反逆の王子は実力至上主義の世界で優しい世界を望む   作:evejanjan

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知らない答え

 ペーパーシャッフル当日の朝、Dクラスの教室は普段より静かだった。

 

 机の上にあるのは、筆記用具と受験票だけ。

 

 問題集を開いている者はいない。

 

 最後まで単語帳を見ていた生徒も、茶柱が教室へ入る前には鞄へしまっていた。

 

 今さら一つ覚えたところで、八科目すべてが変わるわけではない。

 

 分かっていても、何もしない時間の方が落ち着かない。

 

「昨日言ったこと、覚えてる?」

 

 櫛田が池へ声をかけた。

 

「分からない問題に時間を使いすぎない! 取れる問題から取る!」

 

「うん。それと、問題文を最後まで読むこと」

 

「そこは自信ない」

 

「自信を持って言わないでよ」

 

 池が笑い、櫛田もいつものように笑った。

 

 その横では、山内が平田から渡された確認用紙を両手で持っている。

 

「英語は長文を後に回してもいいんだよな?」

 

「最初に単語と文法を取ってからでいい。ただ、全部飛ばすんじゃなくて、時間は残しておこう」

 

「分かった。今日は俺、やれる気がする」

 

「その調子だよ」

 

 教室の後方で、須藤は腕を組んだまま目を閉じていた。

 

 眠っているわけではない。

 

 堀北に渡された科目ごとの目標点を、頭の中で繰り返している。

 

 国語は無理に取りにいかない。

 

 数学と物理で稼ぐ。

 

 英語は空欄を作らない。

 

 分からない一問へ固執しない。

 

「須藤君」

 

「おう」

 

 呼ばれる前から、須藤は目を開けていた。

 

「あなたには体育祭の減点がある。実際に取った点数が目標へ届いても、そこで安心しないこと」

 

「分かってる」

 

「一科目だけ高くても意味はないわ」

 

「それも分かってる」

 

「ならいいわ」

 

「……お前、もう少しくらい応援とかできねえのかよ」

 

「必要?」

 

「いや、いらねえ」

 

 須藤はそう答えて、前を向いた。

 

 以前なら、堀北の言い方へ腹を立てていたかもしれない。

 

 今は、言葉が足りないのではなく、余計な言葉を使わないだけだと分かっている。

 

 堀北も、自分ができない科目を須藤へ押しつけているわけではない。

 

 互いの得点を合わせて、八科目の基準を超える。

 

 それが今回の勝ち方だった。

 

 ルルーシュは窓際の席で、教室全体を見ていた。

 

 平田が最後の声かけをしている。

 

 堀北は須藤の確認を終えた。

 

 櫛田は池へ笑いかけている。

 

 綾小路は机へ頬杖をつき、普段と変わらない。

 

 佐藤が何かを話しかけると、短く返事をしていた。

 

「君は何を見ているんだ?」

 

 隣からスザクが尋ねた。

 

「崩れそうな場所がないか確認している」

 

「もう試験は始まるよ」

 

「だからだ」

 

「今から配置は変えられない」

 

「分かっている」

 

 ルルーシュは視線を前へ戻した。

 

「変えられないから、覚えておく」

 

「終わった後のために?」

 

「ああ」

 

 スザクは小さく息を吐いた。

 

「僕たちのことも忘れないでくれよ」

 

「お前が本来の点数を取れば、危険はない」

 

「小テストみたいなことはしない」

 

「当然だ」

 

 スザクは最下位になるために答案を空白で出した。

 

 だが、本試験で同じことをする理由はない。

 

 二人の合計点は、調整を必要としなくても安全圏へ届く。

 

 今度は、隠さずに取ればいい。

 

 茶柱が教壇へ立った。

 

「私語を止めろ」

 

 教室の音が消える。

 

「今日と明日の二日間で、八科目の試験を行う。規則はすでに説明したとおりだ」

 

 茶柱は封筒を机へ置いた。

 

