学園祭当日の朝、高度育成高等学校の正門前には、
開門時刻を迎える前から多くの一般来場者が列を作っていた。
在校生の家族や学校関係者だけではなく、
高度育成高等学校への進学を検討している中学生とその保護者、
周辺地域の住民、学園側から招待された教育関係者も集まっている。
普段は外部との接触が限られている生徒たちにとって、
これほど多くの人間を校内へ迎え入れる日は珍しかった。
校舎の廊下には各クラスが制作した案内板が並び、
飲食物を扱う模擬店からは調理の音と匂いが漏れている。
体育館では舞台発表の最終確認が続き、
校庭では運動部や文化部の生徒たちが展示物を運びながら、
開門までに準備を終わらせようと動き回っていた。
その学園祭の中心的な催しの一つとして組み込まれているのが、
第一回高度育成高等学校ゆるキャラ選手権である。
一之瀬クラスのほなわん。
坂柳クラスのありすぽーん。
龍園クラスのぶっくまる。
堀北クラスのきよぽん。
四体は合同動画を制作し、共同グッズを作り、
学園祭前日まで同じ体育館で練習してきた。
しかし、本日は明確な競争相手だった。
来場者は四体のブースや合同ステージを見た後、
退場時に最も良かった一体へ投票する。
一般投票だけではなく、専門審査、グッズ売上、宣伝活動、
着ぐるみの完成度や演技も評価され、
総合一位となったクラスだけが300クラスポイントを獲得する。
昨日まで協力していたからといって、勝利を譲る者はいない。
午前八時を過ぎた頃、堀北クラスの教室では、
きよぽん休憩所の設営と着ぐるみの最終確認が同時に進められていた。
教室中央にあった机は壁際へ寄せられ、
窓側には柔らかな椅子とクッションが十分な間隔を空けて配置されている。
入口には大きく目立つ看板を置かず、
廊下から存在を確認できる程度の小さな案内板だけが立てられていた。
『きよぽんのひとやすみ所』
その下には、利用方法が簡潔に記されている。
話さなくても構いません。
一人で座っても構いません。
きよぽんへ手を振らなくても構いません。
疲れた時に、少しだけ休んでください。
学園祭の企画としては、明らかに消極的だった。
通常なら廊下へ出て声を張り、来場者へ積極的に企画を売り込む。
写真撮影や限定グッズを目立つ場所へ置き、
まずは教室へ足を向けさせることが重要になる。
しかし、きよぽん休憩所では、その方法を採用しなかった。
廊下で大声を出さない。
教室へ入った者へ、必要以上に話しかけない。
写真撮影を無理に勧めない。
きよぽんとの交流を望む者だけが、自分から近づく。
軽井沢と佐藤は入口の案内板を見ながら、最後まで不安を隠せない様子だった。
「本当に呼び込みをしなくていいの?」
軽井沢が尋ねると、教室全体を見渡していた堀北は、作業の手を止めずに答えた。
「休憩所があることだけは案内して。
ただし、興味を示していない人を無理に連れてくる必要はないわ。
ここへ入りたいと思った人が、自分で選べるようにする」
「でも、ほなわんは絶対に積極的に呼び込むよ」
佐藤も廊下の先を気にしている。
「ぶっくまるは読書会をするし、ありすぽーんも目標カードを配るんでしょ。
こっちだけ静かにしていたら、存在に気づいてもらえないかもしれないよ」
「何もしないわけではないわ」
堀北は案内板の横へ置かれた小冊子を示した。
冊子には、きよぽんの簡単なプロフィール、休憩所の説明、
合同動画への案内、グッズの紹介が一枚にまとめられている。
「派手な呼び込みをしないこと自体が、他の三体との差になるの。
賑やかな場所へ行きたい人は、ほなわんたちのところへ行けばいい。
