反逆の王子は実力至上主義の世界で優しい世界を望む   作:evejanjan

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怪物の拳

 その声と同時に、アルベルトの巨体が綾小路へ踏み込んだ。

 

 足音が一つ、屋上の床を強く鳴らす。

 

 右肩が僅かに沈む。

 

 視線は綾小路の顔ではなく、胸元へ向いていた。

 

 腕だけで殴る動きではない。

 

 踏み込みと体重を、そのまま拳へ乗せる。

 

 綾小路は、正面から押し返そうとはしなかった。

 

 アルベルトの拳が迫る。

 

 身体を半歩だけ横へずらし、前腕を重ねる。

 

 衝撃が腕から肩へ抜けた。

 

 完全には避けていない。

 

 受けた音が、風の中でも聞こえた。

 

 綾小路の靴底が床を滑る。

 

 だが、軽井沢との間からは外れなかった。

 

 重心も崩れていない。

 

 アルベルトは止まらない。

 

 一撃目で押し切れなかったと分かると、左腕を伸ばした。

 

 捕まえれば、そのまま倒せる。

 

 そう考えた動きだった。

 

 綾小路は差し出された手の外側へ回る。

 

 アルベルトの視線が追うより先に、脇腹へ短く拳を入れた。

 

 大きく振りかぶらない。

 

 距離もほとんどない。

 

 それでも、アルベルトの息が一瞬止まった。

 

「……っ」

 

 身体が僅かに固まる。

 

 綾小路は追撃しない。

 

 軽井沢の前へ戻るため、位置だけを整えた。

 

 アルベルトは腹部へ手を当てず、もう一度構える。

 

 痛みを表へ出す様子はない。

 

 だが、呼吸が一度乱れたことまでは隠せなかった。

 

     ◇

 

 屋上扉の外で、スザクの指が取っ手へ食い込んだ。

 

 最初の一撃を受けた時、綾小路は倒れなかった。

 

 軽井沢との間からも外れていない。

 

 すぐに介入する条件には達していなかった。

 

「今のは、偶然じゃない」

 

 ルルーシュが低く言った。

 

 綾小路は、アルベルトが踏み込む前から動いていた。

 

 肩が沈むより早く、足の位置を変えていた。

 

 衝撃を受ける場所も選んでいる。

 

「攻撃が来る方向を読んでいた」

 

「ああ」

 

 スザクは確認窓の向こうを見たまま答える。

 

「受けたあとも、次の動きを見失ってない」

 

 走るのが速い。

 

 身体能力を隠している。

 

 それだけでは説明できない。

 

 初めて人から攻撃を受けた者なら、視線や呼吸に何らかの乱れが出てもおかしくない。

 

 綾小路には、それがなかった。

 

「戦闘経験がある」

 

 ルルーシュは初めて、その可能性を強く見た。

 

「少なくとも、殴り合いを知らない人間の動きじゃない」

 

 スザクは否定しない。

 

 だが、綾小路と自分の強さを比べようとはしなかった。

 

 見るべきなのは勝敗ではない。

 

 軽井沢の意識。

 

 呼吸。

 

 震え。

 

 そして、綾小路が彼女との間から外されるかどうかだった。

 

     ◇

 

「石崎」

 

 龍園が呼ぶ。

 

「お前も行け」

 

「はい」

 

 石崎は迷わなかった。

 

 アルベルトが一人で止められないとは、まだ思っていない。

 

 ただ、龍園が二人で潰せと言うなら従う。

 

 拳を握り、綾小路の正面へ回る。

 

 アルベルトは左。

 

 石崎は右。

 

 逃げ道を二方向から塞ぐ配置だった。

 

「二人で来るのか」

 

 綾小路が聞く。

 

「怖くなったか?」

 

 龍園が返す。

 

「確認しただけだ」

 

「なら、続けろ」

 

 石崎が先に動いた。

 

 身体が大きく前へ傾く。

 

 右拳を引く動きも隠していない。

 

 狙いは顔。

 

 当てたあとのことより、まず一発を入れることへ意識が向いている。

 

