鋼鉄の灯火は深淵を照らす—超古代の厄災と、メカオタクの生存戦略—— 作:カノープス・ギア
しかし、知識を得ることと、現実に力を生み出すことは同じではありません。
第五話です。
東北から戻った翌朝、俺は大学の廊下で足を止めていた。
目の前には、見慣れた古びた木製のドア。『神宮寺研究室』という、そっけないプレートが貼られている。
これまで数え切れないほどノックしてきたドアだ。だが今日に限って、その板一枚が鉄の扉みたいに重く見えた。
(……そりゃそうだよな。教授の呼び止める声を無視して飛び出して、そのまま三日も音信不通なんて)
しかも俺がやったことといえば、教授が十数年かけて解けなかった観測データを、目の前でわずか数分で解析してみせるという、控えめに言って意味不明なムーブである。
普通に考えれば、感謝より先に「お前は何者だ」が来る。
言い訳は、電車の中で三パターンほど組み立ててきた。
だが、どれも自分で組み立てておいて言うのもなんだが、穴だらけだ。理系の学生が、専門外の古代言語を含む複合データを即興で処理できる理由なんて、この世に存在しない。
「……はぁ」
覚悟を決めて、コンコン、とドアを叩いた。
「はい。どうぞ」
いつも通りの、のんびりした声。
それがかえって怖い。
ドアを開けると、埃っぽい古文書と岩石サンプルの匂いが鼻をついた。デスクの奥で、丸眼鏡の教授が湯呑みを片手に振り返る。
「おお、鈴木君! 無事だったか!」
「……え?」
思わず、間の抜けた声が出た。
怒鳴られる。もしくは尋問される。そのどちらかだと思っていたのに、教授の顔に浮かんでいたのは、明らかな安堵だった。
「いや、すまない。三日も連絡がつかないものだから、私はてっきり……。あの座標のあたりは、地形が険しい上に磁場の影響で通信が届かん。私が余計なデータを見せたせいで、君が無茶をしたのではないかと」
教授は椅子から立ち上がると、俺の全身を上から下まで確かめるように見た。
「怪我は? 食事は取れていたのかね。顔色がひどいぞ」
「あ、いえ……大丈夫です。ちょっと山を歩いただけで」
「ちょっと、で三日は歩かんよ」
呆れたように言いながら、教授はポットから急須にお湯を注ぎ始めた。
その背中を見ていたら、胃の奥がキリキリと痛んだ。
この人は、俺を疑うより先に心配していたのだ。三日間、ずっと。
「……教授。あの、この前のことなんですけど」
「うん?」
「勝手に飛び出して、すみませんでした。それと……あの解析のことも」
湯呑みを差し出す教授の手が、ほんの一瞬止まった。
「ああ、そのことか」
教授は、湯呑みを俺の手に押しつけると、自分のデスクに戻って古いCRTモニタの電源を入れた。
画面に映し出されたのは、あの日、俺が書き換えた解析プログラムのソースコードだ。
「あの後、三日かけて君のコードを読んだよ」
背筋に、冷たいものが走った。
「地磁気ノイズのフィルタリング部分は、まあ理解できる。工学部の優秀な学生なら書ける範囲だ。感心はしたが、驚きはしない」
教授の指が、画面の一点をコツリと叩いた。
「だが、この補正項だ。ここで君は、観測値の歪みを『球面上の三点の交差角』として処理している。地磁気学ではまず使わない発想だ。……鈴木君。君はこの幾何学モデルを、どこで手に入れた?」
心臓が跳ねた。
そこは、拓本に刻まれていた超古代の碑文——『天の磁脈が交わる歪み』という一節を、システムの【超古代言語理解】が翻訳して脳内に流し込んできた部分だった。
出典は三千万年前の超古代文明である。答えられるわけがない。
「……えっと、その、たまたま読んだ論文で似たような処理を見たことがあって」
「ほう。どの論文かね」
「……忘れました」
我ながら、あまりにも下手くそな嘘だった。
教授は湯呑みを口に運びながら、丸眼鏡の奥からじっと俺を見ている。心臓が嫌な音を立てた。
長い沈黙の後、教授は「ふむ」と短く息を吐いた。
「まあ、いい」
「え……」
