鋼鉄の灯火は深淵を照らす—超古代の厄災と、メカオタクの生存戦略—— 作:カノープス・ギア
最近、多くの方から評価や感想をいただいており、本当に嬉しく思っています。
評価をつけてくださった皆さま、感想を送ってくださった皆さま、ありがとうございます!
皆さまからの反応が、毎日の投稿の大きな励みになっています。
さて、今回のお話では――
試作1号の開発に行き詰まる灯の前に、これまでとは異なる視点を持つ人物が現れます。
機械だけでは拾えなかった、人間の身体が発する小さな声。
新たな仲間とともに挑む、警告機構の開発編です。
どうぞお楽しみください!
『守るだけでは、足りない』
ノートに書いたその一行を、俺は1週間も睨み続けていた。
試作1号の要求仕様。最優先は、警告機構。
装着者が危険域へ入ったことを、本人と管制の双方へ知らせる仕組みだ。
だが——そこで完全に詰まっていた。
「灯。結局、何を測る気なんだ」
研究室の向かいで、澄人が聞いた。
「脳へ血が届いているかどうか」
「どうやって」
「……それが分からない」
俺は机に突っ伏した。
心拍は測れる。血圧も、呼吸も、血中酸素飽和度も測れる。
だが、どれも脳が意識を保てるだけの酸素を受け取っているかを、直接教えてはくれない。
前回の遠心加速度試験では、装具を着けた俺の視界は、最後まで大きく崩れなかった。胸や腕で取った数値にも、誰の目にも分かる急変はなかった。
それでも、7.2Gで意識は途切れた。
「頭に電極でも刺すか」
「刺すな」
「冗談だ」
「お前の冗談は、試作品の横で聞くと笑えないんだよ」
俺は身体を起こし、天井を見上げた。
【技能適用:『上級・次世代エネルギー/流体力学』】
流体としての血液なら分かる。血管抵抗、灌流圧、静脈還流、自動調節。
頭の中には数式もモデルもある。
だが、生きた人間の頭蓋骨の外から、動作中の脳の状態をどう推定するのか。
その方法は、俺の知識のどこにもなかった。
「……これ、俺の分野じゃないな」
口に出すと、妙に重かった。
「ようやく気づいたか」
澄人は、悪びれずに言った。
「知識があるからって、何でも自分で解こうとするな。お前が持ってるのは答えじゃなくて、得意分野だ」
「分かってる」
「今、分かったんだろ」
否定できなかった。
機械を作ることはできる。
だが、その機械の中に入る人間を測る技術は、医学と生理学の領域だった。
◇◇◇
「非侵襲で、リアルタイム。しかも高G環境下で、脳の酸素化状態を推定したい、と」
保健管理センターの一室で、真壁先生は俺の説明を最後まで聞き、腕を組んだ。
「はい」
「あなた、それがどれだけ難しいか分かっています?」
「分かっていません。だから来ました」
真壁先生は、一瞬だけ目を丸くしてから笑った。
「前より素直になりましたね」
「前は素直じゃなかったみたいに言わないでください」
「人体試験の中止条件を書かずに来た学生が、何を言ってるの」
何も言い返せなかった。
真壁先生は内線の受話器を取り、短く番号を押した。
「白石さん? 今、手は空いてる? そう。ちょっと保健管理センターまで来て」
3分ほどして、扉が開いた。
入ってきたのは、白衣を着た女子学生だった。
背は高くない。髪を後ろで一つに束ね、片手にクリップボード、もう片方にストップウォッチを持っている。
最初に目についたのは、整った顔立ちではなかった。
目だった。
こちらの服装や姿勢ではなく、その奥にある何かを確かめるような視線。
一瞬、胸の内側へ指先を差し込まれたような感覚がした。
「保健学科3年の、
抑揚の少ない声だった。
「工学部3年の鈴木です」
「用件を先にお願いします。15分後に実習があるので」
余計な挨拶を挟む余地はなかった。
俺は、装具の目的と遠心機での試験結果を要点だけ説明した。
加圧袋で下半身への血液貯留を抑えたこと。
首と脊椎の荷重を分散したこと。
対G動作を併用し、7.2Gまで耐えたこと。
そして、視野狭窄を自覚する前に意識を失ったこと。
白石さんは、途中で一度も相槌を打たなかった。
ただ、俺の言葉と資料を交互に追い、必要な箇所だけを記録していた。
説明が終わると、彼女はペン先を止めた。
