反逆の王子は実力至上主義の世界で優しい世界を望む 作:evejanjan
潮風が、張り終えたばかりのテントを揺らしていた。
砂浜には運び込まれた荷物が並び、その周囲を生徒たちが行き交っている。
無人島での特別試験。
そう告げられてから、まだ一時間も経っていない。
それでもDクラスの空気には、緊張より浮ついたものが勝っていた。
「池、そこ押さえろ!」
「押さえてるって!」
「緩んでんじゃねえか!」
「須藤が引っ張りすぎなんだよ!」
言い争う二人の横で、山内が腹を抱えて笑っている。
「お前ら、テント一つで何分かかってんだよ」
「じゃあ手伝え!」
「俺は監督だから」
「一番いらねぇやつ!」
須藤の怒鳴り声に、周囲から笑いが起きた。
少し離れた場所では、平田が物資を確認し、櫛田が女子たちと寝床について相談している。
堀北は端末へ視線を落としたまま、誰とも話していなかった。
その傍らを、流木を抱えたスザクが通り過ぎる。
「枢木君」
平田に呼び止められ、足を止めた。
「それで最後にしよう。朝からずっと動いているじゃないか」
「まだ薪が足りないかもしれない」
「足りなくなったら、そのとき皆で集めればいいよ」
「でも――」
「枢木!」
海の方から声が飛んできた。
振り向くと、須藤が波打ち際に立っていた。すでに膝まで海へ入り、こちらへ大きく手を振っている。
「泳ぐぞ!」
「僕が?」
「他に誰がいるんだよ」
スザクは腕の中の流木へ目を落とした。
平田がそれを受け取る。
「行ってきなよ」
「平田」
「これは仕事じゃないからね」
穏やかな笑顔で言われ、スザクはわずかに困った顔をした。
「そういう意味じゃ……」
「枢木、逃げんのか!」
「逃げないよ」
反射的に答えると、須藤が楽しそうに笑った。
「なら勝負だ!」
池と山内も、いつの間にか波打ち際へ集まっている。
「須藤に勝ったら、今日の英雄な!」
「負けた方は夕飯抜き!」
「勝手に決めないでくれるかな」
スザクが苦笑する。
「それに、食事は罰に使っちゃ駄目だよ」
「そこ真面目に返すのかよ」
山内の声に、再び笑いが広がった。
スザクも小さく吹き出す。
その顔を見て、平田は何も言わず物資置き場へ戻っていった。
少し離れた木陰では、高円寺が腕を組み、目を閉じている。
ルルーシュは拠点の外周を歩いていた。
テントの位置。
飲み水の残量。
森へ続く獣道。
騒ぐ生徒たちへ加わることなく、けれど完全に離れることもなく、静かに周囲を見ている。
「あの岩まで行って戻ってくる!」
池が沖合を指差した。
「先にここへ触った方が勝ちな」
「お前が仕切るのかよ」
「審判が必要だろ?」
「自分は泳ぎたくないだけじゃないの?」
スザクが言うと、池は目を逸らした。
「……審判も大事な役割なんだよ」
「便利な役割だな」
須藤が鼻で笑い、海へ入る。
スザクも靴を脱ぎ、その隣へ並んだ。
水が脛へ触れた瞬間、肩がわずかに揺れる。
「冷てぇだろ」
「少しね」
「今さら帰るなよ」
「帰らないよ」
須藤は腰を落とした。
スザクも同じように構える。
「位置について!」
池が片腕を高く上げる。
「よーい――」
「ちょっと待て!」
山内が二人の前へ飛び出した。
「勝つ方にポイント賭けようぜ」
「何のポイントだよ」
「そこは後で考える」
「邪魔だ!」
須藤に背中を押され、山内が浅瀬へ倒れ込む。
派手な水飛沫が上がった。
「てめぇ、須藤!」
「そこに立ってる方が悪い!」
笑い声が重なる。
その中心で、スザクも声を上げて笑っていた。
「今度こそいくぞ!」
池が仕切り直す。
二人が並ぶ。
「スタート!」
同時に海を蹴った。
須藤は勢いよく水を掻き、一直線に沖へ進んでいく。
スザクはその隣を泳いだ。
速すぎず、遅すぎず。
二人の距離はほとんど変わらない。
「須藤、負けてんぞ!」
「まだだ!」
須藤が顔を上げて叫び、再び水へ潜る。
スザクの腕が、一度だけ速く動いた。
半身ほど前へ出る。
だが、次の瞬間にはまた並んでいた。
岩へ触れ、折り返す。
帰りも差はつかない。
最後の数メートルで、スザクがわずかに先へ出た。
砂へ手をついたのは、ほとんど同時だった。
「枢木の勝ち!」
