鋼鉄の灯火は深淵を照らす—超古代の厄災と、メカオタクの生存戦略——   作:カノープス・ギア

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第18話です!
硫黄の匂いと湯気が消え失せ、不気味なほど静まり返った鳴瀬温泉の朝。
住民たちが直面したのは、超古代の怪異などではなく、「観光客が来なくなる」「生活ができなくなる」という、あまりにも生々しい生活の危機でした。

超古代文明のロマンの裏にある、現代社会の現実。
その重みを受け止めながら、灯たちが選んだ「世界へ向けた最初の一歩」とは——。


届かぬ警告と、動き出した歯車

 

 

翌朝、鳴瀬温泉は静かだった。

 

不気味なほど静かだった。

 

いつもなら、朝6時には14軒の旅館から一斉に湯気が上がる。

側溝からも、川べりからも、白い筋が立ち上って、町全体がぼんやり霞んで見えるはずだった。

 

その湯気が、どこにもない。

 

「……初めて見ました、こんな景色」

 

宿の縁側で、女将さんが茶を置きながら言った。

 

「私はまだ子どもでしたからね、35年前は。母が泣いてたのだけ覚えてます」

 

「田中さんは」

 

「命に別状はないそうですよ。左足を折っただけで」

 

女将さんは笑おうとして、失敗した。

 

「……だけで、なんて言っちゃいけませんね」

 

 

その日、旅館組合の緊急会議が開かれた。

 

役場の2階の和室に、20人ほどが集まった。

教授が調査の報告をするというので、俺たちも隅に座らせてもらった。

 

そして、そこで交わされた話は——超古代文明とは、何の関係もなかった。

 

「年末年始の予約が40件入ってる。全部返金か?」

 

「返金だけじゃ済まねぇよ。詫び状も要る」

 

「うちは仲居さん3人、パートさん5人だ。休業したら給料どうする」

 

「県から見舞金は出ねぇのか」

 

「35年前は1か月半で戻った。今回もそうとは限らんだろ」

 

「テレビが来てたぞ。あれ、変な流し方されたら終わりだ。『温泉が涸れた町』なんて出されたら、湯が戻っても客は来ん」

 

俺は、畳に手をついたまま、それを聞いていた。

 

(……そうだよな)

 

俺の頭の中は、地下300メートルの黒い炉でいっぱいだった。

 

だがこの人たちにとって、今日いちばん大事なのは、40件の予約をどう処理するかなのだ。

 

それは間違っていない。むしろ、正しい。

 

会議の終わりに、教授は立ち上がった。

 

「私たちが申し上げられるのは、巻の谷で地磁気・岩盤温度・ガス濃度に通常とは異なる変化を観測したこと、そして新しい亀裂と陥没が確認されたことまでです」

 

「温泉は戻るんですか」

 

旅館の主人がすぐに尋ねた。

 

教授は、安易に頷かなかった。

 

「分かりません。35年前と同じ経過をたどる保証もありません」

 

和室の空気が、目に見えて重くなった。

 

それでも教授は続けた。

 

「ただし、危険が増しているかどうかを測り続けることはできます。危険が迫ったとき、昨日より早く知らせる仕組みも作れます」

 

戻ると約束するのではない。

逃げろと命じるのでもない。

 

今ある不確かなものを、不確かなまま監視する。

それが、この場で口にできる唯一の約束だった。

 

 

◇◇◇

 

 

会議のあと、俺は富沢さんを捕まえた。

 

役場の外の喫煙所で、老人は煙草をふかしていた。

 

「富沢さん」

 

「おう。学者の坊主か」

 

「……1つ、聞いてもらえますか」

 

俺は、言葉を選びながら切り出した。

 

「巻の谷の地下で、何かが動いています。それが地下水を吸っているせいで、湯が止まったんだと思います」

 

富沢さんは、煙を吐いた。

 

「ほう」

 

「35年前より、反応が強くなっています。地面の亀裂も増えてる。……昨日の陥没も、たぶん無関係じゃありません」

 

「……ふむ」

 

「もっと大きな陥没が起きるかもしれません。ガスが出るかもしれません。……最悪の場合は」

 

そこで、俺は言葉を止めた。

 

町ごと呑まれる、とは言えなかった。証拠がない。

あるのは、俺の頭の中にある3000万年前の記録だけだ。

 

