偽りの聖者と枯れぬ羨望 作:かなりゆっくりめ
三百八十年間積み上げてきたものを、勇者ヒンメルはどのように見るのでしょうか。
涙の理由
勇者一行が城塞都市ガルドへ到着した翌日、俺は領主館の大広間で彼らと向き合っていた。
ステンドグラスから差し込む光が、床の上に色鮮やかな模様を作っている。
前には四人の旅人が立っていた。
勇者ヒンメル。
僧侶ハイター。
戦士アイゼン。
そして、葬送のフリーレン。
昨夜用意した食事にも、旅のために揃えた物資にも、不足はなかったはずだ。
それでもフリーレンは俺を見た瞬間から一度も杖を手放していない。
彼女が俺を殺そうとすることは予想していた。
理解できなかったのは、ヒンメルだった。
剣に手をかけてはいるが、抜こうとはしない。
人間が、死にかけた同族へ向けるのと同じ目だ。
「君は、この町にいる人たちのことを本当によく覚えているんだね」
長い沈黙のあと、ヒンメルが口を開いた。
「当然だ。俺にとって大切な者たちだからね」
「名前だけじゃない。家族や仕事、癖、好きなものまで覚えている。何をすれば喜ぶのか、何を言えば安心するのかも分かっている」
「三百年も人間と暮らしていれば、自然と覚えるものだよ」
「でも、君が話しているのは、いつもその人が何をしたかだけだ」
なぜか俺は次の言葉を聞きたくないと思った。
「君がどう感じたかは、一度も話していない」
「何が言いたい?」
「君はこの町を守り、人を愛しているふりをしている。でも――」
「君の胸の中には、誰一人として存在していないんだね」
笑顔を維持できなかった。
頬の筋肉が引きつり、口角が下がる。
一度も間違えなかった表情が、この男の一言で崩された。
「それは、とても寂しいことだ」
何を言っている。
俺はこの町を守ってきた。
人間が苦しんでいれば助け、飢えていれば食料を与えた。病人には薬を作り、魔物が現れれば討伐した。
妻を作った。
友人を作った。
家族を作った。
彼らが老い、死んだあとも、名前と記憶を残し続けた。
俺の公式は間違っていない。
人間が愛と呼ぶものを、俺はすべて再現している。
「違う!」
椅子から立ち上がり、胸へ手を当てる。
「俺の中にはエリーがいる! ガルドも、カルラもいる! ルカも、その子供たちも、その先に生まれた者たちもいる!」
彼らの顔を、今でも正確に思い出せる。
声も、歩き方も、最後に口にした言葉も忘れていない。
「俺は彼らを悼んだ! 死を見届け、墓を建て、決して忘れなかった! だから俺には感情がある! 人間と同じように、愛することができる!」
「それなら、どうして悲しかったと言わないのかな?」
「……悲しい?」
「エリーが死んだとき、君は悲しくなかったのかい?」
悲しい。
人間は、愛する者が死ねば悲しむ。
配偶者を失えば、強い悲しみを感じる。食事が喉を通らなくなり、眠れなくなる者もいる。涙を流し、死者の名を呼び続ける。
俺は、そのすべてを知っている。知っているとも。
「悲しんだ。悲しかったに決まっている」
声が不自然に震えた?
「エリーが死んだとき、俺は泣いた。ガルドの最期にも涙を流した。何日も墓へ通った。残された者たちと一緒に、何度も死者を悼んだ。俺は妻や友人を失って悲しんでいた。そうでなければ、なぜ涙が出た?」
「悲しかったから泣いたのかい?」
「そうだ」
「本当に?」
「周りの人たちが泣いていたから、自分も泣くのが正しいと思ったんじゃないのかな」
エリーが死んだ日の光景が蘇る。
力の抜けた手が落ち、血の海に沈んだ。
妻を亡くした夫が取るべき行動を選び、エリーの手を握って涙を流した。
『なぜ、笑っている?』
違う‥‥。そんなことは知らん。
ガルドが死んだときも同じだ。
家族が泣いていた。
俺は親友だ。
親友を失った者として正しい表情を作り、正しい言葉を口にし、涙を流した。
悲しかったからだ。
泣くことが正しかったからだ。
俺が流したものは、ただの体液だった?
