観察対象に関する記録の一環として脳裏に残っているだけだ。
「エリー」
石に向かって言葉をかける。
誰もいない空間で声を出力する合理性はない。
「今日は西の森で、大きな猪の魔物を倒したよ」
返答はない。
至極当然の結果だ。
「最初は逃げるふりをしたから、少し追いかけた。けれど、森の奥までは行かなかった」
「君がいつも言っていたからね。深追いをすると、ろくなことにならないと」
エリーは、俺が討伐へ向かうたびに同じ言葉を口にしていた。
気をつけて。
無理をしないで。
深追いをしないで。
必ず帰ってきて。
俺の本当の強さを知らなかったから、毎回、本気で心を痛めていた。
「君の教えが、俺を守ってくれたのかもしれないな」
これも、人間が好む文脈だ。
死者の遺した言葉が、今も自分の中で生きている。
そのように認識することで、失われた相手との関係性を擬似的に維持するらしい。
エリーの記憶を呼び起こすたび、俺の精神構造に何らかの変容が発生する可能性がある。
墓に通い続けることで、失った痛みが遅れて発症するかもしれない。
その痛みが蓄積され、やがて莫大な魔力へと変換される計算も成り立つ。
今のところ、目立った成果は見られない。
胸が痛むこともない。
魔力が波立つこともない。
エリーの名を呼んでも、心臓は整然とした周期を刻み続けている。
ただ冷たい石に向かって、音波を出力しているだけだ。
だが、まだ三か月しか経過していない。
人間という構造は複雑だ。
数値の変化が現れるまで、長い時間を必要とする場合もあるのだろう。
気長に検証を継続すればいい。
「明日も来るよ。また話をしよう、エリー」
背後の木立の陰に、二つの気配が潜んでいる。
時折、二人はこうして俺の墓参りを遠巻に監視している。
俺が穴を掘り返し、エリーの肉体を喰らうのではないかと疑っているのだろうか。
あるいは、俺がここでどのような振る舞いを見せるのかを観察しているのかもしれない。
どちらでも不都合はない。
毎日欠かさず墓へ通い、亡き妻へ言葉を掛け続ける夫。
再婚も考えず、エリーだけを想い続ける男。
俺が人間として完璧に没頭していることを提示する、格好の機会だ。
二人の警戒心も、いずれ摩耗していくだろう。
そう結論づけ、俺は墓地を後にした。
ガルドとカルラが監視していない日であっても、俺は墓参りを欠かしたことがない。
雨が地面を叩きつける日も。
魔物の討伐で夜が明けた日も。
誰の視線も存在しないと確信している日も。
観察者が存在しない以上、演技を披露する必要はない。
一日程度中断したところで、実験データに決定的な狂いは生じないはずだ。
それにもかかわらず、俺は毎日ここへ足を運んでいる。
おそらく、検証条件を一定に保つためだ。
継続的な観察において、例外のデータを混ぜ込むべきではない。
それ以外の理由は、一切存在しない。
◇◇
エリーが息絶えてから、一年の月日が流れた。
町長の屋敷へ招かれた俺は、ふかふかとした長椅子に深く腰を下ろしていた。
卓を挟んだ向かい側に座り、温かみのある視線を俺へ向けている。
「アレン君。君がこの町を救ってくれてから、今日でちょうど一年だ」
「もう、そんなに経ちましたか」
「ああ。早いものだ」
かつての襲撃で損壊した建物は、すでにほぼ建て直されている。
新たに建造された家屋も少なくない。
集落の人口も、事件以前の水準へと戻りつつあった。
「ここまで立ち直れたのは、君のおかげだ。君がいなければ、この町は地図から消えていただろう」
「俺一人の力ではありません。町の皆が諦めなかったからです」
今の選択肢も、人間に深く好まれる。
自分の功績を誇らず、周囲へ分配する。
謙虚さと呼ばれる美徳だ。
「相変わらず、君はそう言うのだな」
町長は優しく微笑んだ。
しかし、その表情はすぐに翳りを見せた。
「だからこそ、私たちは心配している」
「何をですか?」
「君のことだよ、アレン君」
「君が毎日、エリーさんの墓へ向かっていることは知っている。誰よりも早く起き、町のために働き、日が暮れれば墓地へ行く。激しい雨の日であってもだ」
「…………」
「その一途さを立派だと称える者もいる。だが、君の後ろ姿を見ているのは、私にとっても辛いのだよ」
辛さを覚えるロジックが理解できない。
俺は墓へ足を運ぶことを苦痛とは認識していない。
だが、それを率直に説明するのは不利益を生むだろう。
「お気遣い、ありがとうございます」