富沢さんは、しばらく黙って煙草を吸っていた。

 

そして、灰を落としながら言った。

 

「坊主。仮にな」

 

「はい」

 

「仮にお前さんの言う通りだとして、俺らはどこへ行きゃいい」

 

——胸を、真正面から刺された気がした。

 

「ここは俺の生まれた町だ。女将さんとこの旅館は、婆さんの代から110年やっとる。田中は先週、孫が生まれたばっかりだ」

 

「…………」

 

「危ないから逃げろ、と言われて。……で、どこへ行く」

 

老人は、煙草を灰皿に押しつけた。

 

「補償は誰が出す。仕事はどうする。年寄りばっかりだぞ、この町は。80を過ぎた人が10人以上おる。アパート借りて、そこで死ねってか」

 

「……すみません」

 

「謝るこっちゃねぇよ」

 

富沢さんは、少しだけ笑った。

 

「お前さんは正しいんだろ。だがな、正しいってだけじゃ、人は動かんのよ」

 

 

◇◇◇

 

 

その日の午後から、俺たちは動き出した。

 

炉は止められない。町は避難させられない。

なら、今、俺たちにできることは何か。

 

答えは、1つしかなかった。

 

——見張ることだ。

 

「機材、東京から送らせた。明日の午前着だ」

 

澄人が電話を置いて言った。

 

「研究室にあるやつを全部かき集めた。足りない分は教授の予算で買う」

 

「電源は」

 

「源泉小屋に来てる。役場の許可も取った」

 

「通信」

 

「そこが問題だ」

 

澄人は、地図の上を指で叩いた。

 

「巻の谷から常時データを送るのは無理だ。携帯は圏外、無線も山が邪魔する。……だから、ロガーに溜めて、1日3回、源泉小屋の保守用電話回線から研究室へ送る」

 

「1日3回か」

 

「通常時はそれで足りる。数値が注意域へ入ったら送信間隔を短くする。回線が切れた場合は、役場の担当者が記録媒体を回収する」

 

俺は頷いた。

 

 

設置には、3日かかった。

 

観測項目は、6つに絞った。

 

1.地磁気の強度と方位偏差

2.岩盤温度および地表温度

3.地盤の微振動

4.硫化水素濃度

5.源泉の湧出量

6.亀裂の開口幅

 

ゴウは旅館の若い衆と一緒に、機材を担いで谷まで何往復もした。

 

「これ何やってんだ?」と聞かれるたびに、彼はこう答えていた。

 

「地面の様子を見張るやつです。何かあったら、逃げる時間を稼ぐための」

 

俺には、それ以上うまい説明はできなかった。

 

亀裂の開口を測るセンサーは、市販品では合うものがなかった。

仕方なく俺が寸法を出し、相沢製作所へ図面をFAXした。健三さんは磁力計へ影響を与えにくいアルミ材で治具を削り、翌朝の便で送り返してくれた。

 

現場で測り、図面を引き、町工場で削り、現場に取り付ける。

——相沢製作所で積み重ねてきたことが、そのまま形になった。

 

「灯」

 

3日目の夕方、澄人が装置の前で言った。

 

「基準値、どう置く」

 

「基準値?」

 

「異常判定だ。この数値を超えたら警報を出す、っていう線を引かなきゃならん」

 

俺は、しばらく黙った。

 

低く引けば、誤報が増える。狼少年になれば、次に本当の警報が出たとき誰も動かない。

高く引けば、間に合わない。

 

(……間に合わない)

 

前世の記憶が、また端のほうで疼いた。

 

あの日、俺は何も知らずにあの建物にいた。

揺れて、崩れて、それから走った。

 

誰も、何も、教えてくれなかった。

 

(——あのとき欲しかったのは、重機だけじゃなかったのか)

 

俺は、装置の筐体に手を置いた。

 

逃げろ、と教えてくれる誰かが。

あと30秒で崩れる、と知らせてくれる何かが。

 

「……警報は2段階にしよう」

 

「2段階?」

 

「第1段階は『注意』。役場と大学に自動で連絡を送る。第2段階が『警戒』で、避難判断に必要な情報をすぐ役場へ渡す」

 

「線は」

 

