関話 1 血塗られた手、優しい瞳
帝江号へ帰還した管理人は、ペリカに報告と今後の指示を託すと、自室のベッドに倒れ込んだ。アドレナリンが切れ、隠し通していた全身の痛みが、津波のように彼を襲う。
だが、肉体の痛み以上に、彼の心を苛むものがあった。それは、蘇ってしまった「過去」の記憶だった。
――目を閉じると、鮮明に蘇る。まだ幼かった自分と、厳しくもどこか悲しげな瞳をした祖父の姿が。
管理人の家は、少しだけ特殊だった。母方の家系は、どこにでもあるような平凡で温かい家族。しかし、父方の家系は違った。
古来より、ある特殊な「技術」を継承してきた一族。それは、影に潜み、音もなく標的を仕留めるための、暗殺の技。歴史の裏側で、数多の血を流してきた一族だった。
だが、管理人の父は、その血塗られた宿命を嫌い、一族を抜けて母と結ばれた。息子には、決して自分たちのような道を歩ませないと、固く誓っていた。
管理人は、そんな父の愛情のもと、ごく普通の子供として、何の憂いもなく育っていた。友達とゲームに興じ、将来の夢を語り合う。
そんな、ありふれた幸せな日々が永遠に続くものだと、彼は信じて疑わなかった。
その日常が、唐突に終わりを告げたのは、彼がまだ小学校に上がったばかりの頃だった。
ある日、何の前触れもなく、父ですら滅多に顔を合わせないという祖父が、ふらりと家に現れたのだ。
古武士のような厳つい顔つき、だがその瞳の奥には深い悲しみを湛えた祖父は、管理人を一瞥すると、父に向かって静かに、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。
「お前の息子、すまんが訳あって鍛えることになった。悪いが、これは確定事項じゃ」
突然の言葉に、父は激昂した。
「な、何を言っているんです、父さん! この子には、俺たちのような生き方はさせないと誓ったはずだ!」
父は、必死に抵抗した。だが、祖父の決意は揺るがなかった。彼は、深く頭を下げ、声を絞り出すように言った。
「そやつのためじゃ…わしも本当は今からさせることはしとうない。
だが、このままではそやつは遠くない未来、確実に死に至る。それまでに、生き抜くための牙をくれてやる必要があるのじゃ。
悪いが理由は言えん…じゃが、そやつのためじゃ…頼む」
父は、祖父の言葉の裏にある、決して語られることのない何かを察したのだろう。彼は、肩を落とし、わなわなと震える拳を握りしめたまま、押し黙ってしまった。
そして、まだ幼い息子の顔を見て、静かに涙を流した。その日から、管理人の地獄とも言える日々が始まった。
走り込み、筋力トレーニングは序の口。古武術を基礎とした体術、ナイフやワイヤーといった道具を用いた暗殺術、気配の消し方、敵の心理の読み方。
祖父は、管理人から「子供」という時間を奪い、彼を完璧な「戦闘機械」へと作り変えようとした。
弱音は吐かなかった。吐けなかった。父の涙を見たからだ。祖父の悲しい瞳を見たからだ。
自分は、何か途方もない運命に巻き込まれているのだと、幼心に理解していた。
だから、ただひたすらに、血反吐を吐きながらも訓練に耐え続けた。ゲームが好きだった少年は、いつしか現実(リアル)の戦場で生き抜く術を、その身体に刻み込んでいった。
そして、彼が高校生になった、ある日。
「あの出来事」は起きた。
高校二年生の夏休み。同級生たちが受験勉強や部活動、あるいは淡い恋に胸を焦がしていた頃、管理人はパスポートと数種類の身分証明書、そして一本のコンバットナイフだけを渡され、祖父と共に空港の国際線ターミナルに立っていた。
行き先は、ニュースで名前を聞くことすらないような、中東の紛争地帯だった。
「ここからは、わしとお前は赤の他人じゃ。わしはただのガイド、お前は写真を撮りに来たフリーのジャーナリスト見習い。いいな?」
