無差別の技師 〜MAP技師は身体を全て取り返す〜 作:羊毛ローブ
今回は番外編です。
「あーあ。今回は私はお留守番みたいねー」
《天狼の寝床》の受付台へ頬杖をつき、ルアンナは気の抜けた声を漏らした。
つい数時間前。
「昨日話した通り、今日はノエラのところへ行ってくる。しばらくは、あっちのMAPを優先することになるかもしれない」
出かける支度を整えながら、アンガードがそう告げた。
「分かってるわよ。あの子の脚でしょう?」
「ああ。実際にどう身体を使ってるのか見ないと、何も始められないからな。それに、クリスさんにも頼まれたし」
その傍らにはエルヴィスとミラ。
クリスの近くには、青い鳥の姿をしたルーフェがいた。
「申し訳ありません、ルアンナ様」
クリスが静かに頭を下げる。
「私もルーフェの件がありますので、しばらくはノエラ様の方へ同行いたします」
「謝らなくていいわよ。ルーフェにとって大切な子なんでしょう?」
「はい」
クリスは短く答え、ルーフェへ視線を向けた。
レッドライガーだった頃、何度も背に乗せて森を歩いた少女。その少女が、自分の脚で歩くことを望んでいる。
ルアンナも昨日、その話を聞いていた。
「ですので、ルアンナ様」
「何?」
「何かございましたら、すぐに飛んで参ります。ただ――私が戻るまでは、《天狼の寝床》にいていただけると助かります」
ルアンナは瞬きをした。
「私、そんなに信用ない?」
「ございます」
間髪入れず返された。
「今、ちょっと早すぎなかった?」
「気のせいです」
「本当に?」
「はい」
クリスは表情一つ変えない。
その横でアンガードが僅かに顔を逸らした。笑いを堪えているのが分かる。
「アンガード」
「何だ?」
「何でこっち見ないの?」
「気のせいだろ」
「アナタまで?」
――そんなやり取りをして、一行を送り出したのが数時間前。
そして現在。
「暇ね」
「二度言っても何も変わらんぞ」
受付の向こうで、ルピナスが黒い本から目も上げずに答えた。
ルアンナは自分の右手を開き、ゆっくり握る。もう一度開いてから、今度は椅子に座ったまま右脚を伸ばし、足首を軽く回した。
アンガードが造り直した、新しい四肢MAP。
以前より出力は高く、負荷にも遥かに強い。ルピナスとの模擬戦では《撃滅》にも《破砕》にも耐え、《獣降ろし》を使った彼女の攻撃を受けても最後まで動き続けた。
試験としては、十分すぎるほど動かしている。
それでも。
「せっかく新しくなったのに」
「この前、ワッチ相手に散々動かしたじゃろうが」
「あれは試験でしょう?」
「何が違うんじゃ」
「実戦じゃないもの」
ようやくルピナスが黒い本から顔を上げた。
「……お主、まさか新しいMAPを試したいがために討伐へ行こうとしておらんじゃろうな?」
「そんなわけないじゃない」
即答だった。
「そうか」
「ただ、ちょうどいい討伐依頼があれば受けたいなって」
「同じじゃろうが」
ルアンナは聞こえなかったことにした。
「ルピ婆様、何かないの?」
「今のお主へ回せるようなものはない」
「探しても?」
「お主が暇潰しに欲しがるような高位の討伐依頼が、都合よく転がっておると思うな」
「でも暇なの」
「知らんわい」
「MAPも新しくなったし」
「それを聞くほど何も渡したくなくなるのう」
「何でよ」
「壊して帰ってきそうじゃからじゃ」
「失礼ね。壊れないことは婆様も確認したでしょう?」
「壊れにくくなっただけじゃ」
「なら大丈夫よ」
「何がどう大丈夫なんじゃ……」
