無差別の技師    作:羊毛ローブ

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プロローグ

 

忘れることのできない過去は、記憶の奥底へ沈めても、ふとした拍子に滲み出す。

 

『宇宙だって、何もなかったところから生まれたんだ! できないことなんてあるわけないだろ!』

 

ほんの一つ、きっかけさえあればいい。

 

そうすれば、失われたはずの風景が鮮明に蘇る。

 

肌を撫でていた風も、その場の温度も、鼻の奥に残った匂いさえも、まるで昨日のことのように。

 

『……ははははは! 面白い、面白いぞ、坊主! その威勢も腕も気に入った!』

 

話していた相手の表情。

 

弾んだ息遣い。

 

身体を走っていた痛み。

 

頬を伝った涙の熱さ。

 

忘れたつもりでいたものほど、鮮やかに脳裏へ浮かび上がる。

 

『弟子だとか、そんなことはどうでもいい。触れて学べ。見て盗め。そして、すべてを自分のものとして吸収してみせろ!』

 

触れて学べ

 

その言葉とともに、かつて指先に感じた熱や硬さまで蘇ってくる。

 

何かを掴んでいた感覚。

 

誰かの手を握った感覚。

 

そして、それが失われた瞬間の感覚。

 

過去の記憶は、時として傷になる。

 

それでも、あの日に抱いた感情を確かめるためには、これ以上ないほど確かなものでもあった。

 

だから彼にとって、過去の夢を見ることは苦痛であると同時に、必要なことだった。

 

決して失ってはならない、痛みの記憶なのだ。

 

「……夢か」

 

枕代わりにしていた右腕から頬がずり落ち、青年は目を覚ました。

 

ぼさぼさになった黒髪を、さらに乱すように掻き回す。

 

その顔は青白く、目の下には濃い隈が刻まれていた。

 

体調不良と寝不足の標本があるなら、見本として載っていそうな顔だった。

 

「あーあ……涎でべったりだ」

 

袖口についた涎を見て、青年は深いため息を吐いた。

 

油で黒ずんだ赤革の手袋を着けたまま口元を拭い、涎の代わりに薄い油の筋を頬へ残す。

 

寝不足の頭では、本人もそれに気づいていない。

 

「依頼は受けた。けど、装着する本人の詳しいデータがないんじゃ、これ以上は詰められないか……」

 

青年――アンガード・インディスクレータは、作業台の上に置かれた人間の左腕を見ながら呟いた。

 

肩口にあたる部分からは、神経接続用の細い配線が何本も伸びている。

 

そこさえ隠してしまえば、本物の人間の腕と見分けることは難しいだろう。

 

肌には僅かな色むらがあり、爪には薄い縦筋まで刻まれている。

 

だが、アンガードはその出来栄えに満足していなかった。

 

指先で腕の表面へ触れ、皮膚の張りや関節の動きを確かめる。

 

夢の中で聞いた言葉は、すでに意識の底へ沈んでいた。

 

それでも、その教えだけは無意識の奥に刻まれている。

 

触れて、確かめ、違いを知る。

 

見て、盗み、自分のものにする。

 

彼が今も続けていることは、昔から何も変わっていなかった。

 

「よくもまあ、その状態で、そこまで仕上げられたものね」

 

背後から、柔らかな声が降ってきた。

 

アンガードが振り返るとそこに立っていたのは、雪を思わせる灰白色の髪を持つ女性だった。

 

「ルアンナか。思ったより早かったな」

 

「アンガードが無茶をしていそうだったから、急いで終わらせてきたのよ。そうしたら、案の定というわけ」

 

呆れた表情を隠そうともせず、ルアンナはアンガードを見つめた。

 

「私が出てから一週間よ。どうせ、まともに寝ていないんでしょう?」

 

「はぁ?」

 

アンガードはしばらく黙り込んだ。

 

「……そんなに経っていたのか?」

 

「……アナタって人は」

 

ルアンナは額に手を当てた。

 

言いたいことはいくらでもあったが、ひとまずすべてを飲み込む。

 

「一度、自分の顔を鏡で見てきなさいな。死人みたいな顔をしているわよ?」

 

そう言われて初めて、アンガードは自分の身体がひどく重いことに気づいた。

頭の奥には鈍い痛みがあり、指先には疲労による震えも出ている。

 

思い返してみれば、最後にまともにベッドで眠ったのがいつだったかすら分からない。

 

机に突っ伏して何度か寝落ちはした。

 

