アインクラッド攻略は、すでに第74層という佳境へと達していた。
階層が上がれば上がるほど、モンスターの能力は凶悪さを増し、フィールドの地形も過酷を極める。一歩間違えれば死に直結する緊張感の中、攻略組の誰もが疲弊とプレッシャーに苛まれていた。
だが、そんな極限の世界にあっても、ルカの周りだけは常に暖かく明るい光が満ちていた。
「ルカ、熱いから気をつけてね」
第61層の主街区『セルムブルグ』の転移門広場近くにあるオープンカフェ。
アスナが淹れ立てのハーブティーが入ったカップを差し出すと、ルカは「わぁ、ありがとうアスナ!」と両手で嬉しそうに受け取った。
ふーふーと息を吹きかけ、小さく一口飲む。
「はぁ〜……! すっごくいい香り。身も心もほっとするなぁ……!」
ルカは藍色の瞳を細め、心底幸せそうに頬をゆるませた。
「まったく……ルカはどんな過酷な階層に来ても、変わらないな」
向かいに座るキリトが、苦笑しながらサンドイッチをかじった。
とは言いつつも、キリト自身ルカの明るさに何度も救われてきた。
それこそ、かつて起きた『月夜の黒猫団』の騒動の際も、彼の尽力によりキリトは立て直すことができたのだ。
「だってさ、74層だよ? 昔は100層なんて本当に辿り着けるのかなって思ってたけど、みんなで力を合わせて、ここまで来られたんだよ! これってすっごく奇跡的で、嬉しいことじゃない?」
ルカは膝の上でぎゅっと拳を握り、二人を見つめた。
「僕ね、毎日目が覚めるたびに思うんだ。あぁ、今日もキリトやアスナや、みんなと過ごせるんだなって。みんなで美味しいものを食べて、笑い合って、一緒に助け合って前へ進む。この生活が……僕にとって、人生で一番幸せな時間なんだ」
屈屈のない、心からの言葉。
その純粋すぎる熱量に、アスナは胸がキュッと締め付けられるような愛おしさを覚え、優しくルカの髪を撫でた。
「ルカ……。あなたがいるから、私たちも暗い気持ちにならずに戦ってこられたのよ。ルカは、攻略組のみんなの『光』なんだから」
「えへへ、光だなんて照れるなぁ。でも僕、みんなのことが本当に大好きだから! 100層をクリアするその瞬間まで、絶対にみんなの隣で笑っていたいんだ!」
ルカのとびきりの笑顔。
その輝きは、デスゲームという暗闇に囚われたプレイヤーたちにとって、間違いなく最大の救いであった。
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数日後、攻略組は第74層の広大な迷宮区へと足を踏み入れ、精力的にマッピングとボス部屋の捜索を進めていた。
ルカはキリト、アスナ、そしてクライン率いる《風林火山》の面々とパーティを組み、前線で軽やかに細剣(レイピア)を振るっていた。
シュシュシュンッ!
目にも留まらぬ速度で繰り出される《パラレル・スティング》。
遭遇した悪魔型のモンスターが、エメラルドグリーンの光の閃光とともに一瞬でポリゴンへと弾け飛ぶ。
「よしっ! このエリアのモンスターもバッチリだね!」
ルカはクルリと一回転して細剣を鞘に収めると、後ろを歩いていたクラインたちに向かってVサインを作ってみせた。
「おう、サンキューなルカ! 相変わらずお前の細剣は速すぎて見えねえぜ!」
クラインが豪快に笑いながら、ルカの頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。
「あはは、クラインくすぐったいよ〜! でもさ、この74層の迷宮区、すごく広くて冒険してる感じがして楽しいね!」
「お前なぁ……ここが命懸けのデスゲームじゃなけりゃ、俺も大賛成なんだがな」
苦笑するクラインの隣で、キリトとアスナも柔らかく表情を緩めていた。
どんな危険な危険地帯であっても、ルカが一人いるだけでその場の重苦しい雰囲気が嘘のように和らぐのだった。
だが、迷宮区の奥深く——広大な両開きの扉の前に辿り着いた時、その場の空気は一変した。
「ここが……ボス部屋か」
キリトが静かに扉の隙間から中を覗き込む。
薄暗い広大な小部屋の奥に鎮座していたのは、二本角を生やした青い皮膚の巨大な悪魔——第74層ボス『ザ・グリーム・アイズ(The Gleam Eyes)』であった。
背中には巨大な大剣を背負い、溢れんばかりの威圧感を放っている。
