反逆の王子は実力至上主義の世界で優しい世界を望む 作:evejanjan
六日目の朝。
起きた時から、空気が重かった。
雨が降っているわけではない。
風も弱い。
ただ、何日も続く森での生活が、少しずつ全員の余裕を削っていた。
寝不足。
暑さ。
水汲み。
探索。
同じような食事。
汗を流しても、すぐにまた身体がべたつく。
昨日までなら笑って流せたことに、今日は誰かが眉を寄せる。
Dクラスの仕組みそのものは動いていた。
だが、その動きは昨日より僅かに鈍い。
「水、これだけ?」
朝食の片付けをしていた篠原が、並べられた水筒を見て声を上げた。
「昼までなら足りるって」
池が答える。
「飲む分だけならでしょ。手も洗うし、他にも使うんだけど」
「だから好きに使ってたら足りなくなるって言ってんだろ」
「好きに使ってるわけじゃないわよ」
篠原の声が少し強くなる。
「こっちは水の量考えてんだよ。足りないって言われるたび汲みに行くの誰だと思ってんだ」
「女子だって何もしてないわけじゃないでしょ」
近くにいた女子の一人が口を挟む。
それをきっかけに、別の声も続いた。
「昨日だって食事の片付けほとんどこっちだったし」
「薪と水と探索やってから言えよ」
須藤が斧を地面へ置く。
「こっちは遊んでるわけじゃねえぞ」
「誰もそんなこと言ってないでしょ」
「言ってるようなもんだろ」
声が重なった。
誰か一人が悪いわけではない。
池が運んでいる水は実際に重い。
須藤たちの探索や薪集めにも体力が必要だった。
一方で、食事や片付け、衛生面の不満も積み重なっている。
どちらにも理由があった。
だからこそ、簡単には収まらなかった。
「みんな、ちょっと待って」
平田が間へ入る。
「池君の言ってることも分かるし、篠原さんたちが困ってるのも分かるよ。一度、必要な水の量を――」
「だから、その必要な量を増やしたら汲む回数も増えるだろ」
「でも今のままじゃ足りないって言ってるの」
「うん。だから両方の話を聞いて――」
「それ昨日からずっと言ってない?」
軽井沢の一言に、平田の言葉が止まった。
全員の意見を聞く。
全員が納得できるところを探す。
普段なら平田の長所だった。
だが、疲れた人間が何人も同時に不満をぶつけている今、それは決断を遅らせるだけだった。
その間にも時間は過ぎる。
水汲みに出る予定だった池はここにいる。
南側の探索班は交代の連絡を待っている。
食事担当は片付けが終わらず、次の準備へ移れない。
山内は誰に確認を取ればいいのか分からず、紙を持ったまま立っていた。
昨日まで噛み合っていた役割が、一つずつ止まり始めていた。
「くだらないわね」
堀北の声が入った。
全員の視線が向く。
顔色は良くない。
それでも堀北は手帳を持って立っていた。
「必要量を計算して、足りなければ汲む。それだけの話でしょう」
「その汲む人間がしんどいって話してんだよ」
須藤が返す。
「なら交代すればいいわ」
「誰とだよ」
「役割に余裕のある人間を回せば済むでしょう。感情で仕事を止める方が非効率よ」
正しい。
少なくとも、言っている内容そのものは間違っていない。
だが、今欲しかった言葉ではなかった。
「感情でって何よ」
篠原の眉が吊り上がる。
「こっちが我慢してることまで、全部無駄って言いたいの?」
「そんなことは言ってないわ」
「同じでしょ」
「話をすり替えないで」
堀北の声も普段より鋭かった。
平田がもう一度割って入ろうとする。
「堀北さんも少し――」
「平田君。今は全員を納得させることより、止まっている仕事を動かすべきよ」
「それは分かってる。でも――」
「なら決めなさい」
堀北は手帳を開いた。
「水汲みを二人追加。南側の探索を一人減らして――」
頁を押さえていた指が止まった。
文字を追う視線が僅かに揺れる。
