反逆の王子は実力至上主義の世界で優しい世界を望む 作:evejanjan
三月三日。
教室へ入った生徒たちの視線は、昨日までとは違っていた。
挨拶を交わす。
席へ向かう。
友人同士で集まる。
行動そのものは変わらない。
だが、誰かと話すたびに、その相手が賞賛票を持つ一人であり、批判票を持つ一人でもあることを意識する。
昨日までなら気に留めなかった返事の短さや、笑い声へ加わらなかったことまで、別の意味を持ち始めていた。
「少し時間をもらえる?」
始業前。
堀北が教室の前へ立った。
隣には平田と櫛田がいる。
ルルーシュは自分の席から三人を見た。
昨夜のうちに全てを決めた様子ではない。
役割だけを先に分けたのだろう。
「まず、二千万プライベートポイントによる退学取消が現実的か確認するわ」
堀北は端末に表示した簡単な回答用紙を、クラス全員へ送信した。
「正確な所持額を公開する必要はない。いくつかの範囲から、自分の残額に近いものを選んで。回答は匿名にする」
「匿名なら、嘘つく奴もいるんじゃね?」
須藤が尋ねる。
「いるでしょうね。だから、これは正確な総額を出すための調査ではないわ。二千万へ届く可能性があるか、最初から検討に値しないかを見るためのものよ」
「集めたポイントを、誰かを助ける以外の目的には使わない」
平田が続けた。
「誰が多く持っているかを調べたり、出すことを強制したりもしない。まずは、全員を残せる可能性がどれくらいあるかだけ確認したい」
その説明を聞いてから、回答する生徒が増えた。
それでも、すぐに全員分が揃ったわけではない。
端末を見たまま動かない者。
隣の反応を確かめる者。
自分の所持額が少ないことを知られないか不安になる者。
救済のための調査でさえ、自分が安全かどうかを確かめてからでなければ参加できない。
最後の回答が届くまで、数分かかった。
堀北は集計結果を確認する。
「申告された範囲を最大額で計算しても、二千万には遠く及ばない」
教室の空気が沈んだ。
「他クラスから借りることはできるんだろ?」
池が言った。
「可能ではあるわ。ただし、返済条件もなく大金を渡すクラスはない」
「Aクラスなら持ってるんじゃねえの?」
「持っていることと、私たちへ渡すことは別でしょう」
堀北の返答に、池は黙った。
「だからといって、諦める必要はないよ」
平田が教室を見渡す。
「まだ交渉もしていない。分割して集める方法だってあるかもしれない。今日から、僕も他クラスの知り合いに話を聞いてみる」
「私も協力するよ」
櫛田が微笑む。
「二千万ポイントそのものを借りられなくても、他に使える方法を知っている人がいるかもしれないから」
希望を否定しない。
同時に、実現できるとも約束しない。
平田と櫛田は同じ言葉を使いながら、見ているものが違っていた。
平田は、全員が残るための経路を探している。
櫛田は、誰がその経路へ期待し、誰がすでに別の選択肢を考え始めたかを見ている。
「救済方法の確認と並行して、クラス内の評価も整理する」
堀北が言った。
平田が僅かに顔を強張らせる。
「名前は出さない約束だったよね」
「今は出さないわ」
堀北はすぐに答えた。
「でも、何を基準に投票するかまで考えないままでは、最後に好き嫌いだけで決めることになる」
前方の画面へ、いくつかの項目が表示された。
学力。
運動能力。
協調性。
過去の貢献。
改善の可能性。
クラスへ与える損失。
「能力が低い人間から切るという意味ではないわ」
堀北は、須藤へ一度視線を向けた。
「入学当初の成績だけで判断するなら、今の須藤君の評価は説明できない。本人が変わる可能性と、これまでに何を変えたかも含めて考える必要がある」
「俺を見る必要あったか?」
「具体例として分かりやすかっただけよ」
須藤は不満そうにしながらも、それ以上は反論しなかった。
「じゃあ、合宿で結果を出した奴は評価されるってことだよな」
山内が身を乗り出す。
「過去の貢献には含まれるわ」
「ほらな」