「……いかにも強そうだな。一旦引いて、血盟騎士団や他の攻略組と合流してから本格的な攻略隊を編成しよう」
キリトの判断に、全員が頷いた。
ひとまずはボス部屋の位置を記録し、引き返そうとしたその時——迷宮区の通路の奥から、荒い足音が響いてきた。
「はぁ……はぁ……! 走れ! 休むな!」
現れたのは、過激な征伐主義で知られる大型ギルド『アインクラッド解放軍(軍)』の部隊だった。指揮をとるのは、青ざめた顔で強引に部下を率いる男・コーバッツ中佐。
軍の兵士たちは著しく困憊しており、装備の耐久値も落ち込んでいた。
「待ちなさい! あなたたち、その疲労で迷宮区の奥に行く気なの!?」
アスナが慌てて制止するが、高慢なコーバッツは聞く耳を持たなかった。
「黙れ! 我々軍は、第一層から攻略組に遅れをとり続けているのだ! この74層ボスは我々が独自に撃破し、威信を示さねばならん!」
「ダメだよおじさん! そんなにみんな疲れてるのに無茶したら危ないよ!」
ルカも心配そうに身を乗り出したが、コーバッツはルカの手を払いのけ、強引にボス部屋の扉を押し開けて部隊を雪崩れ込ませてしまった。
「くそっ……! おい、みんな追うぞ!」
キリトの叫びとともに、ルカたちも急いで扉の向こうへとなだれ込んだ。
だが、そこで待っていたのは、絶望的な惨劇だった。
『ザ・グリーム・アイズ』は大剣を振り回し、踏みつけるだけで軍の兵士たちを吹っ飛ばしていく。
さらに最悪なことに、この74層のボス部屋は《転移結晶使用不可空間》に指定されていた。
「て、転移結晶が使えない……!? 」
「助けてくれぇぇぇっ!」
悲鳴と怒号が響き渡る。
コーバッツがボスの振り下ろした大剣を正面から受け止めきれずに吹き飛ばされ、HPゲージを削り切られてポリゴンとなって散華した。部隊はパニックに陥り、退路を奪われて全滅の危機に瀕していた。
そのあまりにも惨烈な光景を目撃した瞬間——。
「ダメぇぇぇぇえっ!」
アスナの理性のタガが外れた。
目の前で人が死んでいく恐怖と、抑えきれない強い怒り。アスナはキリトの制止を聞く間もなく、細剣を抜き放ち、単身で絶望のボス部屋へと跳び込んでいった。
「アスナッ!?」
「僕も行くよっ!」
アスナの背中を追いかけ、迷うことなく扉を蹴って飛び出したのはルカだった。
「アスナ一人になんて、絶対に戦わせない!」
「うああああああっ!」
激昂したアスナが、鋭い一閃《フラッシュ・ペネトレイト》でボスの巨体へと突進する。
だが、興奮状態の『ザ・グリーム・アイズ』は、振り下ろした大剣の返しでアスナを吹き飛ばそうと凶悪な腕を振るった。
「させないっ!」
シュバッ……!
ボスの大剣とアスナの間に滑り込んだのは、風となったルカだった。
ルカのアバターは、重力を完全に無視したかのような滑らかな足運びで、ボスの振り下ろす大剣の風圧すらも足場に変えるかのように、空中でしなやかに一回転。
ピキイィィィンッ!
細剣スキル《リニア》のエメラルドグリーンの光が、ボスの右目を寸分違わず穿ち抜いた。
「グオオオオオオオンッ!」
ボスが苦痛に咆哮し、ヘイトがルカへと一気に集中する。
「ルカ……!?」
「アスナ、下がって! ここはみんなで力を合わせなきゃダメだ!」
着地したルカは、いつもの太陽のような笑顔を見せた。
その瞳には、恐怖も悲痛さも一切ない。ただ、仲間を守り、この試練を乗り越えるという純粋な「意志」だけが宿っていた。
「くそっ……! おい、みんな追うぞ!」
後から追いついたキリトと、クライン率いる《風林火山》の面々も戦線に加わり、退路を奪われていた軍の兵士たちを背後に逃がしていく。
ルカの戦いぶりは、まさに神業であった。
ボスの振るう猛攻——圧倒的な質量を持つ大剣の一撃や、口から吐き出される破壊光線を、ルカは数ミリの紙一重でかわし続ける。
アバターの身体感覚に対する「意識の引っ掛かり」が一切存在しないルカだからこそできる、常人離れした回避行動。彼はボス部屋の壁を走り、天井を蹴り、まるで広大な空を自由に飛翔する鳥のように、凶悪な悪魔を翻弄していた。
「す……すごすぎる……! あんな風に動ける人間がいるのか!?」
救出された軍の兵士たちが、言葉を失ってルカの舞のような戦いを見上げる。
だが、ボスのHPがレッドゾーンに迫った時、『ザ・グリーム・アイズ』が咆哮し、予想を超えた超広範囲の薙ぎ払い攻撃を繰り出した。
ドガァァァァンッ!
