鋼鉄の灯火は深淵を照らす—超古代の厄災と、メカオタクの生存戦略——   作:カノープス・ギア

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潜る者、残る者

第34話 潜る者、残る者

 

 

 あの3機が、自分の力で空から帰ってきた日から、77日。

 

 夏が来ていた。

 

 2006年6月から8月にかけて、俺の生活は、大学と相沢製作所だけでは収まらなくなった。

 

 閉鎖環境での行動訓練。

 有人潜水艇の構造と非常手順。

 気密服の着脱。

 独立呼吸装置の交換。

 通信が切れた場合の帰還手順。

 狭い船内で、吐き気や頭痛が起きたときの申告方法。

 

 気密服は、目を閉じても着られるまで繰り返した。

 

 ただし、それは格好よく装着できるようになるためではない。

 

 照明が消えたとき。

 指先が震えたとき。

 誰かに手伝ってもらえないとき。

 

 それでも、襟元の気密環と酸素供給管を正しく接続するためだ。

 

 真壁先生の医療適性評価は、月に2回。

 黒木さんからは、閉所で呼吸が乱れたときの対処と、潜水艇内での役割分担を叩き込まれた。

 

 同期がリクルートスーツで説明会へ通う夏を、俺は、海の底から帰ってくるための準備に使った。

 

 そして——2006年8月19日。

 

 伊豆諸島東方海域。

 

 調査船『海鳴(かいめい)』の後部甲板に、有人深海調査艇《くろしお》が固定されていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 全長9.2m。

 

 乳白色の耐圧殻と、前方の厚い観察窓。左右には小型の推進器があり、艇の下部には着底用の脚と、緊急時に切り離す錘が取り付けられている。

 

 既存の深海調査艇を基に、TPCが海底構造への進入用として改修した実験艇だった。

 

 定員は3名。

 

 内部には、操縦席、観測席、予備の酸素、二酸化炭素吸収剤、非常用の位置発信器。通信が途切れても一定時間は独立して活動できる。

 

 それでも、全長9mの船体へ3人が入れば、身動きできる空間はほとんど残らない。

 

 俺は甲板から、その艇を見上げていた。

 

「本当に、これで約1,000mまで潜るんですね」

 

「潜る」

 

 隣に立った久保田さんが答えた。

 

「だが、目的は潜ることではない。記録を持って戻ることだ」

 

「はい」

 

「船外活動は最長90分。折り返し時刻は、艇のハッチを開けてから45分後。壁の文章が残り1行でも、時間になれば戻る」

 

「分かっています」

 

「通信品質が基準を下回った場合も撤退。気密服、呼吸装置、心拍、酸素飽和度のどれかに異常が出た場合も同じだ」

 

 久保田さんは俺の顔を見た。

 

「君が大丈夫だと言っても、任務指揮官が駄目だと判断すれば帰る」

 

「はい」

 

「返事だけは立派だな」

 

「今回は、守ります」

 

「今回だけでは困る」

 

 久保田さんは、船上から全体の指揮を執る。

 

 海の底へ行くのは3人。

 

 現在、超古代文字を実用的に訳せる俺。

 

 記録の位置関係と文脈を照合する神宮寺教授。

 

 そして、艇の操縦と船外活動の指揮を担う黒木さんだった。

 

 

◇◇◇

 

 

「黒木だ。今さら挨拶も要らんか」

 

 黒木さんは、いつもの無精髭を撫でた。

 

「遠心加速度装置の管理だけじゃなかったんですね」

 

「昔、海洋開発の試験班にいた。深海艇の運用と閉鎖環境の訓練資格は、その頃に取った」

 

「聞いてませんでした」

 

「お前が聞かなかった」

 

 相変わらずだった。

 

 黒木さんは、俺と教授の気密服を順番に確認する。

 

 襟元の気密環。

 呼吸装置。

 胸部の生体センサー。

 腰へ固定した通信ケーブル。

 緊急時に艇まで戻るための誘導灯。

 

「艇の操作と、現場の中止判断は俺がやる」

 

 黒木さんは、俺たちを交互に見た。

 

「教授は、壁の位置と過去の訳を照合。鈴木は文字を読む。役割はそれだけだ」

 

「撮影は?」

 

