鋼鉄の灯火は深淵を照らす—超古代の厄災と、メカオタクの生存戦略—— 作:カノープス・ギア
深海に広がる巨大構造を前に、探査機は無事に観測を終え、帰ってくることができるのでしょうか。
仲間たちが作り上げた「帰るための仕組み」が試されます。
どうぞお楽しみください!
出航の3日前、俺たちは最後の打ち合わせのため、TPC技術評価室の会議室に集められていた。
「もう一度、役割を確認します」
久保田さんが、人数分の資料を机へ配った。
「今回、皆さんにお願いするのは、無人探査機へ追加した観測ユニットの運用補助と、既知の3地点との比較です。探査機の操縦権限は、海洋研究機関の運用班にあります」
資料の最初には、指揮系統が太い線で書かれていた。
船長。調査責任者。運用主任。観測班。医療班。
その下に、俺たちの名前がある。
「潜水はしない。海中作業もしない。独断で探査機を動かすこともしない。船上から、機械の目と耳を通して海底を観測する。異常を見つけた場合は、必ず運用主任へ報告する」
「はい」
俺は、素直に頷いた。
半年前の俺なら、自分も現場へ行かせろと食い下がっていただろう。
だが今は違う。
俺が潜らなくても、俺たちの作った観測装置が海底を見る。その情報を、経験のある人たちが安全に持ち帰る。
それでいい。
「ただし」
久保田さんは、資料の次のページを開いた。
「あなた方にしかできない判断があります」
「なんですか」
「あの構造物が、黒岩、樽内、鳴瀬で確認されたものと同系統かどうか。その比較です」
スクリーンに、3地点の写真が並んだ。
黒岩鉱山の黒い壁面。樽内の青白く光る遺構。鳴瀬の亀裂の奥で脈打っていた隆起。
「現地で表面を見て、温度を測り、脈動を記録したのは、現時点ではあなた方だけです。映像や数値だけでは拾えない違和感もあるでしょう」
俺は、3枚の写真を見つめた。
潜れない。
先頭にも立てない。
それでも、俺たちにしかできない仕事が残っている。
「分かりました」
「もう1点」
久保田さんの視線が、俺へ向いた。
「試料回収は、こちらが許可するまで禁止します」
「……はい」
「鳴瀬では接近によって数値が上昇した。今回の対象は、それよりはるかに大きい可能性があります。まず観測し、反応を確認し、帰還する。それが第1目標です」
帰還する。
その言葉を、俺は胸の中で繰り返した。
◇◇◇
2005年11月4日。
俺たちは、伊豆諸島東方へ向かう調査船『
第1次調査で、海底の下に広がる不自然な反射面が見つかった。それを受けて組まれた第2次調査には、俺たち3人と神宮寺教授、そして奏も同行している。
奏は、真壁先生の補助として、乗員の健康管理と回収物の生体影響確認を担当することになっていた。
——少なくとも、予定では。
「白石さんは?」
観測室に姿が見えないことに気づき、俺が訊くと、真壁先生がため息をついた。
「船室。朝から何度も吐いてるわ」
「大丈夫なんですか」
「脈も血圧も危険な値ではない。水分も取れてる。ただ、しばらくは動かさないほうがいいわね」
真壁先生は、記録表へ何かを書き込みながら続けた。
「本人は『船酔いだけじゃない気がする』って言ってるけど、まずは揺れから離して休ませる。原因を決めつけるのは、その後」
俺は、前夜のことを思い出した。
出航前の桟橋で、奏は暗い海を見ながら、一度だけ妙なことを言っていた。
『私、来ないほうがいいのかもしれません』
『どうしてですか』
『……分かりません。なんとなくです』
そのときは、船が苦手なのだろうと思った。
実際、出港してからの奏は、まともに観測室へ来られていない。
それでも、あの「なんとなく」が、胸の奥に引っかかっていた。
観測室には、TPCと海洋研究機関の職員が詰めていた。
壁一面のモニター。探査機の姿勢、深度、ケーブル張力、水温、電力消費。中央の制御卓には、緊急時の手順書が赤いクリップで留められている。
