昼過ぎ、休憩所へ一組の親子が入ってきた。
母親と、小学校低学年ほどの男の子。
男の子は母親の手を強く握り、入口で立ち止まっていた。
廊下には多くの人が行き交い、
他の教室からは呼び込みの声や音楽、拍手、笑い声が聞こえている。
男の子はそれらの音へ反応するように、肩を縮めていた。
母親が平田へ小さな声で尋ねる。
「少し休ませてもらってもいいですか」
「もちろんです」
平田は理由を聞かず、空いている椅子を示した。
「自由に使ってください」
母親は男の子を窓側へ連れていこうとした。
しかし、男の子は座らない。
教室内にいる来場者。
見慣れないキャラクター。
知らない場所。
全てを警戒しているようだった。
「少し外へ出た方がいい?」
母親が尋ねても、男の子は答えない。
きよぽん休憩所では、何も強制しない。
座らなくてもいい。
きよぽんへ近づかなくてもいい。
話さなくてもいい。
オレは教室奥の低い椅子から立った。
男の子へ真っ直ぐ近づくことはせず、
一メートル半ほど離れた壁際の椅子へ移動し、再び座る。
男の子は、きよぽんを見る。
オレは身体を向けるだけで、手を振らない。
首も傾けない。
近づかない。
数十秒が過ぎる。
男の子は母親の手を握ったまま、きよぽんを見ている。
教室内では、長谷部も佐倉も平田も、誰も話しかけなかった。
普段の長谷部なら、きよぽんの説明をしたくなる。
写真を勧めたくなる。
今は公認マネージャーとして、きよぽんが何もしない時間を守っていた。
男の子が、少しだけ母親の後ろから身体を出す。
さらに数十秒。
視線が、きよぽんの頭部に載ったヨーグルト容器へ向く。
「ヨーグルト?」
小さな声だった。
母親が答えようとしたが、長谷部は少し待った。
男の子が、もう一度言う。
「頭にヨーグルトある」
長谷部は声を抑え、柔らかく答えた。
「うん。きよぽんはヨーグルトが好きなんだよ」
「落ちない?」
「少しくらい動いても落ちないように作ってあるよ」
男の子はオレを見る。
オレは身体を僅かに左右へ揺らした。
頭部のスプーンが柔らかく動く。
ヨーグルト容器は落ちない。
男の子の表情が、ほんの僅かに緩んだ。
その後。
母親の手を離さないまま、椅子へ座る。
きよぽんからはまだ離れている。
それでいい。
数分が過ぎる。
佐倉は蓋の閉まった水を母親へ静かに渡した。
無理に飲ませない。
必要なら使ってもらう。
長谷部は冊子を机の端へ置いた。
直接渡さず、男の子が自分で取れる位置へ置くだけだった。
しばらくして、男の子は冊子を手に取った。
きよぽん。
ほりぽん。
ほなわん。
ありすぽーん。
ぶっくまる。
ページを一枚ずつ見ている。
最後に、男の子はきよぽんへ顔を向け、片手を小さく上げた。
手を振ったのか。
ただ上げただけなのか。
すぐには分からない。
オレは一度身体を傾け、確認する動きを見せた後、ゆっくり右手を上げた。
小さく一度。
二度。
男の子の手も、少しだけ動いた。
それ以上のことは必要なかった。
十分ほど休んだ後、親子は教室を出る。
男の子は入口の前で振り返り、今度は明確に手を振った。
オレも振り返す。
親子が廊下へ消えた後も、教室内ではしばらく誰も大きな声を出さなかった。
オレが休憩のために頭部を外すと、長谷部が近くへ来た。
「きよぽん」
「何だ」
「きよぽん、ちゃんと役に立ったね」
「休憩所を利用しただけだ」
「でも、あの子は自分から手を振ってくれた」
「きよぽんが何かを解決したわけではない」
「うん」
長谷部は否定しなかった。
「それでいいよ」
佐倉も小さく笑った。
「何かしようとしなかったから、安心できたのかもしれない」
「本人がどう感じたかは分からない」
オレは答えた。
「それでも、最後に手を振ってくれたことは本当だよ」
少し離れた場所から見ていた堀北も、休憩所へ視線を向けた。
「合同動画や綾小路くんとの関係がなくても、
きよぽん単体の役割が成立することは示せたわ」
「偶然来た一組の親子だ」
「一組でも、設定が実際の場所として機能したことに変わりはない」