ルピナスが呆れたように額へ手を当てた。
少し離れた長椅子から、笑い声が聞こえる。
「相変わらずだな、ルアンナ」
そこに座っていたプロスが、面白そうに二人を眺めていた。
「何ですか、プロスさん」
「いや。アンガードがいなくなった途端、討伐に行きたがってんのがさ」
「アンガードは関係ないでしょう?」
「いたら止められるだろ」
「…………」
「止められるんじゃねーか」
「うるさいですね」
プロスが声を上げて笑った。
ルピナスは二人を交互に眺めていたが、やがて何かを思いついたように大きな尾を揺らす。
「んー……そうじゃのー」
「あるの?」
ルアンナの反応が一瞬で変わった。
「まだ何も言っておらん」
「今、何か思いついた顔したでしょう?」
「そういうところだけ妙に鋭いのう」
ルピナスは黒い本を閉じた。
「正式に来ておる依頼ではないが……ワッチから特別依頼を出してやってもよいぞ」
「行く」
「内容を聞け」
「討伐?」
「まあ、討伐じゃな」
ルアンナの翠の瞳が目に見えて輝いた。
その様子を見て、ルピナスの口元が僅かに上がる。
「ある意味――ブラックランク級の魔獣討伐じゃ」
「ブラックランク級?」
ルアンナの表情が変わった。
「ブラックって、冒険者の殿堂入りでしょう? 魔獣なのよね?」
「魔獣じゃ」
「なのにブラックランク級?」
「ある意味、な」
長椅子に座っていたプロスが、一瞬だけ妙な顔をした。それから何かに気づいたように、口元を押さえる。
「対象は?」
真面目に尋ねるルアンナへ、ルピナスは勿体ぶるように間を置いた。
「――アトラボスじゃ」
「アトラボス……」
聞き慣れない名だった。
響きだけなら、古い伝承に登場する怪物か、巨大な悪魔の名だと言われても違和感はない。
「そんなに強いの?」
「強いは強いぞ。成体なら概ねAランク相当。大物ならSランク相当と見られることもある」
「……あれ?」
ルアンナが首を傾げる。
「ブラックランク級じゃないの?」
「ある意味、と言うたじゃろ」
「どういう意味?」
「見れば分かる」
ルピナスが楽しそうに笑う。
プロスも俯いたまま肩を震わせていた。
「プロスさん?」
「いや、何でもねぇ」
「今、絶対笑いましたよね?」
「気のせいだ」
「今日そればっかりね……」
不審そうに二人を見ながらも、ルアンナは立ち上がった。
「まあ、Aランク相当ならちょうどいいわね。MAPも新しくなったところだし――」
「あ、俺も行っていいか?」
プロスが手を挙げる。
「プロスさんも行くんですか?」
「ああ」
「随分乗り気ですね」
「アトラボスだろ?」
プロスはルピナスを見る。
「知っておったか」
「そりゃ知ってるって。なら《巨獣原》だろ?」
「うむ」
「どこ?」
ルアンナだけが話についていけず、首を傾げた。
ルピナスが答える。
「《
「巨獣原?」
「お主、行ったことがなかったか」
「ないわね」
「俺は何度かあるぞ」
プロスが言った。
「どんな場所なんです、プロスさん?」
「強い奴が普通に歩いてる草原」
「随分雑な説明ですね」
「じゃが、間違ってはおらん」
ルピナスが笑う。
「人の生活圏から大きく離れた高原地帯じゃ。生息しておる魔獣の平均的な格が高くての。Bランク程度なら珍しくもない。Aランクも普通におるし、中にはSランク相当の個体が縄張りを持っておる」
「そんな場所なら、討伐依頼も多そうだけど」
「それがほとんどねぇんだ」
プロスが答えた。
「どうしてです?」
「あそこの連中、人里まで降りてこねぇから」
「降りてこない?」
