反逆の王子は実力至上主義の世界で優しい世界を望む   作:evejanjan

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消えた一人

 二学期の終業式が終わった。

 

 体育館を出た生徒たちが、冬休みの予定を口にしながら校舎へ戻っていく。

 

 軽井沢恵も、その流れの中にいた。

 

「恵、先に教室戻ろ」

 

 佐藤麻耶が隣から声をかける。

 

「うん」

 

 軽井沢は笑って答えた。

 

 端末は鞄の中にある。

 

 朝から一度も開いていない。

 

 開けば、昨日届いた文面が残っている。

 

 明日の終業式が終わったら、特別棟へ一人で来い。

 

 誰かに話した場合も、来なかった場合も、中学で隠してきたことをDクラス全員にばらす。

 

 もう今日は、その明日だった。

 

「終わったら昇降口ね。みーちゃんたちも待ってるから」

 

「分かってるって」

 

「また忘れそうな顔してる」

 

「失礼なんだけど」

 

 いつもの調子で返す。

 

 佐藤は疑わず笑った。

 

 その笑顔を見たまま、軽井沢は考える。

 

 昇降口へ行けばいい。

 

 平田もいる。

 

 佐藤も、女子たちもいる。

 

 龍園から届いた連絡を見せなくても、今日は一人にならずに済む。

 

 特別棟へは行かない。

 

 そう決めるだけでよかった。

 

 けれど、龍園が何を知っているのかは分からない。

 

 真鍋から何を聞いたのか。

 

 中学時代の誰へ辿り着いたのか。

 

 証拠を持っているのか。

 

 全部が脅しなのか。

 

 確かめる方法はなかった。

 

 誰かへ相談すれば、龍園はばらすと言っている。

 

 相談した相手が守ってくれる保証もない。

 

 昨日までなら、最初に選べた名前があった。

 

 今後、俺から指示を出すことはない。

 

 その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

 

 守るという約束は、もう残っていない。

 

     ◇

 

 教室へ戻ると、担任から冬休み中の注意事項が伝えられた。

 

 配布物。

 

 寮の利用時間。

 

 外出時の申請。

 

 緊急連絡先。

 

 どれも軽井沢の耳を通り抜けていく。

 

 前方では、平田が教師の説明を聞きながら、配られた用紙を一枚ずつ確認していた。

 

 少し離れた席にはルルーシュ。

 

 窓側にはスザク。

 

 後方には綾小路がいる。

 

 振り返らなくても分かる。

 

 教室の中には、選べる相手が何人もいた。

 

 それでも、軽井沢は口を開かなかった。

 

 ホームルームが終わる。

 

 椅子を引く音が重なった。

 

「じゃあ、昇降口で」

 

 佐藤が鞄を持ち上げる。

 

「私、ちょっと先生に聞くことあるから先行ってて」

 

「何聞くの?」

 

「冬休みの外出のこと。すぐ終わる」

 

「待ってようか?」

 

「いいって。あとで行くから」

 

 軽井沢は笑った。

 

 佐藤は少し迷ったあと、他の女子に呼ばれて教室を出た。

 

 平田も、配布物について担任へ確認している。

 

 ルルーシュとスザクは掲示板の前で、冬休み中も残す連絡手順について話していた。

 

 綾小路は席を立ち、何人かの男子と一緒に廊下へ出る。

 

 一度もこちらを見なかった。

 

 軽井沢は担任のところへ行かない。

 

 教室に残った生徒が減るのを待ってから、反対側の扉を使った。

 

 昇降口へ向かう階段には下りない。

 

 連絡通路を渡り、特別棟側へ進む。

 

 人の声が少なくなる。

 

 一歩進むたびに、戻る理由が減っていくように感じた。

 

 実際には、いつでも戻れる。

 

 端末を開いて、平田へ連絡すればいい。

 

 堀北へ危険があるとだけ送ってもいい。

 

 ルルーシュは、秘密そのものを話す必要はないと言った。

 