 Cクラスが作成し、学校の確認を通過した問題。

 

 Dクラスが二日間かけて解く問題だった。

 

「一科目でも、ペアの合計点が基準へ届かなければ退学条件に触れる。八科目の総合点も同様だ。体育祭で下位となった者には、事前に告知された減点を適用する」

 

 何人かが息を呑んだ。

 

「ただし、全てが終わる前に結果を決めつける必要はない。目の前の答案へ集中しろ」

 

 茶柱が封を切る。

 

 最初の問題用紙が配られ始めた。

 

     ◇

 

 一科目目は国語だった。

 

 櫛田は、問題用紙が裏向きのまま机へ置かれるのを見た。

 

 手は震えていない。

 

 呼吸も乱れていない。

 

 昨夜までに、龍園から受け取った解答は確認してある。

 

 選択問題の番号。

 

 記述問題で必要になる語句。

 

 文章題の要点。

 

 すべて覚えている。

 

 茶柱の開始の合図と同時に、問題用紙を表へ返す。

 

 最初の文章へ目を通した。

 

 知らない文章だった。

 

 櫛田の視線が一度だけ止まる。

 

 出題範囲は同じだ。

 

 授業で扱った内容から外れていない。

 

 だが、龍園から受け取った問題にはなかった。

 

 次の頁を開く。

 

 選択肢の並びも違う。

 

 記憶していた最初の答えは二番。

 

 目の前の一問目には、二番を選べる根拠がない。

 

 問題文を読み違えた可能性を考える。

 

 もう一度読む。

 

 違う。

 

 似た問題ですらない。

 

 櫛田は答案用紙へ名前を書いた。

 

 指先に力を入れすぎない。

 

 顔を上げない。

 

 周囲を見れば、異変に気づいたと悟られるかもしれない。

 

 龍園が渡したものと、実際に出されたものが違う。

 

 理由は一つではない。

 

 学校が問題を差し戻した。

 

 Cクラス側で不備が見つかった。

 

 龍園が最初から偽物を渡した。

 

 あるいは、渡した後で差し替えた。

 

 どれであっても、手元の解答は使えない。

 

 堀北より高い点を取るには、自力で解くしかなかった。

 

 櫛田は最初の文章へ戻った。

 

 設問を読む。

 

 傍線部の前後を確認する。

 

 選択肢を一つずつ消していく。

 

 時間は失った。

 

 だが、まだ間に合う。

 

 櫛田の学力は低くない。

 

 クラスの中心で振る舞うために、勉強も、人付き合いも、手を抜いてこなかった。

 

 誰に聞かれても答えられるようにする。

 

 困っている者へ説明できるようにする。

 

 積み重ねてきたものは、龍園から受け取った解答が消えても残っている。

 

 櫛田は一問目の答えを書いた。

 

 その後は、止まらなかった。

 

     ◇

 

 須藤は、国語の三問目で手が止まった。

 

 文章の意味が分からない。

 

 選択肢を読んでも、どれも同じに見える。

 

 以前なら、その一問へ時間を使っていた。

 

 分からないまま飛ばすことが、負けを認めるように思えていた。

 

 今は違う。

 

 問題番号の横へ小さく印を付ける。

 

 次へ進む。

 

 漢字。

 

 授業で扱った語句。

 

 短い記述。

 

 取れる問題を先に取る。

 

 最後まで進んだ時、残り時間は十二分あった。

 

 須藤は三問目へ戻る。

 

 最初よりも、選択肢の違いが見えた。

 

 二つまで絞る。

 

 確信はない。

 

 それでも、空白にはしなかった。

 

 終了の合図が鳴る。

 

 答案を伏せた時、須藤は息を吐いた。

 

 満点ではない。

 

 だが、自分が取れる点を捨てなかった。

 

 前の席の堀北は振り返らない。

 

 試験中に声をかけることもできない。

 

 それでも、須藤には伝わっている気がした。

 

 これでいい。

 

 少なくとも、一科目目は計画どおりだった。

 

