第75層迷宮区最奥、ボスの部屋。
静寂が、重く冷たく広間に立ち込めていた。
床一面には、散華したプレイヤーたちの残り香のように、淡いポリゴンの光の粒子が力無く漂っている。
第75層ボス『ザ・スカルミリピード』。圧倒的な巨躯と絶望的な攻撃力を誇るその巨大な骨のムカデを前に、攻略組は過去最大の犠牲を払うこととなった。数多の強者たちが一瞬にして命を落とし、生き残った者たちもまた、膝をつき、肩を揺らし、荒い息を吐いている。
「勝った……のか……? 僕たちは……」
クラインが剣を床に突き立て、血の気の引いた顔で呟いた。
誰も勝利の歓声をあげない。ただ息を呑み、死への恐怖と疲弊に打ちひしがれていた。
「……ふぅ! みんな、大丈夫……!?」
その静寂を破ったのは、いつもと変わらない透明感のある声だった。
ルカだ。
白銀の細剣を鞘に収め、息を弾ませながらも、ルカは倒れ込む仲間たちのもとへ駆け寄っていた。髪は乱れ、アバターのHPゲージは黄色(イエローゾーン)まで削れているというのに、その藍色の瞳には澄んだ輝きがあり、口元には仲間を気遣う暖かな笑みが浮かんでいる。
「アスナ、大丈夫? キリトも……よかった、みんな生きてるね!」
「ええ……ルカ……あなたのおかげよ。あなたがボスの足止めをしてくれなかったら、もっと多くの犠牲が出ていたわ……」
アスナは震える手でルカの腕を抱きしめた。
ボス戦中、暴れ回るスカルミリピードの猛攻の中へ突入し、死角からの精密な連続スキルで敵の巨体を固定し続けたのはルカだった。彼の人間離れした空間把握と、恐れを知らないアバター操作がなければ、攻略組は全滅していたかもしれない。
「ううん、みんなで力を合わせたから勝てたんだよ! さぁ、街に戻って体を休めよう!」
ルカはいつも通り、太陽のような笑顔でアスナの背中を撫でた。
だが——。
その輪から少し離れた場所で、ただ一人、異様な殺気を纏って佇む男がいた。
黒の剣士、キリトである。
キリトの視線は、ルカでもアスナでもなく、攻略組の総指揮をとっていた男——血盟騎士団団長、『神聖騎士』ヒースクリフに向けられていた。
ヒースクリフは十字盾を手に、乱れ一つない姿で静かに立っていた。75層ボスの凄惨な猛攻を正面から受け止め続けたにもかかわらず、彼のHPゲージはグリーンゾーンの半分すら割っていない。
「……キリト君? どうしたんだい、そんな目で見つめて」
ヒースクリフが静かに問う。
キリトは無言のまま、背中の片手剣に手をかけた。
「キリト……?」
アスナが困惑の声をあげる。
「おかしいと思ってたんだ……」
キリトの声は冷たく、低く響いた。
「この世界の最初から、僕たちがどれだけ死に物狂いで成長しても、絶対に届かない領域にいる存在。防御の完璧さだけじゃない。システムの限界を超えるような反応速度……いや、システムそのものが彼を守っているかのような違和感」
キリトは突如、ヒースクリフに向かって踏み込み、閃光のような一撃を繰り出した。
ガァァンッ!
