「魔素と呼ばれる特殊な物質が、この世界には存在する」
顔を洗い終えて工房へ戻ってきたアンガードは、タオルで顔を拭きながら、開口一番そう言った。
頬には、洗い落としきれなかった油汚れが薄く残っている。
「魔素は非常に不安定だ。そのぶん、周囲の環境や取り込んだ物質によって、さまざまな性質へ変化する。生物も植物も、長い年月をかけて魔素の影響を受ければ、その土地に適した形へ変わっていく」
右手に油で黒ずんだ赤革の手袋を、左手には黒い手袋をはめ直しながら、淡々と説明を続ける。
「同じ種類の魔獣でも、生息する土地が違えば、身体の強さも耐性も変わる。鉱石だって同じだ。同じ名前で呼ばれていても、産出地が違えば硬さも魔力への反応も別物になる」
「……それで、その不思議な物質の話は、今する必要があるのかしら?」
アンガードの話を聞いていたルアンナが、苛立ちをわずかに含ませ声を低くして尋ねた。
『なぜ一週間もまともに眠っていなかったの?』
そう問いただしたところ、アンガードは突然、魔素と生物の変化について語り始めたのである。
話を逸らしていると思われても仕方がなかった。
「素材の組み合わせを探すのが、どれだけ大変なのか説明しているんだろ」
「一週間眠っていなかった理由を聞いているのよ」
「その素材を探していたからだ」
「寝る間も惜しんで?」
「そうだ」
「それを言い訳になると思っているなら、大きな間違いよ?」
「ぐぬぬ……」
アンガードは言葉を失った。
「それを言われたら、何も返せなくなるだろう」
「だったら、何も言わなくていいの」
ルアンナは腰に手を当て、アンガードを真っ直ぐに見据えた。
ただ怒りたいわけではない。
誰よりもアンガードの身を案じているからこそ、無茶を続ける彼を放っておけないのだ。
しかし、当の本人は自分の身体をまるで道具のように扱っている。
壊れれば直せばいい。
動く間は使えばいい。
そんな考え方が、技師である自分自身にまで向けられていた。
「でもな、仮眠は取ったぞ」
「三分を睡眠に数えないでちょうだい」
「細かいな」
「細かくないわよ」
アンガードの目の下には、重い病気ではないかと心配されてもおかしくないほど濃い隈が浮かんでいる。
頬にも血の気がなく、顔を洗ったところで健康そうには見えなかった。
それでも本人は、少し眠っただけで十分に休んだつもりでいるらしい。
「それより、約束の土産をもらってもいいか?」
「約束だからね。はい、どうぞ」
ルアンナは作業台の上に置いていた茶封筒から、先程確認した資料を取り出した。
数枚の紙の端を揃え、アンガードへ差し出す。
アンガードは真剣な表情で受け取った。
そこに記されているのは、腕を失った人物の身体を計測した数値と、さまざまな素材に対する反応を調べた検査結果だった。
つい先ほどまで涎を垂らして眠っていた男とは、同一人物とは思えないほどの集中力で資料へ目を通していく。
腕の長さ。
肩幅。
筋肉の付き方。
残された右腕の握力。
各関節の可動域。
魔力の性質。
素材を皮膚へ接触させた際に現れた反応。
アンガードの瞳が、素早く紙面の上を動いていく。
やがて一通り確認し終えると、資料の端を作業机の上で丁寧に揃えた。
「流石だな」
ルアンナへ、わずかな笑みを向ける。
「細かいところは抜けているかもしれないけどね」
「身体の計測結果だけじゃない。素材ごとの反応、暮らしている地域の気温と湿度、普段よく出入りする場所まで調べてある。それで不十分だっていうのか?」
「住んでいる地域の魔獣についても、もう少し詳しく調べておきたかったのよ」
「そこまでやったら、いくら時間があっても足りないぞ」
「そうなのよねぇ……だから今回は、適材適所ということで諦めたわ」
魔獣の生息状況は、義肢を装着するだけなら絶対に必要な情報ではない。