その前に立つ女性が、今回の運用主任だった。
「
40代半ばほど。日に焼けた顔に、潮風で傷んだ短い髪。海洋探査に20年以上携わってきた人だと紹介された。
沖田さんは、俺たちの顔より先に、追加された観測ユニットの構成図を見た。
「あんたたちが、自律退避機能を組んだ学生さんかい」
「はい」
「正直に言う。最初に仕様を見たとき、あたしは反対した」
俺は、背筋を伸ばした。
「探査機ってのは、母船とつながってなんぼだ。人間が見て、人間が判断して、人間が戻す。通信が切れたからって、機械が勝手に動くなんて、余計な事故を増やすと思ってた」
「……はい」
「でも、第1次調査でケーブルが海底の突起に引っかかった」
沖田さんは、制御卓の記録画面を呼び出した。
ケーブル張力が急上昇し、その直後に探査機が自動で高度を取り、地形から距離を離している。
「こいつが先に動かなければ、操縦者が張力計に気づくまでの数秒で、ケーブルを傷めていた。最悪、海底へ置いてくるところだった」
彼女は画面を閉じた。
「だから今日は、あんたたちの考えた『壊れた後』を信じる。ただし、最後に決めるのはあたしだ。異常が出たら、数字を盛らず、分からないものは分からないと言え」
「分かりました」
「いい返事だ」
沖田さんは、そこで初めて笑った。
健三さんが相沢製作所で教えてくれた考え方が、海の現場で働く人の判断へつながっている。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
◇◇◇
伊豆諸島東方の海は、荒れていた。
11月の海は、夏とは別物だった。大きなうねりを船体が乗り越えるたび、床がゆっくり傾き、数秒遅れて反対側へ戻る。
ゴウは、出航から2時間で甲板の手すりと友達になっていた。
「……よく平気だな、お前」
青い顔で観測室へ戻ってきたゴウが、壁に背を預ける。
「遠心機よりはましだ」
「比較対象がおかしいんだよ……」
澄人も顔色は悪かったが、酔い止めを飲み、モニターから目を離さなかった。
「探査機の時刻同期、確認した。船側とのずれ、0.02秒以内」
「磁力計は」
「本体のモーターを止めた状態で基準値を取った。投入後も、降下中に3回取り直す」
「帰還条件は?」
「通信断60秒。ケーブル張力の急上昇。姿勢制御不能。浸水検知。このうち2条件が重なったら、自動退避へ移る」
澄人は淡々と答えた。
自動退避に入った場合、探査機はまず海底から距離を取る。それでも母船との通信が戻らなければ、機体側の切離し装置で複合ケーブルを外し、非常用の錘を投棄する。
浮力で上昇し、海面へ出た後は、発光灯と無線標識が作動する。
机上では何度も確認した。
港内でも、浅い海でも試した。
だが、水深1000メートルの本物の海では、今日が初めてだった。
「投入、開始します」
オペレーターの声が響いた。
甲板のクレーンが、無人探査機を吊り上げる。
白と黄色の機体。その前部には耐圧カメラ。両側には推進器。下部の交換式フレームには、俺たちが追加した地磁気、水温、微振動のセンサーが収められている。
磁力計だけは、モーターや電源系の影響を避けるため、細い支持腕の先へ離して取り付けた。
海面へ降ろされた機体が、大きな波に一度持ち上げられる。
次の瞬間、黒い水の中へ沈んだ。
俺たちの目が、海底へ向かって降りていく。
◇◇◇
降下には、1時間近くかかった。
100メートル。
太陽の光が弱くなる。
500メートル。
窓の外は完全な闇になり、探査機の照明だけが、海中を漂う粒子を白く浮かび上がらせる。
800メートル。
水温がさらに下がる。圧力計の数字が増え続ける。
そして、深度1000メートル。
「海底まで、残り30メートル」
探査機のライトが、灰褐色の泥を捉えた。
一見すれば、どこにでもある深海の底だった。
