反逆の王子は実力至上主義の世界で優しい世界を望む 作:evejanjan
校庭から離れるほど、体育祭の音は遠くなっていった。
競技開始を告げる放送。
生徒たちの歓声。
順位が変わるたびに起きるどよめき。
普段なら校舎のどこにいても聞こえるほど大きな音が、寮へ続く道では、薄い壁の向こう側から響いているように感じられた。
堀北は右足を庇いながら歩いていた。
一歩進むたびに痛む。
木下との接触直後よりは落ち着いているが、無理に走れる状態ではない。
それでも、立ち止まるつもりはなかった。
須藤が寮へ戻ったという話が正しければ、向かう場所は分かっている。
問題は、会った後に何を言うかだった。
戻りなさい。
次の競技が残っている。
あなたがいなければ得点を失う。
これまでの自分なら、そう言っただろう。
どれも事実だった。
須藤が抜ければ、Dクラスの得点力は大きく落ちる。
変更が認められなければ棄権になる競技もある。
クラス順位はさらに下がる。
だが、それを伝えたところで、須藤の問いには答えられない。
――高く見てりゃ何やってもいいのかよ。
能力を評価していた。
だから、多くの競技へ配置した。
本人も出場を了承した。
合理的な判断だった。
その合理性の中に、須藤本人がいなかった。
彼がどれだけ疲れているのか。
一位を取り続けることへ、どれだけ重圧を感じているのか。
自分だけが勝ってもクラスが沈んでいく状況を、どう受け止めているのか。
堀北は考えなかった。
勝てる人間を、勝てる場所へ置いた。
それだけだった。
寮の入口へ到着する。
自動扉を抜け、須藤の部屋がある階へ向かった。
階段を使おうとして、右足へ鋭い痛みが走る。
堀北は短く息を吐き、エレベーターへ進路を変えた。
扉の中には誰もいない。
壁へ背を預ける。
止まっていると、足の痛みがはっきりと分かった。
ルルーシュの言葉を思い出す。
――自分が抜けた場合に失う得点だけでなく、無理を続けた場合に失う得点も計算しろ。
結果として、彼の予測は正しかった。
自分は負傷した。
競技から離れ、須藤を探している。
最初から負担を抑えていれば、この状況を避けられた可能性はある。
だが、それを認めたところで、時間は戻らない。
必要なのは、誰が正しかったかを決めることではなかった。
扉が開く。
堀北は須藤の部屋の前まで歩き、呼び出しボタンを押した。
返事はない。
もう一度押す。
やはり反応はなかった。
「須藤君。いるのでしょう」
扉の向こうへ声をかける。
沈黙が続く。
「話があるわ」
「帰れよ」
低い声が返ってきた。
部屋にはいる。
「顔を見て話したいの」
「俺は話したくねえ」
「そう」
堀北は扉の横の壁へ背を預けた。
「では、あなたは聞かなくてもいい。私が話すだけ話すわ」
「うぜえな」
扉は開かない。
それでも、須藤が部屋の奥へ離れた気配はなかった。
「最初に言っておくけれど、平田君を殴ったことは間違いよ」
「説教しに来たのかよ」
「違うわ」
「同じだろ」
「あなたが怒っていた理由と、平田君を殴ったことは分けて考えるべきよ。怒る理由があったとしても、暴力が正しくなるわけではない」
「……分かってるよ」
扉の向こうから、押し殺した声が返る。
須藤自身も、自分の行動が正しかったとは思っていない。
拳を振るった直後の表情を、堀北は覚えている。
「平田君には、あなた自身が謝るべきだわ」
「分かってるって言ってんだろ」
「なら、それ以上は言わない」
短い沈黙が落ちた。
「それを言うためだけに来たのか?」
「いいえ」
「じゃあ、次の競技に戻れって言いに来たんだろ」
「違うわ」
堀北は答えた。