 スザクは、呼び出されたことを誰かが知っているだけでも違うと言った。

 

 正しい。

 

 どちらも正しい。

 

 それでも、その正しさを使うためには、自分から誰かへ助けを求めなければならない。

 

 その先で過去を知られるかもしれない。

 

 平田の隣に立つ今の自分が壊れるかもしれない。

 

 軽井沢は足を止めた。

 

 特別棟の入口まで、あと少しだった。

 

 端末を取り出す。

 

 通話履歴の一番上に、綾小路の番号が残っている。

 

 発信には触れなかった。

 

 代わりに短い文面を作る。

 

『龍園に呼ばれた。特別棟にいる』

 

 そこまで入力して、指が止まる。

 

 消す。

 

 もう一度入力する。

 

『助けて。特別棟』

 

 送信した。

 

 画面には送信済みの表示だけが残る。

 

 返事はない。

 

 すぐに来るはずがない。

 

 まだ読んでいないだけかもしれない。

 

 それでも、軽井沢は画面を見続けた。

 

 一分も経っていない。

 

 通知は増えない。

 

 協力関係は終わった。

 

 昨日告げられた言葉が、送信済みの表示より強く残った。

 

「来たか」

 

 入口の内側から声がした。

 

 石崎が立っている。

 

 軽井沢は端末を鞄へ入れた。

 

「龍園は?」

 

「上だ」

 

「特別棟ってだけで、屋上なんて聞いてないんだけど」

 

「ここまで来て帰る気か?」

 

 石崎は笑わなかった。

 

 軽井沢の後ろには、誰もいない。

 

 入口脇の監視カメラは、作動を示す表示が消えている。

 

 廊下の先にあるもう一台も同じだった。

 

「何したの?」

 

「お前が気にすることじゃねえ」

 

 石崎が階段を示す。

 

「一人で来いって言われただろ」

 

 軽井沢は動かない。

 

 鞄の中で端末が震えることを待った。

 

 何も起きない。

 

「早くしろ」

 

 石崎の声が低くなる。

 

 軽井沢は階段へ足をかけた。

 

     ◇

 

 屋上へ続く最後の踊り場に、アルベルトがいた。

 

 階段の幅を塞ぐように立ち、軽井沢が上がってくるのを黙って見ている。

 

 石崎は軽井沢の後ろについた。

 

 逃げ道は残っていない。

 

 屋上の扉が開く。

 

 冷たい風が階段の内側まで入り込んだ。

 

 軽井沢は目を細める。

 

 外には龍園と伊吹がいた。

 

 床には、大きな容器といくつかのバケツが置かれている。

 

 龍園はフェンス近くに立ち、軽井沢を見ると口元を上げた。

 

「時間どおりだな」

 

「呼び出した理由は?」

 

「分かって来たんじゃねえのか」

 

「分かんない」

 

「なら教えてやる」

 

 龍園が一歩近づく。

 

「Xは誰だ」

 

 軽井沢は表情を変えなかった。

 

「何それ」

 

「俺の邪魔をしてきた奴だ。問題変更を要求した。堀北への圧力も潰した。船じゃ、お前に近づいた真鍋たちまで止めた」

 

「同じ人って証拠あるの?」

 

「ねえ」

 

 龍園は簡単に認める。

 

「だから、お前で確かめる」

 

「私、何も知らない」

 

「ならすぐ終わる」

 

 龍園は軽井沢の前で足を止めた。

 

「名前を言え。Xが誰か。お前を守った奴が誰か。言えば帰してやる」

 

「知らないって言ってるでしょ」

 

「真鍋は、お前が中学の話を嫌がると言ってた」

 

 胸の奥が縮む。

 

 軽井沢は、それを顔へ出さないようにした。

 

「それが何?」

 

「中身までは知らねえ」

 

 龍園の言葉に、一瞬だけ呼吸が戻る。

 

 だが、次の言葉で再び止まった。

 

「知らなくても、お前が隠してると広めることはできる」

 

 龍園は端末を取り出す。

 