私たちは、その賑やかさに疲れた人を迎える」
「他のブースが賑やかだから、きよぽんの場所が必要になるんだね」
佐倉が、きよぽんの頬に付いた布の位置を整えながら言った。
「もし全部の教室が静かだったら、休憩所を作る意味も薄くなるから」
「そういうことよ」
堀北は認めた。
「全員が同じ方法で勝負する必要はない。
必要としてくれる人へ、きよぽんの良さが届けばいいわ」
教室後方では、三宅が午前中最初の着用者として準備を始めていた。
制服の上着を脱ぎ、首元へ薄い布を巻いた後、
きよぽんの胴体フレームへ身体を入れる。
幸村は着用時間を管理する記録用紙を持ち、
肩の支持具や送風機の状態を一つずつ確認していた。
「朝一番から俺なのか」
三宅は不満そうに言ったが、手順そのものは以前よりずっと滑らかだった。
「昨日も確認しただろう。十五分着用した後に十分休憩し、
状態を確認してから次の着用へ進む」
「着たり脱いだりする方が疲れそうなんだけどな」
「連続して長時間入るより安全だ」
「分かってるよ」
三宅は自分から右腕の固定具を動かし、僅かな緩みへ気づいた。
「ここ、昨日より動くぞ」
オレが外側から確認すると、留め具の位置が一段ずれていた。
「運搬中に動いたらしい。今戻す」
留め具を外し、適切な位置へ固定する。三宅が腕を上げると、
きよぽんの短い右腕も身体の横から安定して持ち上がった。
「これなら問題ない」
「きよぽん一号が、きよぽん二号を助ける感動場面ですね」
公認マネージャーの腕章を付けた長谷部が、端末へ何かを書き込みながら言った。
「一号と二号に分けるな」
「今は俺がきよぽんで、清隆が補助なんだから、
少しくらい番号を付けてもいいんじゃないか?」
三宅まで面白がっている。
「中に入っている時間だけだ。キャラクター自体は一体だ」
「じゃあ、外にいる清隆は何になるの?」
長谷部が尋ねた。
「綾小路清隆だ」
「きよぽん待機形態」
「新しい形態を増やすな」
「ヨーグルトを持っていないから、戦闘能力はゼロ」
「元から戦闘能力はない」
朝から同じようなやり取りを続けているうちに、
学園祭本番を前に緊張していた教室内の空気も少しずつ和らいでいった。
最後に、長谷部と幸村が頭部を持ち上げ、屈んだ三宅へ下ろす。
人間の顔が隠れ、眠そうな表情のきよぽんが立った。
長谷部が正面へ回り込む。
「きよぽん」
三宅きよぽんは、すぐに身体を向けた。
オレは反応しなかった。
長谷部がこちらを見る。
「今日は引っかからないね」
「昨日の件があるから警戒している」
「きよぽんって呼ばれると、自分の名前みたいに感じ始めてる証拠だよ」
「違う」
頭部の中から三宅が笑う声が漏れた。
「中では声を出さない」
幸村が注意すると、三宅きよぽんは右手を一度上げ、問題なしの合図を示した。
午前九時。
正門が開いた。
多くの来場者が案内係の生徒たちに誘導されながら、
高度育成高等学校の敷地内へ入り始めた。
学園祭と、四体の最終勝負が始まった。
◯
開門直後、最も早く来場者を集めたのは、一之瀬クラスのほなわんだった。
校舎入口に近い広場へ設置されたブースには、
オレンジ色の布と色鮮やかな風船が飾られている。
中央では、大きな耳と笑顔を持つほなわんが、
来場者を見つけるたびに両手を広げて迎えていた。
着ぐるみの中へ入っているのは一之瀬である。
本人とキャラクターの性格がほとんど一致しているため、動きに迷いがない。
相手が子供なら身体を低くし、
年配の来場者なら急いで近づかず、少し離れた位置から手を振る。
合同練習では誰へでも抱きつこうとして神崎に止められていたが、