「確認します」
「はい」
「装着者は鈴木さん本人」
「そうです」
「設計者も鈴木さん」
「はい」
「制御は」
「柏木と2人で」
彼女は、俺を真正面から見た。
「あなた、人体を機械の付属品だと思っていませんか」
胸を、正面から殴られたような感覚がした。
「……え」
「今の説明は、全部『装具が何をするか』でした」
白石さんは指を折った。
「装具が締める。装具が支える。装具が警告する。制御装置が判断する」
そして、クリップボードを閉じた。
「でも、その中に入るのは人間です。締められて、支えられて、警告される身体が、その瞬間にどう反応しているのか。その説明が一つもありませんでした」
俺は返す言葉を探した。
だが、見つからなかった。
「7.2Gで意識を失ったんですよね」
「……はい」
「その前に、身体の中で何が起きていました?」
「前触れは、ありませんでした」
「本当に?」
声が、少しだけ強くなった。
「人間の身体は、そんなに雑にできていません。警報が一つ消えたなら、別の警報が鳴っていたはずです。鈴木さんが拾えなかっただけで」
俺の脳裏に、遠心機の白いゴンドラが浮かんだ。
見えている。まだ動ける。そう思った次の瞬間には、意識が切れていた。
身体を守る機械を作りながら、身体そのものの声を、俺は聞こうとしていなかった。
「……教えてください」
俺は頭を下げた。
白石さんは、わずかに目を見開いた。
それから腕時計を確認した。
「実習まで、あと8分あります」
◇◇◇
3日後。
白石さんは分厚い論文の束と、貸出用の医療機器カタログを抱えて研究室へ現れた。
「近赤外分光法。NIRSです」
机の上に、頭部へ複数の光学プローブを取り付けた写真が並べられる。
「近赤外光の一部は、頭皮と頭蓋骨を通り、大脳皮質の表層まで届きます。酸化ヘモグロビンと脱酸化ヘモグロビンでは光の吸収特性が違うので、戻ってきた光を解析すれば、脳表付近の酸素化状態の変化を推定できます」
「脳血流が測れるんですか」
「直接ではありません」
即座に訂正された。
「分かるのは、あくまで酸化・脱酸化ヘモグロビンの変化量です。頭皮の血流も混ざりますし、個人差も大きい。絶対値だけを見て『脳に血が届いている』とは言えません」
澄人が論文の余白へ書き込みながら聞いた。
「基準値はどう取るんです」
「同じ被験者で、安静時と負荷時を比較します。前回の傾向と、その場の他の生体信号を組み合わせる」
「単独では判定に使えない」
「使わないほうがいいです」
白石さんは頷いた。
「それと、大きな問題が一つあります」
「何ですか」
「動くと弱い」
俺は、額を押さえた。
「遠心機の中って、動きますよね」
「動きます。しかも7G以上で」
「プローブがずれたら」
「値が乱れます。装着部の圧力が変わっても乱れます。皮膚の血流が変わっても影響を受ける」
彼女は、そこで声を低くした。
「さらに厄介なのは、誤った値も、もっともらしい波形として出ることです」
「……一番困るやつだな」
澄人が呟いた。
「はい。警報に使うなら、鳴らないことと同じくらい、間違って鳴ることを恐れるべきです」
白石さんは、資料の端を指で押さえた。
「誤報が続けば、装着者も管制も警報を信用しなくなります。次に本当に危険でも、また誤報だと思われる」
——狼少年になれば、次に本当の警報が出たとき、誰も動かない。
鳴瀬の谷で警報基準を決めたとき、俺自身が考えたことだった。
「白石さん」
「はい」
「俺、去年、別の場所でほとんど同じことを考えました」
「別の場所?」
「群馬の山に、地盤の異常を見張る装置を置いたんです。地磁気、温度、振動、ガス、湧出量、亀裂幅。どれか一つだけだと、ノイズで警報が出る」
「それで、どうしたんですか」
「2段階にしました。第1段階は、感度を優先した『注意』。第2段階は、独立した複数の項目が同時に動いたときだけ『警戒』」
白石さんのペンが止まった。
「……それ、使えます」
初めて、声から棘が抜けた。
「NIRSだけで判断しない。加速度の履歴、呼吸、脈波、心拍、反応時間。単独では曖昧でも、同時に崩れたら危険度は上がる」
澄人が、すぐに新しいページを開いた。