堀北は静かな教室を見渡す。
大勢の利用者が、それぞれ好きな姿勢で休んでいる。
「大きな声で集めた人数だけが、価値ではないわ」
その出来事は、近くにいた別の来場者を通じて少しずつ広がった。
きよぽん休憩所は静かでいい。
話さなくてもいい。
きよぽんは勝手に近づいてこない。
人混みに疲れた時に使える。
午後一時を過ぎる頃には利用者がさらに増え、入口で少し待つ者まで現れ始めた。
しかし、待機列を作れば休憩所らしさが失われる。
堀北は隣の空き教室を学園側から借り、椅子を追加した。
きよぽんは二つの教室を十五分ずつ交代で移動することになった。
朝は静かすぎるほどだった休憩所が、
静かなまま学園祭の中で最も多くの人へ知られる場所になり始めていた。
◯
午後一時半、校庭側から第二の異変が現れた。
最初に見えたのは、巨大な金色の王冠だった。
続いて金色の顔、肩、胸、腕、マントが姿を現す。
全身が金色。
高さは三メートル。
反射素材と小型照明が全身へ取り付けられ、
太陽の光を受けるたびに周囲へ強い輝きを放っている。
胸元には、高円寺六助本人を模した装飾。
ゆるキャラというより、巨大な黄金像だった。
名称は、キング高円寺六助。
「何、あれ」
軽井沢の声が止まった。
「高円寺くんね」
堀北は一目で中身を理解した。
「なぜ分かるんだ?」
須藤が尋ねる。
「他にあんなものを作る人間がいる?」
全員が納得した。
キング高円寺六助は補助員を一人も付けず、
三メートルの身体を安定させて歩いている。
巨大な王冠。
長いマント。
高い重心。
本来なら安全上の問題が多い構造だった。
それでも高円寺本人の身体能力と感覚によって、無理やり成立している。
教師たちが駆け寄る。
「高円寺!」
茶柱先生の声が校庭へ響いた。
「事前申請されていないキャラクターは参加できない!」
キング高円寺六助は、ゆっくり茶柱先生を見下ろした。
頭部の内部から、高円寺の穏やかな声が返る。
「参加しているのではないよ。私は美を提供している」
「言葉を変えても規則違反だ!」
「美しさに規則を適用することはできない」
「できる!」
「私は競技へ加わる意思もない。
既に完成された私が、未完成の存在と順位を争う必要はないからねぇ」
「なら、その着ぐるみを脱げ!」
「これは着ぐるみではない」
「何だ!」
「私だ」
茶柱先生の言葉が止まった。
周囲の来場者たちは、教師と巨大黄金像の会話を楽しそうに撮影している。
堀北も校庭へ出た。
「高円寺。あなたは選手ではないのだから、正式代表四体の活動を妨害しないで」
「心配には及ばないよ。私は競争へ参加するつもりはない。
美しさに順位を付けることは不可能だからねぇ」
「すでに会場の視線を独占しているでしょう」
「自然現象さ」
「反射素材を全身へ付けた結果よ」
「太陽が私を求めているのさ」
「太陽のせいにしないで」
キング高円寺六助は校舎入口へ進んだ。
三メートルの身体に対し、扉の高さが足りない。
全員が見守る。
高円寺は身体を僅かに屈め、王冠を前へ倒し、完璧な角度で入口を通過した。
「通れるのかよ」
須藤が驚く。
「校舎の高さまで計算したのか?」
「自分で作ったなら、その程度は把握しているだろう」
オレは答えた。
キング高円寺六助は、正式代表四体のブースを一つずつ巡った。
ほなわんは喜んで手を振った。
ありすぽーんは、自分の王冠と巨大な黄金の王冠を交互に見上げた。
着ぐるみの中から森下の声が漏れる。
「敗北しました」
「何が?」
神室が尋ねる。
「王冠の大きさです」
「競う部分じゃない」
「ありすぽーんのクイーンへの道へ、新たな壁が現れました」
「壁じゃなくて高円寺よ」
ぶっくまるはキング高円寺六助を見上げた後、鞄から一冊の本を探した。
石崎が表紙を読む。
「『巨大建築物の構造』」
「高円寺を建物扱いしてるぞ」
龍園が笑う。
「間違ってねぇだろ」
最後に、キング高円寺六助はきよぽん休憩所へ現れた。
オレは椅子へ座ったまま、三メートルの黄金像を見上げる。
頭部を大きく後ろへ傾けると、ヨーグルト帽子がずれる可能性があるため、