「ああ。餌も水も縄張りも、あの中だけで足りてる。それに外へ出りゃ山や森を越えなきゃならねぇ。わざわざ何日も掛けて人間のところまで来る理由がない」
ルピナスも頷く。
「最寄りの人里から普通に向かえば、三日ほどは見る場所じゃ。人へ害を与えておらん魔獣へ、危険だからというだけで協会が片っ端から討伐依頼を出す理由もないからの」
「三日?」
ルアンナが眉を上げた。
「だったら今日中には帰ってこられないんじゃない?」
「人里からならな」
プロスが笑う。
「ここがどこにあると思ってんだよ」
「……山の中」
「だろ? 《天狼の寝床》自体が、とっくに人里から離れてんだ。こっちから抜けりゃ、俺らなら数時間だ」
「なるほど」
ルアンナは納得したように頷く。
「じゃあ日帰りできますね」
「そういうことだ」
「クリスには内緒じゃぞ」
ルピナスが付け加えた。
「何で?」
「『天狼の寝床にいてほしい』と頼まれたその日に、ワッチが巨獣原へ送り出したと知れたら、小言を食らうのはお主だけでは済まなそうじゃ」
「日が落ちる前には戻るわよ」
「絶対じゃぞ」
「分かってるって」
「お主の『分かってる』ほど信用ならん言葉も珍しいのう……」
ルピナスは呆れながら話を戻す。
「アトラボスなら、巨獣原へ入ればそう探さんでも見つかるじゃろ」
「有名なんですか?」
ルアンナがプロスへ尋ねた。
「まあな」
「強いから?」
「強いのもある」
「他には?」
「行けば分かる」
「何ですか、それ」
プロスは答えずに笑っている。
ルピナスも同じだった。
その二人を見比べ、ルアンナの目が細くなる。
「……何か隠してません?」
「気のせいじゃ」
「絶対何かあるでしょう」
「まあまあ」
プロスが立ち上がった。
「アレ目当てなんだろ? 俺もいた方がいいって」
「アレって何ですか?」
「だから、行けば分かるって」
「気になる言い方しますね……」
「まあ、お主らなら一人でも十分じゃろう」
ルピナスはそう言って、最後に念を押した。
「一頭でよいぞ」
「一頭?」
「うむ。一頭あれば十分じゃ」
ルアンナが眉を寄せる。
「今、一頭って言いましたよね?」
「言ったかの?」
「言いました」
プロスが口元を押さえた。
「プロスさん、何笑ってるんです?」
「いや、何でもねぇ」
「怪しい……」
◯
《天狼の寝床》を出て、数時間。
二人は人が使う街道とは反対側の山道を進んでいた。
もっとも、道と呼べる形が残っていたのは途中までだ。やがて踏み固められた地面も消え、岩場と低い木々が続くようになる。
並の冒険者なら足元を確かめながら慎重に進まなければならない場所を、ルアンナとプロスはほとんど歩調も落とさず越えていった。
「人里から三日って聞いて、もっと遠いと思いました」
「天狼が変な場所にあるだけだろ」
「プロスさんもそこにいるんでしょう?」
「だから俺も含めて言ってんだよ」
「なら悪口になってないですね」
「なってるだろ」
最後の斜面を登りきったところで、視界が一気に開けた。
「……わぁ」
ルアンナが思わず声を漏らす。
山々の向こうに、広大な草原が広がっていた。
緩やかな丘陵の間を細い川が走り、遠くには湖らしき水面が陽光を反射している。草原のあちらこちらには小さな影が動いていたが、距離があるからそう見えるだけで、その一つ一つが人間より遥かに大きい。
「ここが《巨獣原》?」
「ああ」
プロスが隣へ立つ。
「見た目は結構平和ですね」
「遠くから見りゃな」
「近付くと?」
「その辺歩いてる奴が普通にBランクだったりする」
