鋼鉄の灯火は深淵を照らす—超古代の厄災と、メカオタクの生存戦略——   作:カノープス・ギア

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鋼は目覚めを見張る

 

 2005年11月8日。

 

 海から帰って以来、俺はまともに眠れていなかった。

 

 目を閉じると、探査機のライトに浮かび上がった黒い面が、瞼の裏いっぱいに広がる。

 

 第1次、第2次の調査範囲だけでも端を捉えられなかった、海底下の巨大構造。

 その正体は、7つの炉を支える基盤なのか。まったく別の施設なのか。それとも、俺たちがまだ想像すらできていない何かなのか。

 

 現時点では、規模も用途も分からない。

 

 それでも俺の頭は、分からない部分を勝手に最悪の形で埋めようとする。

 

(……あれが全部、動き出したら)

 

 考えるたび、胸の奥が冷たくなった。

 

 俺たちは1年半をかけて、黒岩、樽内、鳴瀬の3地点を見つけた。

 泥の中を這い、地下へ潜り、ようやく地図の空白を埋め始めたつもりだった。

 

 だが、海底で見たものは、その地図そのものを下から支えているようにさえ見えた。

 

 俺の手元にあるのは、試作段階の外骨格と、まだ地球の技術へ翻訳しきれていない知識。そして、ようやく積み直し始めたSPだけだ。

 

(……勝てるのか、こんなものに)

 

 そんな言葉が浮かび、すぐに打ち消した。

 

 勝つ以前の問題だ。

 俺はまだ、あれが敵なのかどうかさえ知らない。

 

 分からないものを、恐怖だけで敵と決めつけるわけにはいかない。

 だが、分からないからといって、何もしないわけにもいかなかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 活性試料を海へ戻す案は、そのままの形では承認されなかった。

 

「……審査側の結論だ」

 

 TPCの会議室で、久保田さんは苦い顔をしていた。

 

「初めて回収された活性状態の試料だ。元の海域へ返せば、同じ状態のものを二度と入手できない可能性が高い。解析を打ち切る判断はできない、とのことだ」

 

「では、都内に置き続けるんですか」

 

「いや。そこは君と真壁医師の意見が通った」

 

 久保田さんは、机の上へ新しい資料を置いた。

 

「試料は、今夜のうちに沿岸部の隔離施設へ移す。周囲の人口密度が低く、海上へ搬出する場合にも都心を通らずに済む場所だ。移送中も、試料の脈動、海底側の活動、白石さんの症状は別々に記録する」

 

 俺は、わずかに息を吐いた。

 

 最善ではない。

 だが、解析を続けながら、最悪の場合に備えるための前進ではあった。

 

「白石さんに、専門の医療班をつけるという話は」

 

「本人と真壁医師が必要と判断した範囲に限る。こちらから試料へ近づけたり、反応を誘発したりする試験は行わない」

 

「……ありがとうございます」

 

「礼を言われることではない。人命上の危険と防災上の懸念を、記録で示した結果だ」

 

 久保田さんは一度だけ目を伏せ、それから俺を見た。

 

「感情だけでは組織を動かせない。だが、感情があるから見つけられる危険もある。君が白石さんを心配したからこそ、医療記録と試料の変化を結びつけて確認できた」

 

「……はい」

 

「次は、その危険を継続して観測できる形へ変える」

 

 資料の次のページには、伊豆諸島東方の海図が印刷されていた。

 

「海底構造の常時監視体制を敷く。追加するのは3組の観測設備だ」

 

「観測ブイ、ですか」

 

「正確には、海底観測ユニットと海上中継ブイの組み合わせだ。海底側で地磁気、微振動、水温、圧力を測り、音響通信で海上のブイへ送る。ブイからは衛星回線でTPCへ転送する」

 

 久保田さんは、海図上の3点を指した。

 

「構造物候補の中央付近と、その北側、北東側。活動域が本当に移動しているなら、単独の観測点では追えない」

 

「3点を比較して、変化の向きを見る」

 

「ああ」

 

 そして、久保田さんは俺たちのほうへ資料を滑らせた。

 

「追加判定装置と、安全帰還機構の設計。君たちに任せたい」

 

 

◇◇◇

 

 