身体全体で少しずつ角度を変える必要があった。
佐倉が背後からスプーンを支える。
「無理に見上げなくて大丈夫だよ」
キング高円寺六助は、きよぽんを見下ろした。
「小さく愛らしい者よ。私の輝きの近くへ立つことを許そうじゃないか」
長谷部が答える。
「きよぽんは座ってるよ」
「では、私がその隣へ立とうじゃないか」
キング高円寺六助が休憩所へ入る。
天井近くまで届く王冠。
全身の反射素材。
小型照明。
教室内が一気に眩しくなり、休憩していた来場者たちが目を細めた。
「高円寺」
堀北の声が低くなる。
「あなたの輝きで、休憩所の利用者が休めなくなっているわ」
キング高円寺六助は止まった。
周囲を見る。
目を細める来場者。
静かな案内板。
座っているきよぽん。
「なるほど」
高円寺は素直に答えた。
「休息を妨げる美は、完成された美とは言えないねぇ」
「分かったなら出て」
「場所を移そう」
キング高円寺六助は身体を反転させ、教室と校舎を出た。
最終的には、屋外広場の中央へ立つことになった。
太陽を受けた黄金の身体は屋内よりさらに眩しかったが、
休憩所へ直接影響することはない。
正式競技には参加していないにもかかわらず、最も多く写真を撮られた存在となった。
試験運営側は、午後の合同ステージへ乱入しないことを条件に、
屋外広場で立つことだけを許可した。
「展示物としてなら認める」
教師が説明すると、高円寺は即座に訂正した。
「展示物ではない。私だ」
◯
午後三時、体育館では学園祭最大の催しとなる
四体合同ステージが始まろうとしていた。
観客席は、午前中から各ブースを回った来場者や、
合同動画を見ていた生徒たちでほぼ埋まっている。
舞台袖には四体が並んでいた。
ほなわんの中には一之瀬。
ありすぽーんの中には森下。
ぶっくまるの中にはひより。
きよぽんの中にはオレ。
各クラスの補助員が最後の確認を行う。
「連続着用は十五分以内。ステージ終了後、すぐに頭部を外す」
幸村の言葉へ、オレは右手を一度上げた。
「最後は全員で休むところまでだからね」
長谷部が言う。
右手を一度上げる。
「きよぽんとして楽しんで」
反応しない。
「無視された」
「設定通りだな」
三宅が笑う。
一之瀬クラスでは、神崎がほなわんへ念を押していた。
「カードは三枚だけ。抱擁は台本にない」
ほなわんが頷く。
坂柳クラスでは、神室が森下へ注意する。
「王冠を落とさない。転ばない。経験値を求めない」
ありすぽーんが頷く。
龍園クラスでは、石崎がぶっくまるへ本の順番を確認する。
「最初は『四人の友達と森の道』。他の本を勝手に出さない」
ぶっくまるも頷いた。
返事だけなら、全員完璧だった。
舞台照明が点灯し、明るい音楽が流れる。
進行役の声が体育館へ響いた。
「第一回高度育成高等学校ゆるキャラ選手権。
代表キャラクター合同ステージを始めます!」
最初に登場したのは、ほなわんだった。
大きな耳を揺らしながら舞台中央へ進み、観客へ両手を振る。
友達カードを一枚。
二枚。
三枚。
昨日決められた枚数を守った。
その時、最前列の女の子が両腕を広げた。
ほなわんの動きが止まる。
舞台袖の神崎は首を横へ振る。
台本に抱擁はない。
ほなわんは一度女の子を見た後、胸元で両手を合わせ、歪んだハートを作った。
女の子もハートを作る。
接触はしない。
それでも観客からは大きな拍手が起こった。
ほなわんは満足したように、指定位置へ移動する。
次に登場したのはありすぽーんだった。
王冠を片手で押さえながら、一歩ずつ中央へ進む。
三歩に一度、王冠を確認する。
予定より遅い。
それでも焦らず、転びそうになる演技へ入る。
身体が傾く。
一度止まり。
元へ戻る。
成功。
観客から拍手が起こる。
ありすぽーんは喜び、両手を大きく上げた。
王冠が傾く。
山村が舞台袖から早歩きで近づき、落下する前に支えた。
観客の拍手が、さらに大きくなる。
演技か事故かは分からない。
それでも、ありすぽーんらしい場面にはなっていた。