     ◇

 

 二科目目の数学で、教室の空気は少し変わった。

 

 須藤の鉛筆が迷いなく動く。

 

 堀北も、難問へ固執せず、確実な問題から埋めていく。

 

 二人が同じ問題を解く必要はない。

 

 堀北が落とす可能性のある計算量の多い問題を、須藤が取る。

 

 須藤が読み違えやすい条件問題を、堀北が取る。

 

 別々の答案でも、合計点は一つになる。

 

 池は最初の計算問題で混乱しかけた。

 

 問題文の下へ線を引く。

 

 何を求められているかを確認する。

 

 櫛田に何度も言われた手順だった。

 

 式を作る。

 

 数字を入れる。

 

 答えが出る。

 

 池は小さく目を見開いた。

 

 分かる問題がある。

 

 それだけで、次の問題へ向かう怖さが少し薄れた。

 

 山内も、平田から教えられた順番を守っている。

 

 三宅は長谷部と決めた配分を崩さない。

 

 幸村は井の頭が必要とする点を計算し、自分の得意科目で余裕を作る。

 

 綾小路は、佐藤の答案を見ることはできない。

 

 それでも、事前に決めた目標点を思い出し、自分が取るべき点だけを取っていく。

 

 高すぎず、低すぎない。

 

 佐藤の得意科目で不足が出ても、総合点が基準を割らない位置。

 

 余計な注目を集めず、安全圏を確保する。

 

 教室の後方では、ルルーシュが一度も手を止めていなかった。

 

 問題の難易度は想定より少し高い。

 

 だが、解けない範囲ではない。

 

 隣の列にいるスザクも同じだった。

 

 小テストで最低点を取った人物とは思えない速さで、答案を埋めていく。

 

 今は隠す必要がない。

 

 取れる点を取る。

 

 二人のペアにとって、それだけで十分だった。

 

     ◇

 

 初日の四科目が終わった。

 

 最後の答案が回収されても、教室はすぐには騒がしくならなかった。

 

 結果はまだ分からない。

 

 手応えがあっても、ペアの相手がどれだけ取ったかは見えない。

 

「池君、どうだった?」

 

 櫛田が先に声をかけた。

 

「数学はできた! 国語は知らん!」

 

「知らん、じゃなくて、どれくらい埋められた?」

 

「全部!」

 

「それなら、空欄よりずっといいよ」

 

「櫛田ちゃんは?」

 

「うん。大丈夫」

 

 櫛田は笑って答えた。

 

 その表情から、一科目目で何が起きたのかを読み取れる者はいない。

 

 綾小路は、自分の席から櫛田を見た。

 

 国語の開始直後、櫛田の手が僅かに止まった。

 

 その後は平静だった。

 

 問題が変わっていることには、最初の数分で気づいたはずだ。

 

 龍園から答えを受け取っていたなら、裏切られたことも理解している。

 

 それでも、池への態度は変わらない。

 

 怒りも、焦りも、表へ出さない。

 

 櫛田の強さは、誰からも好かれることだけではなかった。

 

 自分にとって不利な状況でも、必要な表情を崩さない。

 

 その能力があるからこそ、危険でもある。

 

「綾小路君、どうだった?」

 

 佐藤が尋ねた。

 

「普通だ」

 

「普通って、一番分からない答えなんだけど」

 

「目標点は取れていると思う」

 

「本当? じゃあ、私も大丈夫かも」

 

「手応えは?」

 

「英語はかなりできた。数学は、たぶん半分くらい」

 

「それなら問題ない」

 

「綾小路君がそう言うなら、信じようかな」

 

 佐藤は安心したように笑った。

 

 綾小路は短く頷いた。

 

 櫛田との勝負は、まだ終わっていない。

 

 Cクラスが問題を変更したことは確認できた。

 

 だが、堀北が必ず櫛田を上回る保証にはならない。

 

 櫛田は自力でも高得点を取れる。

 

 最後は、二人の学力で決まる。

 

