一之瀬クラスでは、ぶっくまるの飛躍に最初に気づいたのは神崎だった。
「ぶっくまる?」
試験専用ページへ追加された熊の画像を見つめる。
隣にいた一之瀬も画面を覗き込んだ。
「あ、可愛い」
「即座に敵を褒めるな」
「だって本当に可愛いよ。本を持ってるところが椎名さんらしいね」
「これは人気が出る」
神崎の表情は険しかった。
一之瀬は神崎を見る。
「そんなに深刻な顔で、ゆるキャラを分析しなくても」
「人気投票が四十点ある。ほなわんの最大の強みは、
親しみやすさと幅広い年齢層への訴求力だ。
だが、ぶっくまるも同じ領域で競合する」
「競合って言い方、会社の商品みたいだね」
「実際、近いものだ」
神崎はほなわんとぶっくまるを並べて表示する。
ほなわんは、明るく元気で、誰とでも友達になれる犬。
ぶっくまるは、静かで優しく、本の世界へ案内してくれる熊。
「ほなわんは活発な印象が強い。ぶっくまるは落ち着いた層から支持を得るだろう」
「じゃあ、住み分けできるんじゃない?」
「試験で住み分けてどうする。相手より多く票を得なければならない」
神崎はいつになく厳しかった。
一之瀬のクラスメイトたちも、ぶっくまるの完成度を見て少し不安を覚え始める。
「ほなわんにも本を持たせる?」
「真似したって言われるよ」
「眼鏡を掛けるのは?」
「もっと真似になる」
「ほなわんは、ほなわんの良さを伸ばそうよ」
一之瀬が全員を落ち着かせる。
「誰とでも仲良くなれるのが、この子の一番いいところだから」
「具体的に何をする?」
神崎が尋ねる。
「他のゆるキャラとも、お友達になる」
「敵と?」
「神崎くん、ゆるキャラを敵って呼ぶのやめよう」
「龍園も同じ呼び方をしているらしい」
「龍園くんを基準にしないで」
「ひどい言われようだな、龍園」
一之瀬は少し考えた後、手を叩いた。
「そうだ。ほなわんのお友達カードを作ろうよ」
「お友達カード?」
「出会った人とお友達になった印として渡すの。
表にはほなわんの絵、裏には相手の名前を書けるようにする」
周囲から賛同の声が上がる。
「それなら小さい子も喜びそう」
「たくさん集めたくなるね」
「他のゆるキャラにも渡すの?」
「もちろん」
一之瀬は笑顔で答えた。
神崎は何かを言おうとしたが、思い直したように黙る。
「どうしたの?」
「いや。これが戦略なのか、純粋な善意なのか判断できなくなった」
「善意だよ」
「結果として、他のキャラクターの人気まで利用する形になる」
「そんな怖い考え方してないよ」
一之瀬本人は否定した。
だが、ほなわんが他のキャラクターと一緒に映れば、
その相手の支持者からも注目を集められる。
無意識とはいえ、非常に強力な広報戦略だった。
神崎は改めて一之瀬を見る。
「やはり恐ろしいな」
「何が?」
「何でもない」
一之瀬クラスも、ぶっくまるの登場によって本気度をさらに高め始めていた。
◯
坂柳クラスでも、ぶっくまるの出現はすぐに話題となった。
坂柳有栖は端末に映る熊の姿を見つめ、楽しそうに微笑む。
「素晴らしい完成度ですね」
「また敵を褒めてる場合か?」
橋本が言う。
「少なくとも、見た目の可愛さではありすぽーんより上だろ」
「率直すぎる」
神室が橋本を睨む。
「でも事実じゃん」
「それを本人の前で言う必要がある?」
坂柳は気にした様子を見せなかった。
「構いません。ぶっくまるは非常に優れたキャラクターです。
モチーフ、設定、外見が一目で伝わるよう整理されています」
「じゃあ、ありすぽーんは負けるのか?」
「現段階での評価に過ぎません」
坂柳は、ありすぽーんのデザインを開く。
王冠を被った小さな白いポーン。
