無差別の技師 〜MAP技師は身体を全て取り返す〜 作:羊毛ローブ
1話 『その腕はまだ動ける事を知らない』
「それで、この腕はいつ動くの?」
洗い場から戻ってきたアンガードへ、ルアンナはそう尋ねた。
作業台の上には、人間の左腕が横たわっている。
肌の色も、爪の形も、関節に刻まれた皺も、本物とほとんど変わらない。
ルアンナが、その人差し指を持ち上げる。
指を離すと、支えを失ったそれは力なく落ち、元の位置へ戻った。
人肌の温もりもなければ、自ら動く気配もない。
「今は動かない」
アンガードは濡れた顔をタオルで拭きながら答えた。
「見れば分かるわよ」
「なら聞くな」
「いつ動くのかを聞いているの」
「中身を仕上げて、使う本人の身体へ繋いだ後だ」
アンガードはルアンナの隣へ立つと、作業台の腕を持ち上げた。
肩口からは、行き先の決まっていない細い束がいくつも伸びている。
外から見える部分はほとんど完成していたが、内部へ組み込まれた部品の多くは、まだ仮のものだった。
「つまり、外側だけなのね」
「骨格と主要な部分は入っている。ただ、今のまま身体へ繋いでも動かない」
「それでも、皮膚は先に作ったの?」
「外形を確かめるためだ。この皮膜なら拒絶が起きにくい。色と質感も調整しやすいからな」
アンガードが腕の表面を指で押す。
僅かに沈んだ肌は、指を離すとゆっくり元へ戻った。
弾力も、指先へ返ってくる感触も、人間の皮膚とほとんど変わらない。
「問題は中身だ」
アンガードは腕を作業台へ戻した。
「同じ素材でも、採れた場所や育った環境が違えば、性質も変わる」
「魔素の影響ね」
「ああ」
この世界に満ちる魔素は、生物だけでなく、植物や鉱石にも影響を与える。
同じ種類の魔獣から採れた素材であっても、火山地帯で育った個体と雪原で育った個体とでは、熱や冷気への耐性がまるで違う。
一つだけなら身体が受け入れる素材でも、別の素材と組み合わせた途端、強い拒絶反応を起こすこともあった。
外見を人間の腕へ近づけるだけなら、それほど難しくはない。
難しいのは、その腕を本人の身体へ馴染ませることだった。
アンガードは、作業台の端に置かれた茶封筒へ手を伸ばした。
先ほどルアンナが持ち帰ったものだ。
中から資料を取り出し、一枚ずつ作業台へ並べていく。
装着する人物の身体計測。
残された右腕の長さと太さ。
握力と関節の可動域。
失われた左腕の付け根に残る傷の状態。
いくつかの素材を皮膚へ触れさせた際の反応。
暮らしている地域の気温と湿度。
さらに、普段使用している道具や、仕事場の環境まで細かく記録されていた。
アンガードの目が、紙面の上を素早く動いていく。
「鍛冶場の炉前は、かなり温度が上がるわ」
ルアンナが資料の一箇所を指した。
「汗も多いし、細かな金属粉も舞っている。普通の生活だけを想定した素材では、長く持たないでしょうね」
「外皮は今のもので耐えられる」
「内側は?」
「熱よりも、反復動作と衝撃への強さを優先する」
アンガードは、残された右腕の握力へ目を落とした。
「相当強いな」
「著名な鍛冶師らしいわよ。片腕になった今も、仕事は続けているそうね」
「なるほど。確かに、あそこの鉄は質がいいと思っていた」
「使ったことがあるの?」
「ああ。誰が打っているかまでは気にしていなかったがな」
アンガードは改めて、資料へ目を落とした。
その鍛冶師が打った鉄は、安いものではなかった。
それでも、値段に見合うだけの粘りと強さがあった。
刃物であれば欠けにくく、工具であれば長く使っても歪みにくい。
使い手のことを考え、必要な重さと強さを見極めて打たれた鉄だった。
「なら、ただ動くだけじゃ足りない」
金槌を握る。
振り上げる。
打ち下ろす。
腕へ返ってくる衝撃に耐えながら、同じ動きを何度も繰り返す。
日常生活だけを想定した腕では、遠からず内部が壊れてしまう。
だからといって、耐久力だけを求めて重くすれば、今度は肩や背中へ負担が集中する。
アンガードは資料へ視線を落としたまま、指先で作業台を数度叩いた。
「力を生む部分は、これでいい」
「耐熱性は?」
「炉へ直接突っ込まない限り問題ない」
「鍛冶師なら、普通の人より火へ近づくでしょう?」
「だから外側へ、こっちを薄く重ねる」
アンガードは素材の一覧から、別の項目を指した。
「熱には強くなる。ただし、重ねすぎれば指が動きにくくなる」
「どの程度まで使えるの?」