池が腕を上げる。
「くそっ!」
須藤は膝へ手をつきながら、悔しそうに笑った。
「お前、最後だけ速くなっただろ」
「そうかな」
「絶対まだ余裕あった!」
「須藤も速かったよ」
「それ、勝ったやつが言うと腹立つな」
「ごめん」
「謝るなよ!」
息を切らしながら、二人は笑った。
高円寺が薄く目を開く。
ほんの数秒、海から戻ってきたスザクを見た。
それから再び目を閉じる。
「もう一回だ」
須藤が立ち上がった。
「次は俺が勝つ」
「少し休んだ方がいいんじゃない?」
「いらねぇ」
「じゃあ、僕も付き合うよ」
スザクが海へ戻る。
池と山内も後を追った。
「俺たちも行こうぜ」
「今度は近くで見る!」
「お前らは邪魔するなよ!」
須藤の声を笑い飛ばし、二人は腰まで水へ入っていく。
空は青く、波も穏やかだった。
「ここならよく見えるだろ!」
山内が二人より先へ進み、振り返る。
「山内、あまり沖へ行かない方がいい」
「平気だって!」
片手を振る。
その足元から、砂が消えた。
「え――」
身体が傾く。
一度は顔を出した。だが、息を吸うより先に波が口へ入り、伸ばした腕が水面を乱した。
「山内?」
池が振り返る。
もう一度、山内の姿が沈む。
須藤が隣を見たとき、そこにいたはずのスザクはすでにいなかった。
水面を切り裂く。
先ほどまでとは違う。
一度腕を掻くたびに、身体が大きく前へ進む。
須藤と並んでいた距離が、数秒で背後へ消えた。
「枢木!」
山内の腕が水面を叩く。
指先が空を掴み、そのまま沈みかける。
スザクは正面から近づかなかった。
一度潜り、その脇を抜ける。
浮上したときには、すでに山内の背後へ回っていた。
「山内君」
「た、助け――」
「大丈夫」
胸元へ腕を通し、顔を水上へ押し上げる。
山内が反射的に振り回した腕を避け、その手首を掴んだ。
関節の向きに沿って胸元へ畳み、暴れる身体を支える。
「息を吐いて」
「くっ……!」
「上を向いて。僕に掴まらなくていい」
声は静かだった。
山内の呼吸が乱れても、スザクの姿勢は崩れない。
身体を反転させ、岸へ向く。
「須藤!」
「おう!」
「浅瀬を空けて。平田を呼んで!」
須藤が即座に岸へ向かった。
「平田! 山内が溺れた!」
浜辺の空気が変わる。
平田が駆け出し、数人の男子生徒がその後を追った。
スザクは片腕で山内を支えたまま、水を掻く。
一掻き。
身体が前へ滑る。
二掻き目には、押し寄せる波を斜めに切っていた。
山内の口元へ波が掛からず、流れにも逆らわない線を選んでいる。
先ほどの勝負で見せた泳ぎが、遊びだったと分かるほどに。
山内の身体が再び強張る。
スザクは支える腕の位置を変えた。
「もう少しだから」
「げほっ……」
「大丈夫」
呼吸は乱れていない。
動きにも迷いはなかった。
足が海底へ触れる。
次の瞬間、スザクは山内の身体を抱え上げていた。
膝まである水を蹴り、濡れた砂へ足を取られながらも速度を落とさない。
駆け寄った平田と須藤へ、その身体を預ける。
「横向きにして。呼吸を確認して」
平田が頷く。
砂浜へ横たえられた山内が、激しく咳き込んだ。
「げほっ……ごほっ……!」
海水を吐き出す。
須藤が背中を支え、池が青ざめた顔でその様子を見ている。
「山内君」
平田が呼びかける。
「聞こえる?」
「……死ぬかと思った」
掠れた声が返る。
須藤が安堵したように息を吐き、その頭を軽く叩いた。
「馬鹿野郎。調子に乗って沖まで行くからだ」
「悪かったって……」
山内が苦しそうに笑う。
張り詰めていた空気が、少しずつ緩んでいった。
「枢木君」
平田が振り返る。
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「うん」
スザクの呼吸は、すでに整っていた。
肩も上下していない。
それでも、右手だけが震えていた。
握る。
開く。
もう一度、握る。
「少し休んでくる」
誰に聞かせるでもなく言い、立ち上がる。
皆の視線は、まだ山内へ向いていた。
スザクは一人、浜辺から離れていく。
濡れた服から落ちた水滴が、砂へ小さな跡を残していた。
木陰へ入ると、潮風が少しだけ遠くなった。
