反逆の王子は実力至上主義の世界で優しい世界を望む 作:evejanjan
時間は、夕食より前へ戻る。
その日の朝、橘茜は、誰より早く起きたわけではなかった。
それでも、洗面と着替えを終えた時には、共同室の机に前夜の記録用紙が残っていることへ気づいた。
生活当番が回収するはずの用紙だった。
橘は束を揃え、担当の生徒へ声をかける。
「先に提出した方がいいと思います。朝の点呼までに確認が入るかもしれませんから」
言われた三年生女子が、手を止めた。
「それ、今すぐやれってこと?」
「いえ。担当になっていたので、念のため――」
「橘さんが生徒会にいたのは知ってるけど、ここでは同じ小グループだから」
強い拒絶ではなかった。
だが、周囲にいた二人も、同じように橘を見る。
橘は用紙から手を離した。
「分かりました。急がせるつもりはありません」
そのまま自分の朝食準備へ移る。
点呼の直前になって、生活当番が用紙を探し始めた。
「橘さん、気づいてたなら出してくれてもよかったのに」
「担当の人が行う方がいいと思って」
「そういうところ、協力する気があるのか分かりにくいよね」
先ほどとは逆の言葉だった。
橘は反論しなかった。
何か言えば、また指示として受け取られる。
黙っていれば、説明を拒んだように見える。
責任者の伊狩桃々香は、少し離れた場所でやり取りを聞いていた。
手元の生活記録へ、短い文章を書き込む。
役割外の生徒へ提出を促した。
意見を撤回した後、担当者への補助を行わなかった。
どちらも、起きた出来事ではあった。
◇
午前の体力訓練では、走力ごとに三つの集団が作られた。
橘は中間の集団へ入る予定だった。
だが、最後尾の二人が設定された距離を走り切れず、予定が変わる。
「橘さん、後ろを見てもらえますか?」
伊狩が記録表を持ったまま頼んだ。
「私がですか?」
「声をかけながら走れる人が必要なんです。生徒会にいたんだから、集団行動にも慣れているでしょう?」
断れば、協力を拒んだことになる。
引き受ければ、自分の測定を後へ回すことになる。
「分かりました」
橘は最後尾へ移った。
歩幅を小さくするよう伝え、上り坂の前では速度を落とす。
苦しくなった生徒へ、次の目印まで走るよう声をかけた。
最初は返事があった。
二周目に入る頃には、声をかけられること自体が負担になっていた。
「もう少しだけです。次の標識まで行きましょう」
「橘さんの基準で言わないで」
「ごめんなさい。速度を落としましょう」
「今度は遅くしろって命令?」
橘は言葉を失った。
結局、二人が訓練を終えるまで隣を走った。
休憩時間はほとんど残っていない。
その直後に、自分の記録測定を行う。
普段なら維持できる速度が、二周目から落ちた。
記録係は時間を書き込み、理由の欄へ何も加えなかった。
「補助の後なので、少し休んでから測り直せませんか?」
橘が尋ねる。
伊狩は予定表を確認する。
「次の小グループが走路を使います。再測定の時間はありません」
「では、補助を行ったことだけ記録に残してください」
「補足としては書けます。ただ、測定結果そのものは変えられません」
「分かっています」
橘は自分の記録を見た。
数字は正しかった。
測定前に何をしていたかが、点数へ含まれないだけだった。
◇
筆記課題でも、役割は同じように決まった。
複数の生徒が間違えた範囲を、橘がまとめる。
質問を分類し、確認すべき問題を一覧へする。
橘が作った一覧を使って、他の生徒は自分の弱点へ集中できた。
その間、橘自身の問題冊子は開かれない。
「この二問は解き方が似ています。先に公式の使い分けを確認すれば――」
「また説明を始めるの?」
一人が小さく言った。
「質問が重なっていたので」
「聞いた人にだけ答えればいいんじゃない? 全員へやらせるみたいに言われると困る」
橘は一覧を置いた。
「では、必要な人だけ確認してください」
それ以上は話さなかった。
後の振り返りでは、別の文章が記録された。
質問整理を担当したが、構成員への説明が途中で止まった。
自分から継続方法を提示せず、協力が限定的だった。
橘は伊狩へ確認を求めた。
「途中で止めたのは、説明を命令のように受け取られたからです」
「その意見も補足します」
「記録そのものは?」
「説明が途中で止まったことは事実です。命令だと感じた人がいたことも、橘さんが黙ったことも、どれか一つだけを消すことはできません」
伊狩は感情を荒らげなかった。
橘の言葉を遮りもしない。
発言した生徒へ確認し、それぞれがどう受け取ったかを書かせる。
橘自身にも説明欄を与える。
全ての文章が残った。
橘の説明だけが消されたわけではない。
ただ、人数が違った。
一人の説明に対し、周囲の受け取り方が複数並ぶ。
最終的な評価欄へ書かれるのは、責任者が多数の記録から整理した結論だった。
◇
夕食前、女子側の大グループ内で連絡事項の確認が行われた。
伊狩も、小グループ責任者として個別に呼ばれた。
廊下の先では、連絡役の二年生女子が待っていた。
男子側との接触が許される夕食時間に入る前に、提出記録の形式を揃えるためだった。
「生活記録は、責任者一人の判断にしないでください」
二年生女子は、折り畳んだ用紙を伊狩へ渡した。
「同じ場面を見た人の記録を残す。発言、沈黙、役割の達成状況を分ける。個人の印象ではなく、学校へ提出できる形にするようにとのことです」
