鋼鉄の灯火は深淵を照らす—超古代の厄災と、メカオタクの生存戦略—— 作:カノープス・ギア
第34話 潜る者、残る者
あの3機が、自分の力で空から帰ってきた日から、77日。
夏が来ていた。
2006年6月から8月にかけて、俺の生活は、大学と相沢製作所だけでは収まらなくなった。
閉鎖環境での行動訓練。
有人潜水艇の構造と非常手順。
気密服の着脱。
独立呼吸装置の交換。
通信が切れた場合の帰還手順。
狭い船内で、吐き気や頭痛が起きたときの申告方法。
気密服は、目を閉じても着られるまで繰り返した。
ただし、それは格好よく装着できるようになるためではない。
照明が消えたとき。
指先が震えたとき。
誰かに手伝ってもらえないとき。
それでも、襟元の気密環と酸素供給管を正しく接続するためだ。
真壁先生の医療適性評価は、月に2回。
黒木さんからは、閉所で呼吸が乱れたときの対処と、潜水艇内での役割分担を叩き込まれた。
同期がリクルートスーツで説明会へ通う夏を、俺は、海の底から帰ってくるための準備に使った。
そして——2006年8月19日。
伊豆諸島東方海域。
調査船『
◇◇◇
全長9.2m。
乳白色の耐圧殻と、前方の厚い観察窓。左右には小型の推進器があり、艇の下部には着底用の脚と、緊急時に切り離す錘が取り付けられている。
既存の深海調査艇を基に、TPCが海底構造への進入用として改修した実験艇だった。
定員は3名。
内部には、操縦席、観測席、予備の酸素、二酸化炭素吸収剤、非常用の位置発信器。通信が途切れても一定時間は独立して活動できる。
それでも、全長9mの船体へ3人が入れば、身動きできる空間はほとんど残らない。
俺は甲板から、その艇を見上げていた。
「本当に、これで約1,000mまで潜るんですね」
「潜る」
隣に立った久保田さんが答えた。
「だが、目的は潜ることではない。記録を持って戻ることだ」
「はい」
「船外活動は最長90分。折り返し時刻は、艇のハッチを開けてから45分後。壁の文章が残り1行でも、時間になれば戻る」
「分かっています」
「通信品質が基準を下回った場合も撤退。気密服、呼吸装置、心拍、酸素飽和度のどれかに異常が出た場合も同じだ」
久保田さんは俺の顔を見た。
「君が大丈夫だと言っても、任務指揮官が駄目だと判断すれば帰る」
「はい」
「返事だけは立派だな」
「今回は、守ります」
「今回だけでは困る」
久保田さんは、船上から全体の指揮を執る。
海の底へ行くのは3人。
現在、超古代文字を実用的に訳せる俺。
記録の位置関係と文脈を照合する神宮寺教授。
そして、艇の操縦と船外活動の指揮を担う黒木さんだった。
◇◇◇
「黒木だ。今さら挨拶も要らんか」
黒木さんは、いつもの無精髭を撫でた。
「遠心加速度装置の管理だけじゃなかったんですね」
「昔、海洋開発の試験班にいた。深海艇の運用と閉鎖環境の訓練資格は、その頃に取った」
「聞いてませんでした」
「お前が聞かなかった」
相変わらずだった。
黒木さんは、俺と教授の気密服を順番に確認する。
襟元の気密環。
呼吸装置。
胸部の生体センサー。
腰へ固定した通信ケーブル。
緊急時に艇まで戻るための誘導灯。
「艇の操作と、現場の中止判断は俺がやる」
黒木さんは、俺たちを交互に見た。
「教授は、壁の位置と過去の訳を照合。鈴木は文字を読む。役割はそれだけだ」
「撮影は?」
「肩のカメラが自動でやる。気になったものを勝手に触るな。装置を見つけても動かすな。光っても押すな」
「子ども扱いしてませんか」
「お前の過去の実績を踏まえた、適切な扱いだ」
「……はい」
「返事が小さい」
「はい」
黒木さんなら、俺が記録へ意識を奪われても、遠慮なく腕を引いて帰らせる。
遠心加速度試験でも、限界へ挑む方法ではなく、限界から戻る呼吸を教えてくれた。
この人は、いつも俺へ帰り方を教える。
◇◇◇
教授の同行は、最後まで確定しなかった。
実年齢は61歳。
