以前なんとなく書いたデスノートの短編です。
「デスノート。これこそが、言わずと知れた大人気漫画に登場する、死神のノートだ」
そう言って私は、黒いノートを堂々と掲げてみせた。
「デスノート?」
「なんですか、それ?」
しかし返ってきたのは、予想外な一言だった。
読んだことがないのではない。
なんと、青年はタイトルすら知らないらしい。
世代が違うとはいえ、まさかここまでとは思わなかった。
思わずベッドに寝転がって不貞寝したくなる。
とはいえ、仕方ないのかもしれない。
アニメの放送が終わってから、すでに数十年。
今どきの若者が知らなくても不思議ではない。
そう自分を納得させ、私は気を取り直した。
「……まあ、特級呪物みたいなものだ」
「何です、それ?」
これも通じない。
困った。
どう説明すれば伝わるのか、まるで分からない。
まるで言葉そのものが噛み合っていない。
果たして彼は本当に日本人なのだろうか。
聞けば、『DEATH NOTE』だけではない。
『バクマン』『プラチナエンド』『ONE PIECE』『NARUTO』『BLEACH』『鬼滅の刃』『呪術廻戦』『HUNTER×HUNTER』──そのどれ一つとして知らないという。
私は深く肩を落とした。
これほど落胆したのは、生まれて初めてかもしれない。
これが俗に言うジェネレーションギャップかと思ったが、どうやら違うらしい。
青年は厳格すぎる両親のもとで育ち、幼い頃から漫画はもちろん、アニメもバラエティ番組も一切見せてもらえなかったという。
なるほど。
毒親のもとに生まれてしまったのか。
気の毒に。
漫画を有害書物だと決めつける人種など、とっくの昔に絶滅したものだと思っていた。
しかし、どうやらまだ生き残りがいたらしい。
親が愚かなせいで名作に触れられない。
それは人生を損していると言っても過言ではない。
私は心の底から彼に同情した。
そして、その毒親だけは今すぐ名前を書いてやりたくなった。
よくも、あの時代を代表する名作を有害書物扱いしてくれたものだ。
ああ神よ。
どうか醜き毒親を呪いたまえ。
アーメン。
閑話休題。
しかし、本当に困った。
まさかここまで話が通じない人間が存在するとは思わなかった。
私は今日まで、いつか探偵に罪を暴かれる日を夢見て生きてきた。
あれこれ反論し、堂々と自白し、最後に決め台詞を吐いて散る。
そんな最高の舞台を何度も想像してきたというのに。
よりにもよって、漫画を一冊も知らない青年に暴かれるとは。
実に虚しい。
せっかく考えていた自白台詞まで台無しだ。
これでは私が道化ではないか。
一つため息を吐き、私は気持ちを切り替えた。
「仕方ない。なるべく分かりやすく説明してあげよう」
『DEATH NOTE』とは、殺人ノートを拾った天才・夜神月が、新世界の神を名乗り、犯罪者を裁いていく物語だ。
やがて彼は「キラ」と呼ばれ、世界一の名探偵Lと壮絶な頭脳戦を繰り広げる。
Lには勝利するものの、最後は後継者によって正体を暴かれ、本来の持ち主である死神の手によって命を落とす。
「どうだ? 細かい部分は省いたが、それでも面白そうだと思わないか?
読んでみたいとは思わないか?
そして、そんな物が本当に存在したら、一度くらい使ってみたいとは思わないか?」
……使いたくない?
嘘だろう。
正気か、君は。
私は使ったぞ。
欲望に負け、存分に使い倒した。
「そんな物が存在するはずがない?」
おいおい。
冗談はよしてくれ。
寝ぼけているのか。
笑わせないでほしい。
君に一つ、ありがたい言葉を授けよう。
よく覚えておけ。
ありえないなんて事は、ありえない。
そもそも、君がここまで辿り着いたこと自体が、十分ありえないんだよ。
顔と名前だけで人が死ぬ。
そんな不可解な事件を前にして、超常の存在を最初から計算へ組み込み、真相へ辿り着いた。
だからこそ君は、こうして私の病室まで来られたのだろう。
実に見事だった。
震えたよ。
さっき聞かせてもらった推理は、すべて正解だ。
警察が事件とすら認識していないこの連続怪死を、君だけが事件として見抜き、その大半を解き明かした。
まさかあんな方法で真実へ辿り着くとは思わなかった。
こんなことを言うのも何だが、君は常識人を名乗るには少々常軌を逸している。
そして残る謎は、事件に使われた凶器だけ。
降参だ。
私の完敗だと言わせてもらおう。
こちらからすれば、ありえないのは君の方だった。
「漫画は漫画。所詮は作り話です」
なるほど。
実に面白みのない答えだ。
昔の私もそう思っていた。
このノートを拾うまでは。
よく言うだろう。
『事実は小説より奇なり』と。
……バイロン?
