反逆の王子は実力至上主義の世界で優しい世界を望む 作:evejanjan
混合合宿が終了した、その夜。
窓のない会議室に、複数の報告書が並べられていた。
壁も、机も、端末の外装も白い。
余分な色を排除した室内で、一人の少年に関する記録だけが更新されていく。
綾小路清隆。
身体能力、知識、判断速度、感情制御。
いずれにも低下は確認されていない。
高度育成高校へ入学して以降も、その能力は想定された範囲を維持している。
問題とされたのは、能力ではなかった。
「対象の能力低下は確認されていません」
担当者が報告を読み上げる。
「変化が確認されているのは、対人運用の結果です」
画面へ、一人の生徒に関する記録が表示される。
軽井沢恵。
綾小路は、彼女の弱点と依存傾向を把握していた。
軽井沢恵を協力者として確保したこと自体に異常はない。
クラス内の情報経路として利用できる。
龍園との対立を処理する材料にもなる。
依存傾向を自分へ向ければ、命令へ逆らいにくい協力者を得られる可能性も高かった。
そこまでは、合理的に説明できた。
「説明できないのは、その後の状態です」
綾小路は、軽井沢の依存を固定する追加行動を取っていない。
完全な服従を要求した形跡も確認されていない。
綾小路からの直接指示が確認されない場面でも、軽井沢が独自に判断する事例は増えている。
情緒の不安定さも、以前より減少していた。
関係は維持されている。
だが、従属は完成していない。
「合理的に切り捨てても支障が少ない局面でも、対象は関係を維持しています」
「理由は」
「監視記録からは判別できません」
軽井沢を残した理由は、利用価値によって説明できる。
だが、どのような状態で残したかは説明できない。
より高度な運用方法へ移行したのか。
対象の自律性を、利用価値へ組み込んだのか。
あるいは、判断基準そのものに変化が生じたのか。
結果だけでは、区別できなかった。
「外部要因は」
画面に、二人の名が表示される。
ルルーシュ・ランペルージ。
旧一年Dクラス。
現在は、一年Cクラス所属。
枢木スザク。
同じく、一年Cクラス所属。
「ランペルージ及び枢木との接触以降、対象の対人運用に微細な変化が確認されています」
二人は、綾小路と頻繁に行動を共にしているわけではない。
協力関係も確認されていない。
むしろ、互いに警戒している形跡がある。
それでも二人は、綾小路と対等な位置から会話し、異なる判断を提示していた。
自己利益だけでは説明しにくい選択を繰り返しながら、結果も残している。
綾小路が二人の行動へ継続的に注意を向けていることも、接触時の反応から推定されていた。
「両名の影響かどうかは確認できません」
「軽井沢恵自身は」
「対象から影響を受ける側です。判断原理を変化させる要因としての優先度は低いと考えます」
軽井沢自身が変化の要因である可能性は、優先度の低い仮説として退けられた。
監視側に見えているのは、動かされ、保護され、依存傾向を持つ生徒の姿だけだった。
彼女自身が何を選び、その結果を綾小路がどう評価したのかは、記録に存在しない。
「能力の向上、管理方式の変更、思想的変質のいずれであるかも判別不能です」
「判別できないから放置するのか」
「いいえ。判別できないため、追加観察が必要です」
上席の男が、二人の名前を見た。
「ランペルージと枢木を、対象から一時的に分離する」
「両名が存在しない条件でも、同様の対人運用が継続するか確認します」
「同時に、軽井沢恵を切り捨てる方が合理的となる状況を設計しろ」
「退学させますか」
「まだ必要ない。対象が何を選ぶかを観察する」
軽井沢を切り捨てるのか。
再び強い従属状態へ置くのか。
損失を負ってでも、彼女の意思と立場を残すのか。
外部変数と判断された二人の分離へ介入するのか。
結果によって、変化の性質を判別する。
「排除は、反応を確認した後だ」
分離観察計画が、内部記録へ登録される。
会議端末では、登録処理に伴う限定監査番号が発行された。
同じ時刻。
定期認証のため、外部保守回線が数分間だけ開く。
その細い窓を待っていた監視処理が、新規計画の登録を検知した。
取得できたのは、断片だけだった。
綾小路清隆。
ルルーシュ・ランペルージ。
枢木スザク。
軽井沢恵。
分離。
反応観察。
学校内工作。
計画の全容は分からない。
会議内容を自由に閲覧できたわけでもない。
だが、見過ごせる組み合わせではなかった。
その瞬間。
会議室の照明が、一度だけ揺れた。
警報は鳴らない。
外部回線にも、異常は表示されていない。
それにもかかわらず、室内にある全ての端末が操作を受け付けなくなる。
画面が暗転した。
「何が起きた」
「確認中です」
「回線を切れ」
「不正な接続記録は確認できません」
数秒後。
何の映像も映らない画面から、声だけが流れた。
「その計画は中止してもらおう」
低く、静かな声。
年齢も性別も、音だけでは断定できない。
怒りも焦りもなかった。
初めから、この場の全員が聞くことを前提とした声だった。
「侵入経路を特定しろ」
複数の職員が端末を操作する。
反応はない。
発信地点も、中継地点も表示されない。
内部回線へ接続された記録さえ残っていなかった。
「何者だ」
上席の男が問いかける。
声は答えない。
「綾小路清隆の行動を観察するだけなら、私が口を出す理由はない」