「南雲会長から?」
「男子側では得点勝負に集中しています。こちらは、決められた条件を整えればいいそうです」
伊狩は用紙を開く。
書かれているのは、虚偽の証言ではなかった。
評価を低く書けという直接的な指示もない。
誰が何を言ったか。
誰が指示と受け取ったか。
役割が最後まで継続されたか。
測定結果が基準へ届いたか。
それらを、複数人の記録で揃える手順だった。
「責任者として名前を出すのは私です」
「最初に聞いた条件は変わりません」
二年生女子の答えは、それだけだった。
伊狩は用紙を畳み直した。
断ることもできた。
責任者を引き受けた時点へ戻れないだけで、今から全てを止めることまで不可能ではない。
だが、止めた後に自分の立場がどうなるかも分かっていた。
「分かりました」
伊狩は受け取った用紙を、自分の記録帳へ挟んだ。
◇
夕食の一時間。
橘は堀北学の姿を見つける前に、自分が何を伝えるべきかを考えていた。
体力測定の結果。
生活記録の文言。
助言しても黙っても、悪い意味へ整理されること。
伊狩が複数の証言を揃えていること。
全て話せば、学は確認に動く。
男子側の大グループ得点を競っている最中でも、放置はしない。
学が動けば、三年Aクラスの生徒も動く。
女子側の小グループへ元生徒会長の影響が及び、今ある軋轢はさらに強くなるかもしれない。
何より、自分の問題で学の勝負を崩したくなかった。
「橘」
呼ばれ、橘は顔を上げた。
「堀北君。男子側はどうですか?」
口から出たのは、自分の話ではなかった。
学から女子側について尋ねられる。
「こちらも大きな問題はありません」
嘘ではない。
暴力を受けたわけではない。
答案を書き換えられたわけでもない。
規則にない仕事を強制されたわけでもなかった。
意見が命令として受け取られ、黙れば協力しないと記録され、足りない場所を埋める役を任されている。
それを大きな問題と呼ぶのか、橘自身にも判断できなかった。
「合宿中ですから、多少の摩擦はあります。私が合わせれば済むことです」
学は納得していなかった。
それでも、橘が正式に助けを求めない限り、女子側の配置を変更することはできない。
「無理をするな。問題が評価へ影響するなら、教員へ申告しろ」
「はい。でも、今はまだそこまでではありません」
そう答え、自分の卓へ戻った。
今はまだ。
結果が出ていない以上、その言葉も間違いではなかった。
◇
男子側の卓で、ルルーシュは南雲の周囲を見ていた。
南雲は二年生から練習結果を受け取り、堀北学との得点勝負について話している。
その途中で、一人の二年生女子が南雲の卓へ近づいた。
会話は短い。
用紙の受け渡しもない。
女子生徒は頷き、三年女子の列へ戻っていく。
その先で待っていたのが誰かまでは分からなかった。
男子側の練習場所や得点配分とは、直接関係のない動きに見えた。
だが、何を伝えたのかは聞こえない。
南雲の指示だったのか、単なる報告だったのかも分からない。
ルルーシュが知っているのは、夕食時に見える範囲だけだった。
橘の疲労。
学へ問題を小さく報告する態度。
三年女子との距離。
南雲が女子側へ向けた視線。
そして、男子側の得点勝負とは別方向へ動く二年生女子。
点は増えた。
まだ線にはならない。
少し離れた卓では、綾小路も同じ女子生徒の動きを見ていた。
女子側の大グループ運営に必要な連絡である可能性は残る。
南雲が何かを仕掛けているとしても、対象も方法も確定できない。
綾小路も動かなかった。
スザクは別の大グループの席で、翌日の駅伝区間について濱口たちと話している。
女子側で何が積み上がっているのか、知る位置にはいなかった。
◇
宿舎へ戻った橘を待っていたのは、更新された生活記録だった。
伊狩は机の上へ複数の用紙を並べている。
「橘さんにも確認してもらいます」
記録には、朝からの出来事が順番に並んでいた。
役割外の生徒へ提出を促した。
周囲から指示と受け取られた。
意見を撤回した後、補助を継続しなかった。
体力補助後の測定で基準を下回った。
筆記課題の説明を途中で止めた。
協力方法の再提示を行わなかった。
どの項目にも、確認者の名前が複数あった。
「私の説明も残っていますね」
「はい」
「それでも、この評価になるんですか?」
「橘さんの意図と、周囲が受け取った結果は別です。個人評価には、達成した結果と集団への影響を記録します」
「補助の後に測定したことは?」
「補足されています」
「でも、基準未達という結果は変わらない」
「はい」
伊狩は視線を逸らさなかった。
「訂正できる事実があれば直します」
橘は一枚ずつ読み直した。
発言していない言葉は書かれていない。
実施していない行動も追加されていない。
時刻も、測定結果も、確認者も揃っていた。
問題は、事実の選ばれ方だった。
助言した理由。
黙った理由。
補助によって失った休憩。
一覧を作るために使った時間。
それらは補足欄に置かれ、評価の中心にはならない。
橘は署名欄へ名前を書いた。
内容へ同意したのではない。
確認したことだけを認める署名だった。
それでも、提出される用紙には同じ名前が残る。
橘茜。
助言すれば、命令した生徒。
黙れば、協力しなかった生徒。
不足を埋めれば、自分の結果を残せなかった生徒。
◇
橘は誰か一人に負けていたのではない。
同じ結論へ揃えられた、多数の評価に囲まれていた。