「第1段階は低めに置く。誤報の可能性があっても、まず人が確認できるようにする。第2段階は、独立した複数の指標が同時に基準を超えたときだけだ」

 

澄人は、少し考えてから頷いた。

 

「……いいな。それでいく」

 

俺たちは、役場の担当者と消防団長も交えて、警報が出た後の動きを紙に落とした。

 

第1段階の「注意」では、研究室と役場が数値を確認し、巻の谷と源泉小屋への立ち入りを止める。第2段階の「警戒」では、防災無線で住民へ知らせ、旅館ごとに決めた集合場所へ移動を始める。

 

避難を決定するのは、俺たちではない。

役場と消防だ。

 

だからこそ、判断に使う数値と、誰がどこへ電話するかを曖昧にできなかった。

 

「地磁気だけで鳴らすなよ」

 

澄人が設定画面を見ながら言った。

 

「機器のずれでも振れる。主要3系統——地磁気、岩盤温度、微振動のうち2系統が同時に基準を超えた場合を第2段階にする。硫化水素が急上昇した場合だけは、単独でも即時通報だ」

 

「源泉の湧出量は?」

 

「すでに0だ。今は警報の条件に使えない。戻り始めた後の変化を見る指標に回す」

 

1つずつ決めるたび、装置はただの箱ではなくなっていった。

 

それは、誰かに逃げる時間を渡すための仕組みだった。

 

 

◇◇◇

 

 

町と県へ提出する報告書は、教授が書いた。

 

俺が下書きを持っていくと、教授は赤ペンを走らせ、3分ほどで半分以上を消した。

 

「……教授」

 

「鈴木君。ここだ」

 

赤で囲まれたのは、俺が書いた一文だった。

 

『——地下に人工構造物が存在する可能性が極めて高い』

 

「これは、書くな」

 

「でも、事実です」

 

「事実ではない。我々の解釈だ」

 

教授はペンを置いた。

 

「地磁気が異常だ。温度が上がっている。湧出量が落ちた。亀裂が増えた。陥没が起きた。

……ここまでが観測だ」

 

「はい」

 

「その先を書いた瞬間、この報告書は『変わった学者の妄想』になる。

そうなれば、観測した数字まで一緒に捨てられる」

 

俺は、赤い線を見つめていた。

 

「仮説を書くな。観測した事実だけを書け」

 

教授は、静かに言った。

 

「事実は、それだけで人を動かす。……30年かけて、私はそれを学んだよ」

 

 

提出した報告書には、こう書かれた。

 

・地磁気異常の増大(3か月で継続的に上昇)

・岩盤温度の上昇

・源泉湧出量の急減(3系統すべて)

・硫化水素濃度の変動

・新規亀裂の発生および地盤陥没

・今後、追加の陥没およびガス噴出が生じる可能性

・巻の谷周辺への立入制限を推奨

・異常値検出時の通報および避難手順(別紙)

 

超古代文明という文字は、1つもなかった。

 

そして——県の担当者からは、2週間後に「参考資料として受領した」という1行の返信が届いただけだった。

 

それでも、町役場は巻の谷へ続く旧道に立入禁止の札を立て、消防団は旅館ごとの連絡網を作り直した。明月館の帳場には、警報が出た際の手順を記した紙が貼られた。

 

大きな組織は動かなかった。

だが、小さな町は、自分たちで動き始めていた。

 

報告書1冊で危険が消えたわけではない。

それでも、昨日まで存在しなかった「次に何をするか」が、紙の上には残った。

 

 

◇◇◇

 

 

東京へ戻る日の朝。

 

俺は、湯気の上がらない旅館街を歩いていた。

 

明月館の前では、女将さんが箒を使っていた。客が来ないのに、玄関を掃いている。

 

土産物屋のシャッターが半分開いて、店主が中で在庫を数えていた。

診療所の前では、老人が2人、いつも通り立ち話をしていた。

 

みんな、明日も生きるつもりでいる。

 

「……灯」

 

隣に、ゴウが立っていた。

 

「行くぞ。バス出る」

 

「……ああ」

 

俺は、動かなかった。

 

「なあ、ゴウ」

 

「あ?」

 

「俺たち、逃げるのかな」

 

ゴウは、鼻を鳴らした。

 

「馬鹿かお前」

 

「……」

 

「俺らが残って、何ができんだよ」

 