 俺たちは、また機械へ手を加え始めた。

 

 海底観測装置そのものは、TPCと海洋研究機関が保有する既存機材を使う。俺たちが担当するのは、追加する観測ユニット、判定装置、安全帰還機構だった。

 

 ただし、今回は「ブイを3基作る」という単純な話ではなかった。

 

 海面に浮かぶ中継ブイ。

 その約1000メートル下で、海底に固定される観測ユニット。

 両者をつなぐ音響通信。

 

 海面は風と波にさらされ、海底は高い水圧と腐食にさらされる。片方が正常でも、もう片方が壊れれば、観測結果は届かない。

 

「灯くん。海底側は1年、上げない予定なんだろ」

 

 相沢製作所で耐圧容器を確認しながら、健三さんが言った。

 

「はい。基本は無整備で1年です」

 

「基本、って言葉を付けても、海は勘弁してくれんぞ」

 

 健三さんは、図面の角を指で叩いた。

 

「陸なら、蓋を開けて締め直せる。海底じゃ、ねじ1本緩んでも潜り直せない。しかも、水が入ったら終わりだ」

 

「だから、同じ部品を2個ずつ載せるつもりでした」

 

「同じ原因で2個とも壊れたら、意味がない」

 

 俺は、返す言葉を失った。

 

 同じセンサーを2系統にすれば、片方が故障した際の予備にはなる。

 だが、温度や圧力、浸水のような共通の原因で壊れれば、2系統とも同時に死ぬ。

 

「……同じものを増やすだけじゃ、冗長化にならない」

 

「そういうことだ」

 

 健三さんは、にやりと笑った。

 

「電源は別々にする。浸水検知も、電気式だけじゃなく、内部圧の変化でも見る。水温だって、同じ方式のセンサーを並べるだけじゃなく、反応の違うものを組み合わせる。壊れ方が違えば、全部が一度に嘘をつく可能性は下がる」

 

 俺は急いでノートへ書き込んだ。

 

 未来の完成された技術体系を頭に入れても、目の前の海に合わせた壊れ方までは、現場の人間に教わらなければ分からない。

 

「それから、帰還機構ですが」

 

 俺は、海底観測ユニットの下部を指した。

 

「回収指令を受けたら、固定用の錘を音響解放装置で切り離します。電池残量が規定値を下回った場合、通信が一定期間途絶した場合、内部への浸水を検知した場合も、自動で切り離す」

 

「また帰ってくる機械か」

 

「またです」

 

「好きだな、お前も」

 

「帰ってこないより、いいでしょう」

 

「違いない」

 

 健三さんは、満足そうに笑った。

 

 

 3組の設備で使う耐圧容器と基板、接続端子は、可能な限り共通化した。

 

 部品表を確認していた美園さんが、赤鉛筆で1行を囲む。

 

「この水中コネクタだけ、中央の観測ユニットと北側で型番が違います」

 

「中央だけ、磁力計の配線数が多いので」

 

「変換部品を1個追加して、同じ型番へ揃えられませんか」

 

「信号損失が少し増えます」

 

「どのくらいですか」

 

「観測精度への影響は、計算上0.3%未満です」

 

「なら、同じにしてください」

 

 美園さんは迷わなかった。

 

「交換用の部品を2種類持つより、1種類を多く確保したほうが、故障時の対応が速いです。納期も原価も、そのほうが読めます」

 

 未来技術の翻訳は、性能を最大化することではない。

 今の地球で、作れて、直せて、もう一度同じものを用意できる形へ落とすことだ。

 

 俺は、そのことを少しずつ理解し始めていた。

 

「美園さん、これも今日中にやるつもりですか」

 

 隣で組立票を書いていたゴウが、机の上に積まれた伝票を見た。

 

「できるところまでは」

 

「昨日も同じこと言って、最後までやっただろ」

 

「納期がありますから」

 

「俺らにもある。分けろ」

 

「相沢さんに任せると、文字が読めません」

 

「最近は読めるだろ。お前が書き直させたから」

 

 美園さんは黙り込んだ。

 

 ゴウは、彼女の返事を待たず、伝票の束を半分持ち上げた。

 

「記入は俺。最後の確認は美園さん。それなら文句ないだろ」

 