「肩のカメラが自動でやる。気になったものを勝手に触るな。装置を見つけても動かすな。光っても押すな」

 

「子ども扱いしてませんか」

 

「お前の過去の実績を踏まえた、適切な扱いだ」

 

「……はい」

 

「返事が小さい」

 

「はい」

 

 黒木さんなら、俺が記録へ意識を奪われても、遠慮なく腕を引いて帰らせる。

 

 遠心加速度試験でも、限界へ挑む方法ではなく、限界から戻る呼吸を教えてくれた。

 

 この人は、いつも俺へ帰り方を教える。

 

 

◇◇◇

 

 

 教授の同行は、最後まで確定しなかった。

 

 実年齢は61歳。

 

 普段はもっと年上に見えるが、身体は同世代の平均より若い。ここ1年は山道を歩き、心肺機能を維持してきた。

 

 それでも、狭い潜水艇の中で数時間過ごし、気密服を着たまま歩く負担は大きい。

 

 真壁先生は、教授だからと基準を緩めなかった。

 

「血圧、心電図、呼吸機能。現時点では参加基準内です」

 

 船内医務室で検査結果を閉じる。

 

「ただし、合格は我慢してよいという意味ではありません。胸の違和感、息苦しさ、めまい、手足のしびれ。小さくても申告してください」

 

「承知しています」

 

「本当に?」

 

「……以前なら、少しくらい隠したかもしれません」

 

 教授は苦笑した。

 

「だが、今回は私一人の調査ではない。私が倒れれば、2人の帰還を遅らせる」

 

「分かっているなら結構です」

 

 教授は胸元から、小さな写真を取り出した。

 

 樽内の岩に刻まれていた兄の名を、TPCが撮影したものだった。

 

「50年待たせた兄へ、少しだけ報告してきます」

 

「報告は、戻ってからしてください」

 

 真壁先生の言葉に、教授は静かに頷いた。

 

 

◇◇◇

 

 

 潜航前の最終確認は、船内の作戦室で行われた。

 

 潜る3人だけではない。

 

 残る者にも、それぞれ役割がある。

 

 久保田さんは、任務全体の継続と中止を判断する。

 

 真壁先生は、俺たち3人と奏の医療状態を監視する。

 

 澄人は、艇から海底構造の入口までの通信と、中継器の状態を管理する。

 

 遠野さんは、時刻、映像、会話、環境値を同じ記録へまとめる。

 

 ゴウと健三さんは、気密服と携行装置に故障が出た場合、製造記録から対処方法を示す。

 

 美園さんは、消耗品、予備部品、使用時刻の管理を担当する。

 

 奏の感覚は、任務継続を決める唯一の警報には使わない。

 

 本人が同意した範囲で記録し、海底側のデータや俺たちの状態と照合する補助情報として扱う。

 

 誰か1人の目へ、全員の命を預けない。

 

 3000万年前の3度目の記録から、俺たちが学んだことだった。

 

「通信経路を確認する」

 

 澄人が海底図を表示した。

 

「調査艇から海面までは音響通信。海底構造の内部では、前回の探査機が残した光ファイバー中継線を使用する」

 

「中継線が切れた場合は?」

 

 久保田さんが尋ねる。

 

「艇までは、船外活動班が携行する細径ケーブルで戻せます。ただし、海面との通信が同時に切れた場合は、予定を中止して即時帰還です」

 

「映像だけが落ちた場合も同じ?」

 

「音声と生体情報が残っていても、1分以内に回復しなければ撤退を勧告します」

 

「勧告ではない」

 

 黒木さんが訂正した。

 

「現場では、俺が撤退を命じる」

 

「了解」

 

 遠野さんが、すべての条件へ番号を振る。

 

 中止条件は17項目。

 

 誰が、どの数値を見て、どの言葉で中止を伝えるかまで決められている。

 

「ずいぶん増えたな」

 

 ゴウが呟く。

 

「減らす理由がありますか」

 

 美園さんが返した。

 

「ありません」

 

「なら、覚えてください」

 

「俺、船上待機だぞ」

 

「船上でも、異常時に交換部品を探すのは相沢さんです」

 

「……はい」

 

 潜る者だけが、調査をするわけではない。

 

 残る者がいなければ、潜った人間は帰れない。

 