一歩ずつ前へ進み、いつか盤上の最後まで到達することを夢見るキャラクター。
設定の奥深さでは負けていない。
だが見た目だけで多くの人間を惹きつける力は、ぶっくまるの方が強いように思えた。
「ありすぽーんにも本を持たせますか?」
クラスメイトの一人が尋ねる。
「それでは模倣になってしまいます」
「なら熊になる?」
「駒でなくなります」
「耳だけ付けるとか」
「何の動物か分からない駒が完成します」
橋本が笑う。
「じゃあ、可愛さで正面から勝つのは諦めるか」
「諦める必要はありません。ただし、同じ種類の可愛さで競う必要もありません」
坂柳はありすぽーんの王冠を指した。
「ぶっくまるが親しみやすさと温かさを武器にするなら、
ありすぽーんは気品と物語性を前面に出します」
「ゆるキャラに気品?」
神室が疑う。
「可愛らしいだけではなく、応援したくなる存在にするのです」
坂柳は新たな設定を提案する。
ありすぽーんは、自分の頭に載せている王冠がまだ大きすぎることを知っている。
歩くたびに王冠がずれ、時には顔が隠れて前が見えなくなる。
それでも王冠を外さない。
いつか自分が成長し、その王冠がぴったり似合う日を夢見ているからだ。
「王冠で前が見えなくなって、壁にぶつかる演技を入れましょう」
坂柳が言う。
神室が眉をひそめる。
「ギャグにするの?」
「笑いは親しみやすさを生みます」
「坂柳がギャグを分析し始めた」
橋本は感心している。
「壁にぶつかった後、転ぶのか?」
「転びます」
「また転ぶんだ」
「そして自力で立ち上がり、王冠を直して前へ進みます」
「何回転ばせるつもり?」
「観客の反応を見ながら調整します」
坂柳は真剣だった。
神室は、着ぐるみ担当に選ばれる生徒へ同情するような目を向けた。
「中の人、大変そう」
「努力なくして、王冠は得られません」
「絶対に自分は入らないから言えるのよ」
「声で参加します」
「安全なところから台詞を言うだけじゃん」
「役割分担です」
「なんでもそう言えばいいと思ってるわね」
坂柳の中で、ありすぽーんは可憐なチェスの駒から、
何度転んでも立ち上がる不屈のコメディキャラクターへ変化し始めていた。
◯
昼休み。
校内の食堂では、普段以上に多くの生徒が端末を眺めていた。
試験専用ページに掲載されたキャラクターの暫定案。
寄せられた感想。
どの案が人気を集めているか。
正式な投票ではないにもかかわらず、生徒たちは早くも順位を意識していた。
現時点で最も多くの好意的な反応を得ているのは、ぶっくまる。
次にほなわん。
その後を、ありすぽーん、きよぽん、ほりぽん、りゅうまるが追っている。
ただし、きよぽんには他のキャラクターと異なる特徴があった。
好意的な感想と同時に、意味が分からないという感想も大量に寄せられている。
『なぜヨーグルトを被っているのか』
『眠そう』
『何もしなさそう』
『見ていると不安になる』
『でも少し欲しい』
『理由は分からないけど気になる』
人気があるのかないのか、判断が難しい。
だが注目度だけなら、ぶっくまるに次ぐ勢いだった。
「ほら見て!」
長谷部がオレへ端末を見せる。
「きよぽん、話題になってる!」
「半分は困惑しているだけだ」
「無関心よりずっといいよ」
「『中に誰が入るのか気になる』という感想が多いな」
「本人で決まりだね」
「決まっていない」
食堂のテーブルには、オレ、長谷部、軽井沢、佐藤、
松下、堀北、須藤、平田が集まっていた。
本来であればクラス全体の会議ではない。
だが昼食中までキャラクター案の話が続いている。
「ぶっくまる、かなり強いね」
佐藤がページを眺める。
「普通に商品として売ってそう」
「デザインの完成度が高いわ」
堀北は悔しそうに認めた。