だが、装着する者が危険を伴う仕事をしている場合は話が変わる。
周辺に生息する魔獣の牙や爪。
吐き出す炎や冷気。
体内に持つ毒。
そうしたものに耐えられる素材を選べば、義肢の破損だけでなく、装着者本人への被害も減らすことができる。
もっとも、魔獣について正確に調べるのは容易ではない。
活動する季節や時間帯は、天候や餌となる生物の数によって変化する。
さらに、同じ種類の魔獣であっても、生まれ育った土地によって異なる性質を持つ場合がある。
例えば、ゴブリンの上位種としては、ホブゴブリンやゴブリンキングが広く知られている。
だが、湿地帯で長く暮らした群れからは、毒に強いカースゴブリンが生まれることがある。
雪原に適応した群れから、冷気に耐えるアイスゴブリンが確認されることもあった。
元は同じ生物でも、魔素と環境によって、性質も弱点も変わってしまう。
すべての可能性を把握しようとすれば、一年以上かけても足りないだろう。
「まあ、俺も何度か行ったことのある地域だ。ある程度の傾向は分かっているし、それに……」
「それに?」
「……そこまでを求めてないだろうからな」
アンガードはそう言うと、作業台に横たわる左腕へ手を伸ばした。
資料と腕を交互に見比べながら、指先で皮膚の張りや関節の動きを確かめていく。
肩口からは、神経に接続するための細い線が何本も伸びている。
その部分さえ見なければ、本物の人間の腕と区別することは難しい。
「数値に細かい違いもないな。素材の拒絶反応もないし、予想の範囲内」
アンガードは人差し指を曲げ、元の位置へゆっくり戻した。
「今のままで問題なさそうだ。仮完成まで、あと五日ってところか」
「あれ?」
ルアンナが不思議そうに首を傾げた。
「これは、もう完成品じゃないの?」
「ん? なんでそう思った?」
今度はアンガードが、不思議そうな顔で聞き返した。
「だって、いつもならそこまで仕上がっていたら、ほぼ完成だって言うじゃない」
ルアンナは、アンガードが義肢を作る姿を何度も間近で見てきた。
表面には皮膚があり、爪も関節も本物と変わらない。
普段なら、ここまで形が整っていれば、完成間近どころか、ほぼ完成品と呼んでいるはずだった。
「ああ、なるほど」
アンガードは納得したように頷いた。
「今回みたいに、詳しい情報がない状態から、先に外側だけ作ったことはなかったか」
「外側だけ?」
「簡単に言えば、今のままではただの彫刻みたいなモン。そのまま身体へ取り付けても動かない」
「そうなの?」
ルアンナは、肩口から伸びた細い線へ目を向けた。
「この線が繋がっていないから?」
「それもある」
アンガードは、露出した線の一本を指先で持ち上げた。
「身体側には、腕と義肢を繋ぐための接続部分が必要になるからな。だが、それは誰にでも同じ形を使えるわけじゃない」
失われた腕の断面。
残された神経や血管の位置。
魔力が身体を巡る経路。
傷が治る過程で生じた僅かな変形。
それらは、人によってすべて異なる。
「まず身体側へ接続部分の受け口を取り付けて、実際の形と反応を調べる。それからでなければ、こっちに差し込む部分を完全には仕上げられない」
アンガードは腕の肩口を軽く叩いた。
「接続先が決まっていない以上、この線も今は繋ぎようがない。だから仮のまま外へ出してある」
「先に両方を作っておくことはできないの?」
「大まかな形だけなら可能だ。だが、僅かにずれただけでも、動かした時の違和感や痛みになる可能性も否定できない」
アンガードの表情から、先ほどまでの眠気が消えていた。
「身体側を決まった規格へ無理に合わせることもできる。だが、それじゃあ人間のほうが義肢へ合わせることになるだろう?」
義肢は、使う者の身体へ合わせて作る。