 綾小路は拳が放たれる前に、石崎の踏み出した脚へ足を入れた。

 

 膝の外側を短く打つ。

 

「っ――」

 

 踏み込みが途中で止まる。

 

 石崎の上体だけが前へ流れた。

 

 綾小路の掌底が顎の下へ入る。

 

 頭が跳ね上がった。

 

 力任せに打ち抜いたわけではない。

 

 だが、視線と平衡感覚を一度に失わせるには十分だった。

 

 石崎の足がもつれる。

 

 膝をつき、両手を床へついた。

 

「石崎!」

 

 伊吹の声が飛ぶ。

 

 その瞬間、アルベルトが横から腕を振るった。

 

 石崎へ向いていた綾小路の死角を狙った攻撃だった。

 

 綾小路は振り返らない。

 

 床を擦る靴音と、背後から近づく気配に合わせて身体を沈める。

 

 腕が頭上を通過した。

 

 綾小路はアルベルトの懐へ入る。

 

 膝の内側へ踵を当てた。

 

 巨体の軸が僅かに傾く。

 

 そのまま胸骨の下へ拳を突き込んだ。

 

 最初に呼吸を乱した場所とは違う。

 

 だが、息を続けられなくするための位置だった。

 

 アルベルトの喉から空気が漏れる。

 

 片膝が床へ落ちた。

 

 それでも腕を伸ばそうとする。

 

 綾小路は手首を取り、肘の向きを変えた。

 

 体重を支えられない角度へ導く。

 

 アルベルトの両手が床へついた。

 

 無理に折ろうとはしない。

 

 立ち上がるために腕へ力を入れれば、自分の体重が関節へ返る。

 

 それだけで動きを止められる。

 

「まだ続けるか」

 

 綾小路が聞く。

 

 アルベルトは答えなかった。

 

 呼吸を戻そうとしている。

 

 立ち上がろうとしても、膝に力が入らない。

 

 綾小路が手を離す。

 

 アルベルトはその場へ横倒しにならず、片膝と片手で身体を支えた。

 

 意識はある。

 

 だが、すぐに戦闘へ戻れる状態ではなかった。

 

 石崎も顎を押さえながら立とうとした。

 

 足へ力を入れた瞬間、膝が再び床へ落ちる。

 

 二人とも倒された。

 

 それでも、必要以上に傷つけられてはいない。

 

     ◇

 

 ルルーシュは、確認窓から目を離せなかった。

 

 アルベルトは体格で大きく上回る。

 

 石崎も、喧嘩に慣れていない動きではない。

 

 その二人を相手に、綾小路は軽井沢の前をほとんど離れなかった。

 

 相手の数が増えても、視線は一人へ固定されていない。

 

 石崎の動きを止めながら、アルベルトの接近も把握していた。

 

「多少戦える、という程度じゃない」

 

 ルルーシュが言う。

 

「二人の動きを制御していた」

 

 自分が優位な場所へ逃げたのではない。

 

 軽井沢を守る位置から、相手だけを動かしている。

 

 打撃も、倒すために必要な場所へ限られていた。

 

 自分の予測を、大きく上回っている。

 

「強いだけじゃない」

 

 スザクが言った。

 

「どこを打てば動けなくなるか分かってる。相手が次にどう動くかも読んでる」

 

「訓練の結果か」

 

「今の動きだけで、どこで身につけたかまでは分からない」

 

 スザクの視線は、すぐに軽井沢へ戻った。

 

 軽井沢は座り込んだまま、綾小路を見ている。

 

 意識は明瞭。

 

 震えは続いている。

 

 新しい危害もない。

 

 綾小路も戦闘を続けられる。

 

 介入条件には達していなかった。

 

「まだ入らない」

 

「ああ」

 

 ルルーシュは答えた。

 

 綾小路は戦闘を続けられている。

 

 軽井沢への新しい危害もなく、二人の間を遮る位置も保たれていた。

 

 今、確認すべきなのは勝敗ではない。

 

 軽井沢の安全と、介入する必要が生じたかどうかだった。

 

