無差別の技師 〜MAP技師は身体を全て取り返す〜   作:羊毛ローブ

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その3


25話「知らない動かし方と覚えている歩き方」

 

 

 初めて両脚を接続した日から、二日が経った。

 

 翌日も、その次の日も、ノエラが許されたのは感覚を確かめることだけだった。

 

 布が皮膚へ触れる感覚。寝台へ掛かる圧力。右と左の違い。そして、膝や足首がどこにあるのか。

 

 初日には「身体の中がうるさい」としか表現できなかったそれも、今では少しずつ区別できるようになっている。

 

「右の膝」

 

「ここ」

 

「左の足首」

 

「ここ!」

 

 目を閉じたまま答えたノエラが、確認するように自分の左足首へ手を置く。

 

 エルヴィスは手元の記録と見比べ、頷いた。

 

「左右と関節位置の認識は、かなり安定してきたのである」

 

「じゃあ!」

 

 ノエラが勢いよく目を開いた。

 

「今日は動かしていい!?」

 

「いいぞ」

 

「やった!」

 

 両腕が上がる。

 

「ただし」

 

「えー」

 

「まだ何も言ってねぇだろ」

 

「どうせ何かあるもん」

 

「あるに決まってる」

 

 アンガードはノエラの前へ椅子を引き寄せた。

 

「今日は歩く練習じゃない。脚を動かす練習だ」

 

「同じじゃないの?」

 

「全然違う」

 

 ノエラが首を傾げると、エルヴィスが説明を引き継いだ。

 

「歩行とは、複数の動作を組み合わせて成立する。股関節を動かし、膝を曲げ、足首を使い、重心を移す。それら全てを一度に試す必要はないのである」

 

「兄さん」

 

「なんであるか」

 

「今日は分かりやすいな」

 

「私は常に分かりやすい」

 

「それはないねぇ」

 

 横からカーナが割り込み、エルヴィスの眉が僅かに動く。

 

「……進めるのである」

 

「誤魔化した」

 

「アン坊」

 

「はいはい」

 

 ノエラがくすくす笑った。

 

 部屋には両親とミラ、クリスとルーフェもいる。ガルディナは少し離れた壁際に立ち、いつもの無表情でカーナを見守っていた。

 

 ノエラは寝台へ腰掛け、両脚を前へ伸ばしている。足裏は床へ着いていない。今日はまだ、自分の体重を支える必要すらない。

 

「まず小さいところからいくぞ」

 

 アンガードが右足を指した。

 

「右の親指。動かしてみろ」

 

「これ?」

 

「そう」

 

「うん」

 

 ノエラが自分の右足を見つめる。

 

 しばらく待った。

 

 動かない。

 

 さらに眉間へ力が入る。

 

「…………」

 

「顔に力入れても動かねぇぞ」

 

「分かってる!」

 

「じゃあ力抜け」

 

「今やってるの!」

 

 それでも、右足の親指はぴくりともしなかった。

 

「……どうやるの?」

 

 やがてノエラが訊いた。

 

「どうって?」

 

「指を動かすの」

 

「動かそうって思う」

 

「思ってるよ」

 

「なら、そのまま続けてみろ」

 

「うん」

 

 もう一度集中する。

 

 変化はない。

 

 足首も試した。

 

 アンガードが自分の足先を持ち上げて見せ、ノエラも同じ形にしようとする。

 

 だが、それも動かなかった。

 

 エルヴィスが神経系の反応を確認する。

 

「動かそうという意思はある。だが、MAPを動作させるほど明確な信号としては届いておらぬ」

 

「やっぱりか」

 

 アンガードは落胆しなかった。

 

 むしろ、予想していた問題を実際に確認できたという顔だった。

 

 ノエラの表情だけが、少し曇る。

 

「私、やっぱり動かせない?」

 

「まだ始めたばっかりだろ」

 

「でも、全然動かなかった」

 

「だから確認してるんだよ」

 

 アンガードはそこで一度言葉を切った。

 

「前にも言っただろ。難しいのと、無理なのは違う」

 

「……うん」

 

「今分かったのは、脚を繋いで感覚が返ってくるようになっても、動かし方まで勝手に分かるわけじゃないってことだ」

 

 感覚は届く。

 

 右と左も分かる。

 

 触れれば、触れられたことも分かる。

 

 けれど、動かそうとした瞬間だけ、身体は行き先を失う。

 

「次は膝だ」

 

「指も足首も動かなかったのに?」

 

「だからだ。もっと大きな動きなら、反応が変わるかもしれない」

 

「分かった」

 

 ノエラは右膝を見る。

 

「曲げるんだよね?」

 

「ああ」

 

「こう?」

 

 両手で膝を抱えようとしたところで、アンガードに止められた。

 

「手で動かすんじゃない」

 

「分かってるよ! 確認しようとしただけ!」

 

「なら一回だけな」

 

 アンガードが右脚を支える。

 