「判定ロジックを組む。まずは、測れる項目とサンプリング周期を全部出してください」
「分かりました。ただし、医学的な意味づけは私が確認します」
「出典も付けてもらえますか」
「当然です」
2人の返事が、妙に早かった。
俺は、机を挟んで資料を並べ始めた2人を見た。
工学だけでは、ここへは来られなかった。
医学だけでも、装具にはならなかった。
足りないものを、外から補う。
それは装具だけの話ではなかった。
◇◇◇
白石さんが実習へ戻ったあとも、研究室には紙をめくる音だけが残った。
最初に沈黙を破ったのは、ゴウだった。
「……なあ、灯」
「何だ」
「今の人、すげぇ美人じゃなかった?」
「最初に言うことがそれかよ」
「そこだろ、普通!」
ゴウは、なぜか俺より悔しそうに机を叩いた。
「何なんだよ、お前ら。俺の隣で難しい顔して論文めくりやがって。あの人、これから手伝ってくれるんだよな?」
「協力してくれるとは言ってた」
「よっしゃ!」
「相沢」
澄人は画面から顔も上げなかった。
「やめとけ」
「何でだよ!」
「お前、さっき一言も話せてなかっただろ」
ゴウの動きが止まった。
「……見てたのかよ」
「見てた。挨拶しようとして、口だけ開いて閉じた。2回」
「心の準備が必要だったんだよ!」
思わず吹き出した。
工場では年上の職人へ平気で意見し、大学の研究室には飛び込みで営業し、鳴瀬では消防団の男たちと資材を運んだ男が、白衣の女子学生1人を前に固まっていた。
「まあ、相沢が固まるのも分からなくはない」
澄人が、そこで初めて顔を上げた。
「あの人、相当できる」
「……そうか?」
「灯。お前、初対面で設計思想そのものを否定されて、反論できなかっただろ」
俺は口を閉じた。
『人体を機械の付属品だと思っていませんか』
思い出すだけで、胃の奥が少し冷える。
「専門外の相手が、どこを見落としているかを数分で見抜いた。知識があるだけじゃできない」
澄人は眼鏡を押し上げた。
「自分の分野に責任を持っている人間の顔だった」
「お前が人をそこまで褒めるの、珍しいな」
「事実を言っただけだ」
そして彼は画面へ戻った。
「あと相沢。白石さん、お前の名前を覚えてない可能性が高いぞ」
「何でだよォ!」
◇◇◇
警告の伝え方を決めたのは、ゴウだった。
「振動だろ」
相沢製作所の作業台で、彼は迷いなく言った。
「高Gの最中は目も耳も当てにならないんだろ。だったら、身体へ直接伝えるしかねぇ」
「どこへ付ける」
「首か、鎖骨の上……いや」
ゴウは自分の手首を指で叩いた。
「手首だ。腕が座席へ押しつけられても、皮膚の感覚は残る。左右で別の信号も出せる」
「根拠は」
「バイク。ヘルメットの中で音が聞こえなくても、ハンドルの振動は分かる」
俺と澄人は顔を見合わせた。
「採用」
「だろ!」
その日から、ゴウは振動子の強さと位置を決めるため、工場にいる人間の手首を片端から叩いて回った。
「さっきから何をやってるの」
呆れた声が、事務室から飛んできた。
ゴウの母親——
相沢製作所の帳簿、発注、請求、給与を長年1人で支えてきた人だ。俺が働き始めてから、給料の支払いが1日でも遅れたことはない。
「実験だよ、実験」
「実験で職人さんの手を叩くんじゃないよ」
「痛くねぇって!」
節子さんは、俺のほうを見た。
「灯くん。この子、迷惑をかけてない?」
「むしろ助かっています」
「本当? この前『灯が7Gで気を失った』って言ってたけど、私、詳しい話を聞いてないんだけど」
工場が、しんと静まった。
ゴウが、ゆっくり後ずさる。
「……お前、言ったのか」
「言ってねぇ! たぶん」
「たぶんって何よ」
節子さんは伝票の束で自分の肩を叩いた。
「灯くん。うちの人も、この子も、あなたがやってることを全部理解しているわけじゃない」
「……はい」
「でもね。うちの人、あなたが来てから旋盤の前で鼻歌を歌うようになったの。30年一緒にいて、初めて」
俺は、返事ができなかった。
「工場が畳まれるかもしれないって話をしていた頃は、家でも何も話さなかった。今は『次は何を削る』って、そればっかり」
節子さんは少しだけ笑った。