普段はもっと年上に見えるが、身体は同世代の平均より若い。ここ1年は山道を歩き、心肺機能を維持してきた。
それでも、狭い潜水艇の中で数時間過ごし、気密服を着たまま歩く負担は大きい。
真壁先生は、教授だからと基準を緩めなかった。
「血圧、心電図、呼吸機能。現時点では参加基準内です」
船内医務室で検査結果を閉じる。
「ただし、合格は我慢してよいという意味ではありません。胸の違和感、息苦しさ、めまい、手足のしびれ。小さくても申告してください」
「承知しています」
「本当に?」
「……以前なら、少しくらい隠したかもしれません」
教授は苦笑した。
「だが、今回は私一人の調査ではない。私が倒れれば、2人の帰還を遅らせる」
「分かっているなら結構です」
教授は胸元から、小さな写真を取り出した。
樽内の岩に刻まれていた兄の名を、TPCが撮影したものだった。
「50年待たせた兄へ、少しだけ報告してきます」
「報告は、戻ってからしてください」
真壁先生の言葉に、教授は静かに頷いた。
◇◇◇
潜航前の最終確認は、船内の作戦室で行われた。
潜る3人だけではない。
残る者にも、それぞれ役割がある。
久保田さんは、任務全体の継続と中止を判断する。
真壁先生は、俺たち3人と奏の医療状態を監視する。
澄人は、艇から海底構造の入口までの通信と、中継器の状態を管理する。
遠野さんは、時刻、映像、会話、環境値を同じ記録へまとめる。
ゴウと健三さんは、気密服と携行装置に故障が出た場合、製造記録から対処方法を示す。
美園さんは、消耗品、予備部品、使用時刻の管理を担当する。
奏の感覚は、任務継続を決める唯一の警報には使わない。
本人が同意した範囲で記録し、海底側のデータや俺たちの状態と照合する補助情報として扱う。
誰か1人の目へ、全員の命を預けない。
3000万年前の3度目の記録から、俺たちが学んだことだった。
「通信経路を確認する」
澄人が海底図を表示した。
「調査艇から海面までは音響通信。海底構造の内部では、前回の探査機が残した光ファイバー中継線を使用する」
「中継線が切れた場合は?」
久保田さんが尋ねる。
「艇までは、船外活動班が携行する細径ケーブルで戻せます。ただし、海面との通信が同時に切れた場合は、予定を中止して即時帰還です」
「映像だけが落ちた場合も同じ?」
「音声と生体情報が残っていても、1分以内に回復しなければ撤退を勧告します」
「勧告ではない」
黒木さんが訂正した。
「現場では、俺が撤退を命じる」
「了解」
遠野さんが、すべての条件へ番号を振る。
中止条件は17項目。
誰が、どの数値を見て、どの言葉で中止を伝えるかまで決められている。
「ずいぶん増えたな」
ゴウが呟く。
「減らす理由がありますか」
美園さんが返した。
「ありません」
「なら、覚えてください」
「俺、船上待機だぞ」
「船上でも、異常時に交換部品を探すのは相沢さんです」
「……はい」
潜る者だけが、調査をするわけではない。
残る者がいなければ、潜った人間は帰れない。
◇◇◇
作戦室を出る前に、奏へ声をかけられた。
彼女は医療監視席の前に座り、俺たちの生体情報が表示される画面を確認していた。
「鈴木さん」
「はい」
「約束を確認します」
「お願いします」
「予定時刻になったら、読めていなくても戻る」
「はい」
「黒木さん、久保田さん、真壁先生の誰かが中止を命じたら、理由を聞く前に戻る」
「はい」
「私が、いつもと違う感覚を報告した場合は、それだけで先へ進まず、他の記録と照合する」
以前なら、「白石さんが戻れと言ったら戻る」と約束していたかもしれない。
だが、それでは奏1人へ重すぎる判断を背負わせる。
「分かりました」
「最後に」
奏は一度、言葉を止めた。
「無事に戻ってきてください。これは、手順ではありません」
まっすぐな目だった。
「お願いです」
俺は、少しだけ笑った。
「帰ります」
「必ず?」
「ここで待っている人がいるので」