「……間違えたら、全部戻します」

 

「おう。間違えなきゃ、今日は時間どおり帰れよ」

 

 ぶっきらぼうな言い方だった。

 だが、美園さんは伝票を奪い返さなかった。

 

 誰かが抱えている重さを見つけると、ゴウは放っておけない。

 俺が相手でも、美園さんが相手でも、それは変わらなかった。

 

 

 判定系は、澄人と遠野さんが担当した。

 

 遠野さんが、3地点の波形と海底構造の観測記録を並べる。

 

「既知の波形と一致したときだけ警報を出す、では危ない」

 

「誤報を減らしたいんじゃなかったのか」

 

 ゴウが訊くと、遠野さんは小さく頷いた。

 

「減らしたい。でも、知らない異常を捨てるのはもっと危ない」

 

 画面には、2種類の警報条件が表示されていた。

 

「第1段階は、基準値から外れた変化を広く拾う。地震、海流、機器故障の可能性も含めて、確認を求める注意報」

 

 次の欄を指す。

 

「第2段階は、地磁気、微振動、水温のうち複数が同時に変化し、黒岩、樽内、鳴瀬、活性試料の記録と共通する特徴が現れた場合。こちらは緊急警報として扱う」

 

「知らない変化は見逃さず、でも全部を同じ危険度では鳴らさない」

 

 俺が言うと、遠野さんは頷いた。

 

「警報の理由も表示する。『危険』だけでは、現場が次に何を確認すればいいか分からないから」

 

 澄人が、判定画面の横へ説明欄を追加した。

 

「何が、いつから、どの観測点で、どの程度変化したか。判断に使ったデータを遡れるようにする」

 

「それと、遠野」

 

「なに」

 

「昨日から、検証記録の更新時刻が途切れてない」

 

 遠野さんの手が止まった。

 

「自動保存だから」

 

「操作履歴は自動じゃない。午前2時17分にも修正してる」

 

「……終わらなかったから」

 

 澄人は、遠野さんの端末から検証項目を半分、自分の端末へ移した。

 

「残りは俺がやる」

 

「柏木君の担当も残ってるでしょう」

 

「だから優先順位を組み替えた。説明は後で出す。今日は帰れ」

 

 遠野さんは何か言い返そうとしたが、澄人はもう作業へ戻っていた。

 

「……的確だけど、言い方が冷たい」

 

「帰らない理由にはならない」

 

 数秒の沈黙のあと、遠野さんは小さく息を吐いた。

 

「分かった。明日の朝、確認します」

 

 澄人は顔を上げずに頷いた。

 

 感情を問い詰めず、必要な作業だけを引き受ける。

 遠野さんにとっては、その距離の取り方が、たぶん一番頼りやすいのだろう。

 

 

「……なあ、灯」

 

 工場で最後の筐体を組みながら、ゴウが言った。

 

「これを置いて、どうするんだ」

 

「見張る」

 

「見張って、あれが動き出したら」

 

 レンチを握る俺の手が止まった。

 

 ゴウの問いは、いつも一番痛いところへ届く。

 

「……逃げる時間を作る」

 

「止めるんじゃなくて」

 

「今の俺たちに、あれを止める方法はない」

 

 口に出すと、その事実はさらに重くなった。

 

「観測して、知らせて、避難判断につなげる。できるのは、それだけだ」

 

 ゴウは、しばらく黙ってボルトを締めていた。

 

「鳴瀬のときと、同じか」

 

「同じだ」

 

「規模は全然違うけどな」

 

「ああ」

 

 守るとは、必ず相手を倒すことではない。

 危険が来ると分かったとき、人が逃げるための時間を作ることも、間違いなく守ることだ。

 

 鳴瀬で学んだことを、俺たちは海の底へ置こうとしていた。

 

(……間に合うのか)

 

 前世の記憶が告げる災厄まで、残された時間は確実に減っている。

 

 けれど、焦りだけで完成を急げば、海へ沈めた機械は必要な日に沈黙する。

 

 急ぐからこそ、壊れないように作る。

 急ぐからこそ、誰かが再現できるように記録を残す。

 

 それが、今の俺たちにできる最短だった。

 

 

◇◇◇

 