画面は暗いままだった。
「だが、二人を分離し、残った選択肢だけを本人へ示すつもりなら話は別だ」
室内の空気が変わる。
声の主は、計画の全容を把握しているわけではない。
それでも、登録情報の断片から、目的の輪郭には届いていた。
「貴様は、あれが何者か知っているのか」
「君たちが彼を何と呼び、何のために育てたかなど、私には関係ない」
「関係がない?」
「彼が戻ることを自ら選ぶのなら、止める理由はない」
躊躇なく告げる。
綾小路を保護対象として語らない。
帰還を拒めとも命じない。
その結果を、自分が決めようともしなかった。
「私が認めないのは、選ばせる前に、それ以外の道を壊すことだ」
「我々は対象の判断を観察するだけだ」
「君たちが測ろうとしているのは、彼の選択ではない」
声は静かに否定した。
「君たち自身が作った正解へ、彼が従うかどうかだ」
「軽井沢恵をどう扱うかは、綾小路清隆の問題だ」
「そのとおりだ。彼が軽井沢恵を切り捨てるなら、それも彼自身が選ぶべきことだ」
一度、言葉を切る。
「君たちが他の道を先に壊した後で、合理的な選択だったと呼ぶことは認めない」
上席の男は、声の主が持つ情報量を測ろうとする。
「我々について多少調べた程度で、介入できると思っているのか」
「多少、か」
端末の一台だけが復旧した。
白い画面へ、複数の記録が順番に表示される。
施設の存在を秘匿するために利用された資金経路の一部。
関係法人の旧名称。
廃棄された教育記録の管理番号。
外部協力者のうち、一名の経歴。
どれも、それだけでは施設の全容へ届かない断片だった。
外部から長期間追えば、発見できないとは断定できない情報でもある。
最後に、一つの識別番号が表示された。
分離観察計画の登録時に、会議端末で発行された限定監査番号。
定期認証のために開いた外部保守回線を通じ、通信開始直前に取得された番号だった。
今、この場を把握していなければ提示できない番号だった。
画面が再び暗転する。
「君たちは、私がどこまで知っているのか確認できない」
声は淡々と続けた。
「そして私は、君たちにそれを確認する手段がないと知っている」
室内で、誰も答えなかった。
声の主が施設内部を自由に掌握しているとは限らない。
提示された情報の大半は断片にすぎない。
だが、虚勢だと断定することもできなかった。
断定できないこと自体が、脅威だった。
「綾小路清隆へ干渉するな。それが要求か」
「違う」
即座に否定する。
「接触するかどうかは、君たち自身が決めればいい」
観察も、交渉も、説得も禁止しない。
「ただし、彼の代わりに進む道を決めるな」
一度、言葉を切る。
「彼が戻ることを自ら選ぶなら、私は止めない」
「ならば、我々の行動へ口を出す権利もない」
「選ばせる前に周囲を壊し、それを本人の選択と呼ぶつもりなら話は別だ」
声の調子は変わらない。
「その時は、君たちの存在そのものを代価にする」
脅迫。
だが、実行手段は示さない。
施設の情報を公表するとも、関係者へ危害を加えるとも言わない。
何を失わせるのかすら明言しなかった。
上席の男は、返答を止める。
沈黙によって、相手から次の情報を引き出そうとした。
声は交渉を続けなかった。
「私の言葉を虚勢と判断しても構わない」
それが最後の言葉になる。
「判断の結果だけは、自ら引き受ける覚悟をしておけ」
通信が途切れた。
全ての端末が、一斉に復旧する。
「外部保守回線を物理的に遮断しろ」
「すでに実行しています」
「認証情報を全て破棄。外部設備を交換しろ。会議端末は隔離。偽情報を流して追跡経路を作れ」
命令が次々に出される。
通信時間は、数分にも満たない。
定期認証のために開いた、短い保守経路。
その窓が閉じるまでの間だけ、声は会議室へ届いていた。
記録された音声の解析が始まる。
しかし、加工されているかどうかさえ特定できない。
「分析結果を報告します」
担当者が画面を読む。
「発信者、特定不能。所属、不明。通信経路、外部保守中継を経由した可能性がありますが確定不能。保有情報の上限、算出不能。行動予測、不能。現時点で有効な対抗手段は確立できません」
ランペルージ及び枢木の分離観察計画は、一時凍結された。
軽井沢恵を利用した反応試験も保留となる。
ルルーシュ・ランペルージへの直接調査も、同じ経路からは実行されない。
綾小路清隆への通常観察は継続される。
施設が撤退したわけではない。
計画を中止したのでもない。
正体も、能力も、保有情報の範囲も分からない存在を前に、現在の経路から実行することを避けただけだった。
別の経路からの観察と介入は、引き続き検討される。
「脅威判定は」
担当者が一瞬だけ言葉を止めた。
「最高危険区分への暫定指定を推奨します」
「登録しろ」
「識別名が必要です」
入力欄が開かれる。
氏名。
年齢。
性別。
所属。
居場所。
経歴。
確定情報として入力できる項目は、一つもなかった。
「確定している識別情報は?」
「ゼロです」
上席の男が、復旧したばかりの暗い画面を見る。
「なら、それで登録しろ」
新たな監視対象が、内部システムへ追加される。
危険区分――最上位。
識別情報――0件。
暫定コードネーム――ZERO。
声の主は、一度も名乗らなかった。
それでも、その夜。
白い施設の内部に、一つの名前が生まれた。
――ZERO。