「本と熊を組み合わせたことで、学校らしさと親しみやすさの両方を表現している」
「椎名さんが考えたんだって」
軽井沢が言う。
「龍園クラス、りゅうまるとぶっくまるで揉めてるらしいよ」
「龍園が熊に負けそうになってるの面白い」
須藤が笑う。
「本人はキャラクターじゃない」
オレが言う。
「お前がそれ言うのかよ」
「オレもキャラクターではない」
「でも話題になってるぞ」
須藤はきよぽんの感想欄を見た。
「『中の人に会いたい』だってよ」
「会う必要はない」
「『生き別れた兄に似ています』」
「どんな兄だ」
「『ヨーグルト売り場で見かけた気がする』」
「存在していない」
「『違う。きよぽんが勝手に、が今の私の気持ちを表しています』」
「どういう気持ちだ」
感想欄は、すでに独自の文化を作り始めていた。
誰かが学校生活で失敗した時。
『違う。きよぽんが勝手に』
宿題を忘れた時。
『違う。きよぽんが勝手に』
食堂で余計なデザートを買った時。
『違う。きよぽんが勝手に』
本来の意味とは関係なく、都合の悪い状況をごまかす言葉として使われ始めている。
「流行語になってるじゃん」
軽井沢が笑う。
「このままなら人気投票でも強いかも」
「キャラクターの魅力ではなく、言葉だけが広がっている」
「それでも広報としては成功だよ」
松下は現実的だった。
「きよぽんの存在を知らない人が、言葉からキャラクターを調べる。
宣伝費を使わずに認知度を上げられている」
「なら、今のうちに公式アカウントを作ろう!」
長谷部が提案する。
「まだ代表ではないわ」
堀北が止める。
「でも、ほりぽんはこのままじゃ差を付けられちゃうよ?」
「分かっているわ」
堀北は自分の端末を操作した。
画面には、ほりぽんの新しい宣伝画像が表示される。
眼鏡を掛けた白いフクロウが、机に向かって勉強している。
窓の外は夜。
机の上には大量の参考書。
ほりぽんの目には、うっすらと疲労が浮かんでいた。
画像の下には言葉が添えられている。
『休むことも、成長の一部よ』
「それ、頑張りすぎて疲れてる堀北さんじゃん」
軽井沢が言う。
「違うわ」
「目の下に隈があるけど」
「努力する生徒へ寄り添うための表現よ」
「ゆるキャラが過労になってる」
佐藤も心配そうに画像を見る。
「もう少し休ませてあげた方がよくない?」
「だから、休むことも大切だと伝えているの」
「説得力がないよ」
堀北は納得していないようだった。
「教育的価値は高いはずよ」
「人気投票で教育的価値を押し出しすぎると、堅く見えるかもしれない」
松下が分析する。
「だったら、ほりぽんが勉強をさぼる回も作った方がいいんじゃない?」
「さぼらせるの?」
「完璧すぎるキャラクターより、少し弱点があった方が親しみやすいよ」
堀北はしばらく考えた。
「ほりぽんは、苦手な科目から逃げることがある」
「急に人間らしくなった」
「でも最後には向き合うわ」
「そこは譲らないんだ」
「当然よ」
軽井沢が笑いながら言う。
「じゃあ苦手科目は何?」
「数学以外」
須藤が言った。
「それはお前だろ」
池が別のテーブルから口を挟む。
「お前も似たようなもんだろ!」
二人の言い争いが始まった。
一方、長谷部はきよぽんの弱点を考え始めていた。
「きよぽんの苦手なものは、どうしようかな」
「人前に出ること」
オレが答えた。
「着ぐるみに入りたくないこと」
「本人の都合は設定に反映できません」
「なぜだ」
「試験に不利だから」
「なら聞くな」
「きよぽんの苦手なものは、ヨーグルトの温度管理に失敗することにしよう」
「そこは重要だ」
オレは思わず答えた。
テーブルの全員がこちらを見る。
「今、食いついたよね」