奏の頬が、わずかに赤くなる。
「……それなら、早く行ってください」
席の後ろにいた真壁先生が、小さく笑った。
「はいはい。青春は帰還後に続きをやって」
俺と奏は同時に目を逸らした。
◇◇◇
甲板へ出ると、ゴウが待っていた。
「灯」
俺の肩を乱暴に叩く。
「壁の続き、勝手に1人で理解すんなよ。全部持って帰ってこい」
「ああ」
「それと、これ」
差し出されたのは、小さな金属片だった。
3機の実証機に使った、モーター固定ブラケットの不良品を削り直したものだ。
角は丸められ、表面には小さく機体番号が刻まれている。
「お守りにしようと思ったけど、そのまま持ち込むのは駄目だって美園さんに怒られた」
「当然です」
美園さんが、すぐ後ろから言った。
「洗浄、材質確認、重量記録を済ませました。携行品一覧にも登録しています」
「お守りに、そこまで要るのかよ」
「未知施設へ持ち込む物です」
金属片は、気密服の外へ出ないよう、胸元の透明な内ポケットへ収められた。
「お前が作った機械が、落ちて、直って、帰ってきた証拠だ」
ゴウが言った。
「奥で変なこと考えたら、それ見ろ」
「ありがとう」
「柄じゃねぇこと言わせんな。早く行け」
澄人は、通信表を手にしたまま親指を立てた。
遠野さんは「時刻同期は0.1秒以内です」と、最後まで彼女らしい言葉をくれた。
健三さんは、俺の気密服の肩を一度だけ叩く。
「道具は全部、帰ってきたときに点検する。持って帰ってこい」
「はい」
教授と黒木さんが先に艇へ乗り込む。
俺も、甲板に残る全員の顔を見てから、狭いハッチをくぐった。
◇◇◇
9時40分。
潜航開始。
ハッチが閉まり、艇がクレーンで海面へ降ろされる。
船体を叩いていた風の音が消え、代わりに海水の低い響きが周囲を包んだ。
窓の外は、明るい青から濃い青へ変わる。
深度200m。
光が弱くなる。
500m。
太陽の光は、ほとんど届かない。
「外部照明を点灯」
黒木さんが操作すると、観察窓の前へ白い光の円が生まれた。
時折、小さな深海生物が光を反射し、暗闇へ消えていく。
教授は窓へ顔を寄せていた。
「美しいな」
「教授、初めてなんですか」
「海底へ来るのはね。50年、地面の下ばかり探した。まさか最後に海へ潜るとは思わなかったよ」
艇の中は狭い。
3人が座れば、膝が触れ合う。呼吸装置と計器が周囲を埋め、肩を動かすにも声をかける必要がある。
船体が、時折、小さく鳴った。
設計上想定された、圧力による変形音。
それでも、その音を聞くたび、前世の記憶が背中へ近づいた。
崩れた建物。
動かない梁。
周囲から押し潰される感覚。
呼吸が浅くなる。
「鈴木」
黒木さんが、計器を見たまま言った。
「吸うほうを頑張るな。長く吐け」
教わったとおり、息を吐く。
6秒。
少し間を置いて、自然に吸う。
ここは瓦礫の下ではない。
俺たちは、位置を知られている。
海面には仲間がいる。
この艇には、自力で浮上するための錘がある。
「心拍、下がってきた」
船上から真壁先生の声が届く。
『無理に平静なふりをしないで。そのまま呼吸を続けて』
「了解です」
教授が、俺を見た。
「私も緊張しているよ」
「教授も?」
「当然だ。これから会う相手は、3000万年待っていたかもしれん」
窓の外の闇を見つめる。
「こちらが少しくらい緊張して行くほうが、礼儀だろう」
その言葉で、肩の力が少し抜けた。
「深度800m」
黒木さんが推進器の出力を落とす。
「海底まで、あと少しだ」
900m。
約1,000m。
ライトの中へ、泥に覆われた黒い面が現れた。
現在の探査範囲では、端を確認できていない海底構造。
その一角に、青白い光で縁取られた可動部がある。
3か月前と同じ位置で、黒い面が奥へ下がっていた。
◇◇◇
「入口正面。距離30m」
黒木さんが艇を静止させる。
『外部観測、異常なし』
澄人の声。
『入口の磁場、水温、微振動。すべて進入基準内』
「第1中継器、受信確認」