「なぜ……なぜ、お前にそれが分かる?」
人間の感情とは、それほど絶対的なものなのか。
俺が三百八十年かけて作り上げたものを、この男は会って一日も経たないうちに偽物だと言う。
俺の胸の内側には、たくさんの物がある。
エリーの顔を思い出せる。
ガルドの声も再現できる。
カルラが作った料理の味も、ルカが初めて俺を叔父と呼んだ日の天候も記憶している。
たとえ彼らの記憶に触れても、俺の中では何も動かないとしてもだ。
「…………そうか」
それ以上考える必要はなかった。
人間の心を得られていないことなど、最初から分かっていた。だからこそ実験を続けている。
この男が、それを言葉にしただけだ。
「勇者ヒンメル。お前たちは魔王を討つため、この町を通るのだろう。物資も宿も用意する。好きにするといい」
「それで話を終わらせるつもり?」
フリーレンの杖が俺へ向けられた。
「お前はここで討つ。人間を騙し、町を支配する魔族を生かしてはおけない」
「俺は誰も支配していない。三百八十年間、一人の人間も食べていないことは、お前も知っているはずだ」
「人を食べなければ人間になれるわけじゃない」
「人間になる必要はない」
俺は胸へ手を置いた。
ここに詰まったものを何もないなどと、今は否定しなかった。したかった。
「たとえ何も分からなくても、俺はこの町を守る。千年でも二千年でも、同じことを続ける。彼らの名前を覚え、彼らが大切にしてきたものを守る」
エリーを愛している。
ガルドを信頼している。
その言葉が何を意味するのか理解できなくても、俺はそう言い続ける。
「それが俺の愛だ」
「言葉を覚えただけだよ」
「ならば、フリーレン。お前も同じだろう?」
フリーレンの目が動いた。図星だよな、エルフ。
「私が?」
「お前も人間へ興味を向けてはいない」
エルフは人間よりはるかに長く生きる。
人間の一生など短いものだ。一人一人を理解する前に、その人間は老いて死んでいく。
「お前も俺と同じだ。人間の外側に立ち生きている。違うのは、守る理由を探しているかどうかだけだ」
「アレン」
ヒンメルが一歩前へ出た。
それまでの穏やかな声とは違っていた。
「それ以上はやめたほうがいい」
なぜ彼が止めようとするのかは、すぐに分かった。
ヒンメルはフリーレンを見ている。
彼女が杖を構えるたび、わずかに前へ出る。食事の際にはフリーレンの好みを気にし、彼女が話せばほかの誰より先に耳を傾ける。
人間の行動をずっと観察してきた俺にとって、それは極めて単純な公式だった。
「ヒンメル。お前はフリーレンが好きなのだろう?」
フリーレンは意味が分からないという顔で、彼を見ている。
なるほど。
これは興味深い。
「フリーレン。お前はいずれ、ヒンメルと死に別れる」
「だから何?」
「寿命の差だ。避けることはできない。お前にとっては短い時間でも、ヒンメルにとっては一度しかない人生だ」
フリーレンは、自分へ向けられている感情に気づいていない。
人間を守りながら、人間を見ていない。
やはり俺と同じだ。いや、俺の方がずっと人間を理解している。俺は…。
「そのときになって後悔しても遅いぞ。今のお前は、俺と同じように、ただヒンメルの傍らに存在しているだけだ。何も分かっていない」
「遺言はそれだけ?」
杖に、先ほどよりも強い魔力が集まった。
目を閉じた。
俺の胸に誰もいないというヒンメルの言葉を否定する方法は、一つしかない。
「エリー。ガルド。カルラ。ルカ。カイン。レオ。マリア。トーマス。ジャン。エルザ。ニコ。ベルタ。ロルフ――」
この町で死んだ人間たちの名を口にした。
最初の百人が終わり、次の百人へ移る。
生まれた日も、死んだ日も覚えている。誰と結婚し、何人の子供を作り、どのような人生を送ったのかも記録している。
「まさか……」
「この町で生きた人々の名前を、すべて覚えているのですか……」
「当然だ。彼らは全員、俺にとって大切な者たちだ」
「違う……」
ハイターの顔から血の気が引いていた。
「これは愛情ではありません。死者を忘れられないのではなく、忘れることができないだけだ。あなたにとって彼らは、人間の心を解き明かすための記録でしかない」
「何が違う?」
忘れないことと、忘れられないこと。
俺には、その二つの違いが分からなかった。
フリーレンが杖を振り上げた。
その瞬間、大広間の扉が開いた。
数十人の町民が広間へ押し寄せてきた。
勇者一行がアレンを討つのではないかと案じた住民たちが、領主館の外へ集まっていたのだ。
彼らは迷うことなく、俺とフリーレンの間へ立った。