身体を、作り手の都合へ合わせるのではない。
アンガードにとっては、当然の考えだった。
「だから最後の部分だけは、実際に身体側を確認してから作る。時間は少しかかるが、そのほうがいい」
「なるほどね」
ルアンナは、露出した細い線から、完成した指先へ視線を移した。
外見だけなら、すでに誰かの腕として存在している。
だが、身体と繋がっていない今は、動くことも、何かを感じることもできない。
「でも、内側が完成していないのに、どうして皮膚まで作ってあるの?」
「今回の皮膚に使っている素材は、他の素材と比較しても拒否反応が起きにくい。というか起きたデータが1つもないんだ」
本来なら、装着者本人の細胞を培養し、皮膚を作る方法が最も確実だった。
だが、それには長い時間がかかる。
短期間での完成が必要な場合、アンガードは特殊な処理を施した魔獣の皮を使用することが多い。
現在使用している皮膜素材は、人間が触れても強い拒絶反応が起きにくい。
肌の色や質感も調整しやすいため、外見だけなら先に作ることができた。
「まぁ起きない可能性も0とは言えないが今は時間が惜しくてな、そっちだけ先に作ったんだが……」
「問題なのは中身よね?」
ルアンナの言葉に頷きながら、アンガードは資料へ視線を戻した。
「動かすための繊維、力を巡らせる管、感覚を伝える線。それに、中を流れる液体も決めなきゃならない」
身体が受け入れられる素材は、個人によって異なる。
一つの素材で問題が起きなくても、別の素材と組み合わせた途端に反応する場合もある。
どれほど精巧に外見を再現しても、身体が受け入れなければ意味がない。
「今回必要なのは、動かす部分と、力を巡らせる部分。それから感覚を伝える部分の一部か」
アンガードは資料を見つめ、数秒ほど考え込んだ。
「中を流す素材は……いや、こっちなら作り置きを調整したほうが早いな」
そう言って、椅子から立ち上がる。
「それじゃあ、倉庫から部品を取ってくる」
「駄目よ。寝なさい」
工房に、冷たい声が響いた。
アンガードは、倉庫へ向けて踏み出しかけていた足を止める。
「……今、何て言った?」
「寝なさいと言ったの。聞こえなかった?」
「必要な部品が分かったんだ。ここまで来たら、先に組み上げたほうが早い」
「今の状態で作業を続けるほうが遅いわよ」
「まだ手は動く」
「手が動くことと、頭が正常に働いていることは別でしょう?」
ルアンナの言葉に、アンガードは口を閉ざした。
だが、引き下がる様子はない。
「泣いている子供がいるんだ。そんな悠長に構えていられるか」
今回、腕を失ったのは、幼い少女の父親だった。
少女を魔獣から守るために、片腕を失ったという。
父親にとって、その腕は家族を養うための大切な仕事道具でもあった。
少女は、自分を守ったせいで父親が腕を失ったのだと思い込み、今も自分を責め続けている。
その話を聞いて以来、アンガードは、一刻も早く腕を完成させることしか考えていなかった。
「気持ちは分かるわ」
ルアンナの声が、少しだけ柔らかくなる。
「でも、今のあなたは明らかに効率が落ちている。自分でも分かっているでしょう?」
アンガードを止めるために、感情へ訴えても意味はない。
自分の身体を大切にしない人間であることを、ルアンナは誰よりもよく知っている。
だからこそ、彼を止めるには理屈で追い詰めるしかなかった。
「これが終わったら寝る」
「あなたがそう言って、本当に寝たことがあったかしら?」
「今回は寝る」
「信用できないわね」
「本当だ」
「その台詞も何度も聞いたわ」
アンガードはルアンナから目を逸らし、再び倉庫へ向かおうとした。
ルアンナは小さく息を吐いた。
説得は不可能。
ならば、取るべき手段は一つしかない。
「実力行使しかないようね」