『確認。光ファイバー回線へ切り替え可能です』
黒木さんは、俺たちを見た。
「進入する」
艇がゆっくり前へ出る。
幅約24mの入口は、潜水艇が入っても十分な余裕があった。
青白い縁の内側へ艇が入る。
背後で外側隔壁が動き始めた。
「隔壁閉鎖」
「光ファイバー、維持」
『通信正常』
前回の探査機が残したケーブルの周囲を、黒い縁が変形しながら塞いでいる。
隔壁が閉じると、周囲の海水がゆっくり低下し始めた。
「排水開始」
艇の外圧が段階的に下がる。
急激な変化はない。
約6分後。
水面は艇の下まで下がり、黒い床が現れた。
外部圧力は0.12MPaで安定。
「気体分析」
船外センサーが数値を送る。
窒素に近い成分、約77%。
酸素、約20.6%。
既知の希ガス。
未同定の微量成分。
137日間の監視値と、誤差の範囲内だった。
「呼吸可能とは判断しない」
黒木さんが確認する。
「予定どおり、気密服と独立呼吸を維持する」
「了解」
艇内と外部の圧力差を調整する。
ハッチを開けられる状態になっても、すぐには出ない。
外部映像。
温度。
粒子数。
放射線。
床面の安定。
すべてを確認する。
「船外活動開始時刻、11時06分」
遠野さんの声が届く。
『折り返しは11時51分。最終帰艇時刻は12時36分です』
「確認した」
黒木さんがハッチへ手をかける。
「行くぞ。3000万年前の空気があっても、吸うなよ」
「誰も吸いません」
「念押しだ」
◇◇◇
ハッチが開く。
最初に黒木さんが外へ降りた。
床面を確認し、携行センサーを置く。
「荷重、問題なし。磁場、温度、基準内」
次に俺。
最後に教授。
気密服の靴底が、乾いた黒い床へ触れた。
水深約1,000mの海底。
その内側に、空気で満たされた通路がある。
頭では何度も理解していた。
実際に自分の足で立つと、現実感が追いつかない。
そして——近い。
頭の奥にある4つの波が、これまでより鮮明だった。
音ではない。
身体の内側へ、間隔だけが直接刻まれる。
長いものが4回。
その後に空白。
苦しさはない。
だからといって、歓迎されていると決めることもできない。
「鈴木、状態を報告」
「頭の奥の反復パターンが強くなっています。痛み、吐き気、視覚異常はありません」
『船上の感応記録にも変化があります』
奏の声が届く。
『ただし、私の体調は安定しています』
「記録した」
黒木さんが先頭に立つ。
俺が中央。
教授が後方。
3人の腰は、細い通信・誘導ケーブルで互いに連結されている。一定以上離れれば警報が鳴る。
通路へ足を踏み出すと、青白い照明が進行方向へ順番に灯った。
映像で見たとおりだった。
壁の隆起。
焼けた溝。
補修のために重ねられた黒い板。
けれど、画面越しとは違う。
板の縁には、何度も工具を当てたような傷がある。
床の一部は擦れ、同じ場所を多くの人や機械が通った跡が残っている。
神殿ではない。
働く場所だった。
3000万年前、誰かがここで壊れた機械を直し、部品を運び、次の戦いへ備えていた。
「止まるな」
黒木さんの声で、壁へ手を伸ばしかけていたことに気づいた。
「触ってません」
「触ろうとはした」
「……はい」
「記録は肩のカメラに任せろ」
俺は手を戻した。
◇◇◇
通路を進みながら、20mごとに小型中継器を置く。
第1。
第2。
第3。
船上からは、澄人が通信品質を読み上げる。
遠野さんは、俺たちの位置と時刻を記録する。
美園さんは、呼吸装置の残量と、使用した中継器の番号を管理していた。
『携行酸素、3名とも計画値内です』
『第5中継器、作動確認』
『教授、歩行速度が少し落ちています。体調は?』
「問題ない」
教授が答える。
「ただ、見たいものが多すぎて足が止まりそうになる」
『見るのは帰りにもできます』
真壁先生の声が返る。
「もっともだ」
潜る3人の周囲に、残った者たちの声がある。
それだけで、暗い通路が完全な孤独にはならなかった。
「鈴木君」
