放課後を迎えた堀北クラスの教室には、
きよぽんの歩行練習を行うための簡単なコースが作られていた。
机は左右の壁際へ寄せられ、教室中央には真っ直ぐ歩くための通路が確保されている。
その途中には椅子を利用した狭い区間が設けられ、
さらに五センチほどの段差を想定した薄い板も置かれていた。
コースの終点では、方向転換と手振りの動作を確認することになっている。
昨日の合同動作確認会で四体が行った訓練を、教室の中で再現した形だった。
「本格的すぎないか?」
三宅は制服の上着を脱ぎながら、教室中央へ用意されたコースを見回した。
「昨日、他クラスの着ぐるみも同じ内容を確認した」
幸村は手元のチェック表を確認しながら、当然のように答えた。
「主担当者と交代した時に動きが大きく変われば、同じキャラクターには見えない。
交代担当者も、最低限の動作を身につける必要がある」
「最初から全部やるのか?」
「最初は直線歩行だけよ」
教室前方に立っていた堀北が答える。
「直線歩行に問題がなければ、方向転換、段差、手振りへ進むわ」
「問題があったら?」
「問題点を修正して、もう一度行う」
「終わりが見えねぇな」
三宅は肩を落とした。
「みやっち、頑張って」
佐倉が控えめに励ます。
三宅が佐倉へ特別に弱いというわけではないだろう。
それでも、同じ言葉を長谷部から言われるよりは反発しにくいらしい。
「愛里まで、完全にきよぽん側なんだな」
「私も制作班だから」
「俺も制作班だけど、中へ入ることになるとは思ってなかったぞ」
「交代担当を引き受けることには同意したでしょう」
堀北が冷静に指摘する。
「立候補はしてない!」
「投票後、綾小路くん一人では危険だという話になった時、最後には了承したわ」
「愛里に頼まれて、断れなかっただけだよ」
「理由が何であっても、了承した事実は変わらないわ」
逃げ道を失った三宅は、最後の助けを求めるようにオレを見た。
「お前も何か言ってくれ」
「必要な練習だ」
「味方じゃねぇのかよ」
「主担当として、交代要員が動けない方が困る」
「完全にきよぽん側の人間になってるぞ」
「クラス側だ」
三宅は大きく息を吐き、反論することを諦めた。
最初に装着するのは、きよぽんの胴体フレームだった。
三宅とオレの体格には大きな差がない。
肩の支持具を一段階調整するだけで、無理なく固定することができた。
しかし、実際に身体へ重量が加わると、三宅の表情がすぐに変わった。
「重いな」
それが最初に漏れた感想だった。
「頭部を載せると、さらに重心が前へ寄る」
オレが説明すると、三宅は胴体を支えながらこちらを見る。
「これで二十分以上歩いてたのか?」
「途中で休憩する予定だった」
「交代しなかった俺が悪いみたいに言うなよ」
「事実だ」
「次からは、ちゃんと入る」
三宅は渋々ではあったが、自分の役割を受け入れた。
続いて両腕を支持具へ通す。
三宅が腕を上げると、きよぽんの短い腕も連動して持ち上がった。
「本当に短いな」
「そこは変えられない」
「これじゃ何も持てないだろ」
「そのために面ファスナーを追加した」
幸村はそう言いながら、きよぽんの右手へ小さなヨーグルト容器を固定した。
「おい」
三宅の動きが止まる。
「最初から第二形態はやらないぞ」
「一つだから通常形態だ」
「通常でも持ちたくない」
「手の固定具を確認するためだ。容器を持ったまま、腕を動かしてくれ」
三宅は不満を残しながらも、右腕を上げた。
その動きに合わせて、ヨーグルト容器が斜めへ傾く。
空の容器であるため、中身がこぼれることはない。
しかし、本番でこの動きをすれば、見た目も安定性も悪い。
「手首を動かす必要はない」
オレは横から動作を説明した。
「肩から腕全体をゆっくり上げれば、容器の向きが安定する」