池へ向けて、山内が得意げに言う。
「ただし、一度の結果だけで全てが決まるわけではない」
堀北の補足に、山内の笑みが少しだけ薄くなった。
「それでも、何もしてない奴よりは上だろ?」
「誰を想定しているの?」
「別に、誰ってわけじゃねえけど」
山内は視線を逸らした。
まだ名前はなかった。
自分より下に置ける誰かを求めているだけだった。
「高円寺はどうすんだよ」
池が、教室の後方へ目を向ける。
「試験でも好き勝手してるし、協調性なんてないだろ」
「実に狭い見方だね」
高円寺は鏡から目を離さずに答えた。
「私がこのクラスへ与えている価値を、君たちの基準だけで測れると思わないことだ」
「またそれかよ」
「少なくとも、私は自分が最下位になる可能性を心配してはいないよ」
その自信に根拠があるのか。
単に他者を見下しているだけなのか。
誰にも判断できなかった。
だが、高円寺へ批判票を入れたいと考えた者がいる一方で、能力の高さを失いたくないと考えた者もいる。
一人の評価でさえ、項目を並べただけでは決まらない。
「今日は、基準を共有するだけにする」
堀北は画面を閉じた。
「個人名を挙げた話し合いはしない。誰かの名前を最初に出せば、その時点から評価ではなく空気が先に動く可能性がある」
平田は堀北を見る。
完全に納得したわけではない。
それでも、候補者の名前を出さないという条件が守られている間は、止めなかった。
◇
昼休み。
教室の中には、いくつもの小さな会話ができていた。
全員を救う方法。
賞賛票を誰へ入れるか。
他クラスから票を得られそうな生徒。
自分が批判票を受ける可能性。
話題は違っていても、最後には同じ場所へ戻る。
誰が安全で、誰が危険なのか。
「女子の方は、まだ名前までは出てない」
軽井沢が堀北へ小さく報告した。
「でも、友達が多いから大丈夫って思ってる子と、目立たない方が安全だと思ってる子に分かれてる」
「櫛田さんへの賞賛票は多そう?」
「今のところはね。でも、全員が本音で話してるわけじゃないし」
軽井沢は教室の反対側を見る。
櫛田は数人の女子に囲まれ、一人ずつの不安を聞いていた。
笑顔も、相槌も、相手によって僅かに変えている。
「批判票について聞かれたら?」
「名前を出さない方がいいって止めてる。最初に言った人が、後で全部押しつけられるから」
「その判断でいいわ」
堀北は短く頷いた。
「誰かに頼まれているの?」
「頼まれてないけど」
軽井沢は表情を変えずに答えた。
「女子の中で変な噂が広がったら、私も困るから止めてるだけ」
「そう」
堀北は追及しなかった。
軽井沢も、自分から説明を増やさなかった。
少し離れた席で、綾小路は昼食を取りながら二人の会話を聞いていた。
視線は向けない。
軽井沢へ事前の指示も出していない。
名前を出さない方が女子側の混乱を抑えられると、本人が判断した結果だった。
「堀北は、いつまで名前を出さずにいられると思う?」
隣から声がした。
ルルーシュだった。
綾小路は箸を止めずに答える。
「誰かが、自分だけは安全だと思える材料を得るまでだろうな」
「同感だ」
それだけで会話は終わった。
誰が最初に安全を得るのか。
誰が、その代わりに名前を与えられるのか。
二人とも、まだ答えを持っていなかった。
◇
放課後。
山内は、下駄箱へ向かう途中で足を止めた。
端末に、見慣れない相手から短い連絡が届いていた。
差出人の名前を確認した瞬間、背筋が伸びる。
坂柳有栖。
Aクラスの中心にいる生徒。
これまで廊下で短く言葉を交わしたことはあっても、個人的な連絡を受けたことはない。
指定されたのは、特別棟へ続く渡り廊下だった。
山内が到着すると、坂柳は窓際で待っていた。
杖を両手の前へ置き、柔らかな笑みを浮かべている。
少し離れた壁際には、神室真澄が立っていた。
山内は神室へ一瞬だけ視線を向けたが、すぐに坂柳へ戻す。
神室は付き添いにすぎないと、山内は都合よく考えた。
坂柳から個人的に呼び出されたという事実の方が、ずっと重要だった。