スザクは木の幹へ背を預け、目を閉じる。
息を吸う。
吐く。
もう一度。
右手を開いた。
震えは止まっていた。
「水分は摂った方がいい」
声と同時に、何かが放られる。
スザクは反射的に受け止めた。
未開封のペットボトルだった。
視線を上げる。
高円寺が少し離れた岩に立っていた。
「君が?」
「私が喉を潤すために用意したものだ」
「それなら、君が飲んだ方がいいんじゃないかな」
「少なくとも、今の君ほど必要としてはいないね」
高円寺は岩へ腰掛けた。
スザクは少し迷い、蓋を開ける。
「ありがとう」
「礼は不要だよ」
水を一口飲む。
冷たさが喉を通り、身体の内側へ落ちていった。
二人の間に会話はなかった。
浜辺から、須藤の怒鳴り声が聞こえる。
山内を叱っているらしい。
その声に混じり、池の笑い声も届いた。
「勝負では」
高円寺が海を見たまま言った。
「随分と丁寧に泳いでいたね」
「泳ぎ方に丁寧も何もないよ」
「そうかい?」
スザクはペットボトルを膝の上で転がした。
「須藤は速かったから」
「彼は速い」
高円寺はあっさり認める。
「君は、それに合わせた」
スザクは否定しなかった。
「一緒に泳ぐなら、その方が楽しいだろ?」
高円寺は鼻を鳴らした。
「実に理解し難いね」
「君なら最初から全力を出す?」
「当然だ。私の美しさを隠す理由がない」
「やっぱり君らしいな」
スザクが笑う。
高円寺は満足そうに髪を払った。
そのまま会話が終わるかと思われた。
「だが」
波音の隙間に、声が落ちる。
「あのときは違った」
スザクの指が止まる。
「山内君のこと?」
「君は速かった」
「急いでいたからね」
「そうだろう」
高円寺は海面に反射する光を眺めている。
「実に、美しくなかった」
スザクは目を瞬いた。
「それは褒められてるのかな」
「まさか」
即答だった。
風が枝葉を揺らす。
「あの時の君には、迷いというものがなかったねぇ」
「山内が溺れてたからね」
「そうだろうね」
高円寺はそれ以上続けなかった。
スザクは水をもう一口飲む。
「君なら、助けなかった?」
「仮定に意味はないね」
「答えないんだね」
「君がそう受け取るなら、それで構わないさ」
悪びれない返答に、スザクの口元へ小さな笑みが戻る。
「僕と反対だ」
「それも違う」
高円寺の声が、僅かに低くなった。
「君は他人を優先しているのではない」
一度、言葉を切る。
「自分だけを、数えていない」
スザクの手の中で、ペットボトルが僅かに軋んだ。
高円寺は理由を聞かなかった。
慰めることもなかった。
ただ海へ目を戻す。
しばらくして、スザクが息を吐いた。
「変わってるね、君は」
「それはよく言われるね」
「褒めてないんだけど」
「ならば、君の審美眼に問題がある」
淀みのない返答に、スザクは声を漏らして笑った。
そのとき、高円寺の視線が木々の向こうへ移る。
物資置き場の前に、ルルーシュが立っていた。
こちらを見ている。
濡れた服。
膝に置かれた水。
隣にいる高円寺。
ルルーシュの視線はそれらを短くなぞった。
スザクと目が合う。
言葉はない。
スザクが僅かに顎を引く。
それを見届けると、ルルーシュは何事もなかったように背を向けた。
「呼び戻さなくていいのかい?」
高円寺が問う。
「必要ないよ」
「随分と素っ気ない関係だ」
スザクはルルーシュの背中を見送った。
答えは返さなかった。
「枢木!」
浜辺から須藤の声が響く。
「もう平気だ! 次やるぞ!」
「まだ泳ぐのかよ!」
池の抗議が続く。
「今度はお前も泳げ!」
「嫌だよ!」
騒がしい声が、木陰まで届いた。
スザクは立ち上がる。
「休息は終わりかい?」
「うん」
「また誰かを助けに?」
スザクは一瞬考え、首を振った。
「今度は泳ぐだけだよ」
海へ向かって歩き出す。
途中から駆け足になった。
須藤が手を上げる。
スザクも応える。
そのまま、騒がしい輪の中へ戻っていった。
高円寺は岩へ腰掛けたまま、その背中を眺めている。
波打ち際で、須藤がスザクの肩へ腕を回した。
池と山内が何かを叫び、また笑いが起こる。
高円寺はゆっくりと目を閉じた。
潮風が、木々の間を抜けていった。