「こうか?」
三宅が肩から腕を持ち上げる。
先ほどよりも容器の角度は安定した。
「何でお前は、そんなに慣れてるんだよ」
「何度も中へ入ったからだ」
「それだけか?」
「構造を理解した」
長谷部が会話へ割り込む。
「きよぽんの気持ちを理解したんじゃなくて?」
「構造だ」
「身体の構造?」
「着ぐるみの構造だ」
「きよぽんの身体でしょ?」
「同じにするな」
会話をしている間にも、胴体と腕の調整は進んでいく。
次に取り付けられたのは、大きく丸い脚部だった。
三宅は、まだ頭部を被っていない状態で一歩だけ動いてみる。
足元が見えているにもかかわらず、
普段とは異なる大きな足に動きを制限され、歩幅が不自然に広がった。
「歩きにくいな」
「足を高く上げすぎるな」
オレは三宅の前へ立ち、実際の動きを説明する。
「普段の半分程度の歩幅を意識して、
踵から踏み込むのではなく、足裏全体を床へ置くように進む」
「こうか?」
三宅が一歩進んだ。
しかし、歩幅がまだ広い。
「広すぎる」
「半分って、どのくらいなんだよ」
言葉だけでは伝わりにくい。
オレは着ぐるみを装着していない状態で、きよぽんへ入った時の歩き方を再現した。
普段よりも歩幅を小さくし、足を高く上げず、
身体を僅かに左右へ揺らしながら前へ進む。
教室内が急に静かになった。
「何だ」
周囲を見ると、軽井沢が口元を押さえている。
「頭は清隆なのに、歩き方だけきよぽん」
佐藤も笑いを堪えていた。
「着ぐるみを着ないでやると、余計に面白いね」
「三宅へ説明しているだけだ」
「動画を撮っていい?」
「駄目だ」
答えた直後、撮影音が聞こえた。
「誰だ」
池が端末を身体の後ろへ隠す。
「活動記録だよ」
「消せ」
「きよぽん歩行講座!」
「公開するな」
池の端末を取り上げるかどうか考えている間にも、
三宅はオレの歩き方を見ながら練習を始めた。
最初は、身体が左右へ揺れすぎている。
「もっと小さくていい」
オレは横から修正する。
「丸い胴体の重さに逆らおうとせず、自然に揺れる範囲だけで動け」
「難しいな」
「頭部を被れば、重心は分かりやすくなる」
「やっぱり被るのか……」
ここまで装着して、頭部だけを拒否することはできない。
長谷部と幸村が、きよぽんの頭部を左右から持ち上げる。
三宅は観念したように身体を屈めた。
頭部がゆっくり下ろされ、人間の顔が完全に隠れる。
そこへ立っているのは、外見だけならオレが中へ入っていた時と変わらないきよぽんだった。
「みやっちきよぽん!」
長谷部が嬉しそうに声を上げる。
三宅きよぽんは右手を一度上げ、問題がないことを示した。
「声は聞こえる?」
「聞こえる」
頭部の中から、少しくぐもった三宅の声が響いた。
「喋ると、みやっちだね」
「当然だろ」
「きよぽんの声を作ってみて」
「きよぽんは喋らないんじゃないのか?」
「必要な時だけ喋るの」
「どんな声だよ」
長谷部がオレを見る。
「清隆くんみたいな声」
「本人の声を基準にするな」
「でも、決め台詞は清隆くんの声で広まったよ」
「三宅が同じ声を出す必要はない。基本的には無言で活動すればいい」
幸村もその方針へ同意した。
「緊急時以外、着用者は声を出さない。
説明や会話が必要な場合は、補助員が代行する」
「それなら助かる」
三宅は着ぐるみの中で、少し安心したようだった。
堀北がコースの開始位置を示す。
「直線歩行を始めるわ」
三宅きよぽんが歩き出した。
一歩目は歩幅が大きく、丸い身体が前へ傾いた。
二歩目で修正しようとしたものの、三歩目は逆に小さくなりすぎ、
歩くというより足を床へ擦っているように見える。
「急に小さくしすぎだ」
オレは隣を歩きながら助言する。
「通常の半分という数字へこだわるな。