管理人は、無言で頷いた。もう、何を聞いても驚きはしなかった。彼の日常は、とっくの昔に壊れていたからだ。
学校では「物静かで、少し影のある優等生」を演じ、家に帰れば人殺しの技術を叩き込まれる。そんな二重生活にも、彼は順応してしまっていた。
飛行機を幾度も乗り継ぎ、最後はオンボロのセスナで揺られ、たどり着いたのは、乾いた風と砂埃が舞う、見渡す限りの荒野だった。
空気は熱く、死の匂いがした。祖父に連れられて向かったのは、国連やどのNPOの管轄からも外れた、忘れ去られたような難民キャンプだった。そこは、地獄の縮図のような場所だった。
痩せこけた人々が、力ない目で空を見上げている。満足な水も食料もなく、衛生環境は劣悪を極めていた…
だが、それでも人々は生きていた。瓦礫の中から食料を探し出し、乏しい水を分け合い、寄り添い合って夜の寒さを凌いでいた。管理人は、生まれて初めて「飢え」というものを目の当たりにした。
画面の向こう側の出来事だった貧困が、生々しい現実として彼の目の前に突きつけられた。
管理人は、祖父に言われた通り『ジャーナリスト見習い』として、彼らの生活を記録し始めた。
最初は、ただ機械的にシャッターを切るだけだった。だが、ファインダー越しに彼らの日常を見つめ続けるうち、管理人の心に微かな変化が生まれ始めていた。
特に、子供たちの姿は、彼の心を強く揺さぶった。大人たちが生きる気力さえ失いかけている中で、子供たちは驚くほどたくましかった。埃まみれの顔で笑い、ガラクタを寄せ集めて作ったおもちゃで遊び、時には管理人のような異邦人にも、屈託のない笑顔を向けてきた。
ある日、管理人は一人の少年に出会った。歳は十歳くらいだろうか。片足を引きずり、右目には痛々しい傷跡があった。だが、彼の左目は、夜空の星のようにキラキラと輝いていた。
少年は、管理人が持っていた日本製のペットボトルのキャップに興味を示した。管理人がそれを差し出すと、少年は宝物のように大切そうに受け取り、満面の笑みを浮かべた。
言葉は通じない。だが、その笑顔だけで、二人の間には確かな絆のようなものが生まれた気がした。
少年は、管理人を自分の「秘密基地」へと案内してくれた。それは、崩れかけた建物の地下にある、小さな空間だった。
そこには、少年が集めたガラクタ――錆びた歯車、割れたガラス瓶、ボロボロになった雑誌――が、まるで宝物のように並べられていた。少年は、身振り手振りで、いつかこのガラクタを使って「空飛ぶ機械」を作り、この地獄から抜け出すのだと、管理人に熱く語った。
その瞳は、絶望的な状況下にあっても、未来を信じて疑わない、強い光に満ちていた。
管理人は、その日から、少年と多くの時間を過ごすようになった。なけなしのレーションを分け与え、日本語を少しだけ教え、そして、彼の「夢」の話に耳を傾けた。
少年の存在は、管理人の中で凍り付いていた何かを、少しずつ溶かしていくようだった。
この子を守りたい。この子の夢を、笑顔を、未来を、奪わせてはいけない。そんな感情が、初めて彼の心に芽生えた。それは、祖父に教え込まれた「任務」や「標的」といった概念とは全く異なる、温かく、そして力強い衝動だった。
だが、そんな穏やかな日々は、長くは続かなかった…
ある夜のことだった。遠くで聞こえる銃声が、徐々にキャンプに近づいてくる。管理人と祖父は、物陰に身を潜め、息を殺して状況を窺っていた。
武装した男たちが乗ったテクニカルが、土煙を上げてキャンプに突入してきたのだ。
彼らは、政府軍でも反政府ゲリラでもない、ただの略奪者だった。食料、水、金目のもの、そして「人」。彼らは、キャンプに残されたわずかな資源を、根こそぎ奪い去ろうとしていた。
悲鳴と怒号、そして無慈悲な銃声が、夜の静寂を引き裂く。抵抗しようとした者は容赦なく撃ち殺され、女や子供たちは商品のように荷台へと放り込まれていく。それは、虐殺であり、人狩りだった。