「それは平和とは言わないわね」
二人は高原へ下りていった。
しばらく進むうち、プロスが横目でルアンナを見る。
「さっきから楽しそうだな」
「そうですか?」
「そうだろ。歩く速さが微妙に変わってるぞ」
言われて、ルアンナが自分の足元を見る。
「……本当?」
「さっき少し走っただろ」
「走ってないですよ」
「十歩くらい」
「歩幅を広げただけです」
「それを走ってるって言うんじゃねーの?」
ルアンナは少し考えた。
「新しい靴を買ったら、歩きたくなるでしょう?」
「MAPと靴を一緒にすんなよ」
「似たようなものですよ」
「アンガードが聞いたら怒るぞ」
「本人がいないから言ってるんです」
「やっぱり関係あるじゃねーか」
「うるさいですね」
プロスが笑う。
ルアンナは気にせず歩き続けた。
新しい脚が草地を捉える。硬い岩場とは違う僅かな沈み込みへ、足首と膝が自然に追従する。
踏み込むたびに返ってくる感覚も、以前よりずっと滑らかだった。
まだ、失う前の身体には届かない。
それでも、確実に近付いている。
「……いい感じ」
「何が?」
「こっちの話です」
「そうかよ」
プロスはそれ以上聞かなかった。
代わりに前方を指差す。
「ほら。いたぞ」
「どれ?」
「あれだ」
丘の向こうに、大きな黒い影がいくつか見えた。
近付くにつれて、その姿がはっきりしてくる。
体長は三メートル前後。
太い四肢。分厚い胴体。牛を思わせる頭部から、大きく湾曲した二本の角が伸びている。
そして何より目につくのは、その全身を覆う毛だった。
陽光の下でもなお深く黒い、艶のある黒毛。
数頭の黒い巨体が、悠々と草を食んでいる。
ルアンナが足を止めた。
「……牛?」
「あれがアトラボスだ」
「牛ですよね?」
「魔獣だ」
「黒い牛じゃないですか」
「強い黒い牛だな」
「結局、牛じゃないですか」
「牛型の魔獣だよ」
「最初からそう言ってくださいよ!」
その声が草原へ響いた。
群れから少し離れていた一頭のアトラボスが顔を上げる。
黒毛に覆われた巨体がこちらへ向き、荒い鼻息を吐いた。
「お」
プロスが呟く。
「気付かれたな」
「プロスさんのせいでしょう?」
「お前だろ!」
アトラボスが前脚で地面を掻く。
一度。
二度。
巨体が低く沈み、太い角が二人へ向いた。
次の瞬間、地面が震えた。
三メートルを超える巨体が、一気に加速する。
「来るぞ!」
「見れば分かります!」
ルアンナが踏み込んだ。
新しい右脚が草地を蹴る。
迫る角を紙一重でかわし、擦れ違いざまに左掌を首元へ触れさせた。
「《
触れた箇所を越え、衝撃だけが黒毛の下へ抜けた。
アトラボスの首が僅かに揺れる。
それだけだった。
巨体は勢いをほとんど失わず、そのまま駆け抜けていく。
「……え?」
ルアンナが振り返る。
アトラボスも、すぐにこちらへ向き直った。
「今の、効いてない?」
「効いてはいるだろ」
プロスが笑う。
「あれでもAランク相当だぞ」
「もう少しくらい反応してくれてもいいでしょう?」
「魔獣に愛想を求めんなよ」
再び地面が震える。
「なら――」
ルアンナが腰を落とした。
新しい左脚で深く踏み込み、迫る巨体の側面へ滑り込む。
掌を肩口へ押し当てた。
「《
凝縮された衝撃が黒毛の奥へ抜け、その内側で炸裂する。
腹に響くような低い破裂音。
アトラボスの巨体が僅かに傾いた。
二歩ほど足取りを乱す。
――だが。
倒れない。
低い唸り声を上げると、すぐに四肢を踏ん張り、再びルアンナへ角を向けた。