 

 3組の観測設備は、12月3日に投入された。

 

 中央、北側、北東側。

 海底観測ユニットが錘とともに沈み、海上では中継ブイがそれぞれの信号を受け取る。

 

 投入から10日間、観測値は大きく変わらなかった。

 

 海底構造の周辺では、周期的な微振動と磁気変動が続いている。

 だが、活動域がさらに北へ移ったと断定できる変化はなく、水温も海底火山域として説明可能な範囲に収まっていた。

 

 異常がないことを、異常なしと確認できる。

 

 そのためだけに、俺たちは数週間を費やした。

 だが、その「何も起きていない」という記録が、次に何か起きたときの基準になる。

 

 

 12月14日。

 

 奏の症状は、以前より軽くなっていた。

 

 活性試料が沿岸の隔離施設へ移され、彼女自身も試料へ近づかないようにした結果、強い頭痛と吐き気は減っている。

 

「……前よりは楽です」

 

 大学の食堂で、奏は温かい紅茶を両手で包んでいた。

 

 顔色はまだ本調子ではない。

 それでも、目の焦点はしっかり戻っていた。

 

「ただ、完全には消えてません」

 

「頭痛が」

 

「それもあります。でも、頭の奥で鳴っている感じが、まだ残っています」

 

「試料が遠くなっても」

 

「はい」

 

 奏は言葉を探すように、ゆっくり続けた。

 

「近くにあったものが遠ざかったというより、手前の音が小さくなって、もっと遠くの音が分かるようになった感じです」

 

 俺は、カップを持つ手を止めた。

 

「もっと遠く」

 

「海にいたときから、ずっと同じ方向にある気がします」

 

 奏は食堂の窓へ顔を向けた。

 

 窓の外に海は見えない。

 彼女は地図も方位磁針も確認していなかった。

 

「……南のほうです」

 

 声は小さかった。

 断言というより、自分の中にある感覚を恐る恐る言葉へ変えたように聞こえた。

 

「伊豆諸島の海域は、ここから見ると南南西寄りです」

 

 俺が答えると、奏の指先がわずかに強張った。

 

「やっぱり、近いんですね」

 

「方向が似ているだけです。正確に一致していると決まったわけじゃない」

 

 俺は、すぐに言葉を足した。

 

 ここで「もう一度、目を閉じて指してください」と頼めば、観測らしい形にはできるかもしれない。

 だが、それは奏を測定器として使うことになる。

 

「確かめるために、何度もやらせるつもりはありません」

 

 奏は、俺を見た。

 

「でも、無かったことにはしないでください」

 

「え」

 

「私が感じたことを、体調不良だから、思い込みだからって、最初から捨てないでほしいです」

 

 奏の声は弱っていた。

 それでも、その目は逸れなかった。

 

「使われたいわけじゃありません。でも、役に立てるかもしれないことまで、守るためという理由で取り上げないでください」

 

 優しい人だ。

 誰かが傷つく可能性に、誰より早く気づく。

 

 そして同時に、芯の強い人だった。

 自分が怖いからといって、感じたものから目を逸らそうとはしない。

 

「……分かりました」

 

 俺は頷いた。

 

「白石さんを検知器みたいに扱わない。でも、あなたが自分の意思で話したことは、観測記録と分けたうえで残します」

 

「はい」

 

「ただし、具合が悪くなったら、そこで終わりです」

 

「鈴木さんに言われると、説得力が薄いです」

 

「それも分かってます」

 

 奏が、ほんの少し笑った。

 

 その笑顔を見て、俺はようやく息を吐いた。

 

 

 報告を受けた真壁先生は、厳しい表情のまま記録を読み終えた。

 

「方向感覚の一致だけで、海底構造とつながっているとは言えない」

 

「はい」

 

「本人が事前に海域を知っていた可能性もあるし、窓や時間帯から方角を推測した可能性もある。偶然も排除できない」

 

「それでも、記録は残すべきだと思います」

 

「そこは同意する」

 

 真壁先生は、奏の症状記録を閉じた。

 

「ただし、繰り返し方向を指させる試験はしない。試料や海底の変化を知らせてから反応を見ることもしない。本人が自発的に訴えた症状と時刻だけを、観測データとは別に保管する」