町長はしばらく躊躇する動作を見せた後、決意を固めたように身を乗り出してきた。
「アレン君。私の娘を、君の後妻にもらってくれないか?」
後妻。
俺の内部で即座に一つの選択肢が確定した。
――拒絶する。
なぜその結論が最優先で弾き出されたのか、自分でも理解できなかった。
「娘も君を心から慕っている。もちろん、今すぐ返事をくれとは言わない。だが、喪も明けた。君には新しい家族を作り、今度こそ幸せになってほしいのだ」
町長の娘というサンプルは、悪くない条件だ。
年齢設定は俺の外見と近く、生体機能にも問題はない。
俺に対して明確な好意を抱いている。
町長の一族と血縁を結べば、この集落での立場はさらに揺るぎないものとなるだろう。
目的とも合致するはずだ。
新たな妻を確保し、今度こそ正しい関係性を構築する。
断る理由が存在しない。
それなのに、俺はすでに拒絶を決意している。
不可解だ。
ならば、後付けで合理的な理由を構築する必要がある。
町の人間は、俺を「亡き妻に操を立てる高潔な男」として認識している。
ここで再婚を受け入れれば、その社会的評価が変質するリスクがある。
特にガルドとカルラは、俺がエリーという存在をどう処理するかを注視している。
ここで新しい妻を宛てがえば、やはりエリーの代わりは容易に見つかるのだと判断されるかもしれない。
修復しかけている関係性が、再び破綻に向かう恐れがある。
それに、エリーを失った夫という条件を、もうしばらく維持して観察を続ける必要がある。
一年でこの実験条件を破棄するのは早計だ。
十分だ。
拒絶を選択する合理的理由は、これで完璧に整った。
「……身に余るお言葉です」
「ありがとうございます、町長。俺のような男を、そこまで信頼してくださったことを心から嬉しく思います」
「では――」
「ですが、申し訳ありません」
「アレン君……?」
もちろん、出力すべきセリフはすでに完璧に決定している。
「俺は……エリーのことを忘れるつもりはありません」
「いえ、忘れることができないんです」
「…………」
「娘さんの気持ちは、とてもありがたい。だからこそ、俺のような男が応えてはいけないと思います」
「死んだ妻に心を囚われたまま、別の女性と共に生きる。それは、娘さんにとってもあまりに失礼です。どうか彼女には、もっと相応しい人を見つけてあげてください」
静寂が室内を支配した。
やがて、町長が鼻を啜る音が響く。
顔を上げると、彼は目頭を指で押さえていた。
「すまなかった……」
声が大きく震えている。
「私が無神経だった。君の愛の深さを、まるで理解していなかった」
「町長が謝ることではありません」
「なんと一途な男なのだ、君は……」
これで、俺の選択が正しかったと証明された。
町長の娘を妻に引き入れるよりも、拒絶してみせる方が遥かに高い社会的評価を獲得できる。
この出来事は、数日のうちに町全体へ波及するだろう。
町を救った英雄であるだけでなく、死した妻だけを想い続ける誠実な男として昇華される。
「エリーさんは、幸せな女性だな」
エリーは死亡した。
死した個体が幸せを感じる機構など存在しない。
それだけの事実だ。
「……そうでしょうか」
町長は再び目元を潤ませた。
俺の反応を、妻を救えなかった男の悔恨として受け取ったらしい。
「そうに決まっているとも」
「これほど想ってくれる夫に出会えたのだから」
何も答えなかった。
◇◇
数日後、俺はガルドとカルラの自宅を訪問した。
二人の間に、新しい生命が誕生したからだ。
この集落では、親しい者に子が生まれた際、祝いの品を持参して訪問する習慣がある。
俺は木を削って作った小さな鳥の彫刻を、布に包んで持参した。
エリーは以前、ガルドとカルラに子が生まれたら、自分が小さな服を縫って贈るのだと語っていた。
俺には針仕事の技術がない。
そのため、代わりに木彫りを選択した。
なぜ代わりの行動が必要なのかは分からない。
おそらく、死者の遺志を模倣するという実験の一環だ。
室内へ入ると、カルラが寝台の上で赤ん坊を抱き抱えていた。
出産から日が浅く、顔には疲労の色が残っている。だが、赤ん坊へ視線を注ぐたび、柔らかく目元を緩めていた。
ガルドはその傍らに座り、落ち着かない様子で何度も赤ん坊の顔を覗き込んでいる。
「来てくれたのね、アレン」
「ああ。祝いが遅くなってすまない」
「遅くなんかねえよ」