彼は、湯気の消えた町を顎で示した。

 

「シャベル持って穴掘るか? 300人を背負って山越えるか? ……そもそもだ。4人まとめてあの穴に落ちたら、見張るやつがいなくなるんだぞ」

 

俺は、顔を上げた。

 

「装置は置いた。基準も決めた。役場に手順も渡した。それでも足りねぇって言うなら」

 

ゴウは、俺の背中を思いきり叩いた。

 

「足りるようになるまで、取ってこいよ。外から」

 

俺は、しばらく黙っていた。

 

そして、バス停へ向かって歩き出した。

 

発車間際、女将さんが小さな紙袋を持って追いかけてきた。

 

「お客さんに出すはずだった温泉饅頭です。湯が止まっても、これはまだ食べられますから」

 

冗談めかして笑ったが、声は少し震えていた。

 

俺は袋を受け取り、深く頭を下げた。

 

「装置の数値は、毎日確認します」

 

「ええ。お願いします」

 

助けます、とは言えなかった。

必ず戻ります、とも言えなかった。

 

だから、確認します、とだけ約束した。

 

バスが動き出すと、湯気のない町並みが窓の後ろへ流れていった。

女将さんは、見えなくなるまで頭を下げていた。

 

 

◇◇◇

 

 

東京に戻ってからの3週間、研究室の明かりは毎晩ついていた。

 

サワイへの、2通目。

 

1通目は、教授が便箋1枚に書いた挨拶だった。

今回は、違う。

 

「分担する」

 

教授が、机に紙を配った。

 

「本文と、研究者としての見解は私が書く。鈴木君は技術資料だ。

3地点に共通する現象と、危険性の整理」

 

「はい」

 

「柏木君は、出典と観測条件、データの信頼性」

 

「了解です」

 

「相沢君は、現地の写真と、設置記録と、住民の状況」

 

「……俺、文章書くの苦手なんすけど」

 

「写真の説明でいい。君しか撮っていないものがある」

 

「俺が撮った、って書くんですか」

 

「撮影日時、場所、方角、写っているものを添えなさい。それで写真は証拠になる」

 

澄人が横から付け加えた。

 

「元フィルムの番号も残せ。複写した順番が分かるようにする。サワイさんの手元で誰かが検証するとき、出所を辿れない資料は使われない」

 

ゴウは難しい顔をしながらも、写真の裏へ1枚ずつ番号を書き始めた。

 

報告書の最後には、要請事項も付けた。

 

・地質、地磁気、温泉、材料分析の専門家による独立再調査

・鳴瀬地区における継続監視への支援

・未知試料および観測地点に関する情報の限定的な取り扱い

・新組織の設立準備部門との連絡窓口の指定

 

町を今すぐ避難させてくれ、とは書かなかった。

軍を送ってくれ、とも書かなかった。

 

俺たちの結論を信じてもらうのではなく、同じ場所へ行き、同じ数値を測り、間違っているなら間違っていると証明してもらう。

 

そのための手紙だった。

 

ゴウは、少しだけ嬉しそうな顔をした。

 

 

最初の衝突は、3日目に起きた。

 

俺が書いた危険性の項目を読んで、澄人がペンを置いた。

 

「灯。これは駄目だ」

 

「どこが」

 

「『この構造物は、地下水を吸収して稼働を継続しており、いずれ地表を巻き込む規模の変動を起こす』」

 

澄人は、俺の原稿を指で叩いた。

 

「地下水を吸ってるって、どこで測った」

 

「……測ってない。湧出量が落ちたことから推定した」

 

「地表を巻き込む規模、っていうのは」

 

「…………」

 

「灯。証明できることと、俺たちが考えていることを分けろ

 

澄人の声は、静かだった。

 

「混ぜたら、確かなデータまで信用されなくなる」

 

俺は、原稿を握りしめていた。

 

「じゃあ、どう書けばいいんだよ」

 

俺は、自分でも驚くくらい荒い声を出していた。

 

「あそこには300人が住んでるんだぞ! 遠回しに書いて、伝わらなくて、それで町が消えたら——」

 

「鈴木君」

 

教授だった。

 

「……はい」

 

「信じてもらうために、話を大きくするな」

 

教授は、赤ペンのキャップを閉めた。

 

「小さくても、崩れない事実を積め」

 