自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。
「嘘つけよ」
「嘘ではない」
「俺が戻らなきゃ、負けるんだろ」
「あなたがいなければ、失う得点は増えるでしょうね」
「ほらな」
「でも、それを理由に戻れとは言わない」
扉の向こうが静かになる。
「何なんだよ、それ」
「私たちは、あなたがいなくても競技を続けるわ」
堀北は言った。
「平田君とランペルージ君が残りの配置を組み直している。枢木君も自分の競技へ出ながら、現場を支えてくれている。変更できないものは棄権になるでしょう。それでも、体育祭は続く」
「なら、俺なんかいらねえだろ」
「そういう意味ではないわ」
「じゃあ何だよ!」
須藤の声が、扉越しに大きくなる。
「必要だって言ったり、いなくても続けるって言ったり、どっちなんだよ!」
「あなたの力は必要よ」
「結局それじゃねえか!」
「最後まで聞いて」
堀北は声を強めた。
扉の向こうが再び静かになる。
「私は、あなたの能力を評価していた」
「知ってるよ」
「いいえ。正確には、能力しか見ていなかった」
自分の口から出した言葉が、想像していた以上に重かった。
「短距離で勝てる。持久力がある。団体競技でも中心になれる。だから、あなたを多くの競技へ配置した」
「……」
「あなたが出ると言ったから、それで問題ないと思った。勝てる能力がある人間が、勝つために働くのは当然だと考えていた」
「実際、そう思ってただろ」
「ええ」
否定しなかった。
ここで取り繕っても意味がない。
「あなたがどれだけ疲れているか、考えていなかった。勝つことを当然とされ続けるのが、どれほど負担になるかも。あなたが一位を取ってもクラスの順位が上がらない時、何を感じるかも見ていなかった」
「今さら何だよ」
「今さらだから、話しに来たの」
「負けそうになったからだろ」
「それもあるわ」
堀北は認めた。
「あなたが抜けて、私は困っている。Dクラスも困っている。それは事実よ」
「だったら――」
「でも、私がここへ来たのは、得点源を取り戻すためではない」
「同じだろ」
「違うわ」
「何が違うんだよ」
堀北は答えようとして、言葉に詰まった。
理屈なら組み立てられる。
須藤が戻ることで得られる点数。
クラス全体への心理的影響。
今後の試験における協力関係。
どれも説明できる。
だが、それを並べれば、また須藤を数字として扱うことになる。
「私は、自分一人で勝てると思っていた」
堀北はゆっくりと話し始めた。
「正しい配置を作り、能力のある人間を適切に使えば、結果を出せると思っていた。協力を求める時も、それが合理的だから従うべきだと考えていた」
須藤から返事はない。
「でも、今日分かったわ」
自分の足を見る。
簡易的に固定された右足。
競技へ出続けることを責任だと思い込み、結果として戦線から離れた。
「私一人では勝てない」
それは、これまでの堀北が最も口にしたくなかった言葉だった。
能力が足りないと認めることではない。
誰かを必要としていると認めることだった。
「だから俺を使うんだろ」
「違う」
堀北は首を振った。
扉越しでは、その動きは伝わらない。
それでも、言葉を続ける。
「あなたの力だけが必要なのではなく、あなたと一緒に勝ちたい」
今度こそ、長い沈黙が落ちた。
廊下には誰もいない。
遠くから、エレベーターの動く音だけが聞こえる。
「……何だよ、それ」
須藤の声は、先ほどより小さかった。
「言ったとおりよ」
「同じじゃねえか。俺がいなきゃ勝てねえんだろ」
「ええ。あなたがいなければ難しくなる」
「じゃあ――」
「でも、戻るかどうかはあなたが決めて」
須藤の言葉を遮る。