 

「分かりました」

 

「それと」

 

 真壁先生は、俺をまっすぐ見た。

 

「守ることと、本人の意思を奪うことは違う。危険だから全部遠ざけるだけでは、白石さんが自分で築いてきたものまで否定することになる」

 

 胸に刺さった。

 

 奏を道具にしてはいけない。

 同時に、彼女を壊れやすいものとして囲い込むのも違う。

 

 どこまで関わるかは、奏自身が決める。

 俺たちが決めるべきなのは、その選択で取り返しのつかない傷を負わせないための条件だった。

 

「……覚えておきます」

 

「そうして」

 

 

◇◇◇

 

 

 12月の半ばを過ぎても、俺の日常は変わらなかった。

 

 朝に走り、講義へ出て、研究室で資料を整理し、夜は工場で作業する。

 

 デイリークエストを終えるたび、75 SPが積み重なる。

 

 所持ポイントは、統合技術パックを取得した直後の10,400 SPから、少しずつ増え続けていた。

 

 以前なら、まとまったSPができると、すぐに何かを買わなければならない気がしていた。

 だが、今は違う。

 

 知識は、買った瞬間に技術になるわけではない。

 能力も、数字を上げれば現場で使えるわけではない。

 

 次に何を強化するかは、まだ決めていなかった。

 

 演算処理能力、空間認識力、反応速度はD。

 身体とG耐性だけがFのまま残っている。

 

 遠心加速度試験で、装具が身体を支えても、意識と循環の限界までは消せないことを思い知った。

 機体へ乗るつもりなら、肉体側の底上げは避けて通れない。

 

 その一方で、ステータス画面の下にある項目が、以前とは違う意味を持ち始めていた。

 

【SPアップ Lv.1】

 

 獲得SPを増やすための機能。

 だが、詳細欄には、初めて見た頃から奇妙な注記が残されている。

 

『本機能はシステムとの同調率に影響します。将来的に、精神活動および脳波出力をエネルギー変換資源として利用する機能へ接続される可能性があります』

 

 精神活動。

 脳波出力。

 

 以前の俺なら、ロボット作品で聞く「念動力」程度にしか考えなかった。

 

 だが今は、奏のことが浮かぶ。

 

 人の痛みを、言葉になる前に拾う。

 海の底から届く何かを、音でも匂いでもない感覚として受け取る。

 

 この機能を育てれば、いつか俺にも似た感覚が生まれるのだろうか。

 奏が一人で聞いているものを、俺も聞けるようになるのだろうか。

 

(……それで、本当に分かったことになるのか)

 

 俺は、購入画面を開かずに閉じた。

 

 同じ能力を手に入れれば、同じ苦しみを理解できる。

 そんな簡単な話ではない。

 

 奏が何年もかけて、その感覚を恐れ、隠し、観察力へ変えてきた時間まで、スキルとして買えるわけではない。

 

 分かりたいなら、まず話を聞く。

 彼女が見ているものを、勝手に名前づけない。

 

 SPアップの強化は、将来必要になるかもしれない。

 だが、奏へ近づくためという理由だけで選ぶものではなかった。

 

 俺は候補欄へ印だけを付け、画面を閉じた。

 

 まず、いま持っている知識を地球で使える形へする。

 身体を鍛え、装具を完成させる。

 順番を飛ばさない。

 

 急ぐことと、焦って手順を壊すことは違う。

 

 

◇◇◇

 

 

 12月22日。

 

 冬休みに入る前、最後の研究日だった。

 

 研究室には、俺と教授だけが残っていた。

 

 教授の机には、樽内で撮影した写真が置かれている。

 岩へ刻まれた、2つの名前。

 

『正一』

『きよし』

 

「……TPCから連絡があってな」

 

 教授は、写真から目を離さずに言った。

 

「兄の件について、鑑定と照合の担当班が正式に動き始めたそうだ」

 

「本当ですか」

 

「ああ。樽内で見つけたボタンと記録、それから村の名簿を照合する。黒岩で亡くなった可能性がある3人についても、当時の作業記録から遺族を探しているらしい」

 

 教授の指が、写真の端をゆっくりとなぞった。

 