俺は、机に両手をついたまま、しばらく動けなかった。

 

(……そうか)

 

俺はずっと、自分の中の「知っている未来」を、なんとか他人に渡そうとしてきた。

だがそれは、渡らない。前世の記憶は、誰にも検証できないからだ。

 

渡せるのは、誰にでも確かめられるものだけだ。

 

「……分かった」

 

俺は、原稿を破いた。

 

「書き直す」

 

 

◇◇◇

 

 

書き直した報告書の背骨は、たった1つになった。

 

3地点の異常に、同じ特徴が現れている。

 

黒岩鉱山。樽内ダム。鳴瀬温泉。

数百キロ離れた、地質構造もまったく異なる3か所で、地磁気異常の変化に共通した周期と立ち上がり方が現れている。

 

もちろん、測定値そのものが同じわけではない。

機器も地質も距離も違う。黒岩では磁気の変動幅が大きく、鳴瀬では温度変化が先に現れた。

 

そこで澄人は、各地点の平常値を基準にして変化量を規格化し、時間軸を異常の立ち上がりに合わせた。

 

すると、緩やかな上昇、短い停滞、急な落ち込み、その後に続く弱い第2波まで、同じ順序が浮かび上がった。

 

局所的な地質現象だけで説明するには、共通点が多すぎた。

 

「これが、いちばん崩れにくい」

 

澄人は、3本のグラフを重ねた図を指した。

 

「1か所なら偶然で済む。2か所なら類似例だ。けど3か所で、地質も計測条件も違うのに同じ特徴が出るなら——共通する原因があると考える根拠になる」

 

「そして、7つあるはずだと」

 

「それは書かない」

 

澄人は即答した。

 

「巻物の記述は、第三者が検証できる証拠にならない。……ただし、こう書ける。『同種の異常が、他地点にも存在する可能性がある』」

 

俺は、頷いた。

 

 

添付資料の最後に、金属片の分析結果を綴じるとき——教授の手が止まった。

 

そのページには、元素分析の表が印刷されている。

 

主成分の下に、こう並んでいた。

 

『C:微量 N:微量 P:微量 Ca:微量』

 

「……教授」

 

「うむ」

 

教授は、その行をじっと見ていた。

 

元素分析だけで、生体由来だと断定することはできない。

炭素もカルシウムも、自然界には普通にある。試料の汚染という可能性も残る。

 

だが、蜂の巣状の区画に沿って炭素・窒素・リン・カルシウムが偏在していること、そして試料が40年前に3人の失踪した坑道から回収されたことを並べれば、読む側は生体組織との関係を疑う。

 

その瞬間、これは未知材料の研究だけではなく、未解決の失踪事故に関わる資料になる。

半世紀以上前の樽内村の話も、掘り返されるかもしれない。

 

「……鈴木君」

 

「はい」

 

「私は、この一行を落としたい誘惑にかられている」

 

「……」

 

「落とせば、兄の話は誰にも触られん。私の半生は、私だけのものでいられる」

 

教授は、丸眼鏡を外して目頭を押さえた。

 

そして、かけ直した。

 

「だが、落とせば、この構造物の危険性は半分しか伝わらん」

 

ページを、そっと束に加えた。

 

「載せなさい」

 

「……いいんですか」

 

「35年前、私は鳴瀬で『湯が止まる話』を聞いて、行方不明者がおらんという理由で切り捨てた」

 

教授は、静かに言った。

 

「あの聞き取りを継続観測につなげていれば、今回の変化にもっと早く気づけたかもしれん。……もう、都合の悪い事実を切り捨てんよ」

 

 

◇◇◇

 

 

本文は、教授が最後に書いた。

 

30年前に学会へ持って行った、あの万年筆で。

 

書き出しは、こうだった。

 

 

『サワイ様

 

 30年前にいただいた質問への答えを、ようやく一部だけお送りします。』

 

 

そして、末尾はこうだった。

 

 

『——あなたは私に、こう問われました。

 「あなたの説が正しかった場合、人類は何をすべきですか」と。

 

 30年、考えました。

 武器を持つことだと思った時期もあります。逃げる場所を作ることだと思った時期もあります。

 

 今の私の答えは、こうです。

 

 見つけること。

 記録すること。

 知らせること。

 そして、危険が来る前に人を動かせる組織を、あらかじめ作っておくこと。

 