「中学の知り合いを探す。真鍋たちにも好きに話させる。事実がなくても噂は残る。平田の彼女が、何を隠してここまで登ったのか。クラスの連中は勝手に考える」

 

「最低」

 

「今さら気づいたか?」

 

 伊吹が壁際で腕を組んでいる。

 

 軽井沢と目が合っても、何も言わなかった。

 

 石崎は屋上扉の近く。

 

 アルベルトは扉の外へ戻り、階段側を見張っている。

 

「もう一度聞く」

 

 龍園が言う。

 

「Xは誰だ」

 

「知らない」

 

「お前が船で真鍋たちに囲まれたあと、あいつらは急に近づかなくなった」

 

「偶然じゃない?」

 

「映像が届いた」

 

 軽井沢の指先が冷たくなる。

 

 龍園はその変化を見逃さなかった。

 

「やっぱり知ってるな」

 

「何を」

 

「少なくとも、誰かが動いたことは知ってる」

 

「真鍋から聞いたなら、私に聞く必要ないじゃん」

 

「俺が知りたいのは、映像を送った奴の名前だ」

 

「知らない」

 

 龍園は数秒、軽井沢を見た。

 

 それから石崎へ視線を向ける。

 

「鞄」

 

「触らないで」

 

 軽井沢が後ろへ下がる。

 

 石崎が腕を伸ばした。

 

 軽井沢は鞄を抱え込む。

 

 伊吹が前へ出て、軽井沢の手首を掴んだ。

 

「離して!」

 

「暴れなきゃ何もしない」

 

「もうしてるでしょ!」

 

 石崎が鞄を奪う。

 

 中から端末を取り出し、龍園へ渡した。

 

 画面はロックされている。

 

「番号を見れば早いと思ったが、まあいい」

 

 龍園は端末の電源を切り、屋上扉の近くへ置いた。

 

 送った連絡は、もう届いているはずだった。

 

 返事は来なかった。

 

 電源が切られる直前まで、振動はなかった。

 

 軽井沢の中で、最後に残っていた期待が薄くなる。

 

「名前を言えば返す」

 

「知らない」

 

「じゃあ、思い出すまで付き合ってもらう」

 

 龍園が足元の容器を見る。

 

 石崎がバケツを持ち上げた。

 

 中には水が入っている。

 

 軽井沢は動けなかった。

 

 冬の屋上。

 

 冷たい風。

 

 囲まれた場所。

 

 逃げられない人数。

 

 視界の端が狭くなる。

 

 中学時代の声が、今の声へ重なった。

 

 誰も助けない。

 

 逃げても追いつかれる。

 

 逆らえばもっと酷くなる。

 

「やめて」

 

 声が小さくなる。

 

 龍園は笑った。

 

「その顔だ」

 

「何の話」

 

「お前が隠してる顔だよ」

 

 石崎が迷うように龍園を見る。

 

「やれ」

 

 水が頭から落ちた。

 

 呼吸が止まる。

 

 冷たさが髪から首筋へ走り、制服の内側へ入り込む。

 

 軽井沢は膝を折りかけた。

 

 伊吹が腕を掴んだまま支える。

 

「立て」

 

「……触らないで」

 

 歯が鳴る前に、奥歯を噛み締める。

 

 龍園は軽井沢の前へしゃがんだ。

 

「これで昔を思い出したか?」

 

「知ら、ない」

 

「Xの名前を言え」

 

 軽井沢は顔を上げた。

 

 濡れた髪が頬へ張りつく。

 

 寒い。

 

 怖い。

 

 今すぐ終わらせたい。

 

 綾小路の名前を言えばいい。

 

 龍園が求めている答えは、それだった。

 

 言えば、この場所から出られるかもしれない。

 

 けれど、本当に捨てられたのなら。

 

 もう守られないのなら。

 

 それでも名前を売れば、残るものは何もない。

 

「知らない」

 

 軽井沢はもう一度答えた。

 

     ◇

 