 何か一つでも崩れれば扉を開く準備は変えていない。

 

     ◇

 

 軽井沢は、声を出せなかった。

 

 綾小路が体育祭で速かったことは知っている。

 

 それでも、目の前で起きていることとは結びつかなかった。

 

 アルベルトの拳を受けても倒れない。

 

 石崎と同時に襲われても、慌てない。

 

 必要な時だけ動き、二人を立てなくした。

 

 教室の隅で目立たず、何を考えているか分からなかった男子生徒。

 

 自分へ命令し、秘密を握り、必要な時だけ連絡を寄越す相手。

 

 そのどれとも一致しない姿が、目の前にあった。

 

 綾小路は軽井沢を振り返らない。

 

 まだ終わっていないからだ。

 

「次は私?」

 

 伊吹が一歩前へ出た。

 

 龍園の指示を待った声ではない。

 

「やめておけ」

 

 石崎が床から言う。

 

「うるさい」

 

 伊吹は短く返した。

 

 アルベルトと石崎が正面から制圧されたことは分かっている。

 

 だからこそ、同じ攻め方はしない。

 

 足幅を狭くする。

 

 半身になり、綾小路の正面から攻撃線をずらした。

 

 先ほどまでとは違う。

 

 綾小路は、伊吹が速度と技術を使う人間だと判断した。

 

「軽井沢から離れろ」

 

 伊吹が言う。

 

「それはできない」

 

「なら、そこから倒す」

 

 伊吹が一気に距離を詰める。

 

 低い蹴りを見せる。

 

 綾小路が脚を引いた瞬間、その踏み込みを上体への攻撃へつなげた。

 

 拳。

 

 続けて肘。

 

 綾小路は前腕で受け、半歩だけ下がる。

 

 軽井沢との間を遮る位置は崩さない。

 

 伊吹はさらに踏み込み、間を置かず横蹴りへ移った。

 

 蹴りが上がる直前、綾小路は伊吹の前腕へ手を添える。

 

 勢いを止めるのではない。

 

 上体の向きだけを外へずらす。

 

 伊吹の横蹴りが空を切った。

 

 蹴り足が床へ戻る瞬間、綾小路の拳が腹部へ入る。

 

「かっ……」

 

 息が抜ける。

 

 伊吹の身体が前へ折れた。

 

 綾小路は肩を押さえ、床へ倒れる方向だけを変える。

 

 頭を打たない位置へ落とした。

 

 伊吹はすぐに起きようとする。

 

 だが、呼吸が戻らない。

 

 片手を床についたまま、綾小路を睨んだ。

 

「まだ……」

 

「呼吸を戻してからにしろ」

 

 綾小路は追撃しなかった。

 

 勝ち誇る表情もない。

 

 伊吹が立ち上がれないと確認すると、視線を龍園へ移した。

 

     ◇

 

 アルベルト。

 

 石崎。

 

 伊吹。

 

 三人が屋上の床へ残っている。

 

 意識はある。

 

 だが、すぐに戦闘を続けられる者はいない。

 

 龍園だけが立っていた。

 

 笑みは消えていない。

 

 自分の側近が順に倒されても、後ろへ退かなかった。

 

 むしろ、待っていたものをようやく見つけたように、綾小路を見据える。

 

 綾小路も龍園を見る。

 

 その途中で、屋上扉の確認窓へ一瞬だけ視線を向けた。

 

 細い窓の向こうで、光が遮られている。

 

 次の瞬間、影の位置が僅かに変わった。

 

 誰かが扉の外から、こちらを見ている。

 

 一人か、複数かまでは判別できない。

 

 戦闘が始まっても扉は開かなかった。

 

 少なくとも、現時点ですぐに介入するつもりはないらしい。

 

 誰がいるのかまでは、まだ断定しない。

 

 綾小路はすぐに視線を龍園へ戻した。

 

 龍園は、その短い動きを気に留めなかった。

 

 倒れた三人を一度だけ見る。

 

 そして、自分の拳を握った。

 

 王が、ようやく怪物の前へ歩み出た。

 

「やっと俺の番か」

 

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