森下は山村へ小さく頭を下げる。
山村も頭を下げ、二人で王冠の位置を直した。
続いて、ぶっくまるが登場する。
中央へ進み、鞄から予定通り『四人の友達と森の道』を取り出した。
進行役が物語の説明を始める。
そのまま指定位置へ移動すればよかった。
しかし、ぶっくまるは再び鞄へ手を入れた。
次に取り出したのは、『はじめてのヨーグルトづくり』。
舞台袖の石崎が額へ手を当てる。
「椎名、それは出さない予定だろ」
ぶっくまるは聞こえないふりをし、ヨーグルトの本をきよぽんへ見せた。
観客から笑いが起こる。
次は『転んだポーンの起こし方』をありすぽーんへ。
さらに『ほなわんと百人の友達』をほなわんへ。
最後にもう一度、『四人の友達と森の道』を全員へ見せた。
四冊。
四体。
予定より長い。
それでも、四体の関係は分かりやすくなった。
観客席の後方で、龍園が笑う。
「好きにやれ」
ぶっくまるは四冊を抱え、指定位置へ移動した。
最後に、きよぽんの登場となる。
進行役が紹介する。
「夢がまだ決まっていない、ヨーグルトを愛する謎の生き物。きよぽんです」
オレは舞台へ出た。
小さな歩幅で進む。
観客席から、複数の声が聞こえる。
「きよぽん!」
合同動画。
休憩所。
ゴリ泉くんとの写真。
午前中の間に、予想以上の知名度を得ていたらしい。
オレは一度立ち止まり、自分が呼ばれたのか確認するように身体を傾ける。
その後。
ゆっくり右手を上げた。
観客から歓声が起こる。
舞台中央の椅子へ座る。
進行役が説明を続けた。
「きよぽんは、誰かへ頑張ることを強制しません。
夢が見つからない時も、疲れて動けない時も、
何も言わず少し離れた場所へ座ります」
背後の画面には、合同動画の一場面が表示される。
王冠。
ヨーグルト。
ありすぽーん。
きよぽん。
「何かを解決できなくても、隣にいることはできます」
観客席が静かになり、その後、拍手が広がった。
説明が終わる。
次は四体が並び、一緒に手を振る場面だった。
しかし、オレは立たなかった。
これは前日のリハーサルで決めた変更である。
ほなわんがきよぽんを見る。
一之瀬は少し間を置いた後、指定位置を離れ、きよぽんの隣へ来た。
補助員が低い椅子を出す。
ほなわんが座る。
ありすぽーんも二体を見た後、近づいて低い台へ座る。
山村が王冠を支える。
ぶっくまるは本を抱えたまま最後に近づき、用意された椅子へ座った。
四体全員が、舞台中央で休憩する。
進行役が観客へ説明した。
「四天王は、少し疲れたようです。ここで一分間の休憩へ入ります」
本当に一分間、四体は何もしなかった。
静かな音楽だけが流れる。
ほなわんはきよぽんの隣。
ありすぽーんは王冠を押さえ。
ぶっくまるは本を抱え。
きよぽんは眠そうな顔のまま座っている。
一分後。
「皆さんも、疲れた時は無理をせず休んでください」
四体は座ったまま、観客へ手を振った。
ほなわんは大きく。
ありすぽーんは王冠を片手で押さえながら。
ぶっくまるは本を抱えたまま。
きよぽんは小さく。
観客席から、この日最も大きな拍手が起こった。
合同ステージは、予定通りではない部分も多かった。
しかし、四体それぞれの個性は、練習通りに動くよりも明確に伝わっていた。
体育館入口では、
胸へヨーグルト容器を付けたゴリ泉くんが、七瀬と共にステージを見ていた。
宝泉は何も言わず、拳を一度だけ上げる。
屋外の広場では、キング高円寺六助が窓越しに黄金の光を反射していた。
正式代表四体と、採点対象外の二体。
学園祭は、完全に異常なゆるキャラ祭りへ変わっていた。
◯
合同ステージ後も、各ブースの活動は続いた。
ほなわんは最後までお友達カードを配り、
一之瀬は着ぐるみを交代した後も、横で来場者へカードの使い方を説明した。
ありすぽーんの目標カードは壁へ収まりきらないほど増え、
坂柳クラスは追加の展示板を用意した。
ぶっくまるの読書会では、交代担当として石崎が着ぐるみへ入った。
最初は歩幅が大きく、本を渡す動きも少し速かった。
補助側へ回ったひよりが声をかける。