「堀北?」
綾小路が声を掛けた。
「何でもないわ」
いつもの返答だった。
堀北は一歩踏み出す。
もう一歩。
そこで身体が傾いた。
「危ない!」
スザクが横から支える。
「離して」
「無理だ」
振り払おうとした腕に力がない。
「おい、顔真っ白じゃねえか」
須藤が近付く。
「少し立ち眩みがしただけよ」
「昨日も同じこと言ってただろ」
「私はまだ――」
手帳が指から滑った。
乾いた音を立てて地面へ落ちる。
今度こそ、誰も口を開かなかった。
さっきまで互いに不満をぶつけていた生徒たちも、止まったまま堀北を見る。
水は足りない。
探索の交代も遅れている。
片付けも終わっていない。
その上、判断を担っていた堀北まで立っていられない。
平田が周囲を見る。
何か言おうとする。
だが、誰から手を付けるべきか決められない。
短い空白が生まれた。
ルルーシュは地面に落ちた手帳を拾う。
「平田」
それだけだった。
平田が振り向く。
ルルーシュは続きを言わない。
手帳を閉じ、平田へ差し出しただけだった。
数秒。
平田はそれを受け取らなかった。
代わりに、息を一つ吐く。
「スザク君、須藤君。堀北さんをテントまでお願い」
「分かった」
「おう」
「池君」
「何?」
「水汲みは一度止めて。篠原さんと、今日必要な量を出してほしい」
「は?」
「飲む分だけじゃなくて、食事や身支度に使う分も込みで。二人なら両方分かるだろ?」
池と篠原が互いを見る。
当然、空気は悪いままだった。
「……分かった」
「数字出すだけだからね」
「うん。それでいい」
平田は次へ向く。
「山内君。南側へ行って、今日は探索範囲を縮めるって伝えて。戻せる人は二人戻してほしい」
「了解」
「食事の片付けは一度止めよう。昼に必要なところだけ先にやる。手が空いた人はそっちへ回って」
女子側から小さく声が上がる。
「でも――」
「不満があるのは分かってる」
平田は遮った。
強い声ではない。
それでも、今までとは違った。
「夜に全部聞く。今は、今日必要なことだけやらせてほしい」
全員を納得させようとはしなかった。
納得していない顔がいくつも残っている。
それでも、一人が動いた。
次にもう一人。
止まっていた拠点が、少しずつ動き始めた。
ルルーシュは何も言わない。
平田の判断にも、配置にも口を挟まなかった。
◇
昼を過ぎても、空気が元に戻ったわけではなかった。
「水筒ばっかり優先しないでよ。こっちだって水は使うんだから」
篠原が紙を池へ突き出す。
「分かってるって。なら昼から一本多めに汲む」
「一人で?」
「今日は南から二人戻るだろ。片方借りる」
「……ならいい」
会話は硬い。
仲直りしたようには見えなかった。
それでも、水の必要量は決まった。
戻ってきた探索班の一人が池と水場へ向かう。
須藤は堀北を休ませた後、薪ではなく食事側の重い荷物を運んでいた。
「これどこ置くんだよ」
「そこ。倒さないでよ」
「分かってるっつーの」
不機嫌そうな声は変わらない。
だが、荷物は指定された場所へ置かれる。
山内は南側から戻ると、今度は午後の変更を各班へ伝えるため別方向へ走った。
スザクは堀北の様子を確認してから、人数を減らした探索班の穴へ入った。
朝と同じ役割を守っている者は少ない。
それでも、必要な仕事は埋まっていった。
平田は紙へ変更を書き込み続けている。
迷う場面はある。
そのたびに周囲を見る。
だが、もうルルーシュの方は見なかった。
◇
拠点の端で、伊吹はその一連の流れを黙って見ていた。
朝はあれだけ声を荒らげていた。
今も、男子と女子の間に柔らかい空気が戻ったわけではない。
それなのに水は運ばれ、食事の準備は進み、探索班も動いている。
「さっきまであれだけ揉めてたのに、もう普通に戻ってるのね」
近くを通った綾小路へ、伊吹が言った。