本番では事前に決められた条件を守っていた。
相手から両腕を広げた場合だけ。
補助員が周囲の安全を確認した後。
三秒以内。
大きな耳が相手や周囲の装飾へ引っかからない角度。
小さな女の子が、ほなわんの前で両腕を広げる。
ほなわんは一度神崎を見る。
神崎が周囲を確認し、頷く。
ほなわんはゆっくりと近づき、大きな手で女の子の肩を包んだ。
一秒。
二秒。
三秒。
決められた時間で離れる。
女の子が嬉しそうに笑うと、ほなわんは胸元でハートを作ろうとした。
丸い手では正確な形にはならなかったが、
女の子も両手で半分のハートを作り、二人の手を近づける。
歪んだハートだった。
それでも周囲の来場者たちは、楽しそうに写真を撮っていた。
「ほなわん、一番人気になりそうだね」
堀北クラスの廊下から様子を確認していた佐藤が言った。
「子供への強さが全然違う」
軽井沢も認める。
「見た目も分かりやすいし、すぐ写真を撮りたくなるもん」
ほなわんの魅力は、一目で伝わる。
犬。
笑顔。
大きな耳。
友達。
長い説明を読まなくても、どのようなキャラクターなのか理解できる。
さらに一之瀬本人の性格と一致しているため、着ぐるみの演技にも無理がなかった。
その一方で、きよぽん休憩所へ入る来場者は、
開門から十分が経過してもほとんどいなかった。
廊下を歩く者たちは案内板へ一度目を向けるものの、
内部から声をかけられないため、そのまま通り過ぎていく。
最初の利用者は、保護者らしい男女二人だった。
「休憩所ですか?」
女性が入口で尋ねると、平田が穏やかに答えた。
「はい。空いている椅子を自由に使ってください。
飲食は蓋の閉まる飲み物だけ可能です。会話をしなくても構いません」
二人は少し珍しそうに教室へ入り、窓際の椅子へ座った。
教室奥の低い椅子へ座っている三宅きよぽんは、
二人が入った瞬間には手を振らなかった。
女性がきよぽんへ小さく手を振る。
三宅は一度身体を傾け、
自分へ向けられたものなのかを確認する動きを見せた後、
ゆっくり右手を持ち上げて振り返した。
女性は小さく笑った。
「可愛い」
大きな声ではない。
きよぽんも、それ以上動こうとはしなかった。
二人は数分間休んだ後、入口へ置かれた冊子を一部だけ持って教室を出ていった。
「二人」
長谷部が記録する。
「ほなわんのところは、もう何十人もいるよ」
軽井沢の言葉に、長谷部は少し焦りを見せた。
それでも廊下へ出て、大きな声で呼び込みを始めようとはしなかった。
「まだ始まったばかりだから」
「本当にこのままでいいの?」
「ここで私が叫んだら、きよぽん休憩所じゃなくなる」
公認マネージャーとして、長谷部も目先の人数だけで方針を変えないよう耐えていた。
「学園祭の開始直後から休憩したいと思う人が少ないのは当然だ」
オレが言うと、長谷部がこちらを見る。
「どういうこと?」
「入場した直後は、来場者も体力がある。
最初に展示や模擬店を見たい者が多い。
休憩所の利用者が増えるとすれば、昼前から午後にかけてだ」
「きよぽん、最初から分かってた?」
「予想できる範囲だ。堀北や幸村も同じように考えているはずだ」
幸村は安全記録から顔を上げずに答えた。
「利用者予測では、午前中は少なく、午後一時から三時が最多になると書いた」
「そんな資料あった?」
「マネージャーなら読め」
「後で読む」
「今読め」
長谷部が資料の束から利用者予測を探していると、
三宅きよぽんが少しだけ身体を向けた。
長谷部が気づく。
「きよぽんも呆れてる?」
三宅は右手を一度上げた。
問題なしの合図。
「肯定した」
「安全合図を感情表現として解釈するな」