「言いたくないことは、言わなくていい」
拍子抜けした俺に、教授は苦笑してみせた。
「私はね、鈴木君。三十年前に、学会で笑いものにされた男だ。証拠のないことを喋ると、人はどうなるか。身をもって知っている」
湯呑みの中で、茶葉がゆっくりと沈んでいく。
「だから、君が何かを掴んでいて、それをまだ口にできないというなら、私はその判断を尊重する。……ただし」
教授はぴたりと笑みを消して、こちらへ向き直った。
「一人で山へ入るな。次は必ず、行き先と時間を私に伝えなさい。約束できるかね」
「……はい」
「よろしい」
満足そうに頷くと、教授は資料棚の鍵を外し、無造作にこちらへ放って寄越した。
「棚も端末も、好きに使いなさい。私の集めたガラクタが、君の役に立つならそれ以上のことはない」
俺は、その冷たい鍵を両手で受け止めた。
掌の中で、それがひどく重たく感じられた。
(……ずるいな、俺は)
この人は、俺に何ひとつ要求しないまま、扉を開けてくれる。
なのに俺は、いずれこの人にも言えないことを抱えたまま、この研究室を利用していくのだ。
◇◇◇
昼の学食は、今日も馬鹿みたいに騒がしかった。
カレーの匂いと食器のぶつかる音、そこら中で弾ける笑い声。トレーを持って空席を探していると、奥の窓際から野太い声が飛んできた。
「おーい、灯! こっちだこっち!」
見れば、
高校球児みたいに日焼けした顔と、机の上に山と積まれたカツ丼と唐揚げ定食。工学部一年、ただし単位取得数は学年でも下から数えたほうが早い男だ。
その向かいでは、
俺がトレーを置くと、ゴウが身を乗り出してきた。
「生きてたか!」
「生きてる」
「三日も飛びやがって。代返してやった俺に感謝しろよな」
「代返したのは俺だ。お前は寝てた」
澄人が本から目を離さずに訂正する。ゴウが「うるせぇ」と唐揚げを口へ放り込んだ。
「で、どこ行ってたんだよ。まさか彼女とか言わねぇよな」
「東北の山」
「山ァ!?」
素直に答えたら、なぜか爆笑された。まあ、正解を言っても信じてもらえないのは、ある意味で気楽ではある。
「そういやさ、今週末の飲み会、灯も来るだろ?」
「……悪い、パス」
「またかよ!」
ゴウが心底不満そうに口を尖らせた。
「お前、最近ずっと断ってんじゃん。バイトか?」
「……まあ、そんなとこ」
嘘だった。
週末の夜は、走り込みと体幹トレーニングでデイリークエストを潰す時間だ。一日サボれば、あの地獄のペナルティゾーンへ叩き落とされる。飲み会に出た翌朝、二日酔いの身体でゴルザの前に放り出される想像をしただけで、背筋が凍った。
「なんか最近さぁ、お前ムキムキになってきてない?」
「ほんとだ。腕やば。何と戦う気だよ」
——怪獣と。
喉元まで出かかった言葉を、味噌汁と一緒に飲み下した。
「……健康のためだよ」
「うわ、大学一年の言うセリフじゃねぇ」
けたけたと笑いながら、ゴウが箸の先で俺の手元を指した。
「あ、そうだ。お前この前、ハンダごてのコテ先どこで買うか聞いてきただろ。あんなもん、うち来りゃタダでやるぞ」
「……うち?」
「実家。親父が町工場やってんの。金属加工。旋盤もフライスもあるぞ」
がつん、と心臓が殴られた。
旋盤。フライス盤。
学生の身では逆立ちしても手が届かない、金属を「削って形にする」ための機械。
「……工場、って」
「なんだよ、意外そうな顔しやがって。俺が工学部来た理由それだし。まあ、親父はいつ潰れてもおかしくねぇって言ってっけどな」
ゴウはあっけらかんと笑って、山盛りのご飯をかき込んだ。
俺は、味のしなくなった味噌汁を見つめていた。
(……使わせてもらえたら)
そう考えかけて、すぐに頭の中で叩き潰す。
駄目だ。
俺がこれから作ろうとしているのは、趣味の工作じゃない。人型やら可変機やら、まともな神経では説明のつかない代物だ。そして、それを作る理由は、数年後に降ってくる災害を知っているからである。
