中東での最初の実戦を終えた後、管理人と祖父の「旅」は終わらなかった。むしろ、それは始まりに過ぎなかった。
夏休みという短い期間が終わると、管理人は再び『日本の高校生』という仮面を被り、日常へと戻った。
だが、その日常は、以前とは全く色の違うものに見えた。友人の他愛ない会話も、教師の退屈な授業も、全てが遠い世界の出来事のように感じられた…
彼の心は、常にあの赤い砂と鉄の匂いが支配する、非日常の戦場にあった。
長期休暇の度に、祖父は管理人を新たな『現場』へと連れ出した。
東南アジアのジャングル、南米の麻薬カルテルが支配する街、東欧の凍てつく雪原。ジャーナリスト、医療ボランティア、時には傭兵の一団に紛れ込み、二人は身分と名前を変えながら、世界の裏側を渡り歩いた。
管理人は、そこで数え切れないほどの『死』を見た。
病で死ぬ者、飢えで死ぬ者、そして、暴力によって命を奪われる者。
彼は、その度に人を殺めた。時には任務として、時には仲間を守るため、そして時には、ただ生き延びるためだけに。
最初の実戦で感じた罪悪感や葛藤は、繰り返される死と暴力の中で、徐々に麻痺していった。
彼の心は、これ以上の痛みを感じないように、厚い氷の壁で覆われていった。
彼は、孤独だった…学校の友人たちに、自分の経験を話すことはできない。
父や母にも、心配をかけたくなくて、何も言えなかった。唯一、全てを知る祖父は、多くを語らなかった。
ただ、管理人の背中を見つめ、時折
「死ぬなよ」
とだけ呟く。その言葉だけが、彼を繋ぎとめる唯一の絆だった。
彼は、自らを『孤独な狼』だと考えるようになった。群れをなさず、誰とも深く関わらず、ただ己の牙と爪だけを頼りに、この理不尽な世界を生き抜いていく。
それが、自分の宿命なのだと。もう、誰かを守りたいなどという、甘い感傷は捨てたつもりだった。
中東の少年から貰った錆びた歯車も、いつしか彼のポーチの奥底で、忘れ去られていた。
そして、高校三年生の冬。大学受験を間近に控えたある日、祖父は管理人を呼び出し、静かに告げた。
「これが、最後の試験じゃ」
今回の舞台は、アフリカの小国だった。ダイヤモンドの利権を巡り、政府軍と反政府武装勢力の泥沼の内戦が、十数年も続いている国。
祖父が管理人に課した『最後の試験』。それは、反政府武装勢力の中でも特に過激で、数々の残虐行為で知られる組織の、山岳地帯にある拠点の一つを、たった一人で『無力化』してこい、というものだった。
「装備は、お前がいつも使っているナイフ一本。現地での調達は、お前の才覚次第じゃ。
わしは、麓の村で待っておる。三日以内に戻ってこなければ、お前は死んだものと見なす。…いいな?」
それは、もはや「試験」などという生易しいものではなかった。事実上の、処刑宣告に等しい。敵の数は、最低でも五十人以上。重火器で武装し、地の利もある。
対する自分は、ナイフ一本。常識で考えれば、生きて帰れる確率はゼロに等しい。
だが、管理人の心は、不思議なほどに静かだった。恐怖も、絶望もなかった。ただ、ようやくこの終わりのない地獄から解放されるのかもしれない、という奇妙な安堵感があった。
彼は、祖父の目を真っ直ぐに見つめ、一言だけ答えた。
「…わかった」
祖父は、何も言わずに管理人の背中を押した。それが、最後の合図だった。
管理人は、夜の闇に紛れて山に分け入った。彼の五感は、極限まで研ぎ澄まされていた。風の音、草の匂い、土の感触。森羅万象すべてが、彼に敵の位置と、進むべき道を教えてくれる。これまでの戦場で培ってきた、全ての知識と技術を総動員する。
彼は、もはや人ではなかった。森に溶け込み、敵を狩る、一匹の獣だった。
最初の哨兵は、音もなく背後から忍び寄り、喉を掻き切った。悲鳴を上げる間も与えない。
二人目の敵は、その死体に気づいて駆け寄ってきたところを、奪ったライフルで正確に眉間を撃ち抜いた。
一発の銃声が、静かな山に響き渡る。
だが、それは敵の警戒心を煽るための、意図的なものだった。
パニックに陥った敵が、無闇に発砲し、互いの位置を知らせてくれる。管理人は、その混乱の音を道標に、闇の中を幽鬼のように駆け巡った。