幸村の訂正を受けながら、休憩所は静かなまま、少しずつ利用者を受け入れ始めた。
◯
ありすぽーんのブースは、四クラスの中で最も展示物が整っていた。
白と金を基調とした空間の壁には、
ありすぽーんが何度も転びながら少しずつ前へ進む絵が、
物語の順番に沿って並べられている。
来場者は小さな目標カードへ、今日やりたいこと、
明日から始めたいこと、いつか挑戦したいことを書く。
そのカードをありすぽーんへ渡すと、王冠型の印を押して返してくれる仕組みだった。
中に入っている森下は、昨日のリハーサルで王冠を落とした。
その後、山村が一晩かけて固定具を調整している。
王冠の内側へ柔らかな帯を追加し、頭部との接触面を広げたため、
大きく動かなければ簡単には外れない。
問題は、森下が大きく動かない保証がないことだった。
最初の数十分、森下は山村との約束を守っていた。
カードを受け取る。
王冠型の印を押す。
両手で返す。
小さく頭を下げる。
王冠は落ちない。
「森下さん、完璧です……」
山村が補助位置から声をかけると、ありすぽーんは右手を一度上げた。
次の来場者は、ありすぽーんより少し背の低い男の子だった。
カードには、ひらがなで『さかあがりができるようになりたい』と書かれている。
ありすぽーんは印を押し、カードを返した。
男の子は受け取った後、ありすぽーんへ尋ねる。
「ありすぽーんも、できないことある?」
着ぐるみは話さない。
森下は動きだけで答えなければならなかった。
ありすぽーんは一度自分の王冠を指し、その後、床へ向けて短い腕を伸ばした。
腕は届かない。
王冠を落とした時、自分では拾えない。
そう伝えようとしているのだろう。
男の子は理解した。
「じゃあ、落としたらぼくが拾ってあげる」
ありすぽーんの動きが止まった。
数秒後。
両手が大きく上がる。
森下は喜びを表そうとしたらしい。
王冠が傾く。
山村がすぐに片側を支え、神室が反対側から押さえた。
落下は避けられた。
「森下、嬉しくても腕は肩より上へ上げないで」
神室が小声で注意する。
ありすぽーんは腕を下げ、山村と神室、そして男の子へ順番に頭を下げた。
男の子は笑う。
「本当に落ちそうだった」
その場面を見ていた来場者たちは、
演出と事故の境界が分からないまま、楽しそうに拍手した。
「今のは良い場面でしたね」
白石が穏やかに言う。
「ありすぽーんができないことを、来場者の方が助けてくださる。
見ているだけではなく、一緒に物語へ入っていただけます」
「毎回王冠を落とすわけにはいかないけどね」
神室は現実的だった。
坂柳はブース全体を見守りながら、来場者の反応を静かに記録している。
ありすぽーんは合同動画で、きよぽんへ注目を奪われた。
それでも、単体の物語は弱くない。
失敗する。
一人ではできない。
誰かに助けてもらう。
その上で、もう一度前へ進む。
壁へ貼られる目標カードが増えるほど、
ありすぽーん自身が来場者の挑戦を集める存在になっていく。
ただし、坂柳の視線は時折、共同グッズ売り場へ向いていた。
王冠単品。
ヨーグルト単品。
王冠とヨーグルトの友好セット。
販売数は順調に増えている。
現時点では、ヨーグルト単品が王冠単品を僅かに上回っていた。
「気になりますか?」
白石が尋ねた。
「何がです?」
坂柳は笑みを崩さない。
「共同グッズの売れ方です」
「もちろん確認しています。競争ですから」
「きよぽんの方が、少しだけ多いようですね」
「始まったばかりです」
「はい」
白石はそれ以上追及しなかった。
坂柳は不安を表へ出さない。
それでも、動画の話題だけではなくグッズ販売でも