「普通には戻ってないだろ」
「どこが?」
綾小路は少し先を見る。
池と篠原は必要なことしか話していない。
須藤も女子側へ愛想よく振る舞っているわけではない。
平田の顔にも疲れが残っている。
「仲直りしたようには見えない」
「じゃあ、なんで動いてるのよ」
「やることが分かってるからじゃないか」
伊吹は眉を寄せた。
「それだけ?」
「それだけでも、止まるよりはましだろ」
伊吹はしばらくDクラスの拠点を見た。
「……気持ち悪いクラス」
「そうかもな」
綾小路はそれ以上続けなかった。
伊吹が何を見るのか。
何に長く視線を置くのか。
それを問いただす必要はない。
伊吹と金田。
二人が別々のクラスへ入り込んでいる状況を、単なる偶然と考える理由はもう薄くなっていた。
龍園が人を送り込んでいる。
そう考える方が自然だった。
ただ、何を目的としているのかまではまだ分からない。
綾小路は伊吹から視線を外した。
◇
夕方。
堀北はまだテントで横になっていた。
熱は下がり切っていない。
「外は?」
水を置きに来たスザクへ尋ねる。
「動いてるよ」
「平田君が?」
「ああ。朝とは配置も変わってる」
「ランペルージ君は?」
「物資のところにいる。ほとんど口は出してない」
堀北は黙った。
外から声が聞こえる。
山内の報告。
池の返事。
誰かが荷物を置く音。
少し離れたところで、須藤と女子生徒がまた何か言い合っている。
だが、朝のように全体へ広がることはなかった。
「水、ここに置いておくよ」
「必要ないわ」
「そう言うと思った」
スザクは水筒を置いて外へ戻った。
堀北は天井を見たまま、しばらく外の音を聞いていた。
◇
日のあるうちに、最低限必要だった仕事は終わった。
予定どおりではない。
探索範囲は狭くなった。
水汲みの人数は増えた。
食事側へ回った者もいる。
伝達の順番も変わった。
朝決めていた役割は、ほとんどそのまま残っていない。
「全員戻ったよ」
平田が物資置き場へ来た。
「そうか」
ルルーシュは帳面へ数字を書き込む。
「朝は、止められなかった」
平田が言った。
「全員の話を聞けば何とかなると思ってた。でも、聞いてる間にもやることは増えていった」
「それで?」
「今日は先に決めた。納得してない人もいるけど」
「見れば分かる」
少し離れたところで、池と篠原がまだぶっきらぼうに話している。
平田は苦笑した。
「これでよかったのかな」
「なぜ俺に聞く」
「……そうだね」
平田は一度だけ頷く。
今度は答えを待たなかった。
「明日の分も見てくるよ」
そのまま拠点の中央へ戻っていく。
ルルーシュはその背中を見送った。
◇
夜。
焚き火の周りには、朝より静かな空気があった。
仲直りしたわけではない。
「明日の水、朝一本多めな」
池が言う。
「明日はこっちの分もちゃんと残しといてよ」
篠原が返す。
「分かってるって」
「ならいい」
それだけで会話は終わった。
須藤は明日の作業を確認し、山内は変更された伝達先を書き留めている。
スザクは最後に堀北の様子を見てから、緩んだ支柱を直した。
平田は全体を見ながら、必要なところだけへ声を掛ける。
黒の騎士団も、ブリタニアも、明確な命令系統の下で動く組織だった。
指示が下れば、人は動く。
それを可能にする経験も、仕組みもあった。
目の前の彼らは違う。
騎士団ほど組織として完成されてはいない。帝国の兵士ほど訓練されてもいない。
意見は食い違い、朝には一度、その動きさえ止まりかけた。
それでも今は、次の命令を待ってはいない。
足りない場所を自分たちで埋め、必要なら役割を組み替え、動いている。
ルルーシュは焚き火の向こうへ視線を向けた。
島に築かれたものが王国と呼べるのなら。
少なくともそれは、王が一人で支え続けなければ倒れる形ではなかった。