「私は、戻ることを命令しない。次の競技で勝てとも言わない」
「本当に負けてもいいのかよ」
「よくはないわ」
「何だそれ」
「負けたくない。でも、あなたが納得しないまま戻って、一位を取ればいいとも思わない」
堀北は扉の前から身体を離した。
「私が伝えたかったのはそれだけよ」
「待てよ」
室内から声が飛ぶ。
「もう帰んのか?」
「体育祭の途中だから」
「結局、戻るんじゃねえか」
「残っている人たちが戦っているもの」
「足、怪我してんだろ」
「そうね」
「競技には出られねえじゃん」
「出場できなくても、できることはあるわ」
「また無茶すんのかよ」
「あなたに言われたくないわね」
「うるせえ」
堀北はわずかに目を伏せた。
「須藤君」
「何だよ」
「平田君を殴ったことは、必ず謝って」
「……分かってる」
「それから」
言葉を選ぶ。
これは命令ではない。
戻るよう誘導するための言葉でもない。
「あなたを、勝つための道具として扱ったことを謝るわ」
扉の向こうで、息を呑む気配がした。
「ごめんなさい」
堀北は頭を下げた。
誰も見ていない。
須藤にも見えない。
それでも、形だけで済ませるつもりはなかった。
「私が間違っていた」
頭を上げる。
「では、戻るわ」
堀北は廊下を歩き始めた。
右足を庇い、ゆっくりとエレベーターへ向かう。
背後で扉が開く音はしなかった。
◇
体育祭会場では、平田が須藤の離脱によって生じた穴を一つずつ確認していた。
「この競技は変更が間に合わないから、棄権になるそうだよ」
「団体競技は?」
「同じ出場者の中で役割を変えることは認められてる。須藤君が担当する予定だった場所を、三宅君と池君で分けようと思う」
「俺?」
池が不安そうな顔をする。
「須藤の代わりなんか無理だって」
「同じことをする必要はないよ」
平田は答えた。
「須藤君が一人で前を押していた形をやめて、全員で最後まで残る形に変える。勝つのは難しくても、すぐに脱落しないようにしよう」
「分かったけど……」
「失敗しても一人の責任にはしない。僕も一緒に出るから」
平田の頬はまだ赤く腫れている。
それでも、一人ずつへ説明し、役割を渡していた。
少し離れた場所では、ルルーシュが残りの競技を絞り込んでいる。
すでに勝利が難しい競技。
負傷の危険が高い競技。
Cクラスが意図的に接触を仕掛ける可能性がある競技。
それらへ無理に戦力を投入しない。
限られた人員を、得点を確保できる場所へ集中させる。
「次の団体競技では、Cクラスの挑発へ反応するな」
ルルーシュが言った。
隣で出場準備をしていたスザクが、紐を締めながら顔を上げる。
「勝敗よりも、怪我をしないことを優先するという意味?」
「ああ。勝てるなら勝て。ただし、相手を追って隊列を崩すな。狙いが見えた時点で距離を取れ」
「須藤君がいない分を、僕に埋めさせるつもりは?」
「ない」
「僕なら、出場数を増やせるかもしれない」
「今から自由に変更できるわけではない。それに、変更が認められたとしても、お前一人へ負担を移せば同じことだ」
スザクはルルーシュを見た。
「須藤君を囮にするつもりはない?」
「ない」
ルルーシュは即答した。
「あいつが戻るかどうかも、堀北に任せた」
「戻った場合は?」
「本人へ説明し、本人が引き受けた範囲で使う」
「使う、か」
「他に適切な言葉があるなら提案しろ」
「一緒に戦う、じゃ駄目なのか?」
ルルーシュの指が一瞬止まった。
「戦力配置の話をしている」
「分かってるよ」
スザクは小さく笑った。
「でも、堀北が今から伝えようとしているのは、たぶんそっちだ」
「……競技へ行け。招集時間になる」
「はいはい」
スザクは立ち上がる。