 それでいい。

 

 不正な解答だけを消した後は、本人たちの勝負だった。

 

     ◇

 

 二日目。

 

 疲労は初日より濃くなっていた。

 

 四科目を終えた翌朝でも、頭は完全には切り替わらない。

 

 茶柱が配る問題を前に、何人かが手を握り直している。

 

「今日で最後だ」

 

 平田が小声で言った。

 

「昨日できなかった科目があっても、残りで取り返せる。最初から諦めないでいこう」

 

 誰かが「おう」と返す。

 

 声は一つではなかった。

 

 試験が始まる。

 

 物理では須藤が点を稼いだ。

 

 計算式を組み、単位を確認し、最後まで解く。

 

 堀北は難しい計算問題を無理に追わず、基礎問題と説明問題を確実に取った。

 

 英語では役割が逆になる。

 

 堀北が長文と文法を取り、須藤は単語と短文を埋める。

 

 須藤の答えに迷いはある。

 

 それでも、以前より空欄は少ない。

 

 櫛田は二日目も自力で解き続けた。

 

 龍園から渡された解答は、一つも使えない。

 

 問題の順番だけを変えたのではない。

 

 文章も、数値も、選択肢も変わっている。

 

 Cクラスは意図的に差し替えた。

 

 その事実だけは、もう疑いようがなかった。

 

 龍園は自分を守らなかった。

 

 最初から守ると言ってはいない。

 

 互いに利用するだけの関係だった。

 

 それでも、櫛田が渡したDクラスの問題が使えないと知った後、自分へ知らせず問題を変えた。

 

 利用価値がなくなったから切った。

 

 それだけだ。

 

 怒りはある。

 

 だが、試験中に向ける相手はいない。

 

 鉛筆を止めれば、堀北に負ける。

 

 櫛田は次の問題へ進んだ。

 

 分からない問題を飛ばす。

 

 確実な問題を先に取る。

 

 池へ教えたのと同じ手順を、自分にも使う。

 

 誰かへ教えるために整理した知識が、今は自分を支えている。

 

 それが皮肉だとは思わなかった。

 

 必要だから使う。

 

 櫛田にとっては、それで十分だった。

 

     ◇

 

 最後の科目が終わった。

 

 茶柱が答案を回収し、枚数を確認する。

 

「全科目終了だ」

 

 その一言で、教室の緊張が一気に崩れた。

 

 机へ突っ伏す者。

 

 背もたれへ体を預ける者。

 

 すぐに答え合わせを始めようとする者。

 

「終わったあああ!」

 

 池の声が教室へ響いた。

 

「まだ結果が出てないよ」

 

 櫛田が笑う。

 

「でも終わったのは終わっただろ!」

 

「それはそうだね」

 

 山内も隣で机へ伏せている。

 

「俺、英語の最後、全部同じ番号にした」

 

「どうして?」

 

 平田が困ったように尋ねる。

 

「時間なかったから、奇跡に賭けた」

 

「一問ずつでも読んだ方がよかったと思うよ」

 

「終わってから言うなよ!」

 

 笑いが起きる。

 

 須藤は笑わなかった。

 

 堀北の席まで歩いていく。

 

「どうだった」

 

「あなたは?」

 

「聞いてんのは俺だ」

 

「大きな失敗はしていないわ」

 

「なら、俺も大丈夫だ」

 

「根拠は?」

 

「数学と物理は取った。英語も空欄はほとんどねえ。国語も最後まで埋めた」

 

「そう」

 

 堀北は僅かに頷いた。

 

「なら、結果を待ちましょう」

 

「それだけかよ」

 

「よくやった、と言ってほしいの?」

 

「……別に」

 

 須藤は顔を背けた。

 

「でも、前よりはできたんでしょう」

 

「当たり前だ」

 

「なら、その点は評価しているわ」

 

 須藤は返事をしなかった。

 

 ただ、離れていく足取りは少し軽かった。

 

 ルルーシュは答案を回収する茶柱を見ていた。

 