「……今ので、これ?」
「ちょっとは効いたじゃねぇか」
「ちょっとじゃない」
「だからAランクだって言ってんだろ!」
「だったら――」
ルアンナの両脚が地面を踏み締める。
腰を沈める。
体幹を捻り、両腕の出力を連動させる。
全身の力を、一つの拳へ集約する構え。
「《
「待て待て待て!」
それまでで一番慌てた声が飛んできた。
ルアンナが構えたまま振り返る。
「何ですか?」
「それはやめろ!」
「何で?」
「肉が駄目になる!」
「…………肉?」
構えが崩れた。
「今、肉って言いました?」
「言った!」
「何で肉――」
最後まで尋ねる暇はなかった。
先ほどまで離れた場所で草を食んでいた二頭が、一斉にこちらへ顔を向ける。
戦闘の音に反応したのだろう。
二つの黒い巨体が土を蹴り上げ、こちらへ走り始めた。
「……増えたんですけど」
「みたいだな」
「一頭でいいって言ってましたよね?」
「俺に言うな!」
一頭目もまだ健在。
その左右から二頭。
三方向。
「逃げます?」
ルアンナが尋ねる。
プロスは迫ってくる巨体を見た。
「この距離で背中向ける方が面倒だろ」
「ですよね」
「仕方ねぇ!」
プロスの肩口へ魔素が集まる。
そこから伸びた巨大な《義肢》が、横合いから迫ってきた一頭の頭部を受け止めた。
黒い巨体がなおも前へ進もうとする。
巨大な腕も押し返す。
蹄が草地を削り、プロスの足元が僅かに沈む。
「っ……やっぱ重いな、コイツ!」
「手伝いましょうか?」
「いらねぇ!」
プロスが笑った。
「このくらいが丁度いい!」
「プロスさんも楽しんでるじゃないですか」
「不可抗力だ!」
「顔が全然そう言ってませんよ!」
巨大な《義肢》がアトラボスの頭部を押さえ込み、その動きを封じる。
「ルアンナ! やるなら頭か首だ!」
「何でプロスさんに攻撃場所まで指定されなきゃいけないんですか!」
「胴を傷めんな! 肉が減る!」
「だから肉って何なんですか!」
文句を言いながらも、ルアンナは巨体の側面へ回り込んだ。
首筋へ掌を当てる。
「《直撃》!」
一撃。
頭が揺れる。
同じ場所へ、もう一度。
「《直撃》!」
二撃目。
それでも倒れない。
「本当に頑丈ですね!」
「Aランクだぞ!」
「それはもう分かりました!」
倒すだけなら、もっと大きな力を使えばいい。
だが今日は何故か、胴体を傷めてはいけないらしい。
プロスが押さえている間に、同じ急所へ衝撃を重ねる。
さらに一撃。
ようやくアトラボスの脚から力が抜けた。
プロスが《義肢》を緩めると、黒い巨体がその場へ崩れ落ちる。
「よし」
プロスが満足そうに頷いた。
「綺麗だ」
「何がです?」
「肉」
「また肉」
「後ろ!」
残った一頭が迫る。
「もう!」
ルアンナが草地を蹴った。
◯
それからしばらくして。
三頭のアトラボスが草原へ倒れていた。
ルアンナは三頭を順番に見回す。
「…………」
「何だよ」
「一頭だけのはずでしたよね?」
「ああ」
「三頭いますよ」
「仕方ねぇだろ。二頭は向こうから来たんだから」
「不可抗力ですか?」
「不可抗力だ」
ルアンナはプロスを見る。
「何でちょっと嬉しそうなんです?」
「気のせいだ」
「今日、その言葉よく聞くわね」
プロスは三頭の肉付きへ視線を向けていた。
「まあでも、三頭なら悪くねぇな」
「やっぱり嬉しいんじゃないですか!」
「襲われた結果だって!」
「顔!」
「顔は関係ねぇ!」
ルアンナは呆れたように息を吐いた。
「でも、これ全部は持って帰れないですよ?」