「今から俺が曲げる。自分では動かそうとするなよ」

 

「うん」

 

 膝がゆっくりと曲がっていく。

 

「……あ」

 

「何が分かる?」

 

「膝が動いてる。足が近づいてきて……ここが曲がって、ちょっと引っ張られる感じもする」

 

「よし」

 

 今度はゆっくり伸ばす。

 

「戻った」

 

「じゃあ、自分でさっきと同じ状態にしてみろ」

 

「うん」

 

 ノエラが息を吸った。

 

 どこが動くのかは分かる。

 

 曲がった時の感覚も、たった今受け取った。

 

「…………」

 

 それでも、膝は伸びたままだった。

 

「曲がれ……」

 

 小さく呟く。

 

「曲がれ」

 

 何も起こらない。

 

「曲がって!」

 

 その瞬間。

 

 上半身が前へ出た。

 

 腰が浮き、右へ捻られる。

 

 その動きに引かれて、寝台の上の右脚そのものが僅かに動いた。

 

「待て」

 

 アンガードが肩を押さえる。

 

「今の、もう一回やってみろ」

 

「膝を?」

 

「ああ」

 

 ノエラが再び右膝を見る。

 

「…………っ」

 

 今度ははっきり分かった。

 

 上半身を前へ送り、腰を捻る。

 

 MAPの右脚全体が、その動きに引かれて僅かに移動する。

 

 だが。

 

 膝関節そのものは曲がっていない。

 

「止めていいぞ」

 

「……動いた?」

 

「脚全体はな」

 

「やった!」

 

「でも、今動かしたのは膝じゃない」

 

 喜びかけた顔が止まる。

 

「え?」

 

「腰だ」

 

「腰?」

 

「ああ。膝を曲げようとして、身体を前へ出した。腰を使って脚全体を運ぼうとしたんだ」

 

 エルヴィスが記録から顔を上げる。

 

「ノエラ嬢が、これまでの義足で歩く際に用いてきた動きと近いのである」

 

「……私、そっちをやっちゃったの?」

 

「ああ」

 

「膝を動かそうとしたのに?」

 

「ああ」

 

「なんで?」

 

「そっちは身体が知ってるからだ」

 

 アンガードは静かに答えた。

 

「お前は今まで、それで歩いてきた。前へ進みたい時に身体をどう使えばいいか、何年も掛けて覚えてる」

 

 腰を動かす。

 

 重心をずらす。

 

 上半身を使って義足を運ぶ。

 

 何度も転びながら、自分で覚えた歩き方。

 

「でも、この脚を動かす方法はまだ知らない」

 

「そうだな」

 

「……難しい」

 

「だから最初からそう言ってる」

 

「もっと簡単かと思った」

 

「俺も簡単だったら嬉しかったよ」

 

 ノエラが二本の脚を見る。

 

 今までの義足とは違う。

 

 感覚がある。

 

 膝も、足首も、足指もある。

 

 けれど、それらを動かす方法だけがない。

 

「ちょっといいかい?」

 

 カーナがノエラの横へ来た。

 

「何するの?」

 

「さっき曲げてもらった時のこと、覚えてるかい?」

 

「うん」

 

「膝がどこにあって、曲がるとどう感じるかも?」

 

「分かる」

 

「なら、その感覚を使ってみよう」

 

 カーナがノエラの額へ指先を添える。

 

「アタイが少し手伝う。嫌になったらすぐ言いな」

 

「痛い?」

 

「痛くはしないよ」

 

「じゃあやる」

 

「即答だねぇ」

 

「早く動かしたいもん」

 

「そうだったね」

 

 カーナの幻想魔術が、ノエラの身体認識へ静かに触れる。

 

 右脚がどこにあるのか。

 

 膝はどこなのか。

 

 今は伸びていて、先ほどは曲がっていた。

 

 その時にノエラ自身が受け取った感覚を拾い上げ、身体認識の中で輪郭を強くする。

 

 カーナがMAPを動かすのではない。

 

 存在しなかった動作を、そのままノエラへ押し込むわけでもない。

 

 ノエラ自身が受け取った「曲がった膝」の感覚を、見失わないように支える。

 

「目を閉じて」

 

「うん」

 

「右膝は?」

 

「分かる」

 

「今は?」

 

「伸びてる」

 

「じゃあ、さっき曲がった時を思い出してごらん」

 

「……足が近づいてきた」

 

「そう。膝の位置も変わったね」

 

「うん」

 

「今の膝が、そこへ行くつもりで」

 

「曲げるんじゃなくて?」

 

「今はそれでいい」

 

 ノエラの眉が僅かに動いた。

 

「さっきのところ……」

 

 右膝。

 

 伸びている状態から。

 

 曲がった状態へ。

 

「…………っ」

 

 ぴくり。

 

 アンガードの目が動いた。

 

「兄さん」

 

「見えている」

 