 ——つまり、答えは、あなたが今なさっていることです。

 私は30年かけて、それを確かめただけでした。

 

 この報告書について、私はあなたに「信じてください」とは申しません。

 私たちの観測が誤っているかどうかを、あなた方ご自身の手で確かめていただきたい。

 

 そのために、独立した調査班による再検証を、伏してお願い申し上げます。』

 

 

俺は、その文章を3度読んだ。

 

読み終えて、顔を上げると、教授が宛名を書いていた。

 

万年筆が、封筒の上をゆっくり滑っていく。

 

30年前、この人はこのペンで、誰にも読まれない論文を書いた。

 

 

◇◇◇

 

 

投函は、ゴウがやると言い張った。

 

11月5日。大学近くの郵便局で、ゴウは国際書留の伝票を書き、分厚い封筒を窓口へ差し出した。

 

「はい、たしかにお預かりしました」

 

局員がスタンプを押した。

 

それだけだった。

 

4人で局を出て、街路樹の下に立った。11月の風が、落ち葉を転がしていた。

 

「……なんつーか」

 

ゴウが、間の抜けた声で言った。

 

「もっとこう、ドラマチックなもんかと思ってた」

 

「窓口だからな」

 

澄人が言った。

 

俺は、郵便局の看板を見上げていた。

 

(……これで、町が救われるわけじゃない)

 

炉は止まらない。湯も戻らない。県からの返事は1行だった。

サワイが読むかどうかも分からない。読んでも、動くとは限らない。

 

だが。

 

(——俺たちだけが知っていた危険を、初めて外へ渡した)

 

長い間、俺は1人で抱えていた。

今は、4人で抱えている。

 

今日、5人目の手へ向けて送り出した。

 

それが、今の俺にできる全部だった。

 

「帰るか」

 

教授が言った。

 

「腹が減った。……そこの店、まだやっとるかね」

 

「やってますよ。ラーメン屋」

 

「では、行こう。私が出す」

 

「まじすか!」

 

ゴウが跳ねた。

 

4人で歩き出す。誰も、もう手紙の話はしなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

―― 群馬・(まき)(たに) ――

 

 

夜の谷に、人はいなかった。

 

月のない晩だった。倒木の陰で、小さな緑のランプが点滅している。

 

樹脂の箱に収められた観測装置が、静かに動いていた。

 

地磁気強度  : ▲上昇

岩盤温度   : ▲上昇

地盤微振動  : 検出(微弱・継続)

硫化水素濃度 : 変動あり

源泉湧出量  : 0

 

谷に置かれたセンサーの値は源泉小屋の記録装置へ集められ、1日3回、保守用電話回線を通じて東京の研究室へ送られる。

それが、この町に置かれた唯一の見張りだった。

 

判定基準の第1段階まで、あとわずかだった。

 

そして——

 

谷底の岩の亀裂から、青白い光が漏れた。

 

さっきより、強く。

 

どくん。

 

地面が、脈打った。

 

その音を聞く者は、一人もいなかった。

 

 

=========================================

【現在のステータス・スキル情報】

[BASE STATUS]

┣ 演算処理能力: F

┣ 空間認識力 : F

┣ 反応速度 : F

┗ G耐性/肉体: F

 

[ACQUIRED SKILLS & KNOWLEDGE]

┣【超古代言語理解 Lv.2】

┣【初級・機械工学/プログラム言語】

┣【中級・航空力学/制御アルゴリズム】

┣【上級・次世代エネルギー/流体力学】

┣【インファイト Lv.1】

┗【SPアップ Lv.1】

 

[SYSTEM DATA]

┣ 所持ポイント: 22,775 SP

┣ 残機数 : 3 / 3

┣ 保有サンプル : 未知の有機金属片 ×3(解析:31%)

┣ 設計中 : 加速度支持外骨格(構想段階)

┗ 特記 : 鳴瀬の継続監視を開始/サワイ宛て報告書を発送

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第18話の更新でした、お読みいただきありがとうございます!

温泉街の日常の裏で、着実に動き出した歯車。
サワイ・ソウイチロウへの手紙の行方はどうなるのか……。

次回以降も怒涛の展開が続いていきますので、ぜひお楽しみに!
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それでは次回の更新でお会いしましょう!
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