「サワイ君が、約束を守ってくれた」

 

 その声は、かすかに震えていた。

 

「50年だ。50年かかって、ようやく、兄が『いなかった人間』ではなくなる」

 

 俺は、何も言えなかった。

 

 1年半前。

 教授は、誰にも読まれない資料の山に埋もれながら、それでも兄を探していた。

 

 いま、すぐに答えが出るわけではない。

 見つかったものが正一さんのものだと確定する保証もない。

 

 それでも、国際組織の担当者が記録を開き、名前を照合し、存在を確かめようとしている。

 

 それは、教授が1人では動かせなかった時間が、ようやく動き始めたということだった。

 

「……よかったですね、教授」

 

「ああ」

 

 教授は写真を、壊れ物に触れるように撫でた。

 

「鈴木君。私は、時々考えるんだよ」

 

「はい」

 

「もし、君があの日、この研究室の扉を叩かなかったら。私は兄を探せないまま、ここで終わっていたのだろう、と」

 

 教授は、俺を見た。

 

「君はいつも、『間に合わせたい』と言うな」

 

「……はい」

 

「君は、私の50年に間に合ってくれたよ」

 

 喉の奥が詰まった。

 

 前世で、俺は間に合わなかった。

 

 瓦礫の向こうから、まだ声が聞こえていた。

 重機は道路の寸断で来られず、俺は爪が割れても手で掘り続けた。

 

 それでも、届かなかった。

 

 その記憶は、いまだに夢へ出る。

 土と血の匂いも、指先の感覚が失われていく冷たさも、助けを呼ぶ声が途切れた瞬間も、忘れられない。

 

 あの日から、俺はずっと焦っていた。

 何かが起きる前に。

 誰かの声が消える前に。

 今度こそ、間に合わせなければならないと。

 

「教授」

 

 気づけば、口が動いていた。

 

「俺、ずっと、間に合わせたいって言ってきましたけど……本当に誰かへ届いてるのか、自分では分からなかったんです」

 

 教授は、黙って聞いていた。

 

「ただ焦って、止まれなくなってるだけなんじゃないかって。間に合わせるために走ってるつもりで、周りを置いていってるだけじゃないかって」

 

 奏に言われたこと。

 ゴウや澄人、教授に止められたこと。

 遠心加速度試験で、自分から中止を告げたこと。

 

 全部が、胸の中で重なった。

 

「でも今日、教授が『間に合ってくれた』って言ってくれて。……初めて、少しだけ、報われた気がしました」

 

 前世の話へ触れすぎたかもしれない。

 

 だが教授は、理由を問い詰めなかった。

 

「……人は、間に合わなかったことばかり覚えているものだ」

 

 湯呑みの中で、茶葉が静かに沈んでいく。

 

「私もそうだ。兄を助けられなかった。母を看取れなかった。妻に楽をさせてやれなかった。間に合わなかったことなら、いくらでも数えられる」

 

 教授は、写真の中の名前を見つめた。

 

「だがな、鈴木君。間に合わなかった痛みを知る人間は、次に間に合わせようと走れる」

 

 そして、少しだけ笑った。

 

「ただし、走る人間が途中で倒れては、次には間に合わん。だから君は、帰ってくることも覚えなさい」

 

 黒木さんに言われた言葉と、重なった。

 

 限界を超えるのではなく、意識を保って帰ってくる。

 

 前世で間に合わなかった痛みは、俺を走らせる。

 だが、その痛みに追われるだけでは、また同じ場所で倒れる。

 

「……はい」

 

 今度は、素直に頷けた。

 

 たった1人にでも、間に合わせることができた。

 

 その事実は、どんな技術より、どんなSPよりも確かな支えだった。

 

 

◇◇◇

 

 

 その夜。

 

 アパートへ戻って間もなく、携帯が鳴った。

 

 久保田さんだった。

 

 だが、その声はいつもと違った。

 

「鈴木君。緊急だ」

 

 俺は、机の前で姿勢を正した。

 

「新しく設置した中央観測点が、数分前から応答しない」

 

「海上の中継ブイですか。それとも、海底側ですか」

 

「中継ブイは生きている。衛星回線にも応答する。だが、海底観測ユニットとの音響通信が完全に途絶えた」

 