左右の足が触れず、重心を崩さない範囲で進めばいい」
「分かった」
三宅は開始位置へ戻り、もう一度歩き始めた。
一歩目。
二歩目。
先ほどよりも自然になっている。
ただし、オレが中へ入った時よりも身体の揺れが大きい。
「みやっちのきよぽん、ちょっと元気だね」
佐倉が二体の動きの違いへ気づいた。
「歩き方だけで分かるのか?」
頭部の中から、三宅が尋ねる。
「清隆くんの時より、少し急いでる感じがする」
「三宅は普段から歩幅が広い」
オレが説明した。
「その癖が残っている。もう少し速度を落とせ」
三宅は意識して歩く速度を下げる。
今度は、途中で止まりそうになるほど遅くなった。
「遅すぎるよ」
長谷部が言う。
「注文が多いな!」
三宅の声が頭部から響いた。
「きよぽんは怒鳴らないよ」
「中身は俺だ!」
教室から笑いが起こる。
「中身を出さないで」
「だったら無茶を言うな!」
「声を出さなければ、中身の違いは分からない」
幸村は冷静だった。
「三宅は歩行へ集中しろ」
三宅は返事をする代わりに、右手を一度上げた。
数回繰り返すうち、身体の揺れは少しずつ小さくなり、歩幅も安定していった。
オレが入った時と完全に同じではない。
それでも、一目見ただけで中身が違うと気づくほどの差ではなくなってきた。
「次は方向転換を確認するわ」
堀北が床へ貼られた印を示した。
三宅は印の上で止まり、首だけを動かして振り返ろうとした。
しかし、きよぽんの頭部は人間の首のようには動かず、頭部全体が僅かにずれただけだった。
「身体ごと回る」
オレが止める。
「右足を軸にして、左足を小さく動かせ。頭だけを動かそうとするな」
三宅は言われた通り、身体全体を使って方向転換した。
ただし、勢いが強い。
頭頂部のスプーンが大きく揺れた。
「速すぎる」
長谷部が言う。
佐倉も、見え方の違いを説明した。
「急に回ると、きよぽんが何かに驚いたみたいに見えるよ」
「方向転換まで演技になるのかよ」
「キャラクターの動きは、全部が演技になるわ」
堀北が答える。
「ほりぽんも、翼を広げる速度によって印象が変わったもの」
少し離れた席で見ていた須藤が腕を組む。
「慣れるまでは大変だぞ」
「他人事みたいに言うなよ」
「俺はもう翼を動かせる」
池が笑った。
「ほりぽん側の先輩になってるじゃん」
須藤は否定しようとしたが、実際に何度も練習しているため、完全には否定できなかった。
三宅はもう一度方向転換を行う。
今度は時間をかけ、足を小さく動かしながら身体全体を回す。
スプーンも大きく揺れず、無事に成功した。
次は手振りだった。
三宅は右腕を勢いよく上げた。
手へ固定されたヨーグルト容器が、上下へ激しく揺れる。
「もっとゆっくりでいいよ」
佐倉が言った。
「きよぽんは、大きく元気に手を振る感じじゃないから」
「どうやって振ればいいんだ?」
「相手を見つけて、少し迷ってから、小さく振るの」
「そこまで細かいのかよ」
「私が相手役をやってみるね」
佐倉は、きよぽんから少し離れた位置へ立った。
その場で小さく手を振る。
三宅きよぽんは、すぐに手を振り返そうとした。
「待って」
長谷部が止める。
「きよぽんは最初、自分へ手を振られたのか分からないの」
「それも設定なのか?」
「今決めた」
「勝手に増やすなよ」
「でも、清隆くんが中へ入っていた時、山村さんを一度見てから手を振り返してたよ」
「狭い視界の中で、相手を確認しただけだ」
「それが、きよぽんらしかったの」
長谷部は、オレが意識せず行った動きを気に入っていたらしい。
「最初に、少し首を傾げる感じ」
きよぽんの首だけを動かすことはできない。
三宅は身体全体を僅かに傾けた。
大きな頭部と眠そうな目が、相手が自分へ手を振っているのか確かめているように見える。