衝撃音が轟く。
だが、ヒースクリフの頭上に表示されたのは、ダメージ数値ではなく、色鮮やかな紫色のシステム警告——『Immortal Object(不死属性オブジェクト)』の文字だった。
「「「なっ……!?」」」
周囲のプレイヤーたちから、悲鳴にも似た息を呑む音が漏れた。
「システムによって保護された不可侵の存在……。この世界でそんな権限を持っている人間は、一人しかいない」
キリトは剣を構えたまま、憎しみを込めてその名を呼んだ。
「……茅場晶彦」
静寂が場を支配した。
ヒースクリフ——茅場晶彦は、深いため息を一つ吐くと、頭上の『Immortal Object』の警告をシステム操作で消去した。
「……見事だ、キリト君。まさかこんな形で正体を見破られるとは思っていなかったよ」
「茅場だとぉ……!? アンタ、俺たちを騙して……最初から俺たちの苦しむ姿を見て楽しんでいたっつーのかよ!?」
クラインが怒号をあげ、武器を構える。血盟騎士団の団員たちも、信じられないものを見る目で己の団長を見つめていた。
茅場は穏やかな表情のまま、淡々と告げた。
「私は100層で、諸君を待つ最後のボスとなる予定だった。だが、ここで見破られた以上、ルールを変更せざるを得ない。……キリト君、私と一対一のデュエルをしよう。君が私を倒せば、このゲームは即座にクリアとなり、すべての生き残ったプレイヤーはログアウトできる」
「なんだって……!?」
「ただし、私が勝てば……攻略はここで潰える。どうするね?」
究極の選択。
100層までの残り25層を戦い抜く絶望と、今ここで世界の創造主を倒して全員で帰還するチャンス。
キリトの手に、じっとりと嫌な汗が滲む。
その時だった。
「待って」
すっと、キリトの前に踊り出た人物がいた。
透き通るような金髪を揺らし、華奢な背中でキリトを庇うように立った少年。
「ルカ……!?」
ルカは白銀の細剣を静かに抜き放つと、ヒースクリフ——茅場晶彦に向かってまっすぐに剣先を向けた。
その顔には、怒りや憎しみはない。いつもの、どこか清々しく、明るい瞳のままであった。
「その勝負……僕にやらせてくれないかな、茅場さん」
「ルカ!? 何を言ってるんだ、相手はゲームマスターだぞ! 馬鹿な真似は——」
キリトが叫ぶが、ルカは振り返り、悪戯っぽく笑ってみせた。
「大丈夫だよ、キリト。だって……僕が一番、この世界で自由に体を動かせるんだから。僕なら、茅場さんに勝てるよ」
その声には恐ろしいほどの確信と、一切の迷いがなかった。
茅場晶彦は、細剣を構えるルカの姿をじっと見つめた。
その深邃な瞳に、微かな追憶と、奇妙な敬意の光が宿る。
「……やはり、君は面白いな。『走破者』ルカ」
茅場は静かに首を振ると、システムウィンドウを操作し始めた。
「君のアバターの動きは、最初から異常だった。SAOのフルダイブシステムは、現実の脳波をスキャニングし、感覚フィードバックを行う。通常の人間は、現実の肉体の『重み』や『感覚の記憶』という強い枷に縛られ、仮想体との間に必ずズレが生じる」
茅場の手元に、ルカのプレイヤーデータと思われるシステムパラメータが浮かび上がる。
「だが……君にはその『枷』が一切存在しなかった。まるで、最初から現実の肉体など脱ぎ捨ててきたかのように。……私は気になってね。君のプレイヤーIDに紐付けされているナーヴギアのシリアルナンバーを確認させてもらったのだが……どうにも私が医療機関へ譲渡した医療用ナーヴギアであったのだから驚いた。医療用ナーヴギアは治験目的のため、利用者の詳細なデータがすべて登録されているからね、彼の事情は全て把握できたよ」
「ちょっと待ちなさい! 何を勝手なことを……!それに、医療用って…」
アスナが叫ぶ。
しかし、茅場は静かに、そして残酷なまでの事実を言葉にした。
「少年の名は、狭間ルカ。SAO開始時点では14歳。……そして、11歳の頃に発症した、進行性の難病を抱える末期患者だ」
「……え?」
キリトの思考が停止した。
アスナも、クラインも、その場にいた全員が息を止めた。
「病状は絶望的で、彼はここ3年間、現実世界ではずっと入院したままだった。自力で歩くのもままならず、毎日毎日ただ病室のベッドの上で、日に日に衰弱していく己の肉体を自覚するだけの試練を強いられていた」
茅場の声が、静かな広間に朗々と響く。
「病院側も治療の見込みがなく、日に日に病に蝕まれていく彼を見かねて、医療用ナーヴギアを用いた終末治療を提案した。彼がSAOにログインしたのは、ただ一つ……『かつてのように、自分の足で自由に走り回りたい』という、叶わぬ夢を叶えるためだ。彼がこの世界で見せた圧倒的な身体操作能力……それは天才的な才能などではない。現実の肉体が完全に死に体であったからこそ、脳が一切の肉体的未練を捨て、仮想体へと100%適応した結果なのだよ」
「な……んだって……?」
クラインの声が震えていた。
キリトはルカの背中を見つめた。
あんなにも明るく、あんなにも眩しく、自分たちを引っ張ってくれた少年。
「走れるのが嬉しい」「動けるのが楽しい」と無邪気に笑っていたあの言葉の裏に存在していた、あまりにも残酷な現実。
(だから……だからルカの動きには『重み』がなかったんだ……! 現実の体が……動きようがないほど衰弱していたから……!)