図面の一部でも見せれば、ただの学生工作では済まないと、あいつはすぐ気づく。そうなれば背負わされるのは俺の秘密だけじゃない。これから起きる厄災を「知ってしまった」という責任まで、まとめて押しつけることになる。
こいつを巻き込むということは、この呑気な顔を、あの地獄の側へ引きずり込むということだ。
(……無理だ)
「灯」
不意に名前を呼ばれ、俺は顔を上げた。
澄人が本を閉じて、眼鏡越しにこちらを見ていた。
「お前、最近ちょっと変だぞ」
「……そうか?」
「講義中、虚空見てる。飯食う速度が異常に速い。あと、笑い方が雑になった」
ぐっと喉が詰まった。
この男の観察眼は、本当に厄介だ。
「……寝不足なだけだよ」
「そうか」
澄人はあっさり引き下がった。だが、うどんの器を持ち上げながら、ひとりごとのように付け足した。
「まあ、お前が何か本気でやってんなら、俺らは邪魔しねぇけどさ」
「……ん」
「潰れそうになったら言え。飲み会に呼ぶのはやめといてやるから、そのくらいはさせろ」
「そうそう。あと、鉄が要るときは言えよ。うちの端材ならいくらでもあるからな」
ゴウがカツ丼をかき込みながら、なんでもないことのように言った。
俺は、返事ができなかった。
こいつらは何も知らない。
数年後、この世界に六十メートル級の巨獣が現れて、この学食も、この馬鹿げた量のカツ丼も、この笑い声も、まとめて瓦礫に変わるかもしれないなんてことは。
(……知らなくていい)
知ったところで、こいつらには何もできない。できるのは、たまたま前世の記憶と、頭に住み着いた不気味なシステムを持っている俺だけだ。
守りたいものの真ん中に座っているのに、守るための努力を重ねるほど、この席から遠ざかっていく。
その矛盾に、俺はまだうまく折り合いをつけられずにいた。
だから俺は、湯気の立つ味噌汁に顔を伏せて、ただ短くこう答えるのが精一杯だった。
「……サンキュ」
◇◇◇
その夜。
アパートの錆びた鉄階段を上り、六畳一間のドアを開ける。
万年床とPCモニター、床に積み上がった工学書。三日ぶりの自室は、出発したときのまま散らかっていた。
その日のデイリー分の走り込みを済ませ、シャワーを浴びて布団に倒れ込む。
——瞼が落ちる、その直前だった。
【警告】東北遠征期間中のデイリークエスト未達成(2日分)を検知
【緊急クエスト終了に伴い、保留中のペナルティを一括執行します。ペナルティゾーンへ強制転移】
「は……っ、ちょっ、待——」
視界が赤く塗り潰される。
待ってくれ。あれは遊びに行っていたんじゃない。お前が出した緊急クエストをこなしに行っていたんだぞ。
——いや、そうか。緊急クエストの最中は執行が保留される仕様だったのか。道理で、あの山の中では何も起きなかったわけだ。
そんな抗議を聞き入れるほど、このシステムに情はない。
意識が力任せに引きずり降ろされ、次の瞬間、俺の背中は冷たく硬いパイロットシートに叩きつけられていた。
耳を裂くアラート音。目まぐるしく点滅する計器類。
キャノピーの向こうに広がるのは、地響きと火炎が吹き荒れる焦土。そして——大地を割りながらゆっくりと頭をもたげる、漆黒の巨獣。
【クリア条件:ゴルザの攻撃下で5分間生存せよ】
【失敗条件:搭乗機の撃墜 ※撃墜時、規定時間を初期状態から再開する】
「……五分だと!?」
前回の三分ですら、精神が擦り切れるほどの地獄だった。それが、今度は五分。
『※対象のBASE STATUS上昇に伴い、規定時間が更新されました』
「上がったから難易度上げますって、どこのクソゲーだ……ッ!」
悪態をつきながら、俺はスロットルレバーを叩き込んだ。
『グガァァァァァッ!!』
ゴルザの咆哮。額の装甲が輝き、漆黒の超音波光線が空気を焼きながら迫る。
——だが。
「……見える」
操縦桿を倒す。機体が滑るように機首を振り、光線が右主翼のすぐ脇を走り抜けていった。
全身を強烈なGが叩く。内臓が下へ引きずられ、肺の空気が押し出される。
それでも、視界は暗転しなかった。
(違う……前とは、全然違うッ!)