軽井沢が言う。
「温度管理はヨーグルト作りの基本だ」
「急に真剣になった」
「発酵が進みすぎれば酸味が強くなる。
逆に温度が低ければ、十分に固まらないこともある」
「きよぽんの設定に採用!」
長谷部が端末へ入力する。
「待て。一般的な知識を説明しただけだ」
「得意技は、絶妙な温度管理」
「大げさにするな」
「きよぽんはヨーグルトのことになると目が少し開く」
「第二形態だ!」
佐藤が笑う。
「ヨーグルトを三個食べなくても進化できるんだ」
「進化ではない」
否定したが、すでに全員の中できよぽんの新しい設定が完成していた。
普段は眠そうな目をしている。
だがヨーグルト作りの話になると、目が少しだけ開く。
こだわりの温度管理について、誰に頼まれてもいないのに説明を始める。
「本人そのままじゃん」
軽井沢が言う。
「違う」
オレは答えた。
「きよぽんが勝手に」
言った直後に気づいた。
遅かった。
テーブルが笑いに包まれる。
長谷部は端末へ、新しい決め台詞の使用例を記録していた。
オレ自身が、きよぽんの人気を高める最大の協力者になりつつあった。
◯
放課後。
各クラスへ、着ぐるみ制作の基本素材が配布された。
指定された作業室には、巨大な発泡素材の塊、
軽量フレーム、布地、接着剤、裁縫道具、塗料などが並んでいる。
まだ何の形にもなっていない。
それでも、ここから各クラスのキャラクターが立体化することになる。
オレは堀北と長谷部に連れられ、作業室へ来ていた。
須藤も着ぐるみ担当候補として同行させられている。
「何で俺まで」
須藤は朝から同じ不満を繰り返している。
「実際に頭部の重さを確認するためよ」
堀北が答える。
「それなら綾小路でもいいだろ」
「きよぽん用の素材も確認する必要があるから、二人ともよ」
「二体作る気か?」
「試作品だけなら可能でしょう」
「予算が無駄にならないか」
「代表決定前に可動性を確認することは必要な投資よ」
堀北は真剣だった。
長谷部は丸い頭部フレームを見つけると、嬉しそうに両手で抱える。
「きよぽんの頭にぴったり」
「まだ何も付いていない」
「この丸さがもうきよぽん」
「丸い物なら何でもいいのか」
作業室の別の場所には、他クラスの生徒たちも来ていた。
一之瀬クラスは、ほなわんの大きな耳と尻尾をどの素材で作るか話し合っている。
坂柳クラスでは、ありすぽーんの王冠が大きすぎて
入口を通れなくなる可能性が発覚し、橋本と神室が縮小を求めていた。
龍園クラスは、りゅうまる用の黒い布と、
ぶっくまる用の茶色い布を同時に確認している。
そこに龍園本人の姿もあった。
「綾小路」
龍園がこちらへ近づいてくる。
手には、きよぽんの仮ステッカーがあった。
「それをどこで手に入れた」
「石崎が拾った」
少し離れた場所で石崎が首を横に振っている。
拾ったのではなく、龍園が受け取った可能性が高い。
「妙なキャラを作ったな」
「オレが作ったわけではない」
「だが、妙に似てる」
「似ていない」
「目が同じだ」
「丸い点が二つあるだけだ」
龍園はステッカーを眺める。
「人気が出る理由は分からねぇが、話題性はある」
「褒めているのか」
「敵として警戒してるだけだ」
伊吹が後ろから近づく。
「さっき机に貼ろうとしてたけどね」
「黙れ」
「気に入ってるじゃない」
「敵を近くに置いて分析してんだよ」
「ステッカーを?」
龍園の言い訳は苦しかった。
ひよりも一緒に歩いてくる。
腕には、ぶっくまる用の茶色い布を抱えている。
「きよぽん、可愛いですね」
「ひよりまで言うのか」
「はい。特に眠そうな目がよいと思います」
「龍園も気に入ってるわ」
伊吹が言う。
「気に入ってねぇ」