「ゆっくりで大丈夫です」
石崎ぶっくまるは速度を落とす。
来場者へ本を差し出し、相手が受け取るまで待つ。
最初は動きが硬かったが、何度か繰り返すうちに、
少しずつ穏やかなぶっくまるへ近づいていった。
一人の子供が尋ねる。
「ぶっくまる、さっきより元気になった?」
中身が変わったことは知られていない。
石崎は声を出さず、小さく身体を揺らした。
ひよりが笑う。
「少し行動的なぶっくまるです」
三宅きよぽんと同じだった。
中身の違いが、僅かな個性として残っている。
それでも、外から見れば同じキャラクターだった。
龍園は石崎ぶっくまるを見ながら、「悪くねぇ」と短く評価した。
石崎は右手を一度上げる。
伊吹がすぐに気づく。
「それ、きよぽんの合図じゃない?」
石崎ぶっくまるの動きが止まった。
その後、正しい中断合図を思い出し、本を胸元へ二回当てる。
龍園クラスから笑いが起こった。
一方、きよぽん休憩所には、親友キャラクターとしてほりぽんが登場した。
中へ入っているのは須藤だった。
丸眼鏡をかけた白いフクロウは、きよぽんの隣へ座り、自分の教科書を開く。
きよぽんは休む。
ほりぽんは勉強する。
互いへ無理に話しかけない。
それぞれ好きなことをして、同じ場所へいる。
代表決定時から考えられていた二体の関係が、説明を使わずに伝わる場面だった。
来場者たちが写真を撮っている途中、
きよぽんの頭部に付いていたスプーンの固定部が僅かに緩んだ。
柔らかなスプーンが床へ落ちる。
オレは見下ろす。
短い腕では拾えない。
合同動画で、ありすぽーんの王冠を拾えなかった時と同じだった。
長谷部が補助へ入ろうとする。
しかし、それより先に須藤ほりぽんが動いた。
片方の翼をスプーンの下へ入れ、少し持ち上げる。
反対の翼で挟む。
ゆっくり持ち上げ、きよぽんへ差し出す。
オレは短い腕を伸ばすが、受け取ることはできない。
佐倉が固定具へ戻す。
ほりぽんは翼を小さく振った。
きよぽんも頭を下げる。
周囲から拍手が起こる。
「ほりぽん、すごい!」
子供の声へ、須藤ほりぽんの翼が少しだけ大きく広がった。
着ぐるみを脱いだ後、須藤は堀北へ尋ねる。
「ちゃんと役に立っただろ」
「ええ」
堀北は素直に答えた。
「ほりぽんがいてくれて助かったわ」
須藤は少し顔を逸らす。
「当たり前だ」
長谷部も否定しなかった。
「きよぽんの親友だからね」
正式代表を争った二体は、勝敗を終えた後、
同じブースで互いを補う関係になっていた。
◯
午後四時三十分。
一般来場者投票が締め切られた。
来場者は退場時に投票用紙を一枚受け取り、
ほなわん、ありすぽーん、ぶっくまる、きよぽんの中から一体だけを選ぶ。
投票箱は一つ。
外からは、どのキャラクターへ何票入っているのか分からない。
封印された箱は教師たちの手で体育館へ運ばれ、専門審査、
グッズ売上、宣伝活動、着ぐるみ演技の得点と共に集計される。
結果発表は、一時間後の閉会式。
各クラスは片づけを進めながらも、落ち着くことができなかった。
一之瀬はほなわんの頭部を外された後も笑顔だった。
「たくさん友達ができた」
神崎は残ったカードを数える。
ほとんど残っていない。
坂柳クラスでは、森下がありすぽーんから出た後、
山村と共に王冠の固定具を確認した。最後まで大きな破損はない。
龍園クラスでは、ひよりと石崎が使用した本を一冊ずつ棚へ戻している。
堀北クラスでは、オレがきよぽんの頭部を外され、佐倉からタオルを受け取った。
「お疲れさま」
「ああ」
長谷部は休憩所の利用者数を集計している。
事前予測を大きく上回っていた。
共同グッズは完売。
ヨーグルト単品と王冠単品の売上には最後まで僅かな差があり、
最終的にはヨーグルトが数個上回ったものの、友好セットを含めればほぼ同数だった。
坂柳はその結果を見ても笑みを崩さない。
「良い勝負でしたね」
堀北へ言う。
「まだ終わっていないわ」
「ええ。一般投票と専門審査が残っています」
坂柳はありすぽーんを見た。
「最後まで、ありすぽーんを信じます」