食事も、思い出したときに適当なものを口へ入れている。

 

本人の感覚では、どれもつい先ほどのことだった。

 

「まったく……私がついていなかったら、睡眠もろくに取らないの?」

 

「いや、さっき寝たぞ。三分くらい」

 

「それは睡眠どころか、仮眠にすらなっていないわよ……」

 

ルアンナは頭痛を堪えるように、もう一度額へ手を当てた。

 

「とりあえず、顔だけでも洗ってきなさい。頼まれていたものは持ってきてあげたんだから」

 

手にしていた茶封筒でアンガードの頭を軽く叩き、工房の奥にある洗い場を指差す。

 

「それもそうだな……」

 

渋々とした表情を隠そうともせず、アンガードは立ち上がった。

 

だが、二歩ほど進んだところで身体が僅かに傾く。

 

「ほら、言ったそばから」

 

ルアンナが腕を伸ばし、その身体を支えた。

 

アンガードは何事もなかったように姿勢を戻す。

 

「床が傾いてるな」

 

「傾いているのはアナタよ」

 

「そうか?」

 

「そうよ」

 

ルアンナに背中を押され、アンガードは工房の奥へ向かっていった。

 

「……本当に、昔から変わらないんだから」

 

その背中が見えなくなったのを確認し、ルアンナは作業台へ目を戻した。

 

肩口から配線を伸ばした左腕が、そこに静かに横たわっている。

 

事情を知らない者が見れば、本物の腕を切り離し、配線を繋いで何かを施している最中だと思うだろう。

 

ルアンナが出かける前、アンガードはまだ

 

『素材の配合はどうするかな……』

 

と呟いていた。

 

つまり、この腕は一週間足らずで、ほとんど何もない状態から作り上げられたものだった。

 

ルアンナは茶封筒を開き、中に収められていた資料を取り出す。

 

そこには、装着する人物の身体を計測した詳細な数値が記されていた。

 

腕の長さ。

 

筋肉の付き方。

 

指の太さ。

 

各関節の可動域。

 

ルアンナは資料と、作業台に横たわる腕を見比べる。

 

アンガードが数度会っただけの相手を記憶し、その記憶だけを頼りに作り上げた腕。

 

計測値との違いは、人差し指の関節角度に僅かに残るだけだった。

 

「……やっぱり、この指だけ少し内側かしら。でも、アンガードのことだから……」

 

ルアンナは資料に記された人差し指の数値を指でなぞり、もう一度、作業台の腕へ視線を移した。

 

数値だけを見れば、僅かな誤差に思える。

 

だが、アンガードが理由もなく数値から外れるはずがない。

 

「計測している間も、残った右手で何かを掴むたびに、左肩が少しだけ内側へ動いていた……」

 

失われた左手まで、同じように握り込もうとするかのように。

 

そうした僅かな動きの癖を、ルアンナは妙によく覚えていた。

 

「失う前から、こういう握り方をしていたのね」

 

資料に記された数値だけでは分からない、小さな癖。

 

アンガードは、それさえも見逃さなかった。

 

「だから、この角度まで反映しているのね」

 

数値どおりに作るだけでは、その人自身の腕にはならない。

 

本人さえ意識していない身体の癖まで拾い上げ、失われる前の形へ近づけていく。

 

それが、アンガードの仕事だった。

 

アンガードは、自分の身体については驚くほど無頓着だ。

 

壊れても、痛んでも、動けばそれでいいと考えている。

 

けれど、他人の身体を作る時だけは、決して妥協しない。

 

指の長さや太さはもちろん、肌の色や質感が馴染まなければ、何度でも素材を調整する。

 

装着した者が違和感を覚える可能性を、一つずつ潰していく。

 

それが、自分自身を削ることになったとしても。

 

「さすがは、私の専属技師様ってところかしら」

 

ルアンナの口元に、穏やかな笑みが浮かんだ。

 

「うわ……油、全然落ちないな」

 

洗い場から聞こえてきた声に、その笑みが僅かに深くなる。

 

「手袋を着けたまま顔を擦るからでしょう」

 

「先に言ってくれ」

 

「普通は言われなくても分かるわよ」

 

呆れた声を返しながら、ルアンナは作業台に横たわる左腕へ視線を戻した。

 

失われたものを、もう一度その人の身体へ返す。

 

アンガード・インディスクレータは、そのためなら、自分のことなど簡単に忘れてしまう男だった。

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