その後、ゆっくりと片手を持ち上げ、小さく振った。
佐倉の表情が明るくなる。
「今の、すごくきよぽんっぽい」
教室からも好意的な声が上がった。
「みやっち、できてる!」
長谷部が喜ぶ。
三宅は声を出さず、右手を一度上げた。
内部から問題なしを示すための合図だったが、
外から見ると、褒められて少し照れながら応じているようにも見える。
「今の動きも使えるね」
長谷部が言う。
「何が?」
「褒められた時、右手を一回上げる」
「それは安全確認の合図だ」
幸村がすぐに止めた。
「外側から感情表現と誤解されるなら、
中断合図そのものを変更した方がいい可能性がある」
「本当に、何でも設定へ取り込まれかけるな」
三宅が着ぐるみの中で呟く。
「三回動かす中断合図を、両手を胸元へ置く動きに変える?」
長谷部が提案する。
堀北は、他のキャラクターとの重複を考えた。
「ほなわんのハートを作る動きと似るわ」
「右手で頭部へ触れるのは?」
「腕が短くて届かない」
オレが答えると、長谷部が笑った。
「そこも設定通り」
「今は安全合図の話をしている」
最終的には、現在使っている右手を素早く三回上下させる中断合図を維持することになった。
きよぽんの通常動作はすべてゆっくり行う。
安全合図だけを明確に速くすることで、感情表現と区別する。
直線歩行。
方向転換。
手振り。
段差。
狭い通路。
三宅は、用意された課題を一通り終えた。
最初の動きは、明らかにオレが中へ入った時と異なっていた。
今も細かな癖までは完全に一致していない。
それでも、交代担当として活動するための最低限の動作は身につけることができた。
「頭部を外す」
幸村の指示を受け、オレと長谷部が左右へ立つ。
きよぽんの頭部をゆっくり持ち上げると、三宅の顔が現れた。
額には汗が浮かび、髪も少し乱れている。
「暑いな」
それが頭部を外された三宅の最初の言葉だった。
「何分入っていた?」
「十八分四十秒だ」
幸村が答える。
「送風機が動いていても、結構きついな」
「だから交代が必要になる」
オレが言うと、三宅は佐倉からタオルを受け取った。
「お前が最初に一人で全部やろうとしてたの、無理があっただろ」
「最初から長時間担当するとは言っていない」
「でも、交代担当が決まらなかったら、やってただろ?」
否定はできなかった。
主担当として必要であれば、引き受けていた可能性はある。
三宅は首へ冷却材を当てながら、きよぽんの頭部を見た。
「今日、中へ入って分かった。一人で全部やるのは無理だ。ちゃんと交代する」
「みやっち」
長谷部が嬉しそうに近づく。
「きよぽんになってくれる?」
「言い方を変えろ」
「交代担当をしてくれる?」
「それならいい」
「正式きよぽん二号」
「番号を付けるな!」
教室に笑いが起こった。
それでも三宅は、すぐに席へ戻ろうとはしなかった。
きよぽんの頭部や胴体を見ながら、自分が中へ入って気づいたことを話し始める。
「思っていたより外の声が聞こえないんだな」
「布と送風機の音で遮られる」
オレが答える。
「見える範囲も狭い。誰かが横から近づいても、正面へ来るまで分からない」
「だから補助員が必要になる」
「長谷部だけに任せるのは不安だな」
「何で?」
長谷部が不満そうに振り返る。
「きよぽんを可愛く動かすことを優先して、安全確認を忘れそうだから」
「忘れないよ」
「今日も、練習開始直後からヨーグルトを持たせようとしてただろ」
「あれは通常形態だよ」
「そういう問題じゃねぇ」
幸村は話を聞きながら、役割表を修正した。
「補助員は長谷部と佐倉の二名体制がいい。
長谷部は前方で演出や観客対応を担当し、
佐倉は側面から周囲の安全を確認する」
「私?」
佐倉が驚いたように自分を指した。