 綾小路清隆の端末に、短い通知が届いたのは、教室を出て間もなくのことだった。

 

『助けて。特別棟』

 

 送信者は軽井沢。

 

 綾小路は足を止めた。

 

 龍園が軽井沢へ到達する可能性は考えていた。

 

 真鍋たちの接触が止まった経緯を調べれば、軽井沢の周囲で誰かが動いたことは分かる。

 

 そこからX本人ではなく、Xが反応する相手を探す発想へ移ることも不自然ではない。

 

 軽井沢との関係を切ったように見せたあと、彼女が何を選ぶかも確認する必要があった。

 

 だが、連絡が届いた以上、観察は終わりだった。

 

 綾小路は返信を打たない。

 

 軽井沢の端末を龍園たちが確認する可能性がある。

 

 返事を残せば、関係を示す材料になる。

 

 必要なのは、言葉ではない。

 

 端末をポケットへ戻す。

 

 ルルーシュへは連絡しない。

 

 スザクへも知らせない。

 

 龍園が求めているのは自分だ。

 

 ここで他の人間を動かせば、軽井沢との線だけでなく、新しい線まで増える。

 

 綾小路は一人で特別棟へ向かった。

 

     ◇

 

 終業式後の昇降口。

 

 佐藤は何度目かになる端末の画面を見た。

 

「まだ来ない」

 

 隣にいた篠原が校舎側を見る。

 

「先生に聞くことあるって言ってたんでしょ?」

 

「もうホームルーム終わって結構経ってる」

 

 平田が二人へ近づいた。

 

「軽井沢さんは?」

 

「来てない。連絡も返ってこない」

 

「電話は?」

 

「さっきからしてる。でも電源切れてるみたい」

 

 平田の表情が変わる。

 

「教室を見てくる」

 

「私も行く」

 

「佐藤さんはここにいて。戻ってくるかもしれないから」

 

 平田は校舎へ向かう。

 

 その途中で、スザクと行き合った。

 

 スザクは昇降口とは別の方向から戻ってきたところだった。

 

「平田、どうした?」

 

「軽井沢さんが集合場所に来ていない。連絡も取れないんだ」

 

 スザクの足が止まる。

 

「いつから?」

 

「ホームルームが終わってから。佐藤さんには、先生へ聞くことがあると言っていたらしい」

 

「教室には?」

 

「今から確認する」

 

 スザクは特別棟側へ続く廊下を見る。

 

 ホームルームが終わったあと、石崎、伊吹、アルベルトの三人が、そちらへ向かう姿を見ていた。

 

 三人とも部活動の荷物は持っていなかった。

 

 一般生徒の少ない特別棟へ、揃って向かう理由も分からなかった。

 

 その時点では、Cクラスの行動として記録するだけでよかった。

 

 軽井沢と連絡が取れないという情報が加われば、意味が変わる。

 

「ルルーシュを呼ぶ」

 

 スザクが言った。

 

     ◇

 

 教室には軽井沢の姿がなかった。

 

 担任も、軽井沢から質問を受けていない。

 

 平田は端末を握ったまま、廊下へ戻る。

 

 ルルーシュは教室前でスザクから話を聞いていた。

 

「石崎、伊吹、アルベルトが特別棟へ向かったのを見たのは確かか」

 

「ああ。ホームルームが終わったあと、三人一緒だった」

 

「龍園は?」

 

「見ていない」

 

「軽井沢さんは教室にもいなかった」

 

 平田が伝える。

 

「先生へ質問したという話も違っていた。電話は繋がらない」

 

 ルルーシュはすぐには結論を出さない。

 

 確認できている事実を並べる。

 

 龍園の側近三人が、一般生徒の少ない特別棟へ向かった。

 

 軽井沢が予定していた合流場所へ現れない。

 

 本人は行き先を偽っている。

 

 端末の電源が切れている。

 

 それだけでは、軽井沢が特別棟にいるとは断定できない。

 

「恵なら、特別棟の方で見たけど」

 