「丸ごとはな」
三メートル級の魔獣を三頭、そのまま山越えさせる必要はない。
二人は必要な分だけを現地で処理した。
持ち帰るのは肉を中心に、利用価値のある素材と角。
三頭分となれば相当な量だが、プロスの《義肢》を運搬へ回せば、持ち帰れる範囲には収まる。
「残った分は?」
「場所を覚えときゃいい。欲しけりゃ明日にでも取りに来れる」
「誰が?」
「俺とか」
「やっぱり肉目当てじゃないですか」
「無駄にするよりいいだろ?」
「それはそうですけど」
ルアンナが空を見上げた。
太陽はすでに傾き始めている。
「あ」
「どうした?」
「帰りましょう」
「急だな」
「日が暮れる前に戻らないと」
「ああ」
プロスがにやりと笑った。
「クリスか」
「別に怖がってるわけじゃありません!」
「何も言ってねぇよ」
「今の顔が言ってました!」
◯
日が沈む少し前。
《天狼の寝床》の扉が開いた。
「戻ったわよ」
「おう、ばっちゃん!」
「おお。何とか日暮れ前には戻ったか」
受付にいたルピナスが顔を上げる。
まずルアンナ。
次にプロス。
そして、巨大な《義肢》が抱えている大量の肉と素材へ視線を移す。
最後に、まとめられた三頭分の角を見た。
「…………」
ルピナスの狼耳がゆっくり立つ。
「三頭?」
「一頭は依頼分です」
ルアンナが答えた。
「残り二頭は?」
「襲ってきました」
「不可抗力だ」
プロスも頷く。
ルピナスが二人を見る。
「なぜ二人とも、少し満足そうなんじゃ?」
「気のせいです」
「気のせいだ」
「息ぴったりじゃのう……」
ルピナスは呆れたように息を吐いた。
「まあよい。怪我もないようじゃしの」
そう言いながら、持ち帰った荷へ近づく。
「食べるんですか?」
ルアンナが尋ねた。
「まだ分かってなかったのか?」
プロスが笑う。
「戦ってる最中から肉、肉って言われましたけど、何の話なのか一度も説明してくれなかったでしょう?」
ルピナスは肉の状態を確かめる。
「ふむ」
「ルピ婆様?」
「状態も悪くないのう」
満足そうに頷いた。
「いや、ワッチは晩飯に一頭頼んだだけなんじゃが」
「…………」
ルアンナが固まった。
「晩御飯?」
「うむ」
「特別依頼って」
「ワッチの晩飯じゃ」
「…………」
「コイツの肉が美味いんじゃ」
短い沈黙。
次いで、プロスが吹き出した。
「っははは!」
ルアンナがゆっくり振り返る。
「プロスさん」
「何だよ」
「最初から知ってたんですね?」
「知ってた」
「だから付いてきたんですか?」
「ああ」
「アレ目当てって?」
「肉」
「先に言ってくださいよ!」
「言ったら面白くねーだろ!」
「後で殴りますよ」
「新しいMAPの試し殴りに俺を使うな!」
ルピナスは二人のやり取りを聞き流しながら、機嫌よく肉を眺めていた。
そこでルアンナが、もう一つ思い出す。
「……そういえば、ルピ婆様」
「何じゃ?」
「最初に言ってた、ブラックランク級って結局何だったの?」
「ああ、それか」
ルピナスが顔を上げる。
プロスが露骨に顔を逸らした。
「お主、《星代古語》は多少分かるか?」
「多少なら」
星代古語。
古い地名や魔獣名、学術用語などに断片的に残る古語で、現在では日常的に使う者はほとんどいない。
「では、《アトラ》は?」
「……黒?」
「うむ」
「じゃあ、《ボス》は……」
そこまで口にして、ルアンナが止まった。
ゆっくりと目を細める。
「…………牛?」
「正解じゃ」
ルピナスがにやりと笑う。
「アトラボス。星代古語で、そのまんま『黒い牛』じゃな」