教授が、歩きながら言った。
「私は今、ようやく分かった気がする」
「何がですか」
「なぜ、30年以上も追い続けたのか」
青白い照明が、1本ずつ先へ灯る。
「誰にも信じてもらえなかった。証拠がない、妄想だと笑われた。私自身、何度もやめようと思った」
教授は壁を見つめる。
触れはしなかった。
「だが、どこかで知っていたんだろう。ここに、誰かがいたことを。孤独の中で、必死に何かを残した者が」
胸元の写真へ、気密服越しに触れる。
「今日、ようやく会いに来られた。50年かかったよ」
教授の50年。
壁を残した者たちの3000万年。
時間の長さは違っても、届かない相手へ記録を残し続けたことは同じだった。
「会って、帰って、報告しましょう」
俺が言うと、教授は静かに頷いた。
◇◇◇
船外活動開始から29分。
通路が、円形区画へつながった。
直径約96m。
高さ約38m。
中央の低い台座。
空の格納架台。
壁一面の文字と図。
探査機が記録した場所へ、自分の足で立っている。
1度目の戦い。
2度目。
3度目。
6週間かけて読んだ文字が、床から天井近くまで俺たちを囲んでいる。
映像では平らに見えた刻印にも、深さの違いがあった。
整った記録は、同じ工具で一定の幅に刻まれている。
後から追加された修正は細い。
4度目の直前になるほど、線は深く、乱れていた。
急いでいた。
あるいは、手が震えていた。
「読んだ内容と、現物は一致するか」
黒木さんが訊く。
「はい。少なくとも、この範囲は」
教授が、3度目の壁画を見上げる。
人の乗る中核機。
無人随伴機。
地上管制。
救難。
「よく残してくれた」
小さな声だった。
「失敗まで、消さずに」
返事をする相手はいない。
それでも、青白い照明が一度だけ強くなった。
偶然かもしれない。
俺たちは意味を決めず、その変化だけを記録した。
◇◇◇
「経過、38分」
黒木さんが腕の時計を見る。
「折り返しまで7分。第4記録の入口を確認し、状況次第で数行だけ撮る。無理なら帰る」
「了解」
円形区画の奥へ進む。
前回、探査機の映像が乱れた方向。
壁には、焼けた文字が続いている。
『4度目の夜は、外より来たらず』
『夜は、内より来れり』
その先に、細い通路があった。
ここまでは、探査機の後方カメラにも映っている。
だが、円形区画の照明は、その入口で終わっていた。
奥は暗い。
黒木さんが立ち止まり、携行センサーを前へ向ける。
「温度、周囲より0.4℃低い」
「磁場に別の揺れがあります」
俺は画面を確認した。
母炉の反復パターンとは周期が違う。
弱く、不規則で、時々だけ大きく沈む。
『船上でも、微弱な別波形を確認』
澄人の声が届く。
『入口より奥で、通信雑音が増えています。現在は継続基準内。ただし、余裕は小さい』
奏の声も続いた。
『私が前から感じていた、別の感覚が強くなっています』
呼吸を整える音がする。
『母炉の反復とは違います。意味は分かりません。ただ、近づくほど圧迫感があります』
真壁先生が即座に確認する。
『白石さん、頭痛は』
『軽度です。継続基準内。でも、これ以上強くなれば申告します』
彼女の感覚だけではない。
温度。
磁場。
通信雑音。
複数の記録が、暗い通路の先に別の状態があることを示している。
それでも、「何かがいる」とは言えない。
「残り7分」
黒木さんが言った。
「計画で許可されているのは、入口から15mまで。通信が今より10%落ちたら即時反転。誰か1人でも異常を訴えたら帰る」
「はい」
「教授」
「異論はない」
黒木さんは、俺の目を見た。
「読める途中でも、時間で切る」
「分かっています」
「本当に?」
「帰るために来ました」
その答えを聞き、黒木さんが先頭へ向き直った。
◇◇◇
俺たちは、携行灯を点けた。
白い光の輪が、暗い通路を切り取る。
母炉の照明は、ここだけ点灯しない。
案内が終わったのか。
照らせないのか。
照らしたくないのか。