その言葉がアンガードの耳へ届いた時には、ルアンナの姿はすでに目の前から消えていた。
次の瞬間、彼女はアンガードの背後へ回り込み、首筋を狙って手刀を振り下ろす。
しかし、その手刀が首へ届く寸前、アンガードの右手が間へ滑り込んだ。
乾いた音とともに、ルアンナの手刀がアンガードの右の掌へぶつかる。
「何年の付き合いだと思っているんだ?」
アンガードは、首筋へ密着させるようにして右手を構えていた。
手刀と首の間へ掌を差し込み、攻撃を受け止めたのだ。
「寝不足でも、このくらいは防げるっての」
そう言って笑う。
だが、実際には間一髪だった。
ルアンナの手刀は、アンガードの掌を挟んだまま、首筋へ触れている。
「ええ。そうすると思っていたわ」
「何?」
ルアンナの手刀から、強い衝撃が放たれた。
アンガードの掌を突き抜け、遮られているはずの首筋へ直接衝撃が伝わる。
「かはっ……」
アンガードの身体から力が抜けた。
そのまま床へ倒れそうになった身体を、ルアンナが優しく抱き止める。
「まったく……何年の付き合いだと思っているの?」
ルアンナが使用したのは、障害物の向こう側へ衝撃を伝える
アンガードが手刀を掌で受け止めた時点で、ルアンナの手からアンガードの首筋まで、衝撃を伝える一本の経路ができていた。
攻撃を防いだつもりになった瞬間から、アンガードが眠らされることは決まっていたのである。
「寝かしつけるためだけに《
ルアンナは、意識を失ったアンガードの顔を覗き込んだ。
「……本当に、ひどい隈」
近くで見ると、その顔色の悪さはさらに際立っていた。
頬はわずかにこけ、唇にも血の気がない。
「万全な状態なら、右手で受け止めるなんて選択はしなかったでしょうに」
アンガードも、ルアンナが《
彼女が戦闘で多用する技の一つなのだから、普段のアンガードであれば、手刀を正面から受け止めるような真似はしなかったはずだ。
受け流すか、距離を取るか。
少なくとも、ルアンナの手と自分の首を接触させたままにするような防ぎ方は選ばない。
それほどまでに、今のアンガードは疲労し、判断力を失っていた。
「気持ちは分かるけどね」
ルアンナも、幼い少女が泣いている姿を見たいわけではない。
少女の父親の腕を、一刻も早く取り戻してあげたいという気持ちは同じだった。
それでも、アンガードが倒れるまで作業を続けることを許すわけにはいかない。
一度作り始めれば、自分が倒れるまで止まらない。
そんなアンガードの危うさを知っているからこそ、ここで止めなければならなかった。
「でもね、アンガード」
ルアンナは、眠った彼の身体を抱き上げた。
「あなたが倒れたら、泣いている子供を泣き止ませることもできないのよ」
このまま無理に作業を続ければ、アンガードは遠からず完全に倒れる。
そうなれば、数日どころか、それ以上作業へ戻れなくなるかもしれない。
結果として腕の完成は遅れ、少女は自分を責め続けることになる。
「それに、その顔を見せたら、余計に泣かせてしまうわ」
あまりにもひどい言い草だったが、今のアンガードが子供に見せられる顔をしていないのは事実だった。
ルアンナは眠るアンガードを抱えたまま、作業台の上へ目を向ける。
そこには、まだ動くことのできない人間の左腕が置かれていた。
外見だけなら、本物と変わらない。
だが、その指は動かず、温度もなく、誰かを抱き締めることもできない。
肩口から伸びた細い線には、まだ行き先がない。
身体と繋がり、使う者の意思を受け取って初めて、この腕は本当の意味で腕になる。
「まずは、あなたが元気になりなさい」
誰に聞かせるでもなく、ルアンナは呟いた。
「この腕を、本当にあの人の腕にしてあげるためにもね」
そして彼女は、アンガードをベッドへ運ぶため、静かに工房を後にした。