 

◇◇◇

 

 

 作戦室を出る前に、奏へ声をかけられた。

 

 彼女は医療監視席の前に座り、俺たちの生体情報が表示される画面を確認していた。

 

「鈴木さん」

 

「はい」

 

「約束を確認します」

 

「お願いします」

 

「予定時刻になったら、読めていなくても戻る」

 

「はい」

 

「黒木さん、久保田さん、真壁先生の誰かが中止を命じたら、理由を聞く前に戻る」

 

「はい」

 

「私が、いつもと違う感覚を報告した場合は、それだけで先へ進まず、他の記録と照合する」

 

 以前なら、「白石さんが戻れと言ったら戻る」と約束していたかもしれない。

 

 だが、それでは奏1人へ重すぎる判断を背負わせる。

 

「分かりました」

 

「最後に」

 

 奏は一度、言葉を止めた。

 

「無事に戻ってきてください。これは、手順ではありません」

 

 まっすぐな目だった。

 

「お願いです」

 

 俺は、少しだけ笑った。

 

「帰ります」

 

「必ず?」

 

「ここで待っている人がいるので」

 

 奏の頬が、わずかに赤くなる。

 

「……それなら、早く行ってください」

 

 席の後ろにいた真壁先生が、小さく笑った。

 

「はいはい。青春は帰還後に続きをやって」

 

 俺と奏は同時に目を逸らした。

 

 

◇◇◇

 

 

 甲板へ出ると、ゴウが待っていた。

 

「灯」

 

 俺の肩を乱暴に叩く。

 

「壁の続き、勝手に1人で理解すんなよ。全部持って帰ってこい」

 

「ああ」

 

「それと、これ」

 

 差し出されたのは、小さな金属片だった。

 

 3機の実証機に使った、モーター固定ブラケットの不良品を削り直したものだ。

 

 角は丸められ、表面には小さく機体番号が刻まれている。

 

「お守りにしようと思ったけど、そのまま持ち込むのは駄目だって美園さんに怒られた」

 

「当然です」

 

 美園さんが、すぐ後ろから言った。

 

「洗浄、材質確認、重量記録を済ませました。携行品一覧にも登録しています」

 

「お守りに、そこまで要るのかよ」

 

「未知施設へ持ち込む物です」

 

 金属片は、気密服の外へ出ないよう、胸元の透明な内ポケットへ収められた。

 

「お前が作った機械が、落ちて、直って、帰ってきた証拠だ」

 

 ゴウが言った。

 

「奥で変なこと考えたら、それ見ろ」

 

「ありがとう」

 

「柄じゃねぇこと言わせんな。早く行け」

 

 澄人は、通信表を手にしたまま親指を立てた。

 

 遠野さんは「時刻同期は0.1秒以内です」と、最後まで彼女らしい言葉をくれた。

 

 健三さんは、俺の気密服の肩を一度だけ叩く。

 

「道具は全部、帰ってきたときに点検する。持って帰ってこい」

 

「はい」

 

 教授と黒木さんが先に艇へ乗り込む。

 

 俺も、甲板に残る全員の顔を見てから、狭いハッチをくぐった。

 

 

◇◇◇

 

 

 9時40分。

 

 潜航開始。

 

 ハッチが閉まり、艇がクレーンで海面へ降ろされる。

 

 船体を叩いていた風の音が消え、代わりに海水の低い響きが周囲を包んだ。

 

 窓の外は、明るい青から濃い青へ変わる。

 

 深度200m。

 

 光が弱くなる。

 

 500m。

 

 太陽の光は、ほとんど届かない。

 

「外部照明を点灯」

 

 黒木さんが操作すると、観察窓の前へ白い光の円が生まれた。

 

 時折、小さな深海生物が光を反射し、暗闇へ消えていく。

 

 教授は窓へ顔を寄せていた。

 

「美しいな」

 

「教授、初めてなんですか」

 

「海底へ来るのはね。50年、地面の下ばかり探した。まさか最後に海へ潜るとは思わなかったよ」

 

 艇の中は狭い。

 

 3人が座れば、膝が触れ合う。呼吸装置と計器が周囲を埋め、肩を動かすにも声をかける必要がある。

 

 船体が、時折、小さく鳴った。

 