「何か気になるのか?」

 

 スザクが尋ねる。

 

「問題の構成だ」

 

「難しかった?」

 

「難易度ではない。後半の科目ほど、急いで差し替えた痕跡がある」

 

「分かるのか?」

 

「選択肢の表記、余白、問題番号の配置が統一されていない。内容に不備はないが、同じ時期に一括して整えたものには見えない」

 

「Cクラスが直前に作り直したから?」

 

「可能性はある」

 

「櫛田さんが持ち込んだ後に、Cクラスが動いたことと関係してる?」

 

「まだつながらない」

 

 ルルーシュは即答した。

 

「関連は疑える。だが、間に何があったかは確認できていない」

 

「じゃあ、今は決めない?」

 

「ああ」

 

 スザクは頷いた。

 

「結果が出れば、分かることもあるかもしれない」

 

「そうだな」

 

 ルルーシュは教室を見た。

 

 櫛田は池と話している。

 

 表情は普段と同じだった。

 

 試験問題が事前に知っていたものと違ったのか。

 

 龍園から何かを受け取っていたのか。

 

 今の時点では、どちらも証明できない。

 

 残っているのは、提出前後の行動と、Cクラス側で起きた変化だけだ。

 

 推測を確定へ変えるには、結果が必要だった。

 

     ◇

 

 結果発表は数日後だった。

 

 朝のホームルームで茶柱が教壇へ立ち、厚い資料を机へ置いた。

 

 教室の視線が一斉に集まる。

 

「ペーパーシャッフルの結果が確定した」

 

 池が椅子へ座り直す。

 

 山内は両手を合わせた。

 

 須藤は腕を組み、正面を見ている。

 

 櫛田は普段と同じ姿勢で座っていた。

 

「先に退学者について伝える」

 

 茶柱は一度、教室全体を見た。

 

「Dクラスの退学者はゼロだ」

 

 一瞬の静寂。

 

 次の瞬間、教室が揺れた。

 

「よっしゃああ!」

 

 池が立ち上がる。

 

 山内が机を叩く。

 

 何人かが平田の周りへ集まりかけた。

 

「座れ。まだ説明は終わっていない」

 

 茶柱の声で、騒ぎが少し収まる。

 

 それでも、笑顔は消えなかった。

 

「全二十一組が、一科目ごとの基準と八科目の総合基準を超えた。体育祭の減点対象者も、減点適用後に基準を割っていない」

 

 須藤の肩から、僅かに力が抜ける。

 

 池は隣の櫛田へ何度も頷いていた。

 

「マジで助かった! 櫛田ちゃんのおかげだ!」

 

「池君が最後まで解いたからだよ」

 

「いや、俺一人じゃ絶対無理だったって!」

 

「それなら、次も一人でできるようにしようね」

 

「次もある前提!?」

 

 笑いが起きる。

 

 茶柱は資料をめくった。

 

「特に危険だった組も、事前に設定した余裕点が機能している。最も低かった組でも、総合点は基準を上回った。一科目の最低合計も、減点後に六十点を超えている」

 

 黒板へ、全二十一組の結果が表示される。

 

 須藤は、自分たちの点数を見たまま動かなかった。

 

 数学と物理は、想定より高い。

 

 国語と英語も、空欄を減らした分だけ点になっている。

 

 体育祭の減点を受けても、安全圏だった。

 

「須藤君」

 

 堀北が小声で呼ぶ。

 

「何だよ」

 

「数学と物理は、私より高いわ」

 

「だから言っただろ」

 

「ええ。助かった」

 

 須藤が堀北を見る。

 

 冗談ではない。

 

 形式的な礼でもない。

 

 堀北は、自分が取れなかった点を須藤が取ったことを、そのまま認めている。

 

「……おう」

 

 須藤はそれだけ答えた。

 

 櫛田は、自分の個人成績を確認した。

 

 高い。

 

 龍園から受け取った答えが使えなくても、クラス上位へ入っている。

 