数歩進んだところで、再び振り返った。
「ルルーシュ」
「何だ」
「須藤君が戻らなくても、責めない?」
「戻るかどうかを本人へ返した以上、戻らない選択も受け入れる」
「そうか」
「ただし、平田を殴った件は別だ」
「うん。それでいい」
スザクは招集場所へ向かった。
確認には時間がかかる。
それでも、何も知らないまま従わせるよりはいい。
ルルーシュは残りの配置へ視線を戻した。
◇
堀北が会場へ戻った時、次の団体競技はすでに始まっていた。
平田が組み替えたDクラスの隊列は、須藤がいた時よりも明らかに弱い。
前へ押し切る力がない。
相手を一気に崩す突破力もない。
それでも、誰か一人を前へ出さず、全員で隊列を維持していた。
Cクラスが側面から仕掛ける。
池が反応しかけ、平田の声で踏みとどまる。
「追わなくていい! 位置を守って!」
勝てない。
だが、すぐには崩れない。
最下位だけを避けるための戦いだった。
「堀北さん」
櫛田が駆け寄ってくる。
「須藤君は?」
「話はしたわ」
「戻ってくるの?」
「分からない」
櫛田は困ったように眉を下げた。
「分からないって……」
「戻るかどうかは、須藤君が決めることよ」
堀北はグラウンドへ視線を向ける。
以前の自分なら、そんな曖昧な状態を許さなかった。
戻るよう説得し、必要なら利害を説明し、競技へ間に合わせようとした。
今回は、答えを持ち帰っていない。
それでも、不思議と後悔はなかった。
競技が終わる。
Dクラスは一位ではない。
予想どおり、得点も多くは得られなかった。
だが、全員が最後まで残った。
戻ってきた池が、息を切らしながら地面へ座り込む。
「無理だって、こんなの……」
「でも、途中で崩れなかったよ」
平田が声をかける。
「池君が位置を守ってくれたからだ」
「俺、何もしてねえぞ」
「前へ出なかったことが役割だったんだ」
「それ褒めてんの?」
「もちろん」
池は納得していない顔をしながらも、少しだけ胸を張った。
次の招集を告げる放送が流れる。
堀北は無意識に、寮へ続く方向を見た。
人影はない。
戻らないかもしれない。
それも須藤が選ぶことだ。
「堀北」
ルルーシュが隣へ立つ。
「戻らなかったか」
「今のところはね」
「何を話した」
「あなたに報告する必要がある?」
「残りの配置へ影響する」
「戻ることを命令しなかったわ」
「そうか」
ルルーシュは、それ以上尋ねなかった。
「驚かないのね」
「お前が今さら得点だけを理由に連れ戻したなら、そちらの方が驚く」
「随分と分かったような口を利くのね」
「少なくとも、須藤が怒った理由は見ていた」
ルルーシュは端末を閉じる。
「戻らない前提で配置を進める」
「ええ」
「それでいいんだな」
堀北は一度だけ迷い、頷いた。
「いいわ」
その時だった。
「勝手に終わらせてんじゃねえよ」
背後から声がした。
堀北が振り返る。
須藤が立っていた。
体育祭用の服装のまま。
呼吸は乱れていない。
寮から走ってきたわけではないらしい。
だが、その表情にはまだ迷いが残っていた。
「須藤君!」
櫛田が声を上げる。
周囲の生徒たちも、一斉に須藤を見る。
「戻ってくれたのか!」
池が立ち上がった。
「うるせえ」
須藤は居心地が悪そうに顔を逸らした。
そのまま平田の前へ歩いていく。
平田は、腫れた頬を隠さなかった。
「平田」
「うん」
「……悪かった」
須藤は頭を下げた。
「殴ったのは俺が悪い」
「怒ってた理由は分かるよ」
「理由があっても殴っていいわけじゃねえんだろ」
堀北が先ほど言った言葉だった。
「だから、悪かった」
平田は少し黙った後、頷いた。
「謝ってくれてありがとう」