「だから、好きにやりなさい。ただし、誰かが死ぬような試験は駄目。死んだら承知しないからね」
「……はい」
「返事が小さい」
「はい!」
満足したのか、節子さんは事務室へ戻っていった。
その背中を見送り、ゴウが小声で言った。
「……最近、母ちゃん、少し楽になったんだ」
「何かあったのか」
「春から事務の人を1人雇った。
「工場に、そんな余裕ができたのか」
「試作の仕事が増えたからな。澄人が見積もりの基準を作ってくれただろ。赤字になる仕事を受けなくなって、ようやく人を雇えた」
ゴウは振動子の配線をいじりながら、妙に早口で続けた。
「その人が、ものすげぇ几帳面でさ。俺が伝票を丸めてポケットへ突っ込むと、絶対見つけるんだよ。『相沢さんの息子さんですよね。会社の書類を雑に扱わないでください』って」
「……お前、耳が赤いぞ」
「暑いんだよ!」
ゴウは振動子を抱え、工場の奥へ逃げていった。
澄人が、画面から目を離さずに言った。
「相沢、あの人が来る日は伝票を折らなくなった」
「見てるんだな、そういうところ」
「業務データの変化だ」
そう言う澄人にも、最近は明らかな変化があった。
情報系ゼミの課題で、やたらと「遠野」という名前を出すようになったのだ。
『遠野が、欠損データの扱いを変えたほうがいいと言った』
『遠野が、出典番号を別テーブルに分けた』
『遠野なら、この検索条件を見落とさない』
澄人が、同じ人物の判断を何度も引用する。
それ自体が、この1年半では珍しかった。
「澄人。その遠野って——」
「何だ」
こちらを見る目が、妙に鋭かった。
「……いや、何でもない」
ここで藪をつつけば、確実に白石さんの話を返される。
俺にも、それくらいの危機察知能力はあった。
◇◇◇
試作1号が形になったのは、7月5日だった。
近赤外の投光・受光プローブは、額の左右へ密着させる形でヘッドフレームへ組み込んだ。
ただ強く固定すればいいわけではない。締めすぎれば頭皮の血流そのものを変え、測定値へ影響する。緩ければ姿勢を変えた瞬間にずれる。
健三さんは、支持部品を3度作り直した。
「人間の頭ってのは、図面どおりじゃねぇな」
削り直した部品を手に、心底嫌そうに言った。
「左右でも形が違いますから」
「機械なら不良品で弾けるのによ」
「人間を弾かないでください」
制御は、澄人がほとんど書き直した。
NIRSの変化だけで警報は出さない。
第1段階の「注意」は、酸素化指標の低下傾向に加え、呼吸の乱れ、脈波の変化、加速度履歴、反応時間の遅れのうち、複数が一定時間重なった場合。
第2段階の「中止」は、変化がさらに進むか、本人の応答が規定時間を超えた場合。
警告は、両手首の振動子へ送る。
短く2回なら「注意」。
連続振動なら「直ちに負荷を下げる」。
同じ信号は、試験管制側にも送られる。
「装着者が『大丈夫』と言っても、機械と管制が止められるようにする」
澄人が確認すると、俺は頷いた。
前の俺なら、自分だけに分かればいいと思ったかもしれない。
今は違う。
意識を失いかけた本人の判断を、最後の安全装置にはできない。
◇◇◇
最初の試験は、大学の傾斜台で行った。
俺が装具を着け、台へ身体を固定する。白石さんがプローブの位置と接触圧を確認し、真壁先生がモニターの前へ座る。
「白石さん。始めていいですか」
「待ってください」
彼女は、俺の顔を覗き込んだ。
数秒。
あの最初の日と同じ、奥まで見られているような視線だった。
「鈴木さん。今日、体調は」
「普通です」
「本当に?」
「はい」
白石さんは、なおも俺を見ていた。
「真壁先生。開始前の基礎値を、もう一度取ってもいいですか」
「理由は?」
「……いつもより、少し遠い感じがします」
「遠い?」
俺と真壁先生の声が重なった。
「うまく説明できません。顔色と、目の焦点が、少し」
根拠としては曖昧だった。
だが真壁先生は否定せず、再測定を指示した。
結果を見て、眉を上げる。
「心拍数が普段より12高い。血圧も少し上。鈴木さん、昨日は何時間寝ました?」
「……3時間くらいです」
「中止」
即答だった。
「えっ」
「睡眠不足の被験者から取ったデータを、装置の性能として扱う気?」