「…………」
「そして実物も見事な黒毛の魔牛じゃろ?」
「…………ええ」
「つまり――」
ルピナスは胸を張った。
「黒毛魔牛じゃ!」
「…………」
「黒い。ブラックじゃ」
「…………」
「じゃから――ある意味ブラックランク級!」
一拍。
「ハハハ!」
ルピナスだけが豪快に笑った。
「…………」
ルアンナは無言だった。
プロスは横を向いたまま肩を震わせている。
「プロスさん」
「っ……何だよ」
「笑ってます?」
「いや」
「笑ってますよね?」
「だってよ……名前から最初っから黒い牛って……」
「説明しなくていいです」
ルアンナは額へ手を当てた。
「というか、名前からして最初からただの黒い牛じゃない!」
「強いぞ?」
「そこは否定してないわよ!」
「肉も美味い」
「それもまだ知りません!」
「では今から確かめればよかろう」
ルピナスは何事もなかったように肉を持ち上げた。
「ちょうど晩飯時じゃ」
◯
その日の夜。
《天狼の寝床》の食卓では、厚く切ったアトラボスの肉が焼かれていた。
熱した鉄板へ肉を置くと、じゅう、と心地よい音が鳴る。表面から溶け出した脂が広がり、香ばしい匂いが建物の中へ漂っていった。
「さてさて」
ルピナスが嬉しそうに焼けた肉を取る。
「コイツは角や皮にも使い道はあるがの。ワッチに言わせれば、一番価値があるのは肉じゃ」
「最初から肉って言えば良かったじゃない」
「そうしたら面白くないじゃろ」
「依頼主が面白さを求めないでよ」
その横では、プロスがすでに食べている。
「やっぱ美味ぇ!」
「お主は少し待てんのか」
「もう焼けてるだろ」
「そういう問題ではない」
ルアンナは鉄板の上を見た。
数時間前まで《巨獣原》を走っていた黒い巨体。
《直撃》ではほとんど怯まず、《撃滅》を受けても僅かに足取りを乱しただけで向かってきたAランク相当の魔獣。
それが今では、目の前で美味しそうな音を立てている。
「……何か複雑ね」
「食わねぇの?」
「食べますよ」
一切れ取る。
口へ運んだ。
「…………」
噛む。
もう一度。
プロスが横から笑う。
「どうだ?」
ルアンナは答えなかった。
代わりに二切れ目を取る。
「おい」
「何ですか」
「美味いんだろ?」
「…………」
三切れ目。
「美味いんだろ?」
「うるさいですね」
「認めろよ」
ルアンナは少しだけ眉を寄せた。
「……悔しいけど」
「うん」
「美味しいです」
「だろ!」
何故かプロスが自慢げに笑った。
向かいではルピナスも満足そうに頷いている。
「じゃろ?」
「本当に美味しい……」
ルアンナはもう一切れ取った。
口へ運び、噛む。
そこで。
「…………あ」
ぴたりと動きが止まった。
「何じゃ?」
ルピナスが首を傾げる。
ルアンナは手にした肉を、妙に真剣な顔で見つめた。
何かを思い出したらしい。
「もしかして……」
「何だよ?」
プロスも見る。
ルアンナの翠の瞳が僅かに見開かれた。
「あの時の十倍のお肉!?」
「…………」
「…………」
ルピナスとプロスが揃って黙った。
「何じゃ、その『あの時』というのは」
「前に買ったんですよ。すごく美味しいお肉」
「へぇ」
「普通のお肉の十倍くらいしたんですけど」
プロスの手が止まった。
「待て」
「何ですか?」
「お前、肉に十倍払ったのか?」
「肉だけじゃないですよ?」
「…………は?」
「野菜とか香辛料とかも」
「…………」
「一番美味しい物を選んだら、それくらいだったの」
「お前……」
プロスが何とも言えない顔をする。