「来てくださったのですね、山内君」
「そりゃ、坂柳から呼ばれたら来るって」
声が上ずらないよう意識する。
上手くできている自信はなかった。
「突然お呼びして、申し訳ありません」
「いや、全然。俺もちょうど話したいと思ってたっていうか」
「私と、ですか?」
「まあ……前から、少し気になってたし」
坂柳は笑みを崩さなかった。
否定も、肯定もしない。
それだけで山内は、自分の言葉が拒絶されなかったと受け取った。
以前から、山内は坂柳を可愛い女子として意識していた。
廊下で交わした短い会話も、彼の中では特別な出来事として残っている。
その坂柳が、自分だけを呼び出した。
少なくとも、嫌われてはいない。
それどころか、上手くやれば今後もっと親しくなれるのではないか。
山内は、すでにそこまで考え始めていた。
「混合合宿では、良い結果を残されたそうですね」
「知ってるのか?」
「ええ。小グループ第一位。その中で、与えられた役割を最後まで果たしたと聞いています」
「そうなんだよ。俺だって、やればできるっていうかさ」
「それでも、クラスでは十分に評価されていないようですね」
山内の笑みが止まった。
「まあ、堀北とかは一回の結果だけじゃ決まらないとか言ってたけど」
「慎重な方なのでしょう」
坂柳は山内を否定しない。
「ですが、今回の試験で大切なのは、努力した者が正しく評価されることです。何も示していない方と、同じ危険を負うのは公平ではありません」
「だよな」
返答はすぐに出た。
自分が教室で言いたかったことを、坂柳が代わりに言葉にしてくれている。
「山内君は、ご自身が最下位になることを心配しておられますか?」
「別に、そこまでじゃないけど」
強がりだと、自分でも分かっていた。
「他クラスから賞賛票を得られれば、その心配はさらに小さくなります」
「それって……」
「Aクラスには、私の判断へ協力してくださる方が二十人ほどいます。その方々へ、山内君に賞賛票を投じるようお願いしましょう」
山内は息を呑んだ。
二十票。
クラス内で多少の批判票を受けても、それだけの賞賛票があれば相殺できる。
「本当に?」
「ええ。ただし、それでも絶対に安全とは言い切れません」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「山内君よりも多くの批判票を受ける方がいればよいのです」
「誰か一人に集めろってことか?」
「クラスにとって必要な方を失うべきではありません。十分な能力や貢献を示していない方を選ぶ必要があります」
坂柳は、少し離れて立つ神室へ視線を向けた。
「真澄さん。適した方に心当たりはありますか?」
「……綾小路とか」
「綾小路?」
山内が聞き返した。
「綾小路清隆君、ですか。お名前は存じていますが、どのような方なのでしょう」
「目立たないし、何か結果を出したって話も聞かない。堀北の近くにいることはあるけど、それだけだよ」
言葉にしていくほど、山内の中で綾小路を選ぶ理由が整っていく。
発言しない。
何をしているのか分からない。
目立った貢献も見えない。
それなら、混合合宿で結果を残した自分より評価される理由はない。
「それなら、候補として検討する理由はありそうですね」
「でも、俺だけでどうにかできるのか?」
「池君たちと親しく、教室で率直に意見を言える。山内君が疑問を口にすれば、同じことを考えていた方も話しやすくなるでしょう」
命令ではない。
誰かへ無理に票を入れさせろとも言わない。
ただ、皆が本来持っている評価を表へ出すだけ。
そう聞こえた。
「坂柳が俺を選んだってことか」
「ええ。あなたならできると思いました」
坂柳は、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「山内君が私のお願いを聞いてくださるのなら、今後も親しくさせていただきたいと思っています」
今後も親しく。
坂柳の言葉を、山内は何度も頭の中で繰り返した。