「……ありません」
「では降りなさい」
俺は傾斜台へ固定されたまま、頭を下げた。
「すみません」
「謝る相手は、徹夜させた自分です」
装具を外しながら、俺は白石さんを見た。
「白石さん」
「はい」
「どうして分かったんですか」
「顔色です」
「俺、いつもこんな顔ですよ」
「いつもより、少し……」
彼女は言葉を探すように視線を下げた。
「少しだけ、ここにいない感じがしました」
「ここにいない?」
「変な言い方なのは分かっています」
白石さんはクリップボードを胸へ抱えた。
「小さい頃から、人が無理をしているのが、何となく分かることがあります。具合が悪い人とか、泣くのを我慢している人とか」
「観察して分かるんですか」
「そうだと思うようにしています。顔色、呼吸、声、姿勢。説明できる材料はありますから」
そこで、彼女は少しだけ苦笑した。
「でも、説明できないこともあります」
「例えば?」
「人混みが苦手です」
白石さんは窓の外へ顔を向けた。
「誰が体調を崩しているのか、誰が怒っているのか、誰が泣きそうなのか。見ようとしていないのに、勝手に入ってくる感じがする」
「……疲れませんか」
「疲れます。耳を塞ぐみたいには止められないので」
その言葉を聞いた瞬間。
静かな実験室にいるはずなのに、遠くから大勢の人間の声が押し寄せたような気がした。
笑い声。苛立ち。息苦しさ。助けを呼ぶ声。
一瞬だけ、胸の奥がざわつく。
——たすけて。
あの黒い壁へ触れたときの感覚が重なった。
「鈴木さん?」
白石さんの声で、ざわめきは消えた。
「……何でもありません」
「今、顔色が変わりました」
「昔のことを、少し思い出しただけです」
彼女は何かを聞きかけた。
だが、口を閉じた。
「……変な話をしました。忘れてください」
そう言って背を向ける。
俺も、それ以上は追わなかった。
互いに、触れないほうがいい場所がある。
そのときは、ただそう思った。
けれど、彼女の言葉を聞いた瞬間に感じたあのざわめきを、俺は忘れられなかった。
◇◇◇
再試験は、4日後に行われた。
前日は8時間眠り、朝食も取った。
白石さんに顔を見られて、「今日は近いです」と言われてから、傾斜台へ乗った。
「近いって、何ですか」
「普通という意味です」
「最初からそう言ってください」
「普通より分かりやすいでしょう」
初めて、会話らしい会話になった気がした。
傾斜台がゆっくり起き上がる。
血液が下半身へ移ろうとし、装具が脚部と腹部を締めた。
45度。60度。
ブブッ。
両手首が、短く2回震えた。
「第1段階、来ました」
「NIRSの酸素化指標、低下傾向」
白石さんがモニターを読み上げる。
「呼吸数上昇。脈波振幅、低下。加速度履歴を含め、設定した5項目中3項目が判定域。警告ロジックは正常です」
澄人が、時刻と数値を記録していく。
傾斜は、さらに上がった。
ブブブブブブブ——
連続した振動が手首を強く打った。
まるで、誰かに腕を掴まれているようだった。
「第2段階!」
「中止」
真壁先生の声と同時に、台が戻り始める。
俺は装具の中で荒く息をしながら、白い天井を見つめた。
(……鳴った)
自分の身体が危険域へ近づいたことを、自分より先に機械が教えた。
前世のあの日。
誰も、俺に「逃げろ」とは言わなかった。
あと何秒で崩れるのかも、どこへ逃げればいいのかも分からなかった。
今日、初めて——俺が作ったものが、俺へ警告した。
目元から、汗とは違うものが流れた。
「鈴木さん」
白石さんが覗き込む。
「泣いています?」
「汗です」
「目からだけ出る汗があるんですね」
「あります」
「そうですか」
それ以上は追及せず、彼女はモニターへ戻った。
記録用紙へ数値を書き込みながら、独り言のように言う。
「……ちゃんと人間の側から作れば、機械も人間を置いていかないんですね」
俺は、その背中を見つめた。
「白石さん」
「はい」
「ありがとう」
彼女のペン先が、一瞬だけ止まった。
「まだ傾斜台で鳴っただけです。遠心機では分かりません」
「それでもです」
「……では、遠心機でも鳴らしましょう」
横顔が、ほんの少しだけ笑っていた。