「今から確かめる」
アンガードは椅子から立ち上がり、部品棚へ向かった。
一歩目は、まっすぐ進んだ。
二歩目で身体が傾き、肩が棚へぶつかった。
小さな箱が一つ、棚の奥で音を立てる。
「アンガード」
「何だ」
「まっすぐ歩けていないわよ」
「必要な場所には着いた」
「そういう問題ではないの」
アンガードは何事もなかったように棚を開き、中から細長い箱を取り出した。
箱の中には、糸のように細い素材が何重にも巻かれている。
それを抱えて作業台へ戻ろうとしたアンガードの前へ、ルアンナが立ち塞がった。
「退け」
「寝なさい」
「断る」
間を置かず返された答えに、ルアンナの眉が僅かに動いた。
「今の自分の状態を分かっているの?」
「部品を組み込める程度には動く」
「手が動くことと、頭が正常に働いていることは別でしょう?」
「問題ない」
「先ほど、棚へ体当たりしていたけれど?」
「棚の位置が悪い」
「一週間前から同じ場所にあるわよ」
アンガードは返事をせず、ルアンナの横を通り抜けようとした。
ルアンナが一歩動き、再び進路を塞ぐ。
「これを組み込んだら寝る」
「アナタの『これが終わったら』は信用していないの」
「今回は本当だ」
「その言葉も何度も聞いたわ」
「泣いている子供がいるんだ」
アンガードの声から、それまでの軽さが消えた。
「悠長に寝ていられるか」
ルアンナの表情が、僅かに和らぐ。
アンガードが無茶をする理由を、彼女も理解していた。
それでも、道を譲ることはなかった。
「気持ちは分かるわ」
「なら退け」
「だからこそ、寝なさいと言っているの」
「話を聞いていたか?」
「聞いていたわ。アナタがここで倒れたら、その子はもっと長く待つことになる」
アンガードが口を閉ざす。
「今の状態で素材の配合を間違えたら、最初から作り直し。部品を傷つければ、代わりを用意する時間も必要になるわ」
「間違えない」
「判断力が落ちている人ほど、そう言うものよ」
「落ちてない」
「なら、確かめてみましょうか」
「何を――」
アンガードが眉を寄せた瞬間、ルアンナの姿が視界から消えた。
反射的に振り返る。
すでにルアンナは背後へ回り込み、アンガードの首筋へ手刀を振り下ろしていた。
アンガードは右手を差し入れ、その一撃を掌で受け止める。
乾いた音が工房へ響いた。
「何年の付き合いだと思っているんだ?」
手刀と首の間へ右手を挟んだまま、アンガードが笑う。
「寝不足でも、この程度は防げる」
「ええ」
ルアンナも微笑んだ。
「そうすると思っていたわ」
「何を――」
受け止めた掌を通り抜け、衝撃が首筋へ直接届いた。
「かっ……」
アンガードの身体から力が抜ける。
床へ崩れ落ちる寸前、その身体をルアンナが抱き止めた。
「まったく。何年の付き合いだと思っているの?」
《直撃》。
触れた物の向こう側へ、衝撃だけを通す技だった。
アンガードが手刀を掌で受け止めた時点で、その右手は防壁ではなく、首筋まで衝撃を伝えるための道になっていた。
「万全なら、こんな受け方はしなかったでしょうに」
意識を失ったアンガードの顔を覗き込む。
目の下の隈は濃く、頬も僅かにこけていた。
洗い落としきれなかった油の筋が、まだ頬に残っている。
「顔も、まだ汚れたままじゃない」
ルアンナは小さく息を吐き、その身体を抱き上げた。
「まずは、アナタが元気になりなさい」
返事はない。
「アナタが倒れたら、泣いている子供を泣き止ませることもできないのよ」
寝室へ運び、アンガードを寝台へ横たえる。
途中で起き出さないよう布団で身体を包み、その端を身体の下へ入れ込んだ。
「これでよし」
起きていれば、間違いなく文句を言っただろう。
しかし今は、久しぶりに穏やかな呼吸を繰り返している。
ルアンナは濡らした布でアンガードの頬を拭うと、工房へ戻った。
作業台の上には、まだ動かない左腕が横たわっている。
外見だけなら、すでに人間の腕と変わらない。
それでも今は、物を掴むことも、温度を感じることも、誰かの手を握ることもできない。
肩口から伸びた細い束には、まだ行き先がない。
身体と繋がり、使う者の意思を受け取って初めて、この腕は本当の意味で腕になる。
ルアンナは、その手の甲へそっと触れた。
「もう少しだけ待っていてちょうだい」
腕の持ち主へ向けたものか。
泣いている子供へ向けたものか。
それとも、眠っている技師へ向けたものか。