ワイヤートラップを仕掛け、敵の足を止め、手製の爆弾で敵の集団を混乱させる。
奪った武器で次々と敵を屠り、弾が切れれば、その武器自体を鈍器として振るい、敵の頭蓋を砕く。
彼の動きに、一切の無駄も躊躇もなかった。それは、もはや戦闘ではなく、一方的な『狩り』だった。感情は、ない。
ただ、祖父に課された試験をクリアするという、冷徹な目的意識だけが彼を動かしていた。
次々と仲間が殺されていく恐怖に、武装勢力の兵士たちは完全に統制を失っていた。
彼らは、暗闇に潜む正体不明の『何か』に怯え、味方同士で銃を向け合う者さえ現れ始めた。
管理人は、その混乱の中心で、静かに次の獲物を探していた。彼は、敵の指揮官がいるであろう、最も警備の厳重な建物へと、音もなく侵入していく。
建物の中は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。管理人は、物陰から物陰へと飛び移りながら、着実に指揮官の部屋へと近づいていく。
そして、最後の扉の前で、彼は深く息を吸った。扉を蹴破ると同時に、中にいた数人の護衛を瞬時に射殺する。部屋の奥では、初老の男が、震えながら拳銃を構えていた。彼が、この拠点の指揮官だった。
男は、何かを叫びながら、管理人に向かって乱射する。だが、その弾丸は、管理人の身体を掠めることすらなかった。管理人は、銃弾の雨の中を、まるで踊るように掻い潜り、一瞬で男との距離を詰めた。
そして、空になったライフルを捨て、男の拳銃を握る腕を掴み、捻り上げる。
カラン、と乾いた音を立てて、拳銃が床に落ちた。
「ひっ…!お、お前は一体、何者だ…!悪魔か…!」
男は、恐怖に顔を引きつらせながら、命乞いをする。だが、管理人の瞳には、何の感情も映っていなかった。
彼は、ただ、任務を遂行するだけの機械だった。管理人は、男の命乞いを無視し、懐のナイフを抜き放った。
「…」
その時だった。管理人の脳裏に、ふと、あのキラキラした瞳の少年の顔が浮かんだ。中東の、埃っぽい難民キャンプで出会った、あの少年の笑顔。彼の夢。そして、彼を守るために、初めて人を殺した時の、あの感触。
――お前が選んだ道じゃ。この重さを、生涯忘れるな。
祖父の言葉が、蘇る。自分は、一体何をしているのだろう。こんなことを続けるために、自分は生き延びてきたのだろうか。
守りたいものを守るために手に入れた力で、ただ、言われるがままに人を殺し続ける。そんなものが、自分の望んだ道だったのか。
管理人の動きが、ほんの一瞬、止まった。その隙を、指揮官は見逃さなかった。彼は、最後の力を振り絞り、足元に隠していたデリンジャーを抜き、管理人の腹部に撃ち込んだ。
「ぐっ…!」
至近距離から放たれた銃弾が、管理人の腹を抉る。激痛が、全身を駆け巡った。だが、管理人は倒れなかった。
彼は、信じられないという顔で見下ろす指揮官を睨みつけ、その胸に、深々とナイフを突き立てた。
「…がはっ…」
男は、短い呻き声を残して、絶命した。管理人は、腹部から血を流しながら、よろよろと壁に寄りかかった。
これで、任務は完了した。だが、彼の心に、達成感は微塵もなかった。あるのはただ、虚しさと、腹部の焼け付くような痛みだけだった。
彼は、ふらつく足取りで、建物の外に出た。東の空が、白み始めていた。
夜の間に降り積もった死の静寂を破るように、鳥のさえずりが聞こえる。それは、あまりにも場違いで、平和な音だった。
管理人は、自分が作り出した死体の山を見下ろした。血の匂いと、硝煙の匂いが混じり合い、むせ返るような悪臭を放っている。
(…終わったのか…?これで…)
腹部の傷口を押さえながら、彼は山を下り始めた。意識が朦朧とする。一歩踏み出すごとに、激痛が走り、視界が赤く染まる。それでも、彼は足を止めなかった。
祖父が待つ、麓の村へ。約束の三日には、まだ時間がある。だが、彼は、一刻も早く、この場所から離れたかった。
どれくらい歩いただろうか。麓の村の明かりが見えてきた時、彼の足は、ついに限界を迎え、もつれた。
