九月一日の早朝、あらかじめセットしておいた目覚まし時計よりも早く目が覚めた自分にキースは思わず苦笑した。
「忘れ物はない?ちょっと待ってキース、襟が曲がってるわ……はい、直った」
「ありがとう院長。持ち物は全部昨日のうちに確認したしさっきも確認したから大丈夫」
「そう、ならいいけど。よし準備は完了ね。今日もとってもハンサムよ」
「ウーン、ありがと」
昨夜行われていた『キースお別れ会』ではしゃぎまくっていた孤児院の子供たちはまだ夢の中である。孤児院最年長にしてみんなの頼れる兄のような存在であったキースの出立にまだ幼い子供たちは耐えられないだろうという大人たちの配慮の結果だった。
「さあ、いってらっしゃい。風邪ひかないように気を付けるのよ」
孤児院の院長であるメアリーはそう言ってキースの額に口づけた。産まれたばかりの小さな赤ん坊の頃から何度もやってきたことなのに、いつの間にか屈まなくてもできるようになっていたことに今更ながら気づいて目を細めた。
「行ってきます。チビたちにもよろしく!」
◆
キングズ・クロス駅に着いたのは八時だった。切符に書いてある出発時間は十一時。早く着きすぎたかなと思いつつも、そもそも九と四分の三番線とかいう意味不明な路線を探さなければならないのだから早い方がよかったのだと思いなおした。
荷物を載せたカートを押しつつプラットホームまで来たキースはさっと周囲を見渡して誰もこちらを注視してないことを確認し、自分の足元に二度つま先で合図した。
「ウィロウ、近くで魔法の気配がするところを探せ。おそらくそこが入口だ」
わふと控えめに返事をした白狼をカートで隠すようにしながら何食わぬ顔で足を進める。やがてウィロウは九番と十番の間の柵の目の前で足を止めた。
「おいおい嘘だろ……ただの壁じゃねぇの、これ」
思わず疑うような目つきをして自分を見るキースに対し、まるで心外だとでも訴えるかのようにもう一度わふと鳴いたウィロウは目の前の壁に向かってその前足を伸ばした。
「……あー、なるほど。疑って悪かったよ、やっぱおまえはさいっこうに優秀な相棒だ」
壁に当たるかと思われた前足はなんと壁をすり抜けていた。間違いなくこの壁こそが入口なのだろう。
壁に向かって突っ込むなど普通に考えたら正気の沙汰ではないが、自分がこれから踏み込もうとしている世界はそういった常識が通用するような世界ではなかったなとキースは顔をひきつらせた。
大きく深呼吸をしたキースは覚悟を決めて壁に向かって歩き始める。これで壁に激突したら笑いものだなという考えが頭をよぎりつつ、キースは目を瞑った。
変に入っていた力を抜き目を開けた先に広がっていたのは、紅色の蒸気機関車が停車する大きなプラットホームだった。
やはりまだ時間が早かったのかまばらな人影の上に機関車の煙が漂っている。無事にホームまでたどり着けたことにホッとしたキースはさっさと乗ってしまおうと気を取り直して動き出した。
列車の中央あたりで誰もいないコンパートメントを見つけ荷物を押し込み、座席に座る。人が増えてきたのか先ほどよりも賑やかになってきたホームの様子が窓越しに見えた。なんとなく見ていられなくて視線をそらし、取り出しやすい位置に入れておいた『変身術入門』をトランクから引っ張り出した。
組まれた長い脚の上に本を置き、静かに読書を始めた主人を守るかのように、鼻先をコンパートメントのドアに向けたまま白狼もまたその足元で静かに丸まった。
◆
コンパートメントに入ろうと数人がドアを開けて、首をもたげたウィロウに驚いてその全員が去っていくという出来事の間もキースが本から目を上げることはなかった。
「車内販売よ。何かいりませんか?」
ようやく顔を上げたキースは山のようにお菓子が積み上げられたカートを見て目を細めた。ずっと頭を動かしていたためか脳が甘いものを欲している。
「……チョコある?」
「もちろんあるわよ。はいこれ、蛙チョコレート」
「じゃあそれひとつ買うよ」
席に戻って包みを開けた途端文字通り飛び出してきた蛙チョコに驚きつつ難なく捕まえ一瞬の逡巡の後、恐る恐るかじってみる。味は普通のチョコレートだった。
『変身術入門』から『基礎呪文学』に本を変更し読書を再開しようとしたキースの膝から蛙チョコの空き箱が零れ落ちた。
「なんだこれ、カード?」
魔法界育ちではないキースには知る由もなかったが、それは蛙チョコを買うとついてくる著名な魔法使いや魔女について書かれたカードだった。
「サラザール・スリザリン……」
『サラザール・スリザリン
ホグワーツ魔法魔術学校の著名な4人の創設者の一人であるサラザール・スリザリンは、記録に残る最初のパーセルマウス(蛇語を話す人)の一人であり、優れた開心術者で、純血至上主義の悪名高い推進者であった。』
「純血至上主義?嫌な予感しかしねぇ言葉だな」
裏に書かれた文章を読んでキースはぼそりとつぶやいた。カードに対する興味が完全に失せたキースはこちらを見上げていたウィロウの頭を一撫でし、カードをチョコの空き箱ごと雑にトランクに突っ込み、再び読書の姿勢に戻った。