「退いて。そいつは魔族だよ」
「知っております」
最前列に立った老人は、ガルドの子孫だ。いつぞやと同じだな。フリーレン。
「我々は、その方が魔族であることも、皆と同じようには老いないことも知っています」
「なら、どうして庇うの?」
「アレン様は、この町に欠かせないお方だからです」
「アレン様は三百年もの間、我々を守り続けてくださいました。子供が生まれるたびに祝福し、病人を治し、魔物や戦争から町を守ってくださった」
「それも全部、あなたたちを騙すためかもしれない」
「それでも、救われた命は本物です」
町民たちが頷いた。まったく同じだ。フリーレン、羨ましいと言ってみろよ。
誰も逃げようとはしない。
「この方は、妻も、友も、その子供たちも、何世代にもわたって見送ってこられました。たった一人、変わらぬ姿のままで」
「アレン様は、もう十分に罰を受けておられます。孤独という罰を。ですから勇者様方、どうか、お命だけはお許しください」
罰。
俺は罰など………。
人間の心を解き明かすため、必要な観察を続けてきただけだ。
彼らが死ぬことも、俺だけが残ることも、最初から分かっていた。
「皆、退いてくれ。俺はお前たちを犠牲にして生き延びることなどできない」
できない。
正確には、やってはならない。
彼らを見捨てれば、築いた関係が壊れる。
大切な人間を守ることが力へ変わるという仮説も証明できなくなる。
「アレン様」
一人の少女が俺へ駆け寄り、腰にすがりついた。
「大丈夫です。今度は私たちが、アレン様を守ります」
俺の実験は失敗していない。
これほど強い感情を向けられ、それに応え続ければ、いずれ俺の中にも同じものが生まれるはずだ。
それが魔力へ変換される瞬間も、必ず来る。
「勇者ヒンメル」
「先へ進むなら止めはしない。旅に必要な援助も約束どおり行おう。だが、この町には手を出すな」
町民たちが俺の言葉を待っている。
彼らが望む言葉を選んだ。
「ここは、俺の大切な町だ」
ヒンメルは、俺を庇う人間たちを見渡した。
この町で生まれた者は、物心がつく前から俺の名を教えられている。
町の守護者であり、領主であり、英雄だ。
住民にとって俺を失うことは、家族だけでなく、町の歴史と秩序を失うことに等しい。
今ここで俺を殺せば、この人間たちは絶望する。
魔族から救うことと、町の人間を俺から救うことは、すでに両立しない。
「フリーレン。杖を下ろしてくれ」
「ヒンメル。こいつは人間の心を理解していない」
「分かっている」
「これからも理解できない。この町の人たちだって、人間の心を調べるための材料としか見ていないよ」
「それも分かっているよ」
ヒンメルは剣から手を離した。
「でも、アレンは三百年、この町の人たちを守り続けてきた。その事実まで否定することはできない。少なくとも今は、この人たちを傷つけてまで剣を抜くべきじゃない」
フリーレンは答えなかった。
俺を庇う町民たちを一人ずつ見渡し、最後に俺へ視線を戻す。
「……私は、お前を認めたわけじゃないよ」
「承知している」
「今のお前が人間に害を与えていない。それだけだ」
「俺には、それで十分だ」
フリーレンはしばらく俺を見据えていたが、やがて杖の先に集めていた魔力を消した。
ヒンメルたちは出口へ向かった。
その背中を、俺は町民たちと共に見送る。
扉の前で、ヒンメルだけが足を止めた。
「アレン」
振り返らないまま、彼は言った。
「君がいつか、本当に涙を流せる日が来ることを願っているよ」
「涙なら、すでに何度も流している」
ヒンメルは答えなかった。
四人が広間を出ると、町民たちは安堵の声を上げた。泣きながら俺の手を握る者も、無事を神へ感謝する者もいた。
一人ずつに礼を伝え、安心させ、負傷者がいないか確かめた。
すべて正しい順序で行った。
それでも、ヒンメルの最後の言葉だけは理解できなかった。
涙の流し方なら知っている。
誰かが死んだとき、どのような顔をして、どの程度声を震わせればいいのかも知っている。
それ以上に、何が必要だというのだろう。
エリー、教えてくれ。ガルド、俺はどうすればいい。
俺が人間になれたら…お前たちは答えてくれるのか。
人間が死者の想いを力にできるのなら。
俺はまだ、人間になれていない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
すべてを記憶しながら悲しみを理解できないアレンと、その空虚さを見抜いたヒンメルについて、感想をいただけると嬉しいです。