 設計上想定された、圧力による変形音。

 

 それでも、その音を聞くたび、前世の記憶が背中へ近づいた。

 

 崩れた建物。

 動かない梁。

 周囲から押し潰される感覚。

 

 呼吸が浅くなる。

 

「鈴木」

 

 黒木さんが、計器を見たまま言った。

 

「吸うほうを頑張るな。長く吐け」

 

 教わったとおり、息を吐く。

 

 6秒。

 少し間を置いて、自然に吸う。

 

 ここは瓦礫の下ではない。

 

 俺たちは、位置を知られている。

 海面には仲間がいる。

 この艇には、自力で浮上するための錘がある。

 

「心拍、下がってきた」

 

 船上から真壁先生の声が届く。

 

『無理に平静なふりをしないで。そのまま呼吸を続けて』

 

「了解です」

 

 教授が、俺を見た。

 

「私も緊張しているよ」

 

「教授も?」

 

「当然だ。これから会う相手は、3000万年待っていたかもしれん」

 

 窓の外の闇を見つめる。

 

「こちらが少しくらい緊張して行くほうが、礼儀だろう」

 

 その言葉で、肩の力が少し抜けた。

 

「深度800m」

 

 黒木さんが推進器の出力を落とす。

 

「海底まで、あと少しだ」

 

 900m。

 

 約1,000m。

 

 ライトの中へ、泥に覆われた黒い面が現れた。

 

 現在の探査範囲では、端を確認できていない海底構造。

 

 その一角に、青白い光で縁取られた可動部がある。

 

 3か月前と同じ位置で、黒い面が奥へ下がっていた。

 

 

◇◇◇

 

 

「入口正面。距離30m」

 

 黒木さんが艇を静止させる。

 

『外部観測、異常なし』

 

 澄人の声。

 

『入口の磁場、水温、微振動。すべて進入基準内』

 

「第1中継器、受信確認」

 

『確認。光ファイバー回線へ切り替え可能です』

 

 黒木さんは、俺たちを見た。

 

「進入する」

 

 艇がゆっくり前へ出る。

 

 幅約24mの入口は、潜水艇が入っても十分な余裕があった。

 

 青白い縁の内側へ艇が入る。

 

 背後で外側隔壁が動き始めた。

 

「隔壁閉鎖」

 

「光ファイバー、維持」

 

『通信正常』

 

 前回の探査機が残したケーブルの周囲を、黒い縁が変形しながら塞いでいる。

 

 隔壁が閉じると、周囲の海水がゆっくり低下し始めた。

 

「排水開始」

 

 艇の外圧が段階的に下がる。

 

 急激な変化はない。

 

 約6分後。

 

 水面は艇の下まで下がり、黒い床が現れた。

 

 外部圧力は0.12MPaで安定。

 

「気体分析」

 

 船外センサーが数値を送る。

 

 窒素に近い成分、約77%。

 酸素、約20.6%。

 既知の希ガス。

 未同定の微量成分。

 

 137日間の監視値と、誤差の範囲内だった。

 

「呼吸可能とは判断しない」

 

 黒木さんが確認する。

 

「予定どおり、気密服と独立呼吸を維持する」

 

「了解」

 

 艇内と外部の圧力差を調整する。

 

 ハッチを開けられる状態になっても、すぐには出ない。

 

 外部映像。

 温度。

 粒子数。

 放射線。

 床面の安定。

 

 すべてを確認する。

 

「船外活動開始時刻、11時06分」

 

 遠野さんの声が届く。

 

『折り返しは11時51分。最終帰艇時刻は12時36分です』

 

「確認した」

 

 黒木さんがハッチへ手をかける。

 

「行くぞ。3000万年前の空気があっても、吸うなよ」

 

「誰も吸いません」

 

「念押しだ」

 

 

◇◇◇

 

 

 ハッチが開く。

 

 最初に黒木さんが外へ降りた。

 

 床面を確認し、携行センサーを置く。

 

「荷重、問題なし。磁場、温度、基準内」

 

 次に俺。

 

 最後に教授。

 

 気密服の靴底が、乾いた黒い床へ触れた。

 

 水深約1,000mの海底。

 

 その内側に、空気で満たされた通路がある。

 

 頭では何度も理解していた。

 