 池の点数も、目標を超えていた。

 

 二人のペアに退学の危険はない。

 

 だが、堀北の点数は、それより上だった。

 

 僅差ではない。

 

 数科目で差を作られ、総合点でも上回られている。

 

 勝負は終わった。

 

 櫛田は表情を変えなかった。

 

 教室の中で、堀北を見ることもしない。

 

 先に確認するべき結果が残っている。

 

 茶柱が次の資料を表示した。

 

「クラス間の勝敗を発表する」

 

 教室が再び静かになる。

 

「Dクラスが作成した問題に対するCクラスの成績は、Dクラス側の基準を下回った。Dクラスの攻撃成功だ」

 

 平田が息を吐く。

 

 問題作成へ関わった生徒たちの顔に、安堵が広がる。

 

 櫛田が龍園へ渡した問題は正式版ではない。

 

 Cクラスは、堀北と平田が完成させた問題を事前に知ることができなかった。

 

「さらに、Cクラスが作成した問題に対するDクラスの成績は、Cクラスの成績を上回った。防衛もDクラスの勝利だ」

 

 今度は、抑えきれない歓声が上がった。

 

 攻撃と防衛の両方で勝った。

 

 体育祭で失った百クラスポイントを、そのまま取り戻したことになる。

 

「AクラスとBクラスの結果も含め、クラスポイントは次のように変動する」

 

 黒板へ数字が並ぶ。

 

 Aクラス、九百七十四。

 

 Bクラス、六百五十三。

 

 Cクラス、四百四十二。

 

 Dクラス、三百七十七。

 

「DクラスとCクラスの差は六十五ポイント。順位の変動はない。お前たちは、まだDクラスだ」

 

「でも、百ポイント戻ったんですよね?」

 

 平田が確認する。

 

「ああ。体育祭で失った分は取り戻した」

 

 その答えだけで十分だった。

 

 教室のあちこちで、喜びの声が重なる。

 

 池が平田へ抱きつこうとして避けられる。

 

 山内が自分の点数を何度も指さす。

 

 佐藤は綾小路へ笑いかけた。

 

「本当に大丈夫だったね」

 

「ああ」

 

「私、英語かなり取れてたでしょ?」

 

「助かった」

 

「もうちょっと嬉しそうに言ってよ」

 

「助かったと思っている」

 

「顔に出てないんだよね」

 

 佐藤は呆れながらも笑っていた。

 

 ルルーシュとスザクのペアは、全科目で余裕を持って基準を超えている。

 

 スザクは小テストで最下位を取った時とは違い、本来の点数を隠していない。

 

「これなら、最初から心配する必要はなかったな」

 

 スザクが結果を見て言った。

 

「お前が本試験でも調整を始める可能性だけは心配していた」

 

「しないって言っただろ」

 

「確認は必要だ」

 

「君は本当に、一言多いな」

 

「結果は出た」

 

「そこは否定しないけど」

 

 スザクは苦笑した。

 

     ◇

 

 ホームルームが終わった後、堀北は櫛田へ短い視線を送った。

 

 櫛田は意味を理解した。

 

 綾小路も席を立つ。

 

 三人は時間をずらして教室を出た。

 

 向かったのは、約束を交わした時と同じ空き教室だった。

 

 扉を閉める。

 

 櫛田は教室で見せていた笑顔を消した。

 

「結果は見たでしょう」

 

 堀北が言った。

 

「見たよ」

 

「私の方が上だった」

 

「分かってる」

 

 櫛田の声に、取り乱した様子はない。

 

「ずいぶん余裕だね」

 

「何のこと?」

 

「私が勝てると思っていた理由、分かってたんでしょう?」

 

 堀北の目が僅かに細くなる。

 

 綾小路は黙ったままだった。

 

「可能性の一つとしては考えていたわ」

 

「それで、問題が変わったことも知ってたの?」

 

「いいえ。結果を見て推測しただけよ」

 

「変えさせたのは堀北さん?」

 

「違うわ」

 