「嫌か?」
「嫌じゃないけど……緊急の時に、ちゃんと大きな声を出せるかな」
「補助員には、危険を感じた時に着用者や周囲を止める役割があるわ」
堀北が言う。
「難しいと思うなら、平田くんや軽井沢さんを追加してもいい」
佐倉は少し考えた。
その視線が、専用台へ置かれているきよぽんへ向く。
顔の表情。
薄く色を付けた頬。
身体へ取り付けられたひとやすみポーチ。
どれも、佐倉が制作へ深く関わった部分だった。
「やります」
声は小さい。
それでも、迷いのない返事だった。
「きよぽんの横を歩きます」
長谷部が嬉しそうに佐倉の手を取った。
「愛里はマネージャー補佐ね」
「補佐?」
「私がメインのマネージャーだから」
「安全管理については、佐倉が主担当だ」
幸村が訂正する。
「私は企画担当」
「半公認だ」
オレが言うと、長谷部が勢いよくこちらを見る。
「また半分に戻った!」
「四分の三まで増えた覚えはない」
「今日、他クラスへ許可を取る作業も全部したよ」
「それについては評価している」
「だったら少し増やして」
「公認は割合で増減するものではない」
三宅がタオルで汗を拭きながら笑った。
「もう公認してやればいいだろ。実際、長谷部が一番きよぽんのことを考えてるんだから」
教室が少し静かになった。
長谷部も、驚いたように三宅を見る。
「何?」
「お前が考えたキャラクターだし、企画も宣伝もやってる。
マネージャーでいいんじゃないかって言ってるんだ」
「みやっち……」
「感動するなよ。俺を着ぐるみへ入れた分、責任を持って働けって意味だからな」
「それでもいい」
長谷部はオレを見た。
周囲にいる生徒たちも、オレの返答を待っている。
公認する。
それだけのことだった。
しかし、長谷部にとっては、試験の初めから自称し続けてきた役割である。
きよぽんを生み、少しずつ育て、クラス代表へ押し上げた。
これまでの行動を考えれば、正式に認めても問題はない。
「分かった」
長谷部が目を見開く。
「本当に?」
「きよぽんに関する企画と、対外的な対応について、
長谷部を正式なマネージャーとして認める」
長谷部は数秒間、まったく動かなかった。
その後。
両手を大きく上げる。
「公認!」
「ただし、勝手な設定の追加や、
他クラスのキャラクターを使った宣伝を行う場合は、堀北と幸村へ事前に確認すること」
「条件が多い!」
「当然だ」
「でも、公認なんだよね?」
「ああ」
長谷部は綾小路グループの三人へ振り返った。
「聞いた? 愛里、みやっち、ゆきむー!」
「聞いてたよ」
佐倉が嬉しそうに笑う。
三宅も肩をすくめた。
「よかったな」
幸村は役割表へ、新しい担当を書き込んだ。
『公式マネージャー・長谷部波瑠加』
「公式!」
長谷部は黒板へ書かれた文字を見て、さらに嬉しそうにした。
森下がこの場にいれば、自分も公式研究員へ登録するよう求めてきただろう。
いない間に決めることができたのは幸いだった。
「清隆くん」
長谷部は改めて、オレへ顔を向けた。
「ありがとう」
「役割を認めただけだ」
「それでいい」
先ほどまでの騒がしさを少しだけ抑え、長谷部は真面目な表情になった。
「きよぽん、絶対に優勝させるから」
以前にも、同じ言葉を聞いたことがある。
まだきよぽんが代表候補ですらなく、頭部も胴体も存在しなかった頃だった。
その時のオレは、長谷部が勝手に進めればいいと思っていた。
今は違う。
オレが主担当となり、三宅が交代要員になった。
佐倉が安全を支え、幸村が構造を管理し、堀北が制作全体をまとめる。
長谷部一人だけで勝たせるキャラクターではなくなっている。
「一人で勝たせる必要はない」
オレが言うと、長谷部が少し目を見開いた。
「きよぽんは、一人では大きな丸を作れないんだろ」