 実際に自分の足で立つと、現実感が追いつかない。

 

 そして——近い。

 

 頭の奥にある4つの波が、これまでより鮮明だった。

 

 音ではない。

 

 身体の内側へ、間隔だけが直接刻まれる。

 

 長いものが4回。

 

 その後に空白。

 

 苦しさはない。

 

 だからといって、歓迎されていると決めることもできない。

 

「鈴木、状態を報告」

 

「頭の奥の反復パターンが強くなっています。痛み、吐き気、視覚異常はありません」

 

『船上の感応記録にも変化があります』

 

 奏の声が届く。

 

『ただし、私の体調は安定しています』

 

「記録した」

 

 黒木さんが先頭に立つ。

 

 俺が中央。

 

 教授が後方。

 

 3人の腰は、細い通信・誘導ケーブルで互いに連結されている。一定以上離れれば警報が鳴る。

 

 通路へ足を踏み出すと、青白い照明が進行方向へ順番に灯った。

 

 映像で見たとおりだった。

 

 壁の隆起。

 焼けた溝。

 補修のために重ねられた黒い板。

 

 けれど、画面越しとは違う。

 

 板の縁には、何度も工具を当てたような傷がある。

 

 床の一部は擦れ、同じ場所を多くの人や機械が通った跡が残っている。

 

 神殿ではない。

 

 働く場所だった。

 

 3000万年前、誰かがここで壊れた機械を直し、部品を運び、次の戦いへ備えていた。

 

「止まるな」

 

 黒木さんの声で、壁へ手を伸ばしかけていたことに気づいた。

 

「触ってません」

 

「触ろうとはした」

 

「……はい」

 

「記録は肩のカメラに任せろ」

 

 俺は手を戻した。

 

 

◇◇◇

 

 

 通路を進みながら、20mごとに小型中継器を置く。

 

 第1。

 第2。

 第3。

 

 船上からは、澄人が通信品質を読み上げる。

 

 遠野さんは、俺たちの位置と時刻を記録する。

 

 美園さんは、呼吸装置の残量と、使用した中継器の番号を管理していた。

 

『携行酸素、3名とも計画値内です』

 

『第5中継器、作動確認』

 

『教授、歩行速度が少し落ちています。体調は?』

 

「問題ない」

 

 教授が答える。

 

「ただ、見たいものが多すぎて足が止まりそうになる」

 

『見るのは帰りにもできます』

 

 真壁先生の声が返る。

 

「もっともだ」

 

 潜る3人の周囲に、残った者たちの声がある。

 

 それだけで、暗い通路が完全な孤独にはならなかった。

 

「鈴木君」

 

 教授が、歩きながら言った。

 

「私は今、ようやく分かった気がする」

 

「何がですか」

 

「なぜ、30年以上も追い続けたのか」

 

 青白い照明が、1本ずつ先へ灯る。

 

「誰にも信じてもらえなかった。証拠がない、妄想だと笑われた。私自身、何度もやめようと思った」

 

 教授は壁を見つめる。

 

 触れはしなかった。

 

「だが、どこかで知っていたんだろう。ここに、誰かがいたことを。孤独の中で、必死に何かを残した者が」

 

 胸元の写真へ、気密服越しに触れる。

 

「今日、ようやく会いに来られた。50年かかったよ」

 

 教授の50年。

 

 壁を残した者たちの3000万年。

 

 時間の長さは違っても、届かない相手へ記録を残し続けたことは同じだった。

 

「会って、帰って、報告しましょう」

 

 俺が言うと、教授は静かに頷いた。

 

 

◇◇◇

 

 

 船外活動開始から29分。

 

 通路が、円形区画へつながった。

 

 直径約96m。

 高さ約38m。

 

 中央の低い台座。

 空の格納架台。

 壁一面の文字と図。

 

 探査機が記録した場所へ、自分の足で立っている。

 

 1度目の戦い。

 2度目。

 3度目。

 

 6週間かけて読んだ文字が、床から天井近くまで俺たちを囲んでいる。

 

 映像では平らに見えた刻印にも、深さの違いがあった。

 

 整った記録は、同じ工具で一定の幅に刻まれている。

 

 後から追加された修正は細い。

 

 4度目の直前になるほど、線は深く、乱れていた。

 