「では、りゅうまると交換しますか?」
ひよりが尋ねた。
「何を交換するんだ」
「仮ステッカーです。りゅうまるの試作品も作りました」
ひよりは小さな黒いドラゴンのステッカーを取り出す。
龍園は少し考えた後、きよぽんのステッカーを差し出した。
「交換だ」
伊吹が呆れる。
「普通にグッズ交換してるじゃない」
「敵情視察だ」
「もう何を言っても無駄ね」
龍園はりゅうまるのステッカーをオレへ渡す。
「貼れ」
「なぜだ」
「宣伝だ」
「オレは他クラスだ」
「だから意味がある」
龍園の理屈では、オレがりゅうまるを身に付ければ、
堀北クラスの生徒にも存在を知らせられるということらしい。
「代わりに、お前のも貼ってやる」
龍園はきよぽんのステッカーを自分の端末ケースへ近づける。
伊吹と石崎が驚いた。
「本当に貼るんすか?」
「一時的だ」
「絶対気に入ってるでしょ」
伊吹が笑う。
龍園は無言でステッカーを貼った。
黒い端末ケースの中央に、眠そうなきよぽんが現れる。
その組み合わせは、あまりにも似合っていなかった。
「似合うよ、龍園くん」
長谷部が言う。
「殺すぞ」
「きよぽんの前で乱暴な言葉は駄目だよ」
「何で俺がこいつに気を遣う必要がある」
「きよぽんは争いが苦手だから」
「俺には関係ねぇ」
そう言いながら、ステッカーは剥がさなかった。
その直後。
作業室の奥から、大きな音が響いた。
何かが床へ倒れたような音だった。
全員が振り返る。
ありすぽーんの頭部試作品だった。
巨大な王冠を載せた白い頭部が、重量に耐えきれず横倒しになっている。
その下から橋本の声が聞こえた。
「誰か助けてくれ!」
「中に入ってたの?」
神室が驚く。
「試着しろって言われたんだよ!」
坂柳有栖は少し離れた場所で、冷静にその光景を見つめている。
「予定通りです」
「どこがだ!」
「ありすぽーんが転び、立ち上がる演技の確認です」
「起き上がれねぇよ!」
「では、改善が必要ですね」
「先に助けろ!」
数人の生徒が駆け寄り、巨大な頭部を持ち上げる。
橋本は床に座り込み、息を整えた。
「王冠、重すぎるだろ……」
「気品には重みが伴います」
坂柳が答える。
「物理的な重みはいらねぇ!」
作業室中から笑いが起こる。
その騒ぎを見た一之瀬クラスでは、ほなわんの安全性を確認するため、
尻尾の大きさを少し小さくすることが決まった。
龍園クラスでは、りゅうまるの棘が他人に刺さらないよう、
全て柔らかい素材に変更された。
そして堀北クラスでは。
長谷部がきよぽんの頭部フレームをオレへ差し出した。
「試しに被ってみて」
「断る」
「重さを確認するだけ」
「須藤がいる」
「俺はほりぽん用だ!」
須藤がすぐに距離を取る。
「担当が分かれてるんだから、綾小路が被るしかないよ」
「まだ担当ではない」
「一度だけだから」
長谷部だけではなく、軽井沢や佐藤まで期待するように見ている。
堀北も止めない。
むしろ素材の安全性を確かめるため、試着は必要だと考えているようだった。
「綾小路くん。代表にならなかったとしても、
試作品のデータは今後の制作に役立つわ」
「他の誰かでは駄目なのか」
「頭囲が本人に合っているか確認したいの」
「本人ではないと言っていたはずだ」
「モデルではあるわ」
逃げ道がない。
オレは長谷部から、丸い頭部フレームを受け取った。
まだ布も顔も付いていない。
巨大な籠を被るような状態だった。
頭の上からゆっくりと下ろす。
視界は正面の小さな隙間だけ。
音も少し遠くなる。
「どう?」
長谷部の声が聞こえた。
「重くはない」
「動ける?」
オレは首を左右へ向ける。
フレームが少し遅れて動く。
身体ごと向きを変えた方がいい。