凹凸の少ない堆積物。流れに沿って残る細い筋。ライトへ反応して逃げる、小さな生物。
「サイドスキャン、開始」
左右へ放たれた音波が、海底表面の形を描き出す。
泥の間から、ところどころ直線的な硬い面が露出していた。
「海底下探査、重ねます」
今度は低い周波数の音波が、堆積物の下へ届く。
モニターに、泥の層とは明らかに異なる、強い反射面が現れた。
海底のさらに下。
平らな面が、画面の端から端まで続いている。
「……範囲を広げて」
沖田さんが指示した。
探査機は、高度を保ったまま横へ移動した。
500メートル。
1キロメートル。
それでも、反射面は途切れない。
「端が見えません」
オペレーターの声が、少しだけ硬くなった。
澄人が、観測範囲を地図へ重ねる。
「確認できた部分だけで、長辺2.8キロメートル。短辺1.6キロメートル以上」
「以上、か」
「端が探査範囲の外です。これは最小値です」
観測室が静まり返った。
黒岩、樽内、鳴瀬で見た炉は、せいぜい十数メートル規模だった。
だが、海底下にあるものは、桁が違う。
「……教授」
俺は、隣に立つ神宮寺教授を見た。
教授は、海底下の反射像から目を離さなかった。
「これは、4つ目の炉ではないかもしれん」
「え?」
「炉を支える基盤か。あるいは、複数の設備をつなぐ中枢か」
教授は、震える指で画面を示した。
「巻物には、7つの炉が地の脈に沿って伏せているとあった。炉が独立しているのではなく、何かの網に接続されていた可能性もある」
「日本中の炉が、これにつながっているってことですか」
ゴウが訊いた。
「まだ分からん」
教授は、すぐに首を横へ振った。
「この規模だけで、そこまで言うことはできん。だが、少なくとも我々がこれまで見てきたものと、役割が違う可能性は高い」
その慎重な言葉が、かえって重かった。
視界の隅に、青い表示が浮かんだ。
【超古代構造物を確認】
※既観測個体との分類一致を確認できません
(……システムでも、分からないのか)
少なくとも、単純な「4基目」として扱えるものではない。
俺は、画面の向こうに広がる黒い面を見つめた。
三千万年前の人間は、海になる前のこの場所に、何を造ったのだろう。
◇◇◇
「目視接近へ移ります」
沖田さんの声で、観測室の空気が切り替わった。
ここからは、俺たちが作った手順に従う。
一定距離まで近づき、停止する。
まず測る。
反応がなければ、角度を変えてもう一度測る。
触れない。削らない。回収しない。
「高度20メートル。降下速度、毎秒0.3メートル」
探査機が、ゆっくりと海底へ近づく。
ライトの中で、泥の凹凸が大きくなる。
そして、その堆積物の切れ目から——黒い面が現れた。
血管のような隆起。
光をほとんど返さない表面。
黒岩、樽内、鳴瀬で見たものと、確かに似ている。
ただし、視界のどこにも端がない。
壁ではない。
床でもない。
黒い大地そのものが、どこまでも続いているように見えた。
「高度15メートル。停止」
推進器の出力が落ち、探査機が静止する。
「観測開始」
地磁気。
水温。
微振動。
最初の30秒は、変化がなかった。
「基準値、維持」
澄人が言った。
1分。
地磁気が、わずかに上がった。
1分30秒。
海底面付近の水温が、0.2度上昇。
2分。
微振動センサーに、一定周期の波形が現れた。
「周期、8.4秒」
「鳴瀬の活性時と近い」
俺は、過去の記録を呼び出した。
完全に同じではない。
だが、ゆっくり立ち上がり、一度だけ鋭く跳ね、その後に減衰する形が似ている。
「接近を認識している可能性があります」
俺は沖田さんへ報告した。
「根拠は?」
「探査機が高度15メートルで静止した後から、3項目が順番に変化しています。自然変動なら、開始時刻がここまで重なる可能性は低い。ただし、因果関係はまだ断定できません」