 急いでいた。

 

 あるいは、手が震えていた。

 

「読んだ内容と、現物は一致するか」

 

 黒木さんが訊く。

 

「はい。少なくとも、この範囲は」

 

 教授が、3度目の壁画を見上げる。

 

 人の乗る中核機。

 無人随伴機。

 地上管制。

 救難。

 

「よく残してくれた」

 

 小さな声だった。

 

「失敗まで、消さずに」

 

 返事をする相手はいない。

 

 それでも、青白い照明が一度だけ強くなった。

 

 偶然かもしれない。

 

 俺たちは意味を決めず、その変化だけを記録した。

 

 

◇◇◇

 

 

「経過、38分」

 

 黒木さんが腕の時計を見る。

 

「折り返しまで7分。第4記録の入口を確認し、状況次第で数行だけ撮る。無理なら帰る」

 

「了解」

 

 円形区画の奥へ進む。

 

 前回、探査機の映像が乱れた方向。

 

 壁には、焼けた文字が続いている。

 

『4度目の夜は、外より来たらず』

 

『夜は、内より来れり』

 

 その先に、細い通路があった。

 

 ここまでは、探査機の後方カメラにも映っている。

 

 だが、円形区画の照明は、その入口で終わっていた。

 

 奥は暗い。

 

 黒木さんが立ち止まり、携行センサーを前へ向ける。

 

「温度、周囲より0.4℃低い」

 

「磁場に別の揺れがあります」

 

 俺は画面を確認した。

 

 母炉の反復パターンとは周期が違う。

 

 弱く、不規則で、時々だけ大きく沈む。

 

『船上でも、微弱な別波形を確認』

 

 澄人の声が届く。

 

『入口より奥で、通信雑音が増えています。現在は継続基準内。ただし、余裕は小さい』

 

 奏の声も続いた。

 

『私が前から感じていた、別の感覚が強くなっています』

 

 呼吸を整える音がする。

 

『母炉の反復とは違います。意味は分かりません。ただ、近づくほど圧迫感があります』

 

 真壁先生が即座に確認する。

 

『白石さん、頭痛は』

 

『軽度です。継続基準内。でも、これ以上強くなれば申告します』

 

 彼女の感覚だけではない。

 

 温度。

 磁場。

 通信雑音。

 

 複数の記録が、暗い通路の先に別の状態があることを示している。

 

 それでも、「何かがいる」とは言えない。

 

「残り7分」

 

 黒木さんが言った。

 

「計画で許可されているのは、入口から15mまで。通信が今より10%落ちたら即時反転。誰か1人でも異常を訴えたら帰る」

 

「はい」

 

「教授」

 

「異論はない」

 

 黒木さんは、俺の目を見た。

 

「読める途中でも、時間で切る」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

「帰るために来ました」

 

 その答えを聞き、黒木さんが先頭へ向き直った。

 

 

◇◇◇

 

 

 俺たちは、携行灯を点けた。

 

 白い光の輪が、暗い通路を切り取る。

 

 母炉の照明は、ここだけ点灯しない。

 

 案内が終わったのか。

 

 照らせないのか。

 

 照らしたくないのか。

 

 どれも、まだ解釈だった。

 

 足元には、円形区画までとは違う傷が残っていた。

 

 何かを引きずったような、深い線。

 

 壁の黒い板は、外側から補修されたのではない。

 

 内側から押し出されたように、継ぎ目が浮いている。

 

「ここは、損傷の向きが逆だ」

 

 黒木さんが呟く。

 

「外から壊されたんじゃない」

 

 教授が息を呑んだ。

 

「夜は、内より来れり」

 

 俺は、声に出さず、その一文を思い返した。

 

 頭の奥で、4つの長い波が速くなる。

 

 母炉のものと仮定している反復。

 

 その下に、別の感覚が重なった。

 

 冷たい。

 

 重い。

 

 底がない。

 

 言葉ではないのに、思考の端を暗い方向へ引っ張る。

 

 前世の瓦礫。

 届かなかった声。

 遅すぎた救助。

 

 忘れたことなど、一度もない記憶が、急に近くなる。

 

「鈴木」

 

 黒木さんの声が飛ぶ。

 

「現在地を言え」

 