「問題はない」
「じゃあ歩いてみて」
数歩進む。
足元が見えにくい。
長時間動くなら、視界を広げる必要がある。
「意外と普通に歩けるね」
「中身が綾小路だから」
「きよぽんの才能あるじゃん」
「どんな才能だ」
頭部フレーム越しに答える。
周囲から笑いが起きた。
その時。
誰かがフレームの正面に、きよぽんの仮ステッカーを貼った。
誰がやったのかは見えなかった。
だが外から見れば、丸い骨組みの中央に
眠そうな顔だけが浮かんでいる状態になったらしい。
「きよぽんだ!」
長谷部が歓声を上げる。
「まだ骨組みだろう」
「試作零号機!」
「兵器みたいに呼ぶな」
「動いてる!」
「オレが動かしている」
「きよぽんが勝手に!」
作業室中の生徒が、こちらを見て笑っていた。
龍園も。
一之瀬も。
坂柳も。
ひよりも。
神室も橋本も。
他クラスの生徒までが、骨組みを被ったオレを見ている。
「写真撮っていい?」
軽井沢の声が聞こえた。
「駄目だ」
直後、撮影音が鳴った。
「もう撮っただろ」
「試作記録だから」
「消してくれ」
「クラス資料として必要よ」
堀北まで味方ではなかった。
オレは頭部フレームを外そうとする。
だが、外側から長谷部が軽く押さえている。
「もう少しだけ」
「何をする気だ」
「みんなに挨拶して」
「しない」
「きよぽんの初仕事だよ」
「まだ仕事ではない」
「決め台詞だけでも」
「言わない」
周囲から期待するような視線が集まる。
こういう状況では、黙り続ける方が目立つ。
早く終わらせるためには、一度だけ要求に応じた方が合理的かもしれない。
そう判断した。
「違う」
オレは頭部フレームの中から言った。
「きよぽんが勝手に」
作業室が爆発したような笑いに包まれた。
長谷部は歓声を上げ、軽井沢と佐藤は机へ手をついて笑い、須藤は腹を抱えた。
龍園は顔を逸らしながら肩を震わせている。
伊吹は龍園を指して笑っていた。
一之瀬は口元を押さえ、神崎まで俯いている。
坂柳有栖は優雅な笑みを崩さないまま、目元だけで明らかに楽しんでいた。
ひよりは小さく拍手をしている。
「よかったです」
「何がだ」
「きよぽんが初めて動きました」
正確には、オレが巨大な骨組みを被って歩いただけだ。
だが周囲の認識では、きよぽんが誕生したことになっているらしい。
その日の夕方。
軽井沢が撮影した一枚の写真が、試験専用ページの堀北クラス活動記録へ掲載された。
丸い頭部フレーム。
中央に貼られた眠そうな仮ステッカー。
その下から伸びる、制服姿の人間の身体。
完成した着ぐるみとは呼べない。
むしろ奇妙な実験体に近かった。
掲載された見出しは、長谷部が考えたものだった。
『きよぽん、初めて立つ』
投稿から数分。
感想欄は急速に伸び始めた。
『思っていたより背が高い』
『身体だけ人間なのが怖い』
『完成前なのに完成している』
『目が眠そう』
『足が速そう』
『中の人は誰ですか』
『違う。きよぽんが勝手に』
さらに、その写真を見た龍園クラスも対抗するように、ぶっくまるの制作風景を公開した。
ひよりが本を抱えた熊の頭部模型を持ち、笑顔で立っている。
ぶっくまるそのものだけでなく、
ひより本人の穏やかな雰囲気も合わさり、大きな反響を呼んだ。
ほなわんのお友達カード。
ありすぽーんの転倒実験。
ほりぽんの勉強応援画像。
りゅうまるの隠し乳歯設定。
各クラスの活動記録が次々と公開されていく。
特別試験が始まって、まだ二日。
ゆるキャラたちは、まだ完成していない。
着ぐるみもない。
声も定まっていない。
正式な代表すら決まっていないクラスもある。
それでも全校生徒は、すでにそれぞれのキャラクターを名前で呼び始めていた。