 堀北は綾小路を見なかった。

 

 櫛田の視線が綾小路へ移る。

 

「綾小路君?」

 

「答える必要はない」

 

「やっぱり、あんたなんだ」

 

「そう判断するのは自由だ」

 

 櫛田は唇を僅かに噛んだ。

 

 怒鳴らない。

 

 約束そのものを否定することもしない。

 

「……約束は守るよ」

 

 櫛田は堀北を見る。

 

「今後、堀北さんと綾小路君を退学させるための直接的な妨害はしない」

 

「表向きだけにならないことを願うわ」

 

「信じなくていいよ」

 

「そうする」

 

 櫛田の目が鋭くなる。

 

「本当に嫌い」

 

「知っているわ」

 

「勝ったからって、私を理解したつもりにならないで」

 

「なっていない」

 

 堀北は即答した。

 

「今回止められたのは、あなたの一つの行動だけよ。これで何もかも終わったとは思っていない」

 

「だったら、どうするの?」

 

「まだ決めていないわ」

 

 櫛田が眉を寄せる。

 

「退学させるかどうかも?」

 

「ええ」

 

「私が約束を守るって言っても?」

 

「約束だけで、これまでの行動が消えるわけではない。でも、今回の結果だけで、今すぐ結論を出すつもりもない」

 

「ずいぶん余裕だね」

 

「余裕ではないわ」

 

 堀北は櫛田から視線を逸らさなかった。

 

「判断を先送りにするなら、その間に起きることも考える必要がある。それを整理してから決める」

 

 櫛田は何も答えなかった。

 

 話が終わったと判断し、扉へ向かう。

 

「録音の複製は送っておくから」

 

「分かったわ」

 

「私が約束を破った時の証拠にするつもり?」

 

「あなたが破らなければ、使う必要はない」

 

「そう」

 

 櫛田は扉を開けた。

 

 出る直前、綾小路へ顔だけを向ける。

 

「龍園君に何を言ったの?」

 

「お前を守る利益はないと理解させただけだ」

 

 櫛田の表情が一瞬だけ止まった。

 

「最低」

 

「お互い様だろう」

 

 櫛田は返事をせず、教室を出た。

 

 扉が閉まる。

 

 堀北はしばらく何も言わなかった。

 

「あなたが問題を変えさせたのね」

 

「可能性を示しただけだ。選んだのは龍園だ」

 

「具体的に何を条件にしたの?」

 

「櫛田が持っていた解答を、そのまま使わせる危険だ」

 

「学校へ申告するつもりだった?」

 

「必要なら」

 

「そう」

 

 堀北はそれ以上を尋ねなかった。

 

 自分が守ったのは、Dクラスが提出する問題だった。

 

 綾小路が止めたのは、Cクラスから櫛田へ渡った答えだった。

 

 二つの対策は共有されていなかった。

 

 それでも、両方が成立したから勝てた。

 

「礼は言わないわ」

 

「必要ない」

 

「でも、私一人では止めきれなかった」

 

「お前が提出を守らなければ、俺の取引も成立しなかった」

 

「そうね」

 

 堀北は扉へ向かう。

 

「櫛田さんをどうするかは、改めて考える」

 

「俺へ相談する必要はない」

 

「クラス全体へ影響するなら、あなたにも関係があるでしょう」

 

「その範囲ならな」

 

 堀北は一度だけ頷き、教室を出た。

 

     ◇

 

 教室へ戻ると、まだ結果の話が続いていた。

 

 平田は各ペアの点数を確認し、危険だった科目を整理している。

 

 次に同じ形式の試験があれば、どこを改善するべきか。

 

 勝った直後でも、すでにその先を見ていた。

 

 池と山内は、自分たちが退学しなかったことを何度も喜んでいる。

 

 三宅と長谷部は、互いの得点配分が想定どおりだったことを確認していた。

 

 幸村は井の頭へ、苦手科目で基準を超えたことを説明している。

 