「海底構造の円形区画から、奥の通路へ……6m」

 

「隣にいるのは」

 

「前に黒木さん。後ろに教授」

 

「帰る場所は」

 

 一瞬、答えが詰まる。

 

 胸元の透明ポケットに、小さな金属片が見えた。

 

 落ちて。

 直して。

 自分で帰ってきた、2号機と同じ部品。

 

「調査艇《くろしお》。その先に『海鳴』。船上に、みんながいます」

 

「よし」

 

 黒木さんが、俺の肩へ手を置いた。

 

「今のは、記録に呑まれかけた兆候だ。状態を申告しろ」

 

「過去の記憶が、急に鮮明になりました。方向感覚は戻っています。頭痛は軽度」

 

『心拍が上昇しています』

 

 真壁先生の声。

 

『継続基準の上限に近い。30秒で下がらなければ撤退』

 

「了解」

 

 長く息を吐く。

 

 6秒。

 

 もう一度。

 

 心拍の警告音が、少しずつ遅くなる。

 

『基準内へ戻りました』

 

 それでも黒木さんは、先へ進まなかった。

 

「残り3分。入口の撮影だけして戻る」

 

「本文は」

 

「今日は読まない」

 

「でも——」

 

「今、お前は引っ張られた」

 

 低い声だった。

 

「次に同じことが起きたとき、戻れる保証はない。入口の映像があれば、次の計画を立てられる」

 

 壁の先に、文字が見える。

 

 乱れた深い刻印。

 

 あと数歩進めば、最初の行を読めるかもしれない。

 

 胸の奥が、前へ行けと叫ぶ。

 

 けれど、俺たちは何のために3か月準備した。

 

 読めるまで残るためではない。

 

 読んだものを持って帰るためだ。

 

「……撮影して、戻ります」

 

 黒木さんが頷いた。

 

 教授は何も責めなかった。

 

 肩のカメラを最大倍率へ切り替える。

 

 携行灯を壁へ向ける。

 

 焼けた文字が、暗闇の中に浮かんだ。

 

 全文は読めない。

 

 だが、入口の1行だけは見えた。

 

『我ら、帰還を願う鉄へ、帰還を許さず』

 

 呼吸が止まりかけた。

 

 黒木さんの手が、再び肩へ置かれる。

 

「意味は船で考えろ」

 

「……はい」

 

「折り返す」

 

 3人で向きを変える。

 

 暗い通路を背にした瞬間、頭の奥の冷たい感覚が、わずかに遠のいた。

 

 母炉の青白い照明が見える。

 

 円形区画。

 通路。

 調査艇。

 

 帰る道が、順番に視界へ戻る。

 

 

◇◇◇

 

 

 円形区画へ戻ると、通信品質も回復した。

 

『全員の生体情報、基準内』

 

『折り返し時刻、予定どおり』

 

『第7中継器を回収』

 

 船上の声が、途切れず届く。

 

 教授は帰路で壁を見ようとしなかった。

 

 足元と呼吸へ集中し、一定の速度を保つ。

 

「教授、大丈夫ですか」

 

「大丈夫だ」

 

 少し息を弾ませながら答える。

 

「今日は、会えただけで十分だよ。話の続きは、また来ればいい」

 

 また来る。

 

 その言葉に、少しだけ救われた。

 

 1回で全部を得る必要はない。

 

 3000万年残った記録は、今日だけで消えない。

 

 艇へ戻り、3人が乗り込む。

 

 ハッチを閉鎖。

 

 気密を確認。

 

 外側区画が再び海水で満たされる。

 

 入口の隔壁が開く。

 

 黒木さんが艇を海へ出した。

 

『《くろしお》、海底構造からの離脱を確認』

 

 久保田さんの声だった。

 

「3名、異常なし。撮影記録あり。第4記録の入口で撤退した」

 

『了解。帰投せよ』

 

 黒木さんが、浮上用の操作へ移る。

 

 窓の外で、青白い入口が少しずつ遠ざかる。

 

 俺は胸元の金属片へ目を落とした。

 

 奥へは届かなかった。

 

 それでも、俺たちは帰っている。

 

 失敗ではない。

 

 次に帰るための情報を、持って戻っている。

 

 

◇◇◇

 

 