りゅうまる。
ほなわん。
ありすぽーん。
ほりぽん。
きよぽん。
そして。
ぶっくまる。
特にぶっくまるの登場は、各クラスに大きな影響を与えた。
可愛いだけでは勝てない。
設定だけでも勝てない。
初めて見た瞬間に、そのキャラクターの性格や世界観が伝わらなければならない。
ひよりが個人的な趣味から生み出した熊は、試験全体の基準を一段階引き上げた。
だが、その本人は。
「クラスの代表は、りゅうまるでもいいと思います」
まだ遠慮がちにそう話しているらしい。
龍園は勝てる方を選ぶと言いながら、
端末ケースに貼ったきよぽんのステッカーを剥がしていない。
坂柳は、ありすぽーんを何回転ばせれば最も観客の心を掴めるか計算している。
一之瀬は、全ゆるキャラとほなわんを友達にする計画を進めている。
堀北は、ほりぽんの可愛さを論理的に証明するため、
新たな採点項目を増やしていた。
長谷部は、きよぽんの第二形態を本気で検討している。
そしてオレは。
寮の自室へ戻った後、軽井沢が撮影した
『きよぽん、初めて立つ』の画像を見つめていた。
画像の中にいるのは、丸い骨組みを被った制服姿の生徒。
顔は見えない。
だが中身が誰なのか、クラスの生徒にはほとんど知られている。
感想欄には、すでに千件近い反応が集まっていた。
一番多く評価されている感想は。
『何もしていないのに面白い』
だった。
反論したい。
オレは素材の重さや視界を確認するという、明確な目的を持って試着した。
何もしていないわけではない。
だが、反論を書き込めば、本人が公式に反応したと騒がれる可能性が高い。
黙っていれば、無言を貫くきよぽんらしいと解釈される。
何をしても逃げられない。
画面を閉じようとした時。
新しい通知が表示された。
長谷部からだった。
『きよぽん第二形態について相談があります』
すぐに返信する。
『却下だ』
数秒後。
返事が来た。
『まだ説明してないのに?』
どこかで聞いたやり取りだった。
『見なくても分かる』
『ヨーグルトを二個持つだけだよ』
『変化が小さい』
返信してから気づいた。
また自分から設定について意見を出している。
すぐに長谷部から、新たなメッセージが届く。
『第二形態の会議に参加決定!』
『参加しない』
『違う。きよぽんが勝手に?』
オレは端末を伏せた。
この試験は、まだ始まったばかりだ。
それにもかかわらず、すでにオレの意思が尊重される可能性は、
ほとんど残されていなかった。
そして同じ頃。
龍園クラスでは。
ひよりが描いたぶっくまるの絵を前に、龍園が腕を組んでいた。
「ぶっくまるに、牙を付けるぞ」
「付けません」
「一本くらいいいだろ」
「本を読むのに必要ありません」
「敵に襲われたらどうする」
「本を薦めます」
「効くのか、それ」
「面白い本なら」
「お前、本気で言ってるのか?」
「はい」
ひよりは穏やかな笑顔のまま答えた。
龍園はしばらく黙った後、ぶっくまるの設定欄へ新たな一文を書き加えた。
『嫌いなもの――本を乱暴に扱う人』
ひよりが確認する。
「よいと思います」
「そうか」
「ただし、その人を噛む設定は消してください」
龍園が舌打ちする。
りゅうまるとぶっくまる。
どちらが正式な代表となるのか。
ほりぽんときよぽん。
どちらがクラス内対決を制するのか。
ほなわんは全てのゆるキャラと友達になれるのか。
ありすぽーんは自力で立ち上がれるのか。
誰も答えを知らない。
だが一つだけ、確かなことがあった。
第一回ゆるキャラ選手権は。
全校生徒が想像していた以上に、真剣で。
全校生徒が想像していた以上に、くだらなく。
そして、全校生徒が想像していた以上に。
盛り上がり始めていた。