「許すのかよ」
「殴られたことについては、後でもう一度ちゃんと話そう。今は競技の途中だから」
「……分かった」
「戻ってくるかどうかは、須藤君が決めたの?」
「ああ」
須藤は堀北を見る。
「勘違いすんなよ」
「何を?」
「お前に頭下げられたから、仕方なく戻ったわけじゃねえ」
「そう」
「お前が一緒に勝ちてえとか、急に気持ち悪いこと言い出したからでもねえ」
「そういう言い方しかできないの?」
「うるせえな!」
須藤は顔を赤くした。
一瞬だけ、いつもの二人のやり取りへ戻る。
だが、須藤はすぐに真剣な顔になった。
「俺が勝っても、クラスが負けてたら意味ねえんだろ」
「ええ」
「だったら、俺だけ一位取って終わりじゃ駄目なんだ」
須藤は得点板を見た。
Dクラスの順位は低い。
今から戻っても、今日の負けを覆せる保証はない。
「お前、Aクラス行くって言ってたよな」
「ええ」
「なら、俺も行く」
堀北が目を見開く。
「今日だけじゃねえ。次も、その次もだ」
「須藤君」
「俺の力だけが必要なんじゃなくて、一緒に勝ちてえんだろ」
「……ええ」
「じゃあ勝手に置いてくんじゃねえぞ」
須藤はそう言って、ルルーシュへ向き直った。
「次、俺が出られる競技は?」
「戻ると決めたのか」
「見りゃ分かんだろ」
「平田へ手を出さない。独断で配置を崩さない。挑発へ乗らない」
「いきなり条件かよ」
「当然だ」
「分かったよ」
「自分の疲労を隠さない」
「それもかよ」
「嫌なら出るな」
「分かったって!」
ルルーシュは平田を見る。
「学校へ確認を」
「もうしてあるよ。須藤君本人が戻り、出場可能な状態なら、未開始の登録競技には参加できる」
「なら予定を戻す。ただし、負傷と消耗を考慮して役割は変更する」
「俺の分まで勝手に決めんな」
「説明する。最終的に引き受けるかはお前が決めろ」
須藤は一瞬、言葉を失った。
以前なら、配置を決めた後で従わせていただろう。
今回は違う。
「……それならいい」
「平田。説明を頼む」
「分かった」
須藤は平田とともに、残りの配置を確認し始めた。
クラスの空気が、一瞬で明るくなったわけではない。
失った得点は戻らない。
堀北と木下の負傷も消えない。
Dクラスが下位にいる事実も変わらない。
それでも、須藤は自分の意思で戻った。
得点源としてではなく、同じ場所を目指す一人として。
◇
須藤の復帰後も、Dクラスの苦戦は続いた。
Cクラスは挑発をやめない。
接触を狙い、須藤を隊列から引き離そうとする。
以前の須藤なら、正面から追っただろう。
「無視しろ!」
平田の声が飛ぶ。
須藤は歯を食いしばる。
目の前を走るCクラスの生徒を睨みながらも、追わない。
決められた位置へ戻り、隣の生徒を支える。
「須藤、そっち押さえて!」
「分かってる!」
一人で勝つための動きではない。
全員で崩れないための動きだった。
結果は二位。
須藤自身にとって、満足できる順位ではない。
それでも、戻ってきた須藤は誰も責めなかった。
「一位じゃなかったわね」
堀北が言う。
「怪我人が偉そうに言うな」
「事実を言っただけよ」
「次は取る」
「無理はしないで」
「お前が言うな!」
堀北は一瞬黙り、その後、小さく頷いた。
「それもそうね」
須藤は調子を狂わされたような顔をした。
「そこは言い返せよ」
「あなたが正しいもの」
「気持ち悪いな、今日のお前」
「失礼ね」
完全に何かが解決したわけではない。
須藤の短気も、堀北の不器用さも変わっていない。
それでも、二人の間にあったものは、競技開始前とは少し違っていた。
◇
午後の競技が一段落した頃。
次の競技までの移動を始めようとした堀北を、Cクラスの生徒が呼び止めた。