きよぽんが人を引きつけていることを、競争相手として明確に警戒していた。
◯
ぶっくまるのブースは、図書室前の廊下から内部へ続く形で設置されていた。
騒がしい呼び込みを行わない点では、きよぽん休憩所と似ている。
ただし、ぶっくまるには本がある。
入口には、来場者の気分や好みに合わせて本を選ぶ簡単な案内が置かれている。
冒険したい。
笑いたい。
静かに過ごしたい。
動物を知りたい。
何かを作りたい。
項目を選ぶと、ぶっくまるが棚から一冊を探し、両手で渡してくれる。
最初の着用者はひよりだった。
ぶっくまるの動きは合同練習の時よりも滑らかになっている。
本棚へ近づく。
背表紙を見る。
一冊を選ぶ。
腕の内側へ固定する。
来場者の前へ戻る。
両手で差し出す。
急がない。
しかし待たせすぎない。
小さな女の子が「お菓子を作る本」と言えば、子供向けの料理本を選ぶ。
中学生が「難しい推理小説」と言えば、図書室の蔵書案内と共に候補を示す。
年配の男性が「この学校について分かる本」と尋ねれば、
高度育成高等学校の紹介冊子を持ってくる。
ぶっくまるは話さない。
ひよりの代わりに、石崎が説明を担当した。
「それなら、こっちの方が読みやすいと思います。
難しい方がいいなら、もう一冊もあるので、両方見て決めても大丈夫です」
石崎は本に詳しい生徒ではなかった。
それでも制作期間中、ひよりと共に候補となる本を選び、紹介文を何度も読んでいる。
説明は洗練されていないが、来場者へ無理に一冊を押しつけず、
ひよりが選んだ理由を自分なりの言葉で伝えていた。
ブースの少し後方では、龍園がぶっくまるの動きを見ている。
「本を渡した後、すぐ次へ行くな」
龍園が石崎へ言った。
「相手が表紙を見るまで少し待て。追い出してるように見える」
「分かりました、龍園さん」
石崎がひよりへ伝える。
次の来場者へ本を渡したぶっくまるは、その場で少し待った。
来場者が表紙を見る。
笑う。
ぶっくまるも小さく身体を揺らす。
「良くなった」
龍園は短く評価した。
伊吹が隣で腕を組んでいる。
「細かいわね」
「勝つためだ」
「ぶっくまるが可愛いからじゃない?」
「関係ねぇ」
「眼鏡、少し曲がってるけど」
龍園の視線が、すぐにぶっくまるへ向いた。
丸眼鏡の右側が僅かに下がっている。
龍園は来場者の邪魔にならない位置から近づき、両手で眼鏡を真っ直ぐに直した。
伊吹が笑う。
「反応早すぎ」
「見た目が崩れたまま客前に出せるか」
「はいはい」
龍園は眼鏡の角度を確認した後、ぶっくまるの頭部を軽く一度叩いた。
中のひよりが、小さく手を振る。
龍園は振り返さず、「次も行け」とだけ言った。
ぶっくまるの読書会は、ほなわんのような派手な列を作っていない。
その代わり、一人当たりの滞在時間が長かった。
子供が椅子へ座り、本を読む。
保護者が子供へ読み聞かせる。
読書好きの中学生が、四天王図鑑を何度も見直す。
目立ち方は静かでも、ぶっくまるは着実に支持を集めていた。
◯
午前十時を過ぎた頃、校内の空気を一変させる存在が正面玄関から現れた。
正式代表四体のいずれでもない。
低い足音と共に、人の流れが左右へ割れる。
黒い学ラン風の衣装。
広い肩。
筋肉を過剰に強調した大きな腕。
顔はゴリラだが、目元と髪型だけは不自然なほど爽やかな美男子風に整えられている。
胸には金色の大きな文字で『剛』。
二年生の宝泉と七瀬が制作した、飛び入りゆるキャラ。
イケメンゴリラのゴリ泉くん。
正式代表ではなく、選手権の採点対象にも含まれない。
一年生側の学園祭企画として、七瀬が試験運営へ申請し、