「うん」
「なら、優勝も全員で目指せばいい」
教室内が静かになった。
長谷部は、しばらくオレを見た後、少しだけ笑った。
「きよぽんが一番、きよぽんの設定を使いこなしてる」
「必要な場面で使っただけだ」
「本人監修」
「最低限だ」
「公式マネージャーとして記録します」
「記録するな」
以前と同じようなやり取りだった。
ただし、長谷部の肩書は、今度から自称ではない。
◯
その日の夕方、修正された四天王ポスターが、学園内の掲示板へ正式に貼り出された。
先日問題となった四体の大きさは、すべて同じ程度へ調整されている。
ほなわんの耳。
ありすぽーんの王冠。
ぶっくまるの丸眼鏡と本。
きよぽんのヨーグルト容器とスプーン。
それぞれの装飾も、他のキャラクターへ隠れないよう配置されていた。
題名の下には、四天王という呼称が
学園側の正式名称ではないことも、小さく明記されている。
それでも、生徒たちは四体をゆるキャラ四天王と呼び続けた。
一之瀬クラスは、独自の宣伝画像として『ほなわんと三人のお友達』を制作した。
中央にはほなわんが立ち、その周囲にありすぽーん、ぶっくまる、きよぽんが並んでいる。
ほなわんが三体へお友達カードを渡す場面を描いた、明るく親しみやすい広告だった。
坂柳クラスが制作したのは、『ありすぽーんと三つの試練』。
ほなわんの友情。
ぶっくまるの知恵。
きよぽんの休息。
三体との交流から学びながら、
ありすぽーんが王冠に相応しい存在へ成長する物語になっている。
龍園クラスは、『ぶっくまるの四天王図鑑』を制作した。
本のページを模した形式で、四体の能力や特徴、
得意なこと、苦手なことを紹介する宣伝物である。
そして堀北クラスでは、長谷部が企画した短編動画、
『ゆるキャラ四天王 ありすぽーんを救え!』
を四クラス合同で制作する方向へ動き始めていた。
競争相手であることに変わりはない。
それでも、互いのキャラクターを使い、互いを宣伝し、
それぞれの解釈で四体の関係を描いている。
一体だけを個別に宣伝するよりも、四体の関係性を前面へ出したことで、
試験全体への注目はさらに大きくなっていた。
学園祭の一般投票では、最後に一体を選ばなければならない。
しかし今の段階では、多くの生徒が四体すべてを楽しんでいる。
◯
翌日へ向けた片づけが終わる頃には、教室の時計は午後六時を回っていた。
きよぽんの胴体は専用台へ固定され、頭部はその隣の箱へ収納されている。
三宅が使用した冷却材は、ひとやすみポーチから外され、
佐倉が消毒と乾燥の準備を進めていた。
幸村は、三宅が行った歩行練習の結果を記録している。
通常歩行は、速度がやや速い。
方向転換は、練習後に改善。
手振りは良好。
段差は問題なし。
狭い通路では、身体を斜めにする角度が少し大きい。
発声は、緊急時以外は禁止。
「次はオレと三宅が交互に同じ動作を行い、差を確認する必要があるな」
オレが言うと、三宅は机へ突っ伏した。
「次もあるのかよ」
「一回で終わると思っていたのか」
「少しくらいは期待してた」
「学園祭までは続けるわ」
堀北が答える。
「着ぐるみ演技は、ただ歩けばいいものではない。
ほなわん、ありすぽーん、ぶっくまるとの交流動作も覚えてもらう必要があるわ」
三宅が顔を上げた。
「ほなわんに抱きつかれるのも?」
「安全な接触方法が確認された場合はね」
「俺が最初にやるのか?」
「主担当が先だ」
オレが答えると、三宅はすぐにこちらを見る。
「清隆、頼んだ」
「状況によっては、すぐ交代する」
「友達なんだから受け止めてやれよ」
「きよぽんの友達だ」
「中へ入るのはお前だろ」
「同一視するな」
片づけを終えた長谷部が、こちらへ近づいてきた。
その腕には、見慣れない白い腕章が付いている。