 教室の中から声がした。

 

 篠原が佐藤と一緒に戻ってきている。

 

「いつだ?」

 

 ルルーシュが聞く。

 

「ホームルームのあと。私、教室に忘れ物して戻った時。連絡通路の向こうへ歩いてた」

 

「一人だったか」

 

「見えた範囲では一人。声かけようと思ったけど、急いでるみたいだったから」

 

「何で先に言わなかったの?」

 

 佐藤が篠原を見る。

 

「先生のところ行くって聞いてたし、特別棟にも先生いるのかなって」

 

 責めても意味はない。

 

 ルルーシュは情報を更新する。

 

 軽井沢も特別棟方向へ向かった。

 

 龍園の側近三人と同じ方向。

 

 これまでに分かったのは、龍園がX本人だけでなく、圧力をかけた時に動く人間関係を調べていたこと。

 

 軽井沢は、その地図へ加えられている可能性が高かった。

 

「龍園が軽井沢を使って、探している相手を動かそうとしている可能性がある」

 

 ルルーシュが言う。

 

「場所は特別棟?」

 

 平田が聞く。

 

「可能性が高い。だが、棟内のどこかまでは分からない」

 

「すぐ行こう」

 

 スザクが歩き出しかける。

 

 その視線が廊下の先で止まった。

 

 綾小路が一人で、特別棟へ続く連絡通路へ入っていく。

 

 誰かと話している様子はない。

 

 周囲を見回すこともなく、一定の速度で進んでいる。

 

「綾小路も向かった」

 

 スザクが言う。

 

 ルルーシュも、その背中を確認した。

 

 軽井沢。

 

 龍園の側近三人。

 

 そして綾小路。

 

 別々だった線が、同じ場所へ集まっている。

 

 それでも、綾小路がXだとはまだ確定しない。

 

 軽井沢から連絡を受けたのか。

 

 偶然別の用件があるのか。

 

 龍園に呼ばれたのか。

 

 確認できない可能性はいくつも残っている。

 

 ただし、軽井沢が危険な状態にある可能性を無視する理由にはならなかった。

 

「平田。佐藤たちをここへ残せ。軽井沢から連絡があれば、内容をそのまま送ってくれ」

 

「僕も行く」

 

「軽井沢が戻った時、事情を知る人間が必要だ。教師へ伝える判断もお前に任せる」

 

「でも――」

 

「危険が確認できれば、こちらから連絡する」

 

 平田は唇を結んだ。

 

 それでも頷く。

 

「分かった。必ず連絡して」

 

「スザク」

 

「ああ」

 

 二人は特別棟へ向かった。

 

 綾小路の姿は、すでに連絡通路の先へ消えていた。

 

     ◇

 

 屋上では、二杯目の水が軽井沢の肩から流れ落ちていた。

 

 強い震えを止められない。

 

 指先の感覚が薄い。

 

 龍園は答えを急がない。

 

 軽井沢が自分から名前を口にするまで、同じ質問を繰り返すつもりだった。

 

「Xは誰だ」

 

「知らない」

 

「お前を守った奴だ」

 

「誰にも、守られてない」

 

 声が掠れる。

 

 その言葉は龍園へ向けたものだった。

 

 同時に、自分へ言い聞かせるためのものでもあった。

 

 綾小路から返事はなかった。

 

 来るという約束もない。

 

 それでも、名前は言わない。

 

 軽井沢は濡れた手を握った。

 

 これ以上何も残らなくても、自分で選べるものだけは残す。

 

     ◇

 

 綾小路は特別棟へ入った。

 

 入口付近の監視設備は作動していない。

 

 人の気配は上階にある。

 

 階段を上る。

 

 一階。

 

 二階。

 

 通常使われている教室から、生徒の声は聞こえない。

 

 さらに上へ進む。

 

 足音を隠す必要はなかった。

 

 龍園は、自分が来ることを望んでいる。

 

 最後の階段へ足をかける。

 

 上には、アルベルトが待っていた。

 

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