キリトの目から、溢れ出るものを止められなかった。
だが、茅場のアナウンスはそれだけでは終わらなかった。
「そして……さらに悲しい知らせがある」
茅場はルカのシステムログを悲しげに見つめた。
「フルダイブ中も、もちろん彼の現実の肉体の衰弱は止まっていなかった。……いや、デスゲームの過酷なプレッシャーと、SAO内での過度な運動負荷によって、彼のリアルのバイタルはすでに限界を迎えている」
「……限界って……どういうことだ……!?」
「仮に……今ここで私が敗北し、このSAOがクリアされて全員がログアウトしたとしても……彼の現実の肉体は、すでに生命維持装置の限界を超えている。今なお彼がゲームをプレイできているのは、ひとえにナーヴギアに備わった最低限の生命維持機能による補助あってこそだ。……彼がログアウトした先に待っているのは、回復の未来ではない。ほぼ即座に訪れる、現実の『死』だ」
「「「!!!!」」」
絶叫のような沈黙が攻略組を襲った。
「嘘だ……嘘だろルカぁっ!?」
クラインが頭を抱えて泣き叫ぶ。
アスナは口を手で覆い、その場に崩れ落ちた。涙がボロボロと溢れ落ち、床を濡らしていく。
「そんな……そんなのってないわ……! ルカは……ルカはあんなに楽しそうに……あんなに頑張って生きようとしていたのに……っ!」
クリアしても、助からない。
ログアウトした瞬間に、死が待っている。
これ以上の絶望が、この世にあるだろうか。
仲間たちが激しい絶望と悲しみに打ちひしがれる中——。
当事者であるルカは、静かに振り返った。
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ルカの顔には、涙も、絶望も、諦めもなかった。
そこにあったのは、これまでと全く変わらない、どこまでも透き通った、太陽のような笑顔だった。
「……あはは。バレちゃったかぁ」
ルカは可愛らしく頭をかいた。
「ごめんね、みんな。黙ってて。……でもさ、僕、嘘はついてないよ?」
ルカはキリトとアスナの元へ歩み寄ると、二人の前にしゃがみ込み、涙で濡れた二人の手を優しく握りしめた。
「僕ね、病気になってから、ずっとずっと辛かったんだ。まともに動かない体を見つめて、ただ死が来るのを待つだけだった。……でも、この世界に来て、みんなに出会えた。自分の足で風を切って走れて、キリトやアスナと笑い合えて……僕の人生で一番輝いていたのは、紛れもなく、このSAOの中での毎日だったんだよ」
ルカの藍色の瞳が、温かな光を湛えて二人を見つめる。
「だから……悲しまないで。僕は不幸なんかじゃない。こんなにも素敵な世界で、こんなにも大好きな仲間と出会えて……僕は、最高に幸せだったんだ」
「ルカ……ルカぁっ……!」
アスナがルカの身体を強く抱きしめる。
ルカはアスナの背中をポンポンと優しく叩くと、ゆっくりと立ち上がり、再びヒースクリフ——茅場晶彦に向かって向き直った。
その華奢な背中に、迷いは一切なかった。
「茅場さん。僕に……最後の勝負をさせて」
「ルカ君……。君は、自分の命がもうすぐ尽きると知ってもなお、戦うのかね?」
「うん!」
ルカは細剣を高く掲げ、眩いばかりの構えをとった。
「だって、僕は攻略組の剣士、『走破者』ルカだからね! みんなをここから現実へ帰すのが、僕の最後の仕事だから!」
絶望を跳ね返し、死の運命すらも笑顔で抱きしめて前を向く少年。
その姿は、あまりにも美しく、あまりにも神々しかった。
キリトは涙を拭い、立ち上がった。
「ルカ……頼む……俺も一緒に——」
「ううん、キリト」
ルカは振り向かず、手だけでキリトを制した。
「キリトは、アスナたちと一緒に見届けてて。……僕の、最後の『走り』をさ!」
ルカの細剣が、これまでで最も眩い、圧倒的なエメラルドグリーンの光を放ち始める。
アインクラッド75層の最奥で、少年の命のすべてを賭けた、最後のデュエルが始まろうとしていた。