「それは何だ」
「公式マネージャーの証」
腕章の中央には、きよぽんの顔が描かれていた。
その横には青い文字で、
『きよぽん公認マネージャー』
と書かれている。
「オレが公認したのは、クラス内の役割だ」
「だから公認で合ってるよ」
「きよぽん本人が認めたように書くな」
「同じでしょ」
「違う」
「違う。きよぽんが勝手に?」
「今回はオレが決めた」
長谷部の動きが止まった。
これまで、きよぽんに関する出来事のほとんどは、
長谷部が勝手に進め、オレが否定する形だった。
しかし今回は違う。
長谷部をマネージャーとして認めたのは、オレ自身である。
クラス代表の着用者として。
制作へ関わる一人として。
必要な役割だと判断した。
「じゃあ」
長谷部は自分の腕章を見下ろした。
「清隆くん公認マネージャー?」
「それも違う」
「難しいなあ」
「『堀北クラス公認』でいいだろう」
幸村が提案する。
「それなら正確だ」
堀北も頷いた。
長谷部は少し迷った後、腕章の文字の上へ小さな紙を重ねた。
『堀北クラス公認・きよぽんマネージャー』
三宅が腕章を見る。
「長いな」
「でも正確」
「文字が腕章からはみ出してるぞ」
「明日、作り直す」
長谷部は、それでも満足そうだった。
「公認マネージャーとして、最初の仕事があります」
「何だ」
「四天王動画への出演交渉」
「すでに企画は進んでいるだろ」
「きよぽん役の正式な許可がまだだから」
「出演するとは言っていない」
「さっき、座るだけならって言ったよ」
「安全に実施できる場合だ」
「マットあり。転倒場面なし。十五分以内。冷却材あり。みやっちとの交代可能」
長谷部は、すでに必要な条件を整理していた。
以前のように、面白そうだから実行するというだけではない。
オレや三宅の負担。
着ぐるみの安全性。
他クラスからの許可。
必要な要素を考えた上で、企画を進めようとしている。
正式なマネージャーとして認めた判断は、間違いではなかったのかもしれない。
「正式な進行表を確認してから判断する」
「断らない?」
「確認してから決める」
「やった!」
「まだ引き受けていない」
「確認してから引き受けるんだね」
「勝手に言葉を変えるな」
三宅が笑った。
「もう出る気になってるだろ」
「クラスの宣伝に有効なら、検討する価値がある」
「きよぽん四天王、俳優デビュー」
長谷部が言う。
「着ぐるみだ」
「スーツアクター」
「その呼び方はやめろ」
「格好いいのに」
「きよぽんには合わない」
「また設定で判断してる」
「必要な判断だ」
長谷部は嬉しそうに、長くなった腕章を直した。
教室後方の収納箱の上には、きよぽんの頭部が置かれている。
その隣には、ほりぽんの頭部も並んでいた。
黒板には、四天王ポスター。
ほなわん。
ありすぽーん。
ぶっくまる。
きよぽん。
四体の関係は、生徒たちの冗談から始まった。
しかし今では、本当に一つの物語へ変わろうとしている。
最初に転ぶのは、ありすぽーん。
ほなわんが仲間を呼ぶ。
ぶっくまるが本を探す。
きよぽんが隣へ座る。
四体はそれぞれ、自分にできる方法で一人を助けようとする。
派手な戦いはない。
倒すべき敵もいない。
誰かより強くなる必要もない。
それでも、四天王だった。
ほなわんが象徴する友情。
ありすぽーんが示す不屈。
ぶっくまるが与える知恵。
きよぽんが守る休息。
高度育成高等学校史上、恐らく最も平和で、最も戦う意思のない四天王。
その最初の短編映像が、間もなく制作されようとしていた。
ただし、撮影前の打ち合わせで、ありすぽーん役の森下が、
「転倒場面は実演した方が迫力を得られます」
と主張し、神室と山村の二人から同時に止められることになるのは、もう少し後の話である。