彼は、地面に倒れ込み、そのまま動けなくなった。遠のいていく意識の中で、彼は一人の老人が、慌てた様子で自分に駆け寄ってくるのを見た。
「…馬鹿者が。本当にやり遂げるとは…」
それは、祖父の声だった。その声には、驚きと、安堵と、そして、ほんの少しの誇りのような色が混じっていた。
管理人が次に目を覚ました時、彼は見慣れない天井の下で、清潔なベッドに寝かされていた。腹部には、包帯が巻かれている。傷は、丁寧に手当てされていた。
「目が覚めたか」
ベッドの脇に座っていた祖父が、静かに声をかけた。
「…試験は…?」
「合格じゃ。…お前は、わしの想像を、遥かに超えていきおった」
祖父は、そう言うと、深く息を吐いた。その表情は、ひどく疲れているように見えた。
「もう、お前に教えることは何もない。これからは、お前自身の道を行け。わしが与えた力で、何を成すのも、お前の自由じゃ。だが、忘れるな。その力は、人を殺すためだけのものではない」
祖父は、立ち上がると、管理人に背を向けた。
「わしは、もう行く。お前には、もう二度と会うことはないだろう。…達者でな」
それが、管理人が祖父から聞いた、最後の言葉だった。彼は、一度も振り返ることなく、部屋を出て行った。管理人は、去っていく祖父の背中を、ただ、ぼんやりと見送ることしかできなかった。
こうして、管理人の地獄のような修行の日々は、終わりを告げた。彼は、日本に帰り、何事もなかったかのように、再び『普通の高校生』としての生活に戻った。
だが、彼の内面は、決して元には戻らなかった。彼は、世界中の誰よりも多くの『死』を知り、誰よりも多くの『生』を奪った、18歳の少年になっていた。
彼は、大学には行かず、高校を卒業すると、家を出た。そして、これまでの経験で得た知識と偽造IDを使い、ゲーマーとして、バーチャルな世界に没頭するようになった。
もう、誰も傷つけたくなかった。誰の命も、奪いたくなかった。
血と硝煙の匂いから逃れるように、彼は、データと光が作り出す、虚構の世界へと逃げ込んだのだ。
この、エンドフィールドの世界で目覚めるまで…
――腹部に走る、焼けるような痛み。銃声。鉄と血の匂い。遠ざかる祖父の背中。
断片的な悪夢が、管理人の意識を揺さぶる。ヴォルフガングとの戦いで無理やりこじ開けられた『過去』の蓋は、眠りという無防備な時間の中で、彼が最も忘れたい記憶の数々を奔流のように溢れさせていた。
「…っ!」
管理人は、自室のベッドから勢いよく身体を起こした。全身は汗でぐっしょりと濡れ、心臓が警鐘のように激しく鳴り響いている。
窓の外は、タロⅡのどこか物悲しい太陽が昇り始めた頃合いだった。
(…嫌なことを、思い出した…)
額の汗を手の甲で拭いながら、彼は荒い息を整える。アフリカの山中で、たった一人で敵地を壊滅させた、あの日の記憶。
腹部に受けた傷は銃痕が残っているが、もう何年も前に塞がっているはずなのに、今でも幻の痛みが疼くようだった。
そして、自分に全ての技術を叩き込み、何も告げずに去っていった、祖父の姿。
(でも…)
管理人は、そっと目を閉じた。脳裏に蘇るのは、最後の別れの時の、祖父の瞳だった。
厳しさの中に隠された、深い悲しみと後悔。本当はこんな道を歩ませたくなかったという、言葉にならない想い。
そして、管理人が試験を乗り越えて生還した時の、ほんの僅かな、誇らしげな光。
彼自身、祖父を恨んではいなかった。全てを奪われた子供時代を思えば、全く何も無いわけではない。
だが、祖父が与えたこの力があったからこそ、自分は今、ここにいる。
そして、守りたいと思える仲間たちに出会えた。あの血塗られた過去も、この未来に繋がるための布石だったのだと、今ならそう思える。
(じいちゃん。俺、この世界で頑張ってみるよ。あんたがくれたこの力で…今度こそ、俺が守りたいものを、全部守ってみせる)
管理人は、静かに決意を固めた。過去から逃げるのは、もう終わりだ。この力は、呪いではない。
大切な仲間たちを、このエンドフィールド工業という新たな家族を守るための、祝福なのだと。