「了解。これ以上は近づけない」
沖田さんは即座に決めた。
「観測を続けながら、5メートル上げる」
探査機が、ゆっくり上昇を始める。
その瞬間だった。
どくん。
音ではなかった。
海底の黒い面を、青白い光が走った。
同時に、地磁気、水温、微振動の数値が一斉に跳ね上がる。
「急変!」
「警戒判定、2段目!」
澄人の声と、探査機側の警報が重なった。
「全速で離脱!」
沖田さんが指示する。
探査機が上を向き、推進器の出力を上げる。
画面の中で、黒い面が遠ざかり——
**ぶつり、と。**
映像が消えた。
◇◇◇
「通信途絶!」
観測室に、短い警報音が鳴り響く。
「主回線、応答なし!」
「音響通信も届きません!」
モニターが砂嵐へ変わった。
ケーブル張力だけが、一度大きく跳ね、その後、ゼロになった。
「ケーブル、切離しを確認!」
オペレーターが叫ぶ。
俺は、息を止めた。
通信断。
異常磁場。
張力急上昇。
3つの条件が重なった。
探査機側の監視回路が、自律退避へ移ったのだ。
「灯」
ゴウが、俺を見る。
「……戻ってくる」
俺は、自分へ言い聞かせるように答えた。
「非常錘を落として浮上する。そう作った」
「浮上まで、何分?」
久保田さんが訊く。
「計算上は、42分から55分です。海流でずれる可能性があります」
「捜索範囲は」
澄人が、すでに海流予測を画面へ重ねていた。
「浮上中の流され方を含めて、半径3キロメートル。無線標識が生きていれば絞れます」
沖田さんは、船長へ回収態勢を要請した。
甲板員が動き出す。
誰も、探査機が戻ると断言しなかった。
それでも、全員が戻ることを前提に準備していた。
40分は、永遠のように長かった。
ゴウは船酔いも忘れ、無線標識の画面を睨んでいる。
澄人は浮上位置の予測を何度も更新していた。
教授は椅子に座り、目を閉じていた。祈っているようにも、これまでの観測を頭の中で辿っているようにも見えた。
俺は、ただ待っていた。
(帰ってこい)
浅い海で試した。
ケーブルの切離しも、錘の投棄も、何度も確認した。
だが、本物の水圧の下で動く保証はない。
1つのボルトが固着するだけで、帰れない。
電池が落ちるだけで、帰れない。
どこかに引っかかるだけで、帰れない。
前世の記憶が、喉の奥までせり上がってくる。
崩れた建物の下。
届かなかった声。
戻る道を失った、自分。
海底の探査機が、自分の代わりに取り残されているような気がした。
「学生さん」
沖田さんが、モニターを見たまま言った。
「いま、自分が海に落ちたみたいな顔してるよ」
「……そう見えますか」
「見える」
沖田さんは、椅子の背にもたれた。
「機械が帰らないと、自分まで帰れない。そんな顔だ」
俺は、否定できなかった。
「でもな」
彼女は、静かに続けた。
「あの機械は、帰り方を知らないわけじゃない」
「……」
「あんたたちが教えたんだろ。電気が切れたらどうする。線が切れたらどうする。迷ったら、どっちへ動く。全部、先に決めた」
沖田さんは、海面監視のモニターへ目を移した。
「なら、作った側が先に諦めるな。待つのも、運用の仕事だ」
俺は、握り締めていた拳を、ゆっくり開いた。
待つ。
任せる。
それも、人を——機械を帰すための仕事だ。
「無線標識、受信!」
オペレーターの声が響いた。
「方位、北東! 距離、1.8キロメートル!」
観測室にどよめきが起きる。
「発光信号も確認! 探査機、海面に浮上しています!」
俺は、制御卓へ両手をついた。
膝から力が抜けそうになる。
「……帰ってきた」
ゴウが、俺の背中を叩いた。
「帰ってきたぞ、灯!」
「ああ」
船が回収地点へ向きを変える。
荒れた海面の向こうで、小さな橙色の灯りが明滅していた。
クレーンが探査機を吊り上げる。
海水を滴らせた機体が甲板へ降ろされた瞬間、乗組員から小さな拍手が起きた。