校内を巡回する許可だけを得たらしい。
問題は、中へ入っている人物だった。
ゴリ泉くんは、近くにいた男子生徒へ手を振る。
腕の動きが速く、大きい。
周囲へ風が起こり、男子生徒は反射的に一歩下がった。
横に付いていた七瀬が、すぐに注意する。
「宝泉くん、力を三割に抑えてください」
着ぐるみの頭部から、宝泉の低い声が響いた。
「今ので三割だ」
「では一割でお願いします」
「これ以上弱くしたら、動いてるか分からねぇだろ」
「十分に分かります」
やはり中身は宝泉本人だった。
当初は別の生徒へ着せる予定だったが、
試着担当者の動きが弱々しいことに宝泉が苛立ち、
自分から着ぐるみを奪うように着用したという。
制作段階では「俺をゴリラ扱いしてんじゃねぇ」と激怒していたにもかかわらず、
現在は自分から広場の中央へ立ち、ゴリラらしい動きを見せている。
ゴリ泉くんは両拳で胸を叩いた。
一回目。
二回目。
三回目。
着ぐるみ内部の空洞へ音が響き、予想以上の重低音が校舎まで届いた。
近くの子供たちが驚き、一部は喜び、一部は保護者の背後へ隠れる。
「宝泉くん、音量を半分にしてください」
七瀬が冷静に言う。
「胸を叩くのに音量調整なんかできるか」
「力を弱めればできます」
「面倒くせぇな」
それでも次は少し弱く叩いた。
一人の男の子が、ゴリ泉くんの前へ近づく。
「ゴリ泉くん、かっこいい」
ゴリ泉くんの動きが止まった。
着ぐるみの中の宝泉がどのような表情をしているのかは分からない。
数秒後。
ゴリ泉くんは先ほどまでとは異なる速度で、ゆっくり右手を上げた。
子供の頭を撫でようとしたのかもしれない。
しかし、大きな手が頭上へ近づくと、それだけで威圧感がある。
七瀬が腕の進路を少し横へ変え、子供の肩へ軽く触れさせた。
「今ので一割です」
「うるせぇ」
「適切な力でした」
男の子は嬉しそうに、ゴリ泉くんと写真を撮った。
その後、宝泉の動きは僅かに穏やかになった。
「正式参加してたら、意外と強敵だったかもな」
須藤が廊下から見ながら言う。
「迫力だけなら一位かもしれない」
「ゆるくないわ」
堀北は冷静に答えた。
「それに採点対象ではない」
ゴリ泉くんは、最初にほなわんのブースへ向かった。
大きなゴリラへ気づいたほなわんは、喜んで両手を振る。
ゴリ泉くんも片手を上げた。
二体が近づき、ほなわんが握手を求める。
ゴリ泉くんが握る。
ほなわんの身体が前へ引かれた。
神崎が背後から支え、七瀬がゴリ泉くんの腕を押さえる。
「宝泉くん、一割です」
「握手に一割も三割もあるか」
「あります」
「こんな丸い手じゃ、加減が分かんねぇんだよ」
「では握らず、触れるだけにしてください」
二回目は、丸い手同士を軽く重ねるだけにした。
成功。
ほなわんは嬉しそうに、お友達カードを差し出す。
ゴリ泉くんは大きな手で小さなカードを受け取ったが、
そのままでは見失いそうになったため、七瀬が胸元のポケットへ入れた。
「友情成立ですね」
「勝手に決めんな」
宝泉は否定したものの、カードを返そうとはしなかった。
続いてゴリ泉くんが現れたのは、きよぽん休憩所だった。
入口へ立った瞬間、静かな教室の空気が変わる。
大きな身体。
重い足音。
黒い学ラン。
胸の『剛』。
椅子へ座っていた来場者たちが、驚いてゴリ泉くんを見る。
「静かに歩いてください」
七瀬が注意した。
「普通に歩いてるだけだ」
「宝泉くんの通常歩行は、一般的な歩行より音が大きいです」
「身体がでけぇんだから仕方ねぇだろ」
「ここは休憩所です」
「分かってる」
ゴリ泉くんは教室の奥へ座っている三宅きよぽんを見つけると、その前へ立った。