 須藤は自分の数学の点数を見せながら、誰かへ何度も自慢していた。

 

 ルルーシュは席に座ったまま、発表された結果を見直している。

 

 Dクラスの得点。

 

 Cクラスの得点。

 

 各科目の難易度。

 

 Cクラスが締切直前に問題を差し替えた痕跡。

 

 櫛田が正式期限より前に封筒を持ち込んだ時刻。

 

 堀北の対策だけで説明できるのは、Dクラスの正式問題が漏れなかったことまでだ。

 

 Cクラスが、自分たちの問題を変更した理由までは説明できない。

 

 変更によって不利益を受けたのは、事前の答えを持っていた者だけだ。

 

 櫛田がその答えを持っていたと仮定すれば、Cクラス側の変更には明確な意図がある。

 

 誰かが龍園へ働きかけた。

 

 櫛田を守る利益より、問題を変える利益を与えた。

 

 その人物は、Dクラスの提出対策が成立していることを知っていた。

 

 堀北本人がCクラス側へ働きかけた可能性は低い。

 

 彼女が進めていたのは、Dクラスの正式提出を守るための対策だった。Cクラス側へ接触した形跡は確認できていない。

 

 平田は櫛田の先行提出そのものを知らない。

 

 スザクも、内部情報が漏れている可能性までしか知らない。

 

 それ以外に、堀北の対策結果を知る機会があり、龍園へ接触する理由を持つ者。

 

 綾小路清隆。

 

 体育祭でも、龍園の要求が突然止まった直前、綾小路は表立って動いていなかった。

 

 今回も、堀北の対策結果を知る機会はあった。

 

 龍園へ接触する理由もある。

 

 だが、通信も、接触も確認していない。

 

 最有力であっても、確定ではない。

 

「何を見てるんだ?」

 

 スザクが隣へ来た。

 

「結果だ」

 

「それは見れば分かるよ」

 

「Cクラスが問題を変更した理由を考えている」

 

「分かった?」

 

「誰かが龍園へ働きかけた可能性が高い」

 

「誰かって?」

 

「まだ決めない」

 

 スザクはルルーシュの端末を覗き込まなかった。

 

「確定してないから?」

 

「ああ」

 

「櫛田さんのことは?」

 

「堀北が個人的な問題を整理した後で、必要な範囲を話すと言っている」

 

「君も内容は知らないんだよね」

 

「知らない」

 

「なら、待とう」

 

「そのつもりだ」

 

 スザクは教室を見渡した。

 

「全員残ったな」

 

「ああ」

 

「それは喜んでいいだろ?」

 

「否定していない」

 

「顔に出てないんだよ」

 

「お前まで佐藤と同じことを言うのか」

 

「見てたのか?」

 

「聞こえただけだ」

 

 スザクは笑った。

 

 教室の中央では、池が櫛田を平田たちの輪へ引っ張っていた。

 

「櫛田ちゃんも来いよ! 一番頑張ってたんだから!」

 

「私はそんなに大したことしてないよ」

 

「したって! 俺が退学してないのが証拠!」

 

「それは池君が頑張ったからでしょ」

 

「二人とも頑張ったんだよ」

 

 平田が笑って言う。

 

 山内が自分も混ぜろと声を上げる。

 

 須藤は少し離れたところから、騒がしいと文句を言いながら、その場を離れない。

 

 堀北は自分の席へ戻り、輪の外から教室を見ていた。

 

 櫛田は池へ笑いかける。

 

 山内の大げさな話へ呆れた顔をする。

 

 平田から各ペアの結果を聞き、危険だった組が無事だったことを一緒に喜ぶ。

 

 数十分前、空き教室で堀北への嫌悪を隠さなかった人物と同じには見えない。

 

 それでも、池へ教えたことも、問題作成で不備を見つけたことも、今ここで誰かの無事を喜んでいることも、起きた事実だった。

 

 クラスは勝利を喜ぶ。

 

 櫛田も、いつもの笑顔でその輪に立っている。

 

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