俺は、沖田さんたちと一緒に機体へ駆け寄った。
外装には擦過痕があった。磁力計の支持腕は曲がり、片側の照明カバーには細い亀裂が入っている。
だが、耐圧殻は無事だった。
記録装置も生きている。
「よく戻った」
沖田さんが、濡れた機体を軽く叩いた。
「……学生さん。あんたらの『壊れ方』は、使えたよ」
俺は、返事の代わりに深く頭を下げた。
そのとき、甲板員の一人が声を上げた。
「主任。下部フレームに、何か挟まってます」
機体の下、衝撃を受け止めるための交換式ガード。
その格子の間に、黒いものが食い込んでいた。
探査機が採取したわけではない。
海底面が脈打った際に剥がれた破片が、離脱する機体へ飛び、偶然引っかかったらしい。
「触るな」
久保田さんが制止した。
回収班が防護具を着け、周辺の線量、温度、揮発性ガスを確認する。
異常なし。
それでも素手では扱わず、長い器具で破片を外し、密閉できる耐圧容器へ収めた。
黒い破片は、長さ7センチほど。
泥を洗い流すと、黒い表面に細い隆起が走っていた。
そして——容器の温度センサーが、一定の周期で揺れている。
「温度、0.1度上昇。……低下。もう一度、上昇」
澄人が、船内へ運ばれる容器を見ながら言った。
周期は、8.4秒。
海底で観測した脈動と、ほぼ同じだった。
◇◇◇
その夜。
船内の簡易分析室で、俺はガラス越しに容器を見つめていた。
回収物は二重の容器へ封じられ、机へ固定されている。
黒岩と樽内で回収した破片も、温かさを持っていた。
だが、ここまで明確に周期的な変化を続けたものはない。
容器の側面に貼られたセンサーの波形が、規則正しく上下している。
8.4秒。
海底の巨大構造物と同じ周期。
「切り離されてるのに……」
本体から1000メートルの海を引き上げられ、調査船はすでに現場から何キロも離れている。
それでも、破片の周期は変わらない。
(つながっているのか)
電波か。
磁場か。
それとも、俺たちがまだ知らない仕組みか。
【未知有機金属片を確認】
【解析対象を追加します】
※既取得試料と比較し、活性状態に有意差を確認
システムの表示ですら、「生きている」とは断定しなかった。
だが、波形を見ていると、そうとしか思えない。
海底の何かが脈打つ。
船上の破片も、同じ間隔で応える。
まるで、離れた身体の一部を確かめるように。
「……鈴木さん」
背後から、弱い声がした。
振り返ると、奏が分析室の入口に立っていた。
顔色はまだ悪い。片手で壁へ触れ、もう片方の手を胸の前で握っている。
「白石さん。起きて大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃないです」
奏は、いつものように正直に答えた。
「真壁先生には、5分だけって許可をもらいました」
「だったら、座ってください」
俺が椅子を引くと、奏はゆっくり腰を下ろした。
彼女の目は、俺ではなく、ガラスの向こうの容器へ向いている。
「……あれが船に上がってきてから、気持ち悪さが変わりました」
「船酔いとは違う?」
「違います」
奏は、しばらく言葉を探した。
「船酔いは、身体が揺れて、胃が追いつかない感じです。でも、これは……外から押されてくる」
「押される」
「胸の奥に、息ができない感じが入ってくるんです。私が苦しいんじゃなくて、誰かの苦しさを近くで拾ってるみたいに」
その言葉と同時に、容器の波形が上がった。
俺の胸も、一瞬だけ締めつけられた。
深い水の底へ沈められたような、重い圧迫感。
すぐに消えた。
(……今のは)
奏が、胸元を押さえた。
同じ瞬間だった。
「小さい頃から、たまにあるんです」
奏は、ガラスから目を離さずに言った。
「人が痛いのを我慢しているときとか、泣くのを堪えているとき。本人が何も言わなくても、先に分かることがある」
「……前に、言ってましたね」