 海面へ近づくにつれ、窓の外へ青が戻った。

 

 調査船の船底が見える。

 

 艇が揚収され、ハッチが開く。

 

 最初に聞こえたのは、ゴウの声だった。

 

「遅ぇ!」

 

「予定どおりだ」

 

 黒木さんが返す。

 

「待ってる側は長ぇんだよ!」

 

 甲板へ上がると、ゴウは俺の肩を掴み、顔を確認するように左右から見た。

 

「ちゃんといるな」

 

「いるよ」

 

「教授も?」

 

「いるとも」

 

 教授が後ろから笑う。

 

 美園さんは、俺たちの返却装備へ番号札をつけ始めていた。

 

 健三さんは、気密服の接続部を確認する。

 

 澄人と遠野さんは、すでに映像データを3系統へ複製している。

 

 真壁先生は、感動の再会を待たず、俺たち3人を医務室へ連行した。

 

「採血、神経学的確認、汚染検査。話はその後」

 

「少しくらい——」

 

「その少しで見落とすから駄目です」

 

 奏は、医務室の入口に立っていた。

 

 俺が近づくと、何も言わずに一度だけ息を吐く。

 

「帰ってきました」

 

「……はい」

 

「約束どおり」

 

「途中で戻ったんですね」

 

「読めるところまで行きませんでした」

 

 奏の表情が、わずかに緩む。

 

「それでいいんです」

 

 その言葉を聞いて、ようやく帰ってきたのだと実感した。

 

 

◇◇◇

 

 

 検査を終えたあと、作戦室で入口の映像を確認した。

 

 乱れた文字。

 

 焼けた壁。

 

 内側から押し出された補修板。

 

 そして、暗闇の中で読めた1行。

 

『我ら、帰還を願う鉄へ、帰還を許さず』

 

 確度は、まだB以下。

 

 「鉄」が機体を指すのか、兵器体系全体を指すのか。

 

 「帰還を許さず」が、命令なのか、機能の停止なのか。

 

 文脈が足りない。

 

 断定はできない。

 

 ただ、3度目の勝利で最も大切にされたはずの「帰還」が、4度目には誰かの手で拒まれた。

 

 その可能性だけは、重かった。

 

「内より来た夜は、帰還命令を奪ったのかもしれない」

 

 澄人が言う。

 

「あるいは、帰還する機体を敵と判断した」

 

 遠野さんが続ける。

 

「まだ仮説です」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「だから、次は本文を読む。でも、その前に——」

 

 胸元から、登録された金属片を取り出す。

 

「今日起きた、俺の記憶の混乱を解析します。あの場所が人間の判断へ影響するなら、文字より先に対策が必要です」

 

 久保田さんが頷く。

 

「その判断でいい。第2回有人調査は、原因と対策がまとまるまで承認しない」

 

 悔しさはある。

 

 だが、反対はしなかった。

 

 今日、暗闇の中で前へ進み続けていたら。

 

 俺も、帰還を願う鉄へ帰還を許さなかった者たちと、同じ判断をしていたかもしれない。

 

 入口まで行き。

 

 1行を持ち帰り。

 

 全員が戻った。

 

 潜った者も。

 残った者も。

 

 誰も欠けずに。

 

 それが、第1回有人調査の成果だった。

 

 

=========================================

【現在のステータス・スキル情報】

[BASE STATUS]

┣ 演算処理能力:D

┣ 空間認識力:D

┣ 反応速度:D

┗ G耐性/肉体:D(装具装着時:C相当)

 

[ACQUIRED SKILLS & KNOWLEDGE]

┣【超古代言語理解 Lv.2】

┣【初級・機械工学/プログラム言語】

┣【中級・航空力学/制御アルゴリズム】

┣【上級・次世代エネルギー/流体力学】

┣【マクロス初代・統合技術パック】(翻訳作業:進行中)

┣【インファイト Lv.1】

┗【SPアップ Lv.2】

 

[SYSTEM DATA]

┣ 所持ポイント:33,250 SP

┣ 残機数:3 / 3

┣ 第1回有人内部調査:全員帰還

┣ 第4記録:入口の1行を取得

┣ 未知影響:一時的な記憶侵入・方向感覚低下

┗ 次段階:心理影響の解析/第2回調査は承認保留

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