誰だ、それは。
何だ、その呆れた顔は。
ため息を吐くな。
こっちを向け。
いいか青年。
この事件に複雑怪奇なトリックも、超能力も、催眠術も使われていない。
私が用いた凶器は、ただ一つ。
このデスノートだけだ。
「なに、証拠?」
面白いことを聞く。
犯人である私に証拠を求めるのか。
それを探し出し、突き付けるのが探偵の仕事ではないのかね。
……まあいい。
ここまで辿り着いた君への褒美だ。
一つくらいは譲歩しよう。
少し考えてみた。
……駄目だ。
証拠になる物は何一つ思い浮かばない。
このデスノートが本物だという決定的な証拠は、もう存在しない。
なぜなら、すべて焼却したからだ。
当たり前だろう。
私は漫画の主人公のように、使用済みのページをそのまま保管したりはしない。
ほら、見てみたまえ。
どこをめくっても真っ白だろう。
すべて切り取り、燃やし、灰にした。
だから君を納得させる方法は、一つしかない。
私はその場にあったペンを手に取り、さらさらとノートへ文字を書き込む。
青年が慌てて止めようとする。
だが、もう遅い。
何万回と繰り返した作業だ。
書き終える方がわずかに早かった。
「よし、終わった。
これで四十秒後、私は心臓麻痺で死ぬ」
青年が顔色を変える。
「死んで罪を償うつもりですか!」
「ああ、違う違う。そうじゃない」
私は笑った。
「勝手に人を善人扱いしないでくれ。私は昔から決めていたんだ。病気で死ぬ前に探偵が目の前へ現れたなら、推理の正否に関係なく堂々と自白し、その目の前で死んでやろうと」
私はノートを青年へ差し出した。
「喜べ。誇れ。胸を張れ。君はこの私に勝った。誰一人辿り着けなかった真相へ辿り着いたんだ。勝者には褒美があるべきだ。だから、このノートを君へ託そう。使うも、捨てるも、誰かへ譲るも君の自由だ。好きにしたまえ」
「では、名も知らぬ名探偵よ。さようなら」
そう言って彼――前のノートの持ち主は、満足そうに微笑んだ。
穏やかな寝顔だった。
まるで長年抱えていた荷物をようやく下ろせたかのような、晴れやかな表情だった。
次の瞬間、その胸が小さく震える。
そして、ぴたりと動きを止めた。
病室に静寂が訪れる。
僕は思わず腕時計へ目を向けた。
四十秒。
宣言どおりだった。
心電図がけたたましく警報音を鳴らし始める。
医師や看護師が慌ただしく病室へ駆け込んでくる。
誰かが僕へ「下がってください!」と叫んだ。
それでも僕は、その場から動けなかった。
ただ呆然と、ベッドの上の亡骸を見つめ続ける。
医師たちは必死に蘇生を試みた。
心臓マッサージ。
除細動器。
薬剤の投与。
できる限りの処置が次々と施される。
しかし、それらはすべて徒労に終わった。
「……死亡確認」
その一言で、病室の空気が変わった。
つい数分前まで饒舌に語っていた男は、本当に息絶えた。
まるで、最初からそうなることが決まっていたかのように。
僕はベッドの脇へ視線を落とす。
そこには、一冊の黒いノートだけが静かに置かれていた。
誰も、その存在を気に留めていない。
まるで最初から見えていないかのようだった。
違う。
見えている。
だが、ただの黒いノートだと思っているだけだ。
僕だけが知っている。
それが、この世で最も危険な凶器だということを。
警察へ提出するべきか。
いや、したところで証拠能力はない。
ただの無地のノートとして処理されるだけだ。
処分される可能性すらある。
――ならば、僕が預かるべきではないか。
そう考えた瞬間だった。
胸の奥で、何かが囁いた。
本当に、それでいいのか。
もし本物なら。
もし彼の言葉がすべて事実なら。
このノートは、世界中の犯罪者を裁くことができる。
戦争だって止められるかもしれない。
救える命は数え切れない。
……いや。
本当にそうだろうか。
あの男も、最初は同じことを考えていたのではないか。
正義のため。
世界のため。
そんな大義名分を掲げながら、一線を越えた。
その果てに待っていたのは、数え切れない死と、孤独な最期だった。
僕はゆっくりと目を閉じる。
そして深く息を吐いた。
「……絶対に使わない」
そう呟いた僕は、黒いノートを手に取る。
その冷たい感触は、今でも鮮明に覚えている。
――もっとも。
人間という生き物は、自分の弱さを過信しがちだ。
「自分だけは違う」
「自分なら誘惑に負けない」
そんな根拠のない自信ほど、当てにならないものはない。
だからこそ。
これは戒めとして語っておこう。
あの日。
あの病室で。
僕は確かに、絶対に使わないと誓った。
そして、その誓いは。
あまりにも、あっけなく破られることになる。
――これが今から四年前。
僕がデスノートの持ち主となる、すべての始まりだった。
小説はここで終わります。
けれど、現実は物語ほど都合よく終わってはくれません。あの日、あの病室で始まった出来事は、もしかすると今もどこかで続いているのかもしれません。