どれも、まだ解釈だった。
足元には、円形区画までとは違う傷が残っていた。
何かを引きずったような、深い線。
壁の黒い板は、外側から補修されたのではない。
内側から押し出されたように、継ぎ目が浮いている。
「ここは、損傷の向きが逆だ」
黒木さんが呟く。
「外から壊されたんじゃない」
教授が息を呑んだ。
「夜は、内より来れり」
俺は、声に出さず、その一文を思い返した。
頭の奥で、4つの長い波が速くなる。
母炉のものと仮定している反復。
その下に、別の感覚が重なった。
冷たい。
重い。
底がない。
言葉ではないのに、思考の端を暗い方向へ引っ張る。
前世の瓦礫。
届かなかった声。
遅すぎた救助。
忘れたことなど、一度もない記憶が、急に近くなる。
「鈴木」
黒木さんの声が飛ぶ。
「現在地を言え」
「海底構造の円形区画から、奥の通路へ……6m」
「隣にいるのは」
「前に黒木さん。後ろに教授」
「帰る場所は」
一瞬、答えが詰まる。
胸元の透明ポケットに、小さな金属片が見えた。
落ちて。
直して。
自分で帰ってきた、2号機と同じ部品。
「調査艇《くろしお》。その先に『海鳴』。船上に、みんながいます」
「よし」
黒木さんが、俺の肩へ手を置いた。
「今のは、記録に呑まれかけた兆候だ。状態を申告しろ」
「過去の記憶が、急に鮮明になりました。方向感覚は戻っています。頭痛は軽度」
『心拍が上昇しています』
真壁先生の声。
『継続基準の上限に近い。30秒で下がらなければ撤退』
「了解」
長く息を吐く。
6秒。
もう一度。
心拍の警告音が、少しずつ遅くなる。
『基準内へ戻りました』
それでも黒木さんは、先へ進まなかった。
「残り3分。入口の撮影だけして戻る」
「本文は」
「今日は読まない」
「でも——」
「今、お前は引っ張られた」
低い声だった。
「次に同じことが起きたとき、戻れる保証はない。入口の映像があれば、次の計画を立てられる」
壁の先に、文字が見える。
乱れた深い刻印。
あと数歩進めば、最初の行を読めるかもしれない。
胸の奥が、前へ行けと叫ぶ。
けれど、俺たちは何のために3か月準備した。
読めるまで残るためではない。
読んだものを持って帰るためだ。
「……撮影して、戻ります」
黒木さんが頷いた。
教授は何も責めなかった。
肩のカメラを最大倍率へ切り替える。
携行灯を壁へ向ける。
焼けた文字が、暗闇の中に浮かんだ。
全文は読めない。
だが、入口の1行だけは見えた。
『我ら、帰還を願う鉄へ、帰還を許さず』
呼吸が止まりかけた。
黒木さんの手が、再び肩へ置かれる。
「意味は船で考えろ」
「……はい」
「折り返す」
3人で向きを変える。
暗い通路を背にした瞬間、頭の奥の冷たい感覚が、わずかに遠のいた。
母炉の青白い照明が見える。
円形区画。
通路。
調査艇。
帰る道が、順番に視界へ戻る。
◇◇◇
円形区画へ戻ると、通信品質も回復した。
『全員の生体情報、基準内』
『折り返し時刻、予定どおり』
『第7中継器を回収』
船上の声が、途切れず届く。
教授は帰路で壁を見ようとしなかった。
足元と呼吸へ集中し、一定の速度を保つ。
「教授、大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
少し息を弾ませながら答える。
「今日は、会えただけで十分だよ。話の続きは、また来ればいい」
また来る。
その言葉に、少しだけ救われた。
1回で全部を得る必要はない。
3000万年残った記録は、今日だけで消えない。
艇へ戻り、3人が乗り込む。
ハッチを閉鎖。
気密を確認。
外側区画が再び海水で満たされる。
入口の隔壁が開く。
黒木さんが艇を海へ出した。
『《くろしお》、海底構造からの離脱を確認』
久保田さんの声だった。
「3名、異常なし。撮影記録あり。第4記録の入口で撤退した」
『了解。帰投せよ』
黒木さんが、浮上用の操作へ移る。
窓の外で、青白い入口が少しずつ遠ざかる。