前回、俺は操縦桿の握り方すら分からず、恐怖で手を震わせ、Gで意識を飛ばしかけながら、ただ逃げ回るだけだった。
今は、身体が動く。
日々の泥臭いトレーニングと、ポイントで順応させた【G耐性/肉体:F】。血が下半身へ落ちようとする感覚に、腹圧をかけて抗える。
そして——
【技能適用:『インファイト Lv.1』】
コックピットの中で、体幹が自動的に最適な位置へ収まる感覚。
機体が振られても頭がブレない。ブレないから、次の敵の動きが読める。
ゴルザが尻尾を薙ぐ。前回、俺を叩き落としたあの一撃だ。
俺はペダルを踏み込み、機体を横滑りさせながら衝撃波の外周へ抜けた。
「はっ……避けられた……避けられたぞ、クソッタレ!」
残り時間、三分二十秒。
初めて、あの巨体に対して「戦えている」という手応えが指先に生まれていた。
だから、欲が出た。
(……いける。いけるんじゃないか?)
ゴルザの側面へ回り込む。前世の記憶が告げていた。あの怪獣は装甲が異常に硬いが、本編でも防衛チームの攻撃を受けていたはずだ。当たれば、何かは起きる。
「——喰らえッ!」
トリガーを引き絞る。
ガッツウィングの機首から放たれた機銃弾が、火線を引いてゴルザの脇腹へ吸い込まれていく。同時にミサイルを二発、装甲の継ぎ目へ。
爆炎が巨体を包んだ。
心臓が期待で跳ねる。
——煙が晴れる。
ゴルザは、傷ひとつなくそこに立っていた。
「……は?」
爆煙が流れていく。その下から現れた装甲には、煤ひとつ残っていなかった。焦げ跡も、罅も、何ひとつ。
巨獣はゆっくりとこちらへ首を巡らせると、うるさい羽虫でも見つけたような目で俺を見下ろした。
『グガァ』
「——ッ!」
反射的に機体を跳ね上げる。直後、さっきまで俺がいた空間を漆黒の光線が薙ぎ払った。
残り、一分四十秒。
そこから先は、ただの逃走だった。
撃っても無駄だと分かった瞬間、この五分間の意味が変わった。生き延びるための時間ではない。俺が「何もできない」ことを確認させられるための、五分間だ。
【ペナルティ完了。生存を確認しました】
視界が暗転し、次の瞬間、俺は自室の畳の上に投げ出されていた。
「はっ、はぁっ、はぁ……ッ!」
四つん這いのまま、荒い息を吐き出す。
汗で全身がぐっしょりと濡れていた。だが、前回のように吐きはしなかった。涙も出ていない。
成長した。確かに、成長したのだ。
=========================================
【SYSTEM LOG】
▶ デイリークエスト:【基礎肉体練成】クリア +75 SP
▶ 未達成デイリー代替試練:【5分間生存】クリア +150 SP
▶ 現在所持ポイント: 375 SP
▶ 残機数: 3 / 3(維持)
=========================================
だというのに、胸の中に残っているのは達成感ではなかった。
「……一発も、通らなかった」
畳を掴む指に、力がこもる。
俺は逃げ足が速くなっただけだ。
どれだけ身体を鍛えても、どれだけスキルを買っても、あの装甲は抜けない。人間の側の努力だけでは、絶対に届かない領域がある。
——
◇◇◇
その夜、俺は眠るのをやめて、ノートを開いた。
まずはSPの計算だ。システムショップの技術ツリーを頭に浮かべる。
【中級・航空力学/制御アルゴリズム】 : 200 SP
【上級・次世代エネルギー/流体力学】 : 500 SP
※【オーバーテクノロジー領域】:[LOCKED・要上級マスター]
合計七〇〇SP。現在の所持は三七五SP。
デイリーは【SPアップ Lv.1】の補正込みで一日七五SP。単純計算で、五日ほどで届く。
「……SPだけなら、意外と近いな」
ペンを走らせながら、俺は少しだけ口角を上げた。
上級を極めれば、あのロックされた『オーバーテクノロジー領域』が開く。前世で憧れた可変戦闘機の設計図が、この頭に流れ込んでくるかもしれない。
——だが、そこでペンが止まった。
「……いや、待て」
背筋を、ゆっくりと嫌な想像が這い上がってきた。
仮に明日、上級知識が手に入ったとする。仮にOT領域が開いて、とんでもない機体の設計図を丸ごともらえたとする。
それを、どこで作るんだ?