「失礼するわ。ヒキガエルを見なかった?ネビルのが___あなた、犬の連れ込みは校則違反よ!」
ドアを開けるや否やこちらを指さして叫んだ女の子にキースは胡乱げな目を向けた。
「偉大なるダンブルドア先生さまから直々に許可はもらってる。それに犬じゃない、狼だ」
勢いがそがれたのか視線をさまよわせた女の子はキースの膝の上に置かれた『基礎呪文学』に目を止めた。
「あら、それって基礎呪文学?私もう全部暗記したわ!練習のつもりで簡単な呪文をいくつか試したのだけどみんなうまくいったわ。私、ハーマイオニー・グレンジャー。あなたは?」
「キース・ゴーント。ちなみにヒキガエルは見てない」」
「あらそう。ところであなたはもうどこの寮に入るか決めてる?私はグリフィンドールに入りたいの!ダンブルドアもそこ出身だっていうし、でもレイブンクローも悪くないわ。ああ、もう着替えた方がいいわよ。車掌さんに確かめたらもうすぐ着くって言ってたもの」
口をはさむ間もなくすさまじい勢いでまくし立てたハーマイオニーは、その勢いのまま出ていった。嵐のようなその勢いに軽く引きつつ彼女の助言に従ってローブに着替えた。真新しいローブはまだ糊が効いていて、着古された古着に慣れきっていたキースには不思議な着心地だった。
それから間もなく列車は静かに停車した。
夜の冷たい空気の中、ランプを掲げたハグリットに従って一年生は黙々と歩いた。険しくて狭い小道を歩きながら、新入生にこんな不安定な場所を暗い中歩かせるなんて、とキースは心の中で毒づいた。
やがて視界が開け、大きな黒い湖のほとりに出たとき、キースはそんなことを思っていたことも忘れてただ静かに息を呑んだ。
湖の向こう側にそびえる高い山。その頂上に美しく壮大な城があった。大小さまざまな塔が立ち並び、きらきら輝く窓が星空に浮かび上がっている。
城まではボートを使って行くらしく、一年生たちはハグリットの指示に従って岸辺につながれたたくさんのボートに四人づつ乗り込んだ。
一斉に動き出したボートは鏡のような湖面を滑るように進む。どこかで水面が跳ね、押し殺したざわめきが波紋のように広がった。
蔦のカーテンをくぐり、城の真下と思われる暗いトンネルを抜け、見えてきた船着き場で全員が岩と小石の上に降り立った。
ゴツゴツとした岩の道を上った一行の先頭でハグリットがその大きな握りこぶしを振り上げ、城の扉を三度叩いた。
◆
扉が開いた先に待ち構えていた厳格そのものといった見た目の魔女の話を顔だけはまじめに聞き流し、壁から現れたゴーストたちの衝撃も受け流し、ついにキースは大広間へと足を踏み入れた。
そこに広がっていた光景はまさしくおとぎ話の世界そのものだった。
何千というろうそくが空中に浮かびながら四つの長テーブルとそこに座るたくさんの上級生たちを照らし、テーブルの上にはキラキラと輝く金色のお皿とゴブレットが置かれていた。広間の上座に置かれたもう一つの長テーブルに目をやったキースは、その中央に座るダンブルドアと目が合った気がした。
上級生たちと向かい合うように並んだ一年生たちの列の中でキースは本物の星空のように輝く天井をぼんやりと見上げていた。
唐突に響いた歌声に視線を戻したキースは歌っているのが丸椅子に置かれたボロボロの帽子だと気づいて目を見開いた。どうやら組分けの儀式とはあの帽子を被るだけのものらしい。朗々と各寮の特徴を歌い上げた帽子は拍手の中、四つのテーブルにそれぞれお辞儀をして静かになった。
順番に名前を呼ばれては組み分けられていく同級生を眺めつつ、キースは静かに自分の番を待っていた。『ブルストロード』はスリザリン、『フィンチ-フレッチリー』はハッフルパフ、『フィネガン』はグリフィンドール。
「ゴーント・キース!」
名前を呼ばれ丸椅子の前まで歩み出る。まっすぐ前だけを見つめて堂々と歩くその姿に静かなざわめきが広がった。
「フーム……なるほどなるほど。計算高く機転に優れている。類稀なる才能にあふれ、またそれを思う存分に振るいたいという思いもある」
背筋を伸ばして座ったままキースはじっと静かに帽子の声に耳を傾けていた。
「君の道行は二つに一つだ。どちらの道を選んでも君のたどり着く場所は変わらない。ならば君自身が決めるといい」
君はどうしたい、と帽子が聞いた。
少しの間をあけ、キースは静かに口を開いた。
「なるほど、いやはや君は私の予想を超えて勇敢だったようだ!よろしい、ならば君は……グリフィンドール!」
鳴り響く拍手と歓声の中、赤と金に彩られたテーブルへと向かったキースはふと突き刺さるような視線を感じ勢いよく振り返った。鋭い目つきで視線が飛んできた方向にあった教員席を見つめたのち、その気配が跡形もなく消え去っていることにふっと力を抜いた。
主に走った緊張感に影の中で反応したウィロウをつま先を床にコンコンと打ち付けることで宥めてやりながらテーブルに頬杖をつき、キースはまだまだ続く組み分けの様子をぼんやりと眺めていた。