管理人の身体が、怒りと恐怖で震えた。
(助けなければ…)
あの少年は無事なのか。だが、隣にいる祖父は、石のように動かなかった。
「動くな。これは、お前の戦いではない」
氷のように冷たい声だった。管理人は、祖父を睨みつけた。
「で、でも…!みんなが…!」
祖父は首を振り、管理人の瞳を見つめる。
「お前一人が飛び出して何になる。お前がこれまで学んだ技術は、集団を相手にするためのものではない。一対一、あるいは少数を、確実に仕留めるためのものじゃ。
今のお前では、飛び出した瞬間に蜂の巣にされて終わりじゃ」
正論だった。だが、管理人の心は納得できなかった。
目の前で、自分が少しだけ心を通わせた人々が、虫ケラのように殺されていく。あの、キラキラした瞳の少年はどこだ…無事でいてくれ…管理人は、祈るような気持ちで、暗闇に目を凝らした。
その時だった。管理人の視界の端に、見覚えのある小さな影が映った。あの少年だった。彼は、瓦礫の山に隠れ、息を殺していた。だが、略奪者の一人が、彼の母親らしき女性の髪を掴み、無理やりトラックの荷台へ引きずっていこうとしていた。それを見た瞬間、少年は、恐怖を忘れて瓦礫の山から飛び出した。
「ママ!」
小さな体で、略奪者の足に必死にしがみつく。だが、男は煩わしげに少年を蹴り飛ばし、ライフルの銃口を向けた。
――やめろ。
管理人の思考が、停止した。身体が、勝手に動いていた。
祖父の制止の声が、遠くに聞こえる。だが、もう止まれなかった。彼が今まで叩き込まれてきた全ての技術――気配の消し方、最短距離を駆け抜ける歩法、そして、一撃で人の命を奪うための動き――その全てが、無意識のうちに最適化され、地を這うように駆ける。
管理人は、影から影へと音もなく移動し、少年に銃口を向けた男の背後に、幽霊のように現れた。
そして、躊躇なく、懐のコンバットナイフを男の首筋に深々と突き立てた。
手応えは…なかった。まるで、熟れた果実に刃を突き立てるかのように、抵抗なく肉と骨を断ち切る感触だけが、手に残った。男は、声も上げられずに崩れ落ちる。
これが、管理人が初めて、自分の意志で人を殺した瞬間だった。
だが、感傷に浸る暇はなかった。仲間を殺された略奪者たちが、一斉に管理人に銃口を向ける。絶体絶命。
だが、その時、管理人の背後から、もう一つの影が舞った。祖父だった。
「…愚か者めが。だが、覚悟は見た。死ぬなよ」
祖父は、管理人が今まで一度も見たことのない、本気の動きを見せた。それは、もはや人間の動きではなかった。
まるで、風のように敵の間をすり抜け、触れる者全てを、一撃で無力化していく。それは、管理人が学んできた技術の、遥か高みにある「完成形」だった。
管理人と祖父、たった二人で、十数人の武装した略奪者を相手に、死闘が始まった。管理人は、祖父の動きに必死で食らいつきながら、一人、また一人と敵を倒していく。人を殺すことに、もう何の躊躇もなかった。
あるのはただ、あの少年と、その母親を守るという、たった一つの目的だけだった。
どれくらいの時間が経っただろうか…最後の略奪者が倒れた時、キャンプには死体と硝煙の匂いだけが残されていた。管理人は、返り血を全身に浴び、荒い息を繰り返していた。
手にしたナイフは、血でぬめり、冷たい鉄の匂いが鼻をついた。
その時、管理人の近くに、先程の女性が近づいて来る。
「…ありがとう」
少年の母親が、涙ながらに管理人に駆け寄り、その足元にひざまずこうとした。管理人は、慌てて彼女を支える。
彼女の震える手は、管理人の血塗られた手を、まるで宝物に触れるかのように、そっと握りしめた。
その温かさが、管理人にはひどく場違いなものに感じられた。
「ママ…」
呆然と立ち尽くしていた少年が、母親の元へ駆け寄る。母子は、お互いの無事を確かめるように、固く抱き合った。