俺は顔を上げて、自分の部屋を見回した。
万年床。中古のPC。床に積んだ工学書。ハンダごてと、秋葉原で買った安物のテスター。
六畳一間。学生アパートの二階。
ここで作れるのは、せいぜい基板と、手のひらに乗る程度の試作品だけだ。
旋盤がない。フライス盤がない。三相二百ボルトの電源がない。
チタン合金も、耐熱複合材も、そもそも一グラムいくらの世界だ。バイト代を全額突っ込んでも、ネジ一本分の特殊鋼が買えるかどうか。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
とんだ間抜けだ。
俺はずっと、SPさえ貯めれば強くなれると思っていた。システムが知識をくれるなら、あとは自分の努力次第だと。
違う。
システムはしかくれない。
図面は手に入る。理論も手に入る。だが、鉄は一グラムもくれないのだ。
金属を削る機械も、それを回す電力も、材料を買う金も、全部この現実の側で自分で用意しなければならない。
「知識は買えるのに、鉄は買えない、か……」
ふと、昼間のゴウの声が耳の奥で蘇った。
『——鉄が要るときは言えよ。うちの端材ならいくらでもあるからな』
「…………」
俺はペンを置いて、天井を仰いだ。
答えは、今日の昼、目の前に座っていた。
唐揚げをかき込みながら、なんでもないことのように差し出されていた。
(……駄目だ)
首を振って、その考えを頭の外へ追い出す。
あいつを巻き込むのは、まだ早い。というより、巻き込むなら、それ相応のものを背負ってからでなければ筋が通らない。
俺はノートの新しいページを開き、上のほうにこう書きつけた。
『必要なもの:作れる場所』
旋盤とフライス盤のある工作室。潤沢な電力。材料費を出してくれる誰か。
——大学の工学部実験棟。教授の研究室。あるいは。
ペン先が、ノートの上でぴたりと止まった。
(……TPCだ)
数年後、サワイ・ソウイチロウ氏の提唱で発足する、地球平和連合。
核兵器を根絶し、旧防衛軍を解体して、地球規模の資源と頭脳を一つにまとめる巨大組織。あそこには、国家予算規模の研究設備と工廠がある。
光のピラミッドへ向かう山道で描いた「TPCへ潜り込む」というロードマップが、ようやく机上の空論から、切実な必要に変わった瞬間だった。
俺が欲しいのは、地位でも名声でもない。
《b》鉄を、思うさま切り刻める場所だ。
「……そうと決まれば」
俺はノートを閉じ、ホログラムのウィンドウを呼び出した。
残り三七五SP。ここから五日で七〇〇SP。中級と上級を抜く。そこから先は、
窓の外は、まだ真っ暗だった。
だが、胸の奥で燻っていた小さな灯火が、今度ははっきりとした熱を持って燃えているのが分かった。
◇◇◇
深夜の研究室に、CRTモニタの走査線だけが低く唸っていた。
神宮寺は湯呑みに手を伸ばし、中身がとうに冷え切っていることに気づいて眉をひそめた。壁の時計は、日付が変わったことを静かに告げている。
画面には、一人の学生が書き換えていったソースコードが映し出されていた。
「……やはり、分からんな」
彼は丸眼鏡を外し、目頭を押さえた。
三日間、この数十行を追い続けている。地磁気ノイズのフィルタ処理は理解できた。工学部の優秀な学生なら書ける。そこは問題ではない。
問題は、その先に挿入された補正項だ。
「この式は、何を
長年の勘が告げていた。この補正は、観測値から導かれたものではない。
逆だ。先に答えを知っている者が、そこへ辿り着くために逆算した式の形をしている。
そんな芸当ができる人間がいるとすれば、それは——あの座標に何があるかを、あらかじめ知っていた者だけだ。