「回収指令は」

 

「送った。音響解放装置への直接指令も、予備符号も試した。反応がない」

 

 俺は、血の気が引くのを感じた。

 

 通信が一定期間途絶すれば、海底ユニットは自動で錘を切り離す。

 内部浸水や電池異常でも、同じだ。

 

 どの条件でも浮上しないなら、解放装置そのものが壊れたか、何かに押さえ込まれている。

 

「最後のデータを送る。確認してくれ」

 

 パソコンへ、時系列の記録が届いた。

 

 中央観測点。

 

 22時41分。微振動が基準値を超過。

 22時43分。磁場変動が第1段階警報域へ。

 22時46分。水温上昇。北側、北東側の観測点には同様の変化なし。

 22時48分。3項目が同時に変化し、第2段階警報。

 

 その後、数値は急激に上がっていた。

 

 海底水温は、4.1℃から12℃、31℃、57℃。

 最後の記録は、79.6℃。

 

 磁力計は測定上限へ達し、微振動計の波形も飽和している。

 

「単一センサーの故障ではありません」

 

「ああ。別方式の温度計も、内部圧力も同時に変化している」

 

「耐圧容器の内部まで」

 

「外側の急激な加熱で、内部温度も上がり始めていた」

 

 俺は、最後の数秒を拡大した。

 

 深度計の値が、わずかに変化している。

 

「……久保田さん。最後に、設置深度が11.7メートル浅くなっています」

 

「ユニットが浮いたのか」

 

「錘が外れたなら、そのまま上昇を続けるはずです。でも、記録は11.7メートルで止まっている」

 

「海底そのものが持ち上がった可能性は」

 

「このデータだけでは、断定できません」

 

 口ではそう答えた。

 

 だが、脳裏には海底の黒い面が浮かんでいた。

 

 泥の下で、青白い光を灯した巨大な構造。

 中央観測点は、その真上に設置されている。

 

 もし、観測ユニットが浮いたのではなく。

 

 下にあるものが、近づいたのだとしたら。

 

「北側と北東側は」

 

「いまのところ正常だ。ただし、中央から届いた最後の警報を受け、観測間隔を短縮している」

 

 久保田さんの声が低くなる。

 

「明朝、調査船を出す。無人探査機で中継ブイの直下を確認する」

 

「俺たちは」

 

「今夜のうちにTPCへ来てくれ。判定ログと帰還機構を、設計した人間の目で確認してほしい」

 

「分かりました」

 

 電話を切る。

 

 窓の外には、12月の冷たい夜が広がっていた。

 

 その遥か南。

 

 光の届かない海底で、俺たちの作った観測ユニットが沈黙している。

 

 水温は約80℃まで上がり、磁場と振動は測定限界を超えた。水深約1000メートルの高圧下とはいえ、周辺海水としては異常な上昇だった。

 そして最後の瞬間、海底との距離が11.7メートル縮まった。

 

 何が起きたのかは、まだ分からない。

 

 分からない。

 だが、何も起きていないとは、もう言えなかった。

 

 俺は上着を掴み、部屋を飛び出した。

 

 南の海で。

 

 3000万年の泥に覆われていた何かが、ゆっくりと、その位置を変え始めていた。

 

 

=========================================

【現在のステータス・スキル情報】

[BASE STATUS]

┣ 演算処理能力: D

┣ 空間認識力 : D

┣ 反応速度 : D

┗ G耐性/肉体: F(装具装着時:D相当)

 

[ACQUIRED SKILLS & KNOWLEDGE]

┣【超古代言語理解 Lv.2】

┣【初級・機械工学/プログラム言語】

┣【中級・航空力学/制御アルゴリズム】

┣【上級・次世代エネルギー/流体力学】

┣【マクロス初代・統合技術パック】(地球技術への翻訳作業:進行中)

┣【インファイト Lv.1】

┗【SPアップ Lv.1】

 

[SYSTEM DATA]

┣ 所持ポイント: 17,750 SP

┣ 残機数 : 3 / 3

┣ 活性試料:沿岸隔離施設で解析継続

┣ 海底観測網:中央観測点との通信途絶

┗ 警戒対象:伊豆諸島東方・海底巨大構造

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