「今は、顔色や呼吸を無意識に見てるんだと思うようにしています。そのほうが、説明できますから」
奏の声は落ち着いていた。
だが、膝の上で重ねた指先には、力が入っている。
「でも、あれには顔も、呼吸もない」
俺は、ガラスの向こうを見た。
黒い破片。
規則正しく揺れる波形。
「白石さん」
「はい」
「全部、拾わなくていいです」
奏が、わずかにこちらを向いた。
「分からないものを、1人で受け止めなくていい。気づいたことだけ教えてください。残りは、測ります」
口にしてから、それは自分にも向けるべき言葉だと思った。
一人で全部を背負わない。
感じた者が、全部を抱えない。
持てる形へ分け、測れるものへ変え、複数の人間で確かめる。
それが、ここまで俺たちが学んできたことだった。
奏は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……では、1つだけ」
「はい」
「あれ、呼んでいるというより」
奏は、容器を見つめた。
「探している気がします」
「何を」
「分かりません。自分から離れたものか。あるいは——」
そこで言葉を止め、首を横に振る。
「すみません。ここから先は、私の感覚だけです」
「十分です」
俺は、記録用紙へ時刻を書き込んだ。
感覚を事実として扱わない。
だが、捨てもしない。
奏が立ち上がる。
扉を出る前に、一度だけ振り返った。
「鈴木さん」
「はい」
「これは、ただの機械ではないと思います」
俺は、すぐには答えられなかった。
「……俺も、そう思います」
奏が去った後も、黒い破片は脈打ち続けていた。
8.4秒ごとに。
遠い海底へ、何かを伝えるように。
◇◇◇
探査機が去った、光の届かない海底。
泥の下に広がる、巨大な黒い面。
その一角で、青白い光が灯った。
1つ。
少し離れた場所でもう1つ。
光は、8.4秒の間隔で明滅しながら、黒い面の上を移っていく。
まるで、失われた一部の位置を確かめるように。
やがて光の帯は、海面のはるか先——調査船が去った北東の方向へ向けて、細く伸びた。
その変化を観測する機械は、もう海底には残っていなかった。
=========================================
【現在のステータス・スキル情報】
[BASE STATUS]
┣ 演算処理能力: D
┣ 空間認識力 : D
┣ 反応速度 : D
┗ G耐性/肉体: F (装具装着時:D相当)
[ACQUIRED SKILLS & KNOWLEDGE]
┣【超古代言語理解 Lv.2】
┣【初級・機械工学/プログラム言語】
┣【中級・航空力学/制御アルゴリズム】
┣【上級・次世代エネルギー/流体力学】
┣【マクロス初代・統合技術パック】(翻訳作業:進行中)
┣【インファイト Lv.1】
┗【SPアップ Lv.1】
[SYSTEM DATA]
┣ 所持ポイント: 14,150 SP
┣ 残機数 : 3 / 3
┣ 解析対象 : 未知の有機金属片 ×4
┃ ┗ 新規1点:活性状態/TPC船内で隔離保管
┗ 第四候補 : 伊豆諸島東方・海底下巨大構造
(規模:未確定/既観測個体との分類一致なし)
=========================================
第25話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、海底の巨大構造への接近と、通信を失った探査機の帰還を描きました。
壊れないことではなく、壊れても帰れるようにすること。
灯たちの積み重ねが、深海でも探査機を海面まで導きました。
しかし、持ち帰った破片は、今も海底の何かとつながっているようです。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。