神宮寺は椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
思い出すのは、三十年前の学会場だ。
壇上で超古代文明の存在を訴えた自分と、それを聞いて漏れた失笑。「神話学者は隣の建物です」と言い放った同僚の顔。以来、彼の人生は「証拠のないことを喋った男」として過ぎていった。
学生は寄りつかず、予算は削られ、資料棚には誰も読まないスクラップだけが積み上がった。
それでも彼は集め続けた。いつか、これを必要とする誰かが現れると信じて。
「…………」
神宮寺は立ち上がると、資料棚の奥から色褪せた一冊のファイルを引き抜いた。
三十年前、学会で配って、そのまま床に散らばったままになっていた自分の論文だ。
震える指で、表紙を撫でる。
もし、あの若者が本当に「知っている」のだとしたら。
それは、この三十年が間違いではなかったという、たったひとつの証明になる。
「……ふ、ふふ」
思わず、笑いが漏れた。
自分でも驚くほど、それは湿った、みっともない笑い方だった。
彼は分かっていた。今ここで追及すれば、あの生真面目な学生は壊れてしまう。三日ぶりに現れたときの、あの憔悴した顔。何かに追われている人間の顔。下手くそな嘘をつきながら、必死に何かを隠していた。
——ならば、待とう。
「話す気になったら、いつでも来なさい」
誰もいない研究室で、老人は静かにそう呟いた。
「そのときは、こちらも三十年分の
モニタの電源を落とす。
暗くなった画面に、老いた自分の顔が映り込んでいた。
その目は、三十年ぶりに、少年のように光っていた。
=========================================
【現在のステータス・スキル情報】
[BASE STATUS]
┣ 演算処理能力: G
┣ 空間認識力 : G
┣ 反応速度 : G
┗ G耐性/肉体: F
[ACQUIRED SKILLS & KNOWLEDGE]
┣【超古代言語理解 Lv.1】
┣【初級・機械工学/プログラム言語】
┣【インファイト Lv.1】
┗【SPアップ Lv.1】
[SYSTEM DATA]
┣ 所持ポイント: 375 SP
┣ 残機数 : 3 / 3
┗ 当面の目標 : 中級・上級知識の取得 /「作れる場所」の確保
=========================================
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は第四話直後の出来事として、灯と神宮寺教授の関係、大学での日常、そして再度のゴルザ戦を描きました。
灯は少しずつ成長していますが、現時点ではあくまで「逃げ延びられるようになった」段階です。既存兵器では怪獣に攻撃が通らず、システムから知識を得ても、材料・設備・資金がなければ現実の兵器は作れません。
今回は、その現実的な壁を知る回となっています。
また、本話から必要に応じて、灯以外の人物を描く第三者視点を取り入れています。基本は灯の一人称で進めつつ、主人公からは見えない人物の思いや、周囲から見た灯の姿も描いていく予定です。
【システム補足】
緊急クエストの実行中は、未達成となったデイリークエストのペナルティが一時的に保留されます。緊急クエスト終了後、未達成分が代替試練としてまとめて執行される仕組みです。
今回の150SPは、未達成だった二日分のデイリー報酬に相当します。ただし、安全な通常訓練とは異なり、撃墜されれば最初から再試行となる高リスクな試練です。
次回から、灯は知識を得るだけでなく、それを現実の形へ落とし込むために動き始めます。