俺は胸元の金属片へ目を落とした。
奥へは届かなかった。
それでも、俺たちは帰っている。
失敗ではない。
次に帰るための情報を、持って戻っている。
◇◇◇
海面へ近づくにつれ、窓の外へ青が戻った。
調査船の船底が見える。
艇が揚収され、ハッチが開く。
最初に聞こえたのは、ゴウの声だった。
「遅ぇ!」
「予定どおりだ」
黒木さんが返す。
「待ってる側は長ぇんだよ!」
甲板へ上がると、ゴウは俺の肩を掴み、顔を確認するように左右から見た。
「ちゃんといるな」
「いるよ」
「教授も?」
「いるとも」
教授が後ろから笑う。
美園さんは、俺たちの返却装備へ番号札をつけ始めていた。
健三さんは、気密服の接続部を確認する。
澄人と遠野さんは、すでに映像データを3系統へ複製している。
真壁先生は、感動の再会を待たず、俺たち3人を医務室へ連行した。
「採血、神経学的確認、汚染検査。話はその後」
「少しくらい——」
「その少しで見落とすから駄目です」
奏は、医務室の入口に立っていた。
俺が近づくと、何も言わずに一度だけ息を吐く。
「帰ってきました」
「……はい」
「約束どおり」
「途中で戻ったんですね」
「読めるところまで行きませんでした」
奏の表情が、わずかに緩む。
「それでいいんです」
その言葉を聞いて、ようやく帰ってきたのだと実感した。
◇◇◇
検査を終えたあと、作戦室で入口の映像を確認した。
乱れた文字。
焼けた壁。
内側から押し出された補修板。
そして、暗闇の中で読めた1行。
『我ら、帰還を願う鉄へ、帰還を許さず』
確度は、まだB以下。
「鉄」が機体を指すのか、兵器体系全体を指すのか。
「帰還を許さず」が、命令なのか、機能の停止なのか。
文脈が足りない。
断定はできない。
ただ、3度目の勝利で最も大切にされたはずの「帰還」が、4度目には誰かの手で拒まれた。
その可能性だけは、重かった。
「内より来た夜は、帰還命令を奪ったのかもしれない」
澄人が言う。
「あるいは、帰還する機体を敵と判断した」
遠野さんが続ける。
「まだ仮説です」
「ああ」
俺は頷いた。
「だから、次は本文を読む。でも、その前に——」
胸元から、登録された金属片を取り出す。
「今日起きた、俺の記憶の混乱を解析します。あの場所が人間の判断へ影響するなら、文字より先に対策が必要です」
久保田さんが頷く。
「その判断でいい。第2回有人調査は、原因と対策がまとまるまで承認しない」
悔しさはある。
だが、反対はしなかった。
今日、暗闇の中で前へ進み続けていたら。
俺も、帰還を願う鉄へ帰還を許さなかった者たちと、同じ判断をしていたかもしれない。
入口まで行き。
1行を持ち帰り。
全員が戻った。
潜った者も。
残った者も。
誰も欠けずに。
それが、第1回有人調査の成果だった。
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【現在のステータス・スキル情報】
[BASE STATUS]
┣ 演算処理能力:D
┣ 空間認識力:D
┣ 反応速度:D
┗ G耐性/肉体:D(装具装着時:C相当)
[ACQUIRED SKILLS & KNOWLEDGE]
┣【超古代言語理解 Lv.2】
┣【初級・機械工学/プログラム言語】
┣【中級・航空力学/制御アルゴリズム】
┣【上級・次世代エネルギー/流体力学】
┣【マクロス初代・統合技術パック】(翻訳作業:進行中)
┣【インファイト Lv.1】
┗【SPアップ Lv.2】
[SYSTEM DATA]
┣ 所持ポイント:33,250 SP
┣ 残機数:3 / 3
┣ 第1回有人内部調査:全員帰還
┣ 第4記録:入口の1行を取得
┣ 未知影響:一時的な記憶侵入・方向感覚低下
┗ 次段階:心理影響の解析/第2回調査は承認保留
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