ゴリラ。
ヨーグルト。
方向性が違いすぎる二体だった。
「おい、ヨーグルト」
宝泉の低い声へ、教室内の来場者から笑いが起こる。
「勝負しろ」
三宅きよぽんは、ゆっくり見上げた。
ゴリ泉くんは返事を待つ。
きよぽんは立たない。
勝負もしない。
長谷部が横から説明する。
「きよぽんは勝負をしません」
「四天王なんだろ」
「非公式です」
「だったら何をする四天王だ」
「休息です」
「弱ぇな」
三宅きよぽんは、右手へ固定されていた撮影用のヨーグルト容器をゆっくり差し出した。
予定にはない、三宅自身の判断だった。
ゴリ泉くんの動きが止まる。
「何だ」
「ヨーグルトです」
長谷部が答える。
「見りゃ分かる」
「一緒に休む?」
「勝負にならねぇだろうが」
宝泉は文句を言いながら、大きな手で小さなヨーグルト容器を受け取った。
七瀬がすぐに言う。
「ゴリ泉くんときよぽん、友情成立ですね」
「成立してねぇ!」
教室へ笑いが広がった。
ゴリ泉くんは容器を返そうとしたが、三宅きよぽんは手を出さなかった。
「おい。持ってけ」
きよぽんは動かない。
七瀬はゴリ泉くんの胸元へ、ヨーグルト容器を固定した。
「何で俺が付けるんだよ」
「友好の印です」
「外せ」
「記念写真だけお願いします」
胸元へヨーグルトを付けたゴリ泉くんと、椅子へ座るきよぽんが並ぶ。
写真が撮影される。
その画像は後に、『剛と発酵』という意味不明な題名で校内へ広がることになった。
ゴリ泉くんは休憩所を出る直前、きよぽんへ振り返った。
「今度は動ける勝負にしろ」
三宅きよぽんは、小さく手を振った。
宝泉は振り返さず、代わりに拳を一度だけ上げた。
七瀬は満足そうだった。
「また一人、お友達が増えましたね」
「増えてねぇ」
そう答えながらも、ヨーグルト容器はゴリ泉くんの胸元へ付いたままだった。
◯
正午が近づくと、きよぽん休憩所の利用者は予想通り増え始めた。
午前中に複数の展示を回った家族。
人混みの中を歩き続けた高齢者。
慣れない校内で緊張している中学生。
昼食を取る場所を探している来場者。
教室内の椅子は半分以上が埋まるようになった。
三宅の着用時間は予定通り管理され、午前十一時四十分にオレと交代する。
頭部を外された三宅は、タオルで汗を拭きながら教室の外へ出た。
「午前中だけでも結構疲れるな」
「休憩は挟んでいるが、着脱の回数も多い」
幸村が記録を見る。
「午後は合同ステージがある。三宅はそれまで休んでいい」
「清隆、後は頼んだ」
「ああ」
「子供に、きよぽんが少し元気になったって言われた」
「何をした」
「最初より手を振るのが速くなったらしい」
三宅は少し笑う。
「中身が慣れただけなんだけどな」
「来場者からは、それもきよぽんの変化に見える」
「嫌か?」
「許容範囲なら問題ない」
「前より細かく否定しなくなったな」
「お前が交代担当として成立しているからだ」
「褒めてる?」
「事実だ」
「清隆の褒め方は分かりにくいな」
三宅は満足したように休憩場所へ向かった。
オレは着用準備へ入る。
胴体フレーム。
肩の支持具。
脚部。
腕。
首元の冷却材。
頭部。
視界が狭まり、外の音が少し遠くなる。
「聞こえる?」
佐倉の声へ、右手を一度上げる。
「きよぽんに交代」
長谷部が言う。
反応しない。
「きよぽん」
それにも反応しない。
「今日は強いね」
「警戒している」
「喋った」
「まだ来場者の前へ出ていない」
オレは長谷部、佐倉、幸村と共に休憩所へ戻った。
中身が変わったことを来場者は知らない。
それでいい。
きよぽんは一体だった。