龍園は売上表を閉じる。
「一般客は、分かりやすい奴へ入れる傾向がある」
一之瀬が反応する。
「ほなわん?」
「自分で言うな」
「でも、みんな楽しそうだったよ」
「勝負は楽しさだけじゃねぇ」
「龍園くんのぶっくまるも、たくさんの人に本を選んだよね」
「当然だ」
一之瀬は笑う。
「じゃあ、みんな自信あるね」
堀北も坂柳も龍園も、否定しなかった。
結果発表を前に、四クラスは再び完全な競争相手へ戻っていた。
◯
午後五時三十分。
体育館で学園祭の閉会式が始まった。
前方には正式代表四体が並んでいる。
ほなわん。
ありすぽーん。
ぶっくまる。
きよぽん。
その後ろには、ほりぽんとりゅうまるも置かれていた。
ゴリ泉くんは採点対象外のため端へ立っている。
着ぐるみの中に宝泉はいないが、胸元にはヨーグルト容器が残されていた。
キング高円寺六助は体育館へ入らず、屋外広場へ立ち続けている。
教師が閉会式への参加を求めたものの、
「閉会後の夕陽と私の共演を優先します」
と答えたらしい。
壇上には坂柳理事長と試験責任者が立っている。
封筒の中には、すでに集計を終えた結果が入っていた。
長谷部はオレの隣で、両手を強く握っている。
「緊張する」
「今から何をしても結果は変わらない」
「分かってるけど緊張するの」
三宅も前方を見たまま言う。
「きよぽんに入ってる時より緊張するな」
幸村は落ち着いて見えるが、普段より眼鏡へ触れる回数が多かった。
佐倉は四体を見ながら、小さく言う。
「どの子も、頑張ったよね」
前方では、堀北が背筋を伸ばしている。
一之瀬は笑顔を保っているが、両手を身体の前で握っていた。
坂柳はいつものように穏やか。
龍園は腕を組み、余裕の笑みを見せている。
ただし、その視線は封筒から動かなかった。
坂柳理事長がマイクを持つ。
「本日の学園祭、そして第一回ゆるキャラ選手権へ参加した皆さん。
大変お疲れさまでした」
体育館が静かになる。
「各クラスが制作したキャラクターは、いずれも異なる魅力を持ち、
来場者の皆様から高い評価を受けました」
友情を広げるほなわん。
転びながら成長するありすぽーん。
本を通じて人と人を繋ぐぶっくまる。
無理に踏み込まず、休める場所を作るきよぽん。
「一般投票だけではなく、専門審査、宣伝活動、グッズ、
実用性、物語、そして当日の演技を総合して順位を決定しました」
坂柳理事長は封筒を開き、結果が記された紙へ目を落とす。
「最初に、部門賞を発表します」
総合順位ではない。
それでも、四クラスの緊張がさらに高まった。
「親しみやすさ部門、第一位。ほなわん」
一之瀬クラスから歓声と拍手が起こる。
一之瀬は大きく息を吐き、嬉しそうにほなわんを見た。
「物語・成長部門、第一位。ありすぽーん」
坂柳クラスから拍手が起こる。
森下は真顔のまま頷き、山村は安心したように小さく笑った。
神室も白石も、互いに顔を見合わせる。
「教育・文化部門、第一位。ぶっくまる」
龍園クラスでは石崎が大きな声を上げ、ひよりは静かに拍手した。
伊吹は笑いながら龍園を見る。
龍園は口元を上げた。
「話題性・独自性部門、第一位。きよぽん」
堀北クラスから大きな拍手が起こる。
長谷部がオレの腕を掴んだ。
「取った!」
「部門賞だ」
「でも取った!」
四体全てが一つずつ部門賞を獲得した。
誰か一体だけが優れていたのではない。
四体それぞれの強みが、異なる形で評価されていた。
坂柳理事長は新しい紙へ持ち替える。
「続いて、総合順位を発表します」
体育館が、再び静まり返った。
今度は四位から一位まで。
一体だけが三百クラスポイントを得る。
長谷部の手は、まだオレの腕を掴んでいる。
三宅も幸村も佐倉も、前方から目を逸らさない。
堀北。
一之瀬。
坂柳。
龍園。
四人のリーダーも動かない。
坂柳理事長が結果へ目を落とし、最初の順位を告げようと口を開いた。
第一回高度育成高等学校ゆるキャラ選手権。
ほなわん。
ありすぽーん。
ぶっくまる。
きよぽん。
四体の最後の勝負は、まもなく決着を迎えようとしていた。