「きゃああっ!」
強烈な衝撃波に吹き飛ばされ、アスナとクラインたちが激しく壁に叩きつけられる。
ルカも大剣の側面を間一髪で受け止めたものの、その巨体から繰り出される圧死級の重量に押し潰されそうになり、HPゲージが黄色(イエローゾーン)へと滑り落ちた。
「ルカっ……! アスナっ……!」
その光景を見たキリトの目が鋭く見開かれた。
「もう、絶対に……俺の大切な仲間を……死なせはしないっ!」
キリトは自らの背中に手を伸ばし、これまで誰にも見せたことのなかった二本目の剣——魔剣『ダークリパルサー』を抜き放った。
エクストラ・スキル《二刀流》。
「ルカ! 10秒だけ持ちこたえてくれ!」
「キリト……!? うん、分かった!」
ルカは痛みをみじんも感じさせない明るい笑顔で頷くと、崩れた体勢から驚異的な復元力で跳ね起き、ボスの顔面へと再び肉薄した。
「はあぁぁぁっ!」
ルカの放つ細剣の連続突きの輝きが、ボスの視界を完全に奪い去る。
そして出来上がった絶好の隙へ、漆黒の風となったキリトが乱入した。
絶叫のような二刀流16連撃スキル——《スターバースト・ストリーム》!
剣戟の嵐がボス部屋を埋め尽くす。
キリトの凄絶な連撃と、ルカの緻密で圧倒的なアシスト攻撃が完璧に噛み合い、ついに『ザ・グリーム・アイズ』の巨体は巨大な効果音とともに、膨大なポリゴンの破片となって爆散したのだった。
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『Congratulations!!』の文字が宙に浮かび上がる。
静寂が戻ったボス部屋で、軍の生存者たちがヘタリ込み、やがて命が助かったことにむせび泣いた。
「はぁ……はぁ……勝った……のか……」
キリトは二本の剣を地面に突き立て、膝をついて荒い息を吐いていた。HPゲージはレッドゾーンの極限まで削れていた。
「キリトくん! 」
アスナが駆け寄り、泣きながらキリトの身体を抱きしめる。
「あはは……! すごいよキリト! 剣が二本なんて、すっごくカッコよかったぁ!」
ルカも細剣を鞘に納めると、元気いっぱいに二人の元へと駆け寄ってきた。
その時だった。
……ツンッ
ルカの足元が、唐突に崩れた。
躓いたわけではない。トラップでもない。
ルカの膝が、まるで一瞬だけ「存在しない」かのように折れ曲がり、彼の身体が前方に大きく傾いたのだ。
「あ……れ……?」
ルカの瞳に、ごく微かな戸惑いが走る。
「ルカっ!?」
すかさず駆け寄ったキリトが、倒れそうになったルカの身体をガシッと受け止めた。
「大丈夫か、ルカ! どこか怪我でもしたのか!?」
「え? あ……うん! 大丈夫だよ! ごめんねキリト、ちょっと足がもつれちゃったみたい!」
キリトに抱きかかえられたルカは、すぐにいつもの屈託のない笑顔を作り、ぽんと自分の脚を叩いてみせた。
「ほら、全然平気! ちょっと張り切りすぎちゃったかなぁ!」
ルカは元気に立ち上がり、くるりとその場で一回転してみせる。
その姿はどこからどう見ても、元気いっぱいの明るい少年のままであった。
だが——。
ルカを支えたキリトの右手には、消えない違和感が残っていた。
(今……ルカを抱きかかえた時……)
キリトは自分の手のひらを見つめた。
アバターの体重ではない。ほんの一瞬、ルカの存在そのものが「驚くほど軽くなった」ような、奇妙な錯覚を覚えたのだ。
さらに、ルカの回避行動。
あまりにも完璧すぎる身体操作。通常の人間であれば、どれほど訓練しても「現実の肉体の感覚」という制限が存在するはずなのだ。それなのに、ルカにはそれが一切存在しない。
まるで——彼には「戻るべき現実の肉体の重み」そのものが、最初から希薄であるかのように。
(いや……考えすぎだ。ルカはただ、フルダイブの才能が飛び抜けてるだけだ)
キリトは頭を振り、過剰な邪推を打ち消した。
目の前では、ルカが閉じ込められていた他のプレイヤーたちに「大丈夫ですかー?」と明るく声をかけて回っている。
あの笑顔がある限り、自分たちは戦える。
あの明るい光がある限り、このデスゲームを絶対に攻略できるのだと、キリトは自分に言い聞かせた。
仕掛けが解除され、密室の扉が開く。
「さぁ! 早く次の階層を解放して、今回のことを知らせに戻らないとね!」
先頭に立ち、細剣を掲げて元気に走り出すルカ。
その背中は眩しく、美しく、そしてどこか切ないほどに澄み渡っていた。
自分の命の灯火が、現実世界でどのように揺らめいているのか。
この世界で得た「最高の幸せ」と「仲間との絆」を胸に、少年はただひたすらに、夢のような世界を前だけを向いて駆け抜けていくのだった。