「龍園が話あるってよ」
「私にはないわ」
「木下の件だ」
堀北の足が止まる。
逃げれば、不利な印象だけが残る。
「場所は?」
指定されたのは、校舎脇の人通りが少ない通路だった。
綾小路から指示を受けていた真鍋は、龍園の伝言を運んだ生徒の動きを距離を空けて追い、先に会話を記録できる位置へ入っていた。
堀北が到着すると、龍園は壁へ寄りかかって待っていた。
「随分と遅かったな」
「競技の途中よ。あなたの都合を優先する理由はないわ」
「足を怪我した割には元気そうじゃねえか」
「本題は?」
「木下の件だ」
龍園は笑う。
「こっちは足を負傷した。しばらく競技どころか、日常生活にも支障が出るかもしれねえ」
「私も負傷しているわ」
「加害者が怪我したから何だ?」
「私が加害者だという証拠はない」
「事故だって証拠もねえな」
堀北は龍園を睨む。
学校はすでに接触事故を把握している。
映像と周囲の証言も確認しているはずだ。
ただし、木下が意図的に進路へ入ったのか。
堀北が故意に接触したのか。
映像だけでは、どちらも証明できていない。
「何を要求するつもり?」
「取引だ」
龍園は端末を取り出す。
「木下へ正式に謝罪しろ。それから、慰謝料として百万プライベートポイントだ」
「私に非があると認めろと言うの?」
「ああ」
「断るわ」
「まだ条件は終わってねえ」
龍園は指を一本立てた。
「応じるなら、木下から故意の妨害として正式に申し立てることはしない」
「学校は事故をすでに把握しているわ」
「事故があったことはな」
龍園の笑みが深くなる。
「だが、木下本人が、お前から故意に妨害されたと正式に主張したら話は変わる」
「映像だけでは、私の故意を証明できない」
「だから、Cクラス側の証言を揃える」
「口裏を合わせるつもり?」
「見たことを証言させるだけだ」
龍園は悪びれずに答えた。
「断れば、故意の妨害として学校へ処分を求める。追加で調べるか、どう判断するかは学校次第だ」
映像だけで堀北の故意を証明できるわけではない。
同時に、木下が故意に進路へ入ったことも証明できない。
そこへ被害を受けたと主張する木下本人と、Cクラス側の証言が加われば、学校が追加調査へ進む可能性はある。
処分されるとは限らない。
だが、調査と判断の対象になるだけでも、Dクラスには負担となる。
「謝罪と百万ポイント。それで木下さんから正式な申立てはしない、ということね」
「そういうことだ」
「木下さん本人の意思なの?」
「俺が話をまとめる」
「あなたの要求でしょう」
「違いがあるか?」
「あるわ」
「だが、交渉相手は俺だ」
龍園は壁から身体を離した。
「今すぐ答えなくてもいい」
「答えは決まっているわ」
「なら断ってみろ」
堀北は口を閉じた。
断れば、龍園は木下から正式な申立てを出させ、Cクラス側の証言を揃えて処分を求める。
応じれば、故意の妨害を認めた形になり、百万ポイントを失う。
自力で罠を証明する材料はない。
どちらを選んでも、龍園に利益がある。
「期限は、体育祭が終わるまでだ」
「短いわね」
「十分だろ。お前は合理的なんだからな」
龍園が堀北の横を通り過ぎる。
「謝罪文も考えておけよ」
「返事は保留するわ」
「好きにしろ」
龍園は振り返らない。
「期限を過ぎたら、正式に処分を求める」
堀北はその背中を見送った。
足の痛みとは別の重さが残る。
百万ポイント。
謝罪。
故意の妨害を認めること。
どれも、簡単に受け入れられる条件ではない。
だが、拒否するための証拠もなかった。
少し離れた建物の陰で、端末の画面が暗くなる。
真鍋の手元には、龍園と堀北の会話が最初から最後まで記録されていた。