ルピナスは思い当たったらしく、額へ手を当てた。
「ああ……あの時の話か」
「知ってるのかよ」
「クリスから少しのう」
「ルピ婆様!?」
「水は二十倍じゃったか?」
「何でそこまで知ってるの!?」
「水二十倍!?」
今度はプロスが声を上げた。
「少し柔らかかったんですよ!」
「水だぞ!?」
「美味しかったもの!」
「二十倍払って!?」
「その話はもうクリスに散々怒られたからいいでしょう!」
ルアンナは慌てて話を戻す。
「だから、これもそうなのかなって」
皿の肉を指差す。
「あの時の十倍のお肉」
「知らん」
ルピナスが即答した。
「え?」
「ワッチはアトラボスの肉が普通の牛肉の何倍で売られておるかなど知らん」
「違うの!?」
「そもそもお主の『十倍のお肉』という分類がおかしいじゃろ」
「でも美味しいわよ?」
「値段と味を同じ物差しで測るでない!」
プロスが腹を抱えて笑い始める。
「っははは! 十倍のお肉って何だよ!」
「プロスさんまで笑わないでください!」
「じゃあこれが十倍なら、三頭で三十倍か?」
「そういう計算じゃないでしょう!」
「お前なら言いそうだろ!」
「言いませんよ!」
「どうかのう」
「ルピ婆様まで!」
三人分の笑い声が食卓へ響いた。
しばらくして、ルアンナも諦めたように息を吐き、もう一切れ肉を口へ運ぶ。
「……でも、本当に美味しい」
「じゃろ?」
「これのために私たちを行かせたの?」
「うむ」
「しかも二人も?」
「早かったじゃろ?」
「そういう問題じゃないでしょう……」
「別にいいだろ」
プロスは次の肉を鉄板へ置きながら言った。
「俺はこれが食いたかった。お前は新しいMAPを動かしたかった。ばっちゃんは晩飯が欲しかった」
「……まあ」
ルアンナは少し考える。
「そう言われると、全員目的は達成してますね」
「じゃろ?」
「ルピ婆様が一番得してない?」
「依頼主じゃからの」
「そういうものかしら……」
「そういうもんだって」
焼けた肉を一切れ、プロスがルアンナの皿へ置いた。
「ほら」
「自分で取れますよ」
「十倍のお肉だぞ?」
「まだ言うんですか!」
「大事に食えよ」
「だから十倍かどうか分からないってルピ婆様が言ったでしょう!」
ルピナスが笑った。
ルアンナも、少し遅れて笑う。
そしてルピナスが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば」
「何?」
「クリスには何と説明するつもりじゃ?」
ルアンナの手が止まった。
「…………」
プロスも肉を噛みながら彼女を見る。
「『天狼の寝床にいてください』って言われたんだろ?」
「…………」
「巨獣原まで行ったよな」
「…………」
「しかも三頭」
「二頭は不可抗力です!」
「俺に言うなよ」
「プロスさんもそう言ってたでしょう!」
「まあな」
「その話、クリスにはしないでくださいね?」
「どうしよっかな」
「プロスさん?」
「十倍のお肉、もう一枚くれたら考える」
「自分で取ってください!」
再び笑い声が上がった。
アンガードたちがいない《天狼の寝床》。
いつもより少しだけ静かなはずだった夜。
それでも、その日の食卓には三人分の声が絶えなかった。
新しい身体を試したかった者。
最初から肉目当てだった者。
そして、自分の晩飯のために二人へ黒毛の魔牛を狩らせた者。
三人の目的は、まるで違っていた。
けれど結果として。
ある意味ブラックランク級の特別依頼は、三人とも大満足で終わった。