その光景を、管理人はただ、ぼんやりと見つめていた。
自分は、この二人を守れた。その事実は、彼の胸に小さな灯りをともした…だが、同時に、足元に転がる死体と、手に残る生々しい感触が、その灯りを打ち消そうとする。
「よくやった」
いつの間にか隣に立っていた祖父が、静かに言った。その声には、いつもの厳しさも、非難の色もなかった。
ただ、深い疲労と、ほんの少しの安堵が滲んでいた。
「これが、お前が選んだ道じゃ。人を守るということは、時に、他の誰かの命を奪うことでもある。この重さを、生涯忘れるな」
祖父は、管理人の肩をぽん、と一度だけ叩くと、キャンプの生存者たちの手当てを始めた。その背中を見ながら、管理人は改めて自分の手を見下ろした。
血と泥に汚れ、小刻みに震えている。この手で、人を殺した。この手で、人を守った。矛盾した二つの事実が、彼の内で渦を巻いていた。
少年が、おずおずと管理人に近づいてきた。そして、彼が大切にしていた、錆びた歯車を管理人の手に握らせた。
「…」
少年は何も言わなかった。だが、そのキラキラと輝く瞳は、どんな言葉よりも雄弁に、感謝の気持ちを伝えていた。管理人は、その歯車を強く握りしめた。冷たく、硬い金属の感触。それは、自分が奪った命の重さであり、守りきった命の温かさでもあった。
その夜、管理人は眠れなかった。戦闘の高揚感が去った後、彼を襲ったのは、激しい自己嫌悪と、自分が犯した罪の重さだった。祖父の言った通り、人を守るために、人を殺した。だが、それは本当に正しかったのだろうか。
もっと、他の方法はなかったのか。答えの出ない問いが、彼の頭の中をぐるぐると回り続ける。
彼は、祖父が眠っているのを確認すると、そっとキャンプを抜け出した。月明かりに照らされた荒野を、当てもなく彷徨う。そして、小高い丘の上で、彼は足を止めた。眼下には、静まり返った難民キャンプが広がっている。
そして、その向こうには、彼が育った「平和な国」とは全く異なる、暴力と死が支配する世界が、どこまでも続いていた。
管理人は、膝を抱えて座り込んだ。この戦場に、自分を連れてきた祖父の真意。
遠くない未来に、自分は確実に死に至る、と言った言葉の意味。少しだけ、分かった気がした。
この世界は、理不尽だ。正義も悪もない。ただ、力を持つ者が、持たない者から全てを奪う。そんな不条理が、まかり通っている。
そんな世界で、ゲームのように「リセット」も「やり直し」もきかない現実で、大切なものを守りながら生き抜くためには、自らもまた、その理不尽な力を持つしかないのだ。
そのために、祖父は自分を鍛えた。感情を殺し、人を殺すための機械になるように。だが、皮肉なことに、管理人が初めて自分の意志でその力を使ったのは、守りたいという「感情」のためだった。
(じいちゃん…あんたは、俺にどうなってほしかったんだ…?)
答えは、風の中だった。彼は、夜が明けるまで、ただ一人、その丘の上で座り続けていた。
赤い砂と、冷たい鉄の匂いが、彼の記憶に深く、深く刻み込まれた。この夏、少年は、大人になった。
いや、人としての何かを失い、代わりに「修羅」としての覚悟を、その心に宿したのかもしれない。
彼の住んでいた世界は私たちの世界よりもちょっと治安が悪いことになっており、こういった技術の継承は消えておりません。
もう1話だけ続くんじゃ
本文の長さアンケートです
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このままでちょうどいい!
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あのぉもうちょっと短くできませんかねぇ…
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たまには長くやってもいいのよ。