彼はベッドから降りると、軽くシャワーを浴びて着替えを済ませ、自らの執務室へと向かった。協約核心を設置したことで、これからやるべきことは山積みだ。感傷に浸っている暇はない。
執務室のコンソールを立ち上げ、風蝕の谷から送られてくる膨大なデータを整理し始めていると、不意にドアがノックされた。
「管理人、入りますよ」
ペリカの声だ。ドアが開き、彼女に続いてチェンとレーヴァテインも部屋に入ってきた。
三人は、それぞれの表情で管理人を見つめている。心配、好奇心、そして、少しの不審。ヴォルフガングとの戦いで見せた、彼の異常さを、彼女たちはまだ気にしているのだろう。
「…昨夜は、よく眠れましたか?身体の調子は…」
「管理人! 大丈夫? なんだか、昨日の管理人、いつもの管理人じゃなかったみたいで…」
「フン。腑抜けた顔をしていないだけ、マシになったようだな。だが、何か隠していることがあるなら…」
三者三様の気遣い。その言葉の一つ一つが、今の管理人には温かく響いた。
孤独な狼として生きてきた彼には、眩しすぎる光だった。
彼は、コンソールの画面から顔を上げ、彼女たちを一人一人、ゆっくりと見回した。そして、全て吹っ切れた、心からの笑顔を向けた。
「みんな、ありがとう…これからも、よろしくな」
その笑顔は、これまでの彼が見せた、どこか影のある微笑みとは違っていた。まるで、中東の埃っぽい難民キャンプで出会った、あの少年のような、屈託のない、満面の笑みだった。
過去の重荷を全て受け入れ、それでも前を向く覚悟を決めた、一人の男の笑顔。
そのあまりにも純粋な笑顔に、三人は一瞬、言葉を失った。ペリカは僅かに目を見開き、チェンはぽかんと口を開け、レーヴァテインは気まずそうに視線を逸らす。
「…フン。私もあんたには感謝してるよ」
「わー! 管理人が笑った! いつもみたいじゃなくて、すっごく笑ってる!」
「…ええ。とても…良い表情です、管理人」
ペリカは、冷静さを装いながらも、その声には微かな安堵の色が滲んでいた。
管理人の変化は、彼女たちにとっても、大きな意味を持っていた。
彼が一人で抱え込んでいた闇が、少しだけ晴れたような気がしたのだ。
管理人は、照れくさそうに頭を掻きながら、立ち上がった。
「さあ、朝飯にしよう! 今日から、本格的に忙しくなるぞ。まずは、腹ごしらえだ。俺、腹ぺこなんだ」
その言葉に、チェンが真っ先に反応した。
「さんせーい! 私も! 今日は何かなー? 特製ラーメンだといいなー!」
そう言って、チェンは管理人の腕を取り、ぐいぐいと執務室のドアへと引っ張っていく。その力強い、生命力に満ちた感触が、管理人に『生きている』という実感を与えてくれた。
「こ、こら! チェン、馴れ馴れしいぞ! それに、まだ報告の途中だろう!」
レーヴァテインは、慌てて二人を追いかける。その口調は相変わらずだが、彼女の表情も、どこか楽しそうに見えた。
ペリカは、そんな三人の後ろ姿を、優しい微笑みで見守っていた。そして、小さな声で、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「…はい。エンドフィールド工業、本日より、本格始動です」
執務室に残されたのは、コンソールの静かな駆動音と、窓から差し込むタロⅡの朝の光だけだった。
その光は、まるで彼らの輝かしい未来を祝福しているかのように、部屋の中を明るく照らしていた。
過去を乗り越え、確かな絆で結ばれた彼らの物語は、まだ始まったばかりだ。
管理人の過去話、これにて終わりになります。
次はチェンの関話を挟んで3章になりますが、現在3章の執筆が難航しております…
本文の長さアンケートです
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このままでちょうどいい!
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あのぉもうちょっと短くできませんかねぇ…
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たまには長くやってもいいのよ。