親友のままじゃ、いられない。―TS美少女になった親友は俺にだけ昔の顔を見せる― 作:エイジアモン
初夏にしては少し暑い、五月の終わり頃。教室はいつもの喧騒に包まれていた。
朝のホームルームを告げるチャイムが鳴りだすと、生徒たちは慌てて席に着いた。教科書を取り出す者もいれば、変わらず近くのクラスメイトと話し続ける者もいる。
教室中央の席に腰掛けた少年は、すぐ後ろを振り返り、ため息を吐いた。
彼の名は
そして、ため息の先にある親友の席は、今日も空いていた。
尚哉は正面を向き直し頬杖を突き、もう一度ため息を吐いた。
一週間だぞ……。もう一週間も音沙汰がないなんて……そんなことがあるか?電話には出ないし、メッセージも既読にならない。おばさんに聞こうとしてもはぐらかされるし……。
そんな尚哉の苦悩をよそに、担任の先生が教室の戸を開いて入ってきた。
一瞬で静まり返る教室、その静けさは先生の声によって破られるはずが、今日は違った。男子のどよめきと、女子の息を呑むような声が重なった。
尚哉はいつもと違う反応を示す教室を不思議に思い、視線を先生の方へ向けた。正確には、先生に遅れて教室に入ってきた、夏服姿の長い黒髪の美少女に。
それは、絵に描いたような整った顔立ちで、際立った美人と形容されても良い。ただ、美しさよりも、可愛らしさが少し勝っている。その笑顔ですべてを魅了しそうな、そんな女の子だった。
――尚哉の心臓は、大きく跳ねた。
先ほどまで親友のことで埋め尽くされていた思考が、一瞬だけ真っ白になった。美少女から目が離せない尚哉、そしてあろうことか、目が合い、自分に向かってウィンクをした!……ように尚哉には見えた。
教室に入ってきた美少女がウィンクした瞬間、一部の男子が思わず歓喜の声を上げた。
「――静かに!」
即座の担任の一喝で、それはすぐに収まった。
「えー……」
壇上に立つ担任は、なんとも歯切れ悪く、連れて入ってきた美少女に何度も目配せし、美少女が頷くと、やっと言葉を続けた。
「あー、なんと言っていいか……。諸事情によって1週間ほど休暇をとっていた
一気にまくしたてるように言い切る。何も反応させない、言葉を挟ませない。担任のそんな意図が見えたような気がした。
――若葉千尋。
――TS症。
生徒たちが担任の言葉を飲み込み終わるより前に、紹介された美少女、若葉千尋はにこやかに微笑んだ。
「みんな久しぶり! ちょ~っと姿は変わっちゃったけど、中身は若葉千尋そのままだ! だから安心して、今まで通り頼むぜ!」
言い終わると、そのまま丁寧にお辞儀をした。
千尋がお辞儀をすると、教室のざわめきはさらに大きくなった。
「若葉って……あの若葉?」「え……だって見た目女の子だよ?」「TS症って都市伝説じゃなかったのか?」「本当は妹か姉なんじゃ……?」「ちょっとまって意味わかんないんだけど」「なんでもいいよ可愛けりゃ」
ざわざわと沸き立ちはじめる教室、次第に声量が大きくなりだし、担任が静かにさせようと動く瞬間、尚哉が立ち上がった。
「本当に千尋……なのか?」
尚哉の言葉で教室に静寂が戻り、皆の視線が若葉の反応に注がれた。
若葉は自分の胸に右手を当て、大きく息を吸い、吐き出した。
「ああ、俺は千尋だ。お前の親友の千尋。こんな姿だけど、何も変わってない。俺を信じろ、尚哉!」
信じろ、と言われても。尚哉はそう思った。
そんな尚哉の反応を見た千尋は続ける。
「あ、信じてないな尚哉。――まあいいや、後でゆっくり話そうぜ。じゃあ、他に質問ある人!」
言いながら千尋が右手を上げると、ワッと無数の挙手と男女問わずのアピールが起こった。
普段ならこれだけ騒ぐと諌めるはずの担任は、いつの間にか自分の席で高みの見物を決め込んでいるようだった。
沢山の挙手を目の前に、千尋は身なりを整え、先ほど尚哉との会話とは打って変わって、丁寧な話しぶりで一人を当てる。
「ではそちらの、武田さん」
当てられた女子は立ち上がり、興奮気味に質問した。
「若葉くん!……さん? もしも本当に若葉くんだとして、先生が言うようにTS症だったとしたら、それって本当に!? 都市伝説じゃなかったの!?」
――TS症。SNS上で都市伝説として扱われている、性別が突然変わる現象のこと。
ある日突然、男が女に、女が男へと身体が変化する、とまことしやかに囁かれているが、少なくとも尚哉は、実際に性別が変わった人間など見たことがない。ネットに流れてくる画像や動画も、作り物だと否定されるものばかりだった。結局のところ、願望が独り歩きしてTS症が創られ、都市伝説として定着したのだろう、と憶測されている。
だから、いきなりTS症だと言われたところで、普通なら面白くもない冗談、せいぜいが姉や妹、顔が似ている人を使った、手の込んだネタ扱いされて終わる。
しかし担任と千尋は、恥ずかしげもなくTS症だと言い放った。
千尋単独であればともかく、いくらなんでも担任までグルになってネタをやるのはやりすぎだ。だからこそ、もしかして……。という思いが湧いてくるのは、当たり前のことだった。