以前のような軽快な口調を取り戻そうと試みているが、その身体には緊張が残っていた。
「抱いてみる?」
声がわずかに震えている。
心からの打診ではない。
人間の習わしに従い、親しい仲間として振る舞おうとしているだけだ。
断る選択肢もあった。
しかし、人間の赤ん坊を至近距離で観察する機会は貴重だ。
「いいのか?」
「ええ……もちろんよ」
カルラは赤ん坊を俺の方へ差し出した。
その腕が離れる寸前、指先に力がこもるのを俺は見逃さなかった。
渡したくないのだ。
驚くほど軽い。
小さな胸が、一定の周期で上下運動を繰り返している。
柔らかい皮膚のすぐ下から、血液の流れる微かな音が聞き取れた。
体温が高い。
魔力の存在はほぼ感知できない。
腕も脚も細く、首の骨すら自力で支えることができていない。
これほど無防備な状態で発生する生物が、極めて高い繁栄を誇っているのは興味深い。
「どう?」
「可愛いでしょう?」
可愛いという感情の構造は解明できていない。
だが、外形的な特徴から、人間がこの赤ん坊に対してそのような評価を下す理由は理解できる。
「ああ」
「とても小さくて、温かいな。命の重みを感じる」
このフレーズは効果的に機能したらしい。
カルラの表情から、わずかに強張りが削ぎ落とされた。
「おめでとう、二人とも」
「ああ……ありがとな」
「お前にも、いつか――」
そこまで口にして、ガルドは言葉を止めた。
俺に子が生まれる未来を祈ろうとしたのだろう。
だが、そのためには新たな配偶者が必要となる。
エリーの死と俺の本性を思い出し、言語化を中断したのだ。
「いや、なんでもねえ」
「そうか」
赤ん坊へ視線を戻した。
柔らかい。
筋肉も骨格も未発達だ。
牙を突き立てて圧力を加えれば、大した抵抗もなく内臓まで届くだろう。
匂いも悪くない。
非常にうまそうだ。
脆く、抵抗力を持たず、栄養に富んだ肉だ。
だが、喰らうわけにはいかない。
これはガルドとカルラの子供だ。
この幼体が死亡すれば、二人は深い絶望に落ちる。
俺との関係性も、修復不可能なほど破綻するだろう。
それに――。
だが、この赤ん坊は。
生まれたばかりだ。
まだ何のデータも保持していない。
言語も、倫理観も、人間同士の関係性も理解していない。
これからすべての概念を構築していく。
仮に、その初期化状態から俺が介在したとすれば、どのような結果が得られるか。
この手で防衛し、言語を教え込み、成長過程を観察し続ける。
一人の人間を育成する。
そのようにして組み上げた特別な関係性であれば、俺の内部にも今までとは異なる構造変化が刻まれるのではないか。
親ではない。
だが、血縁を超えた家族。
保護者。
師範。
人間社会には、そのような強力な結合も存在する。
俺の魔力を爆発させる鍵が、そこに隠されている可能性は十分に高い。
この赤ん坊は、きわめて価値の高い観察標本だ。
俺にとっての、新たな希望と言える。
閉じられていた瞼が持ち上がり、俺の顔を捉える。
何を視認しているのかは不明だ。
小さな手が持ち上がり、俺の人差し指をキュッと握りしめてきた。
「アレン……?」
赤ん坊の骨格を損なわないよう、慎重な動作でカルラへ戻した。
「ガルド、カルラ」
慈愛に満ちた表情を作り出すつもりだった。
しかし、意識して筋組織を動かす前に、二人の警戒心がわずかに薄れるのを感じた。
俺はすでに、適切な顔を提示できていたらしい。
「この子は、俺にとっても希望だ」
「希望……?」
「ああ」
「何か手伝えることがあれば、何でも言ってくれ」
「俺が、この子の未来を守る」
「……ええ」
「ありがとう、アレン」
赤ん坊を喰らわなかった。
至極当然の判断だ。
現在の俺にとって、あの幼体は食糧などを遥かに凌駕する観察価値を有している。
これから言語を覚え、二足歩行を開始し、俺の名を呼ぶようになるだろう。
俺を慕い、依存し、特別な存在として定義するかもしれない。
その成長の全工程を初期段階から観察できるのだ。
長い年月をかけて育んだ存在を喪失した時、今度こそ俺の中にも人間と同等の出力が発現する可能性がある。
成功の保証はない。
だが、検証を試みる価値は十二分にあった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
誰も見ていなくても墓へ通い続けるアレンと、新たな希望となった赤ん坊について、感想をいただけると嬉しいです。