協力すれば、また二人で話せる。
それが続けば、いずれ付き合えるかもしれない。
坂柳は何も明言していない。
だが、山内にとっては十分だった。
これは、かなり脈がある。
上手くやれば、本当に付き合えるかもしれない。
あなたならできる。
坂柳が、自分を選んだ。
クラス内でも十分に評価されていなかった自分を、Aクラスの坂柳だけは認めている。
協力を成功させれば、賞賛票も坂柳との関係も手に入る。
断る理由など、山内にはなかった。
「分かった。俺に任せてくれよ」
「ありがとうございます」
坂柳は小さく頭を下げた。
「ただし、私からお願いしたことは伏せてください。Aクラスが直接介入していると知られれば、皆さんも素直に判断できなくなりますから」
「もちろん。こういうのは秘密にした方がいいんだろ?」
「理解が早くて助かります」
坂柳から直接頼まれたことは、誰にも言わない。
投票のためだけではない。
自分と坂柳だけの話を、池たちへ簡単に教えるつもりはなかった。
山内にとって、それはすでに二人だけの秘密だった。
山内は、来た時より速い足取りで渡り廊下を離れた。
昨日まで、批判票という文字を見るたびに、自分が選ばれる可能性を考えていた。
今は違う。
自分は選ぶ側に立てる。
自分より評価されるべきでない人間も、もう分かっている。
坂柳は、その背中が見えなくなるまで笑みを保っていた。
◇
三月四日の朝。
山内は、教室へ向かう池と本堂を階段の踊り場へ呼び止めた。
「昨日の話なんだけどさ。俺たち、このまま何も決めない方が危なくね?」
「何の話だよ」
「批判票だよ。バラバラに入れたら、俺たちみたいに成績で目立つ奴へ集まるかもしれないだろ」
池の表情が曇る。
「だからって、誰か一人へ集めるのかよ」
「クラスで何もしてない奴なら、その方が公平じゃね?」
山内は声を落とした。
「綾小路って、今まで何かしたっけ?」
池はすぐには答えなかった。
本堂も、記憶を探すように目を伏せる。
「でも、平田は名前を出すなって言ってたじゃん」
「候補を決めたわけじゃない。評価を確認してるだけだって」
山内は、自分へ言い聞かせるように続けた。
「何もしてない奴と、合宿でちゃんと結果を出した奴が同じ扱いなのはおかしいだろ」
「綾小路が何もしてないって、決まったわけじゃないだろ」
「だったら、何したか言えるか?」
池は言葉に詰まった。
本堂も答えを持っていなかった。
その沈黙を、山内は同意として受け取った。
「まだ誰にも言うなよ。変に広がったら、俺たちが悪いみたいになるから」
坂柳から頼まれたことは口にしない。
二十票の約束も、今後も親しくしたいと言われたことも。
それは、山内にとって自分と坂柳だけの秘密だった。
◇
教室へ戻った後も、山内は池と本堂へ何度か小声で話しかけた。
内容までは聞こえない。
だが、昨日まで批判票を恐れていた山内から、不安が薄れている。
ルルーシュは、その変化だけを見ていた。
山内が突然、自分は安全だと信じ始めた。
その直後から、複数の生徒へ接触している。
自力で二千万ポイントを確保した様子はない。
クラス内で自分への賞賛票を集めた形跡もない。
ならば、外部から安全を信じさせる材料を与えられた可能性がある。
誰が与えたのか。
何を代価として求めたのか。
そこまでは、まだ分からない。
綾小路もまた、教室内の僅かな変化を見ていた。
山内、池、本堂が以前より頻繁に集まっている。
一部の生徒が、自分へ視線を向けてから逸らす回数が増えた。
何らかの働きかけが始まった可能性はある。
だが、誰が何を目的として動いているのかは、まだ確定できない。
ルルーシュと綾小路は、互いに何も伝えなかった。
同じ変化を見ながら、別々に答えを探し始めていた。
新Cクラスの中では、最初の名前はまだ山内、池、本堂の三人だけが共有していた。
綾小路清隆。
山内にとってそれは、自分の安全と、坂柳との未来を手に入れるために選んだ名前だった。
だが、その秘密が教室へ広がるまで、もう長い時間は必要なかった。