ルアンナ自身にも分からなかった。
◇
アンガードが目を覚ましたのは、翌朝だった。
「お前、俺に何をした?」
寝室から出てきたアンガードが、低い声で尋ねる。
「寝かしつけてあげたのよ」
「布団へ縛りつける必要はあったのか?」
「途中で起きて逃げないようにしただけよ」
「俺は子供か」
「子供の方が、もう少し聞き分けがいいと思うわ」
反論しようとしたアンガードだったが、昨日より身体が軽くなっていることには気づいていた。
頭の鈍い痛みも、指先の震えも消えている。
「飯は?」
「用意してあるわ」
「先に作業を――」
「ご飯が先よ」
「食いながら作業する」
「もう一度寝たいの?」
ルアンナが片手を上げる。
アンガードは無言で食卓へ向かった。
朝食を終えると、アンガードはすぐに作業台へ戻った。
必要になりそうな部品は、この一週間で候補ごとに作ってある。
あとはルアンナが持ち帰った資料を基に、その中から適したものを選び、本人の身体へ近づけていくだけだった。
鍛冶仕事の反復に耐えられる繊維。
金槌を振り下ろした際の衝撃を、肩だけではなく腕全体へ逃がす構造。
炉の熱や汗、金属粉の中でも劣化しにくい管。
指先で触れた物の硬さや温度を、身体へ伝えるための細い線。
アンガードは一つずつ腕の内部へ収め、何度も動きを確かめていった。
「そっちを取ってくれ」
「どちら?」
「右から二番目の箱だ」
「これ?」
「違う。それは三番目」
「アナタから見た右でしょう? 私から見れば左よ」
「だったら最初に言え」
「アナタが言うのよ」
口では言い合いながらも、ルアンナの手は止まらない。
アンガードが求める道具や部品を渡し、資料を開き、必要な数値を読み上げる。
アンガードも、昨日のように無理を押し通そうとはしなかった。
少なくとも、ルアンナが背後で片手を上げるたび、素直に休憩を取る程度には反省したらしい。
日が傾き始めた頃。
アンガードは最後の部品を腕の内部へ収めた。
肩口から外へ伸びていた細い束も整理され、身体へ繋ぐ部分だけを残して内部へ収まっている。
作業台の上には、一つの左腕が横たわっていた。
肌の色。
指の太さ。
爪の形。
関節に刻まれた皺。
外から見えるのは、どこにでもある人間の腕だけだった。
「完成ね」
ルアンナが手の甲へ触れる。
「まだだ」
アンガードはすぐに否定した。
「本人の身体へ繋がっていない」
「でも、ここでできる作業は終わったのでしょう?」
「ああ。残りは本人の身体を直接確認しながら仕上げる」
アンガードは左腕を持ち上げ、重さを確かめるように数度傾けた。
ルアンナも腕へ手を添える。
「少し重くないかしら?」
「これでいい」
「もっと軽く作ることもできたのでしょう?」
「できた。だが、軽ければ使いやすいとは限らない」
アンガードは作業台へ置かれた資料を見た。
「人間は、自分の腕がどれくらい重いかなんて意識していない。それでも身体は、重さも、動かした時の勢いも、物を掴む時の力加減も覚えている」
突然軽くなれば、必要以上に力を入れる。
重くなれば、これまでと同じようには動かせない。
丈夫で軽い腕を作るだけなら、それほど難しくはなかった。
しかし、それでは失われた腕の代わりにはならない。
「これは道具じゃない」
アンガードは腕の指先を見つめた。
「本人が今まで使ってきた腕の代わりになるんだ。便利なだけじゃ意味がない」
失われた腕を、まったく同じ形で取り戻すことはできない。
それでも、可能な限り近づけることはできる。
指の太さも。
重さも。
動かした時の感覚も。
本人さえ意識していなかった、小さな癖も。
その一つ一つを積み重ねて、初めてその人の腕になる。
アンガードは指先から肩口までを最後に確認すると、左腕を厚い布で包み、持ち運び用の鞄へ収めた。
「行くぞ」
「もう身体は大丈夫なの?」
「誰かさんのおかげで、嫌になるほど寝た」
「それなら良かったわ」
「良くはない。まだ首が痛い」
「気のせいよ」
「絶対に気のせいじゃない」
アンガードが鞄を背負う。
工房の扉を開くと、外から差し込んだ光が床の上へ細長く伸びた。
鞄の中の左腕は、まだ動かない。
誰かの意思を受け取ることも、温度を感じることも、手を握り返すこともできない。
それは、腕に何かが足りないからではなかった。
帰るべき身体へ、まだ辿り着いていないだけだ。
アンガードとルアンナは、腕を待つ者のもとへ向かうため、工房を後にした。