その瞬間、胸に触れた感情が、自分のものなのか彼女のものなのか、わずかに分からなくなった。
気のせいだと思うことにした。
◇◇◇
7月29日、久保田さんから連絡が入った。
試作1号の仕様書と傾斜台試験の記録を検討し、TPCは次の段階へ進めると判断したという。
『9月、遠心加速度装置による再試験を実施する』
『被験者は、鈴木灯とする』
『医療担当者として、真壁医師および白石奏の参加を要請する』
『警告機構の有効性と再現性が確認された場合、実用化検討へ移行する』
「白石さんまで、ですか」
『彼女が測定方法と判定基準の作成に関与している。途中で担当を替える理由がない』
「分かりました」
電話を切り、俺は椅子の背にもたれた。
9月。
今度は7.2Gへ耐えることだけが目的ではない。
危険になる前に警告が届くか。
警告を受けた俺が、正しく行動できるか。
管制が、本人の意地より先に止められるか。
装具だけでなく、装着者と管制を含めた仕組み全体が試される。
視界の隅に、青いウィンドウを呼び出した。
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▶ 所持ポイント: 36,800 SP
【マクロス初代・統合技術パック】:30,000 SP
└ 購入条件を満たしています
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1年半、遠すぎて笑うしかなかった数字。
それを、俺はもう2か月以上前に越えている。
指を伸ばせば、今すぐ買える。
だが、購入確認へは進まなかった。
今ここで新しい知識を入れ、装具や制御を根本から変えれば、9月の試験で比較する基準が崩れる。
そして何より、白石さんに言われたばかりだ。
機械ができることだけを先に考えるな。
マクロスの技術を得れば、作れるものは増える。
だが、それを誰が使い、誰が止め、壊れたときに誰が守るのか。
そこまで考えなければ、図面が増えるだけだ。
「……試験が終わってからだ」
俺はウィンドウを閉じた。
買えるのに、買わない。
以前の俺なら、できなかった選択だった。
机の上には、試作1号の改修記録がある。
工場には、健三さんとゴウ、それに節子さんと美園さんがいる。
研究室には、教授と澄人がいる。
保健管理センターには、真壁先生と白石さんがいる。
俺が持っているものは、もうSPだけではなかった。
窓の外で、夏の入道雲が大きく膨らんでいた。
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【現在のステータス・スキル情報】
[BASE STATUS]
┣ 演算処理能力: D
┣ 空間認識力 : D
┣ 反応速度 : D
┗ G耐性/肉体: F(装具装着時:D相当)
[ACQUIRED SKILLS & KNOWLEDGE]
┣【超古代言語理解 Lv.2】
┣【初級・機械工学/プログラム言語】
┣【中級・航空力学/制御アルゴリズム】
┣【上級・次世代エネルギー/流体力学】
┣【インファイト Lv.1】
┗【SPアップ Lv.1】
[SYSTEM DATA]
┣ 所持ポイント: 36,800 SP
┣ 残機数 : 3 / 3
┣ 開発中 : 加速度支持外骨格 試作1号(多項目警告機構・傾斜台試験完了)
┣ 購入可能 : 【マクロス初代・統合技術パック】(取得保留)
┗ 予定 : 9月・遠心加速度装置 再試験
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第22話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、白石奏の登場と、試作1号の警告機構が完成するまでのお話でした。
人を守るには、強く支えるだけでなく、危険を知らせ、その声を受け取る仕組みが必要です。
灯が作った装具は今回、初めて灯自身へ「止まれ」と伝えることができました。
次回は、遠心加速度装置での再試験です。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。