「あー、先に言っておくが、学校には保護者と病院から正式な証明が提出されている。悪ふざけじゃないからな」
千尋より先に、担任の先生が口を挟んだ。
「私もTS症は都市伝説だと思っていました。……ですが自分がそうなった以上、TS症は存在します」
千尋は静かにそう応えた後、一人の男子を指差した。
「次は……上杉くん」
「あっ!? えっ、えーと……。ほ、本当に身体が……胸とか女子になってる……ですか?」
当てられた上杉は普段の軽そうな喋りかたとは違い、緊張した面持ちで言いづらそうにしながらも言った。
直後、その内容に一部の女子からは「さいてー」「うえすぎー」などブーイングが入るのだった。
千尋の、夏服の半袖やスカートから覗く足や手は白くスラリと伸びていて、シルエットからもスタイルが良いだろうことは見て取れた。
そしてその胸部はシャツを押し上げており、質問から男子の視線がそこへ集まっていた。
だがそんな視線を意にも介せず、千尋はあっさりと言った。
「はい。完全に女の身体になっている、と医者からお墨付きを頂いています」
おおー。と男子は嬉しそうに反応し、女子は信じられない、といったように目を見開いていた。
尚哉は反射的に目を逸らした。先ほどまで見ていた白い手足や、夏服越しの身体つきが急に生々しく感じられたからだ。
「――一応言っとくが、今日から若葉は女子として扱うからな、体育も、トイレもだ」
高みの見物をしていた担任の先生が口を挟んだ。
これには男子も女子も、えー。と抗議をするように声を上げた。だが、同じ抗議の声でも、その内容には大きな壁があるだろう。
「えー、じゃない。今の若葉を男子と一緒にするわけにもいかないだろ。仲良くな」
「女子のみんな、よろしくお願いします」
千尋があらためてお願いすると、女子は男子たちを一瞥して、不満ながらも受け入れたように見えた。
「それじゃこの辺にしとくか」
担任の先生が立ち上がり、時計を見ながらそう言った。
「ハイッ! ハイッ!」
終わりと聞いて焦っているのか、一人の女子が手を上げて一生懸命に千尋にアピールする。
「先生、もう一人だけ、いいですか?」
千尋が尋ねると、担任がもう一度時計を見て、手短にな、と応える。
「はい。では――三好さん」
当てられた三好は立ち上がり、興味深そうに尋ねた。
「若葉くん、なんでその……榊くんと話している時と違って丁寧に話してるの?」
その質問は、なんとなくクラスのみんなが疑問に思っていたことだった。
最初の挨拶と、榊に対しては以前のようだったが、質問に入ってからは、まるで姿に合わせるように、丁寧に、可愛らしさを感じられる口調へと変わっていた。
そして、最初の問答からずっと頭の中で悶々と考え続けていた尚哉も、この質問には反応を示した。
千尋は少し困ったように目をつむり、眉を寄せた。そしてそんな仕草すら、以前にはない可愛らしさを醸し出していた。
「そうですね……簡単に言うと、せっかく美少女になったんだから、見た目だけじゃなくて言動も変えたほうがより良いかな、と思ったからですね」
そう千尋が応えると、食いつくように三好は追撃した。
「じゃあ、あいさつと榊くんは?」
「最初のあいさつから丁寧だと全然信じて貰えないと思ったからです。尚哉は……やっぱり、親友の尚哉だけには、ちゃんと信じて欲しかったから、ですね」
そう応えた千尋が尚哉を見ると、目が合う。千尋がニコッと微笑みを向けると、尚哉はそっぽを向いてしまった。
「はい、そこまで。時間切れだ。若葉の席は前と同じ場所。――みんな、仲良くな。全員、静かに次の授業の準備しとけよ!」
それだけ言うと、千尋の着席を待ち、担任の先生は教室を出ていった。
尚哉の席の後ろ、そこが千尋の席。千尋が席につくまでの間、尚哉はずっと目を合わせないように頬杖を突き、そっぽを向いたままだった。千尋が後ろの席に着く気配がした。椅子を引く音のあとも、背中に視線を感じるような気がして、尚哉は振り返れなかった。
千尋が帰ってきた。
一週間ぶりに、無事で、元気な姿で。それは嬉しかった。今すぐにでも、以前と同じように話したかった。
けれど、尚哉の胸には喜びだけではない感情が渦巻いていた。
――本当にこの千尋が、あの千尋であると信じるなら。
何も知らなかったとはいえ、女の姿をした千尋に心を奪われてしまった。正体を知った今も、目が合うと鼓動が速くなる。そんな俺を千尋は親友だと言ってくれた。俺は自分が恥ずかしい。
――こいつは千尋だ。俺の親友だ。
俺に対してだけは以前のように振る舞ってくれた千尋を信じたい。あれは間違いなく千尋だと、やっと帰ってきたんだと。だけどまだ確信が持てない。当然だ、都市伝説でしかなかったTS症を、たった数分で受け入れられるはずもない。何より、この少女が千尋本人だという確信がまだなかった。
この千尋を名乗る女子とどう接すればいいのか、全く分からない。できることなら、今すぐにでも本当の千尋が帰ってきてくれるのが一番だが。
すぐ後ろの席は、もう空いていない。それなのに、親友が本当に帰ってきたとは、まだ思えなかった。