 膝が僅かに動き、止まる。

 

「そのまま」

 

 カーナは急かさない。

 

「腰は動かさなくていい。上半身もそのまま。右膝だけ」

 

「……うん」

 

 もう一度。

 

 今度は、はっきりと右膝が曲がった。

 

「――動いた!」

 

 ミラの声が上がる。

 

 ノエラが目を開いた。

 

「えっ?」

 

「待て、そのまま!」

 

 アンガードがすぐに止めた。

 

「今、曲がってる」

 

「……ほんと?」

 

 ノエラが右脚を見る。

 

 伸びていた膝が、僅かではあるが確かに曲がっていた。

 

「私が?」

 

 アンガードはエルヴィスを見る。

 

「信号は?」

 

「ノエラ嬢側から出ている」

 

「じゃあ……」

 

 ノエラの顔が一気に明るくなる。

 

「私が動かした!?」

 

「ああ」

 

「やった!」

 

 両手を上げる。

 

「ノエラ、脚はそのまま!」

 

「あっ」

 

 慌てて身体を止めた。

 

 母親が口元を押さえ、父親も大きく息を吐く。ミラは満面の笑みで、曲がった右膝を見つめていた。

 

 クリスの横では、ルーフェが翼を畳んだまま、じっとノエラの脚を見ている。

 

『……動いたな』

 

「はい」

 

 クリスが小さく答えた。

 

「ルーフェ、何て?」

 

「動きましたね、と」

 

「うん!」

 

 ノエラは嬉しそうに頷く。

 

「私、動かした!」

 

 その声を聞きながら、アンガードはカーナを見た。

 

 カーナも笑っている。

 

 だが、その目はまだ技師のものだった。

 

「姉貴」

 

「分かってるよ」

 

「一回、補助を外してみるか」

 

 ノエラが二人を見る。

 

「え?」

 

「もう一回やる」

 

 カーナが額から指を離した。

 

 アンガードが右膝をゆっくりと伸ばし、元の位置へ戻す。

 

「さっきと同じでいいの?」

 

「ああ」

 

「分かった」

 

 ノエラが目を閉じる。

 

「さっきのところ……」

 

 待つ。

 

「…………」

 

 膝は動かない。

 

「さっきの……」

 

 眉間へ皺が寄る。

 

「……あれ?」

 

 身体が前へ傾き始めた。

 

「腰」

 

「っ」

 

 アンガードの一言で止まる。

 

 もう一度試す。

 

 それでも、右膝は動かなかった。

 

「……なんで?」

 

 ノエラが目を開いた。

 

「さっきできたのに」

 

 カーナが再び額へ触れる。

 

「もう一度やってみな」

 

「うん」

 

 右脚。

 

 膝。

 

 曲がった時に受け取った感覚。

 

 カーナが、その認識を支える。

 

「…………っ」

 

 また膝が動いた。

 

「できた」

 

「そうだね」

 

 今度は、カーナが補助を少しずつ薄くしていく。

 

 膝の動きが鈍る。

 

 さらに薄く。

 

 止まった。

 

「……あ」

 

 ノエラにも分かったらしい。

 

「カーナさんが手伝ってくれてる間は動く」

 

「今のところはね」

 

「じゃあ、これってカーナさんが動かしてるの?」

 

「違う」

 

 アンガードが即座に答えた。

 

「信号を出したのはお前だ。姉貴はMAPを動かしてない」

 

「じゃあ、どうして一人だとできないの?」

 

「出せないんじゃない」

 

 アンガードはノエラの右膝を指した。

 

「自分一人じゃ、どの信号を出せばそこへ届くのか、まだ同じように再現できないんだ」

 

「再現?」

 

「さっき、お前は確かに膝を曲げた。でも、何をどうしたら曲がったのかを、まだ自分で分かってねぇ」

 

 カーナが言葉を引き継ぐ。

 

「アタイがいる間は、右膝がどこにあって、曲がった状態がどんなものだったのかを見失いにくくしてる。だから、お嬢ちゃんの『こうしたい』が、その場所へ届きやすい」

 

「一人だと?」

 

「道が消えるわけじゃないよ。ただ、まだ自分だけじゃ同じ道を見つけられない」

 

 ノエラが右膝を見る。

 

「……じゃあ、まだ私だけの力じゃない?」

 

「そうだな」

 

 アンガードは誤魔化さなかった。

 

「でも、姉貴がいくら手伝っても、お前から信号が出なきゃ動かない。今の動きがお前自身のものだったことも間違いない」

 

「…………」

 

「一人でできたわけじゃない。でも、ゼロでもない」

 

 ノエラは少し考える。

 

「じゃあ半分?」

 

「何で半分なんだ」

 

「カーナさんと二人でできたから」

 

「そういう計算かよ」

 

「分かりやすいでしょ?」

 

 アンガードが笑った。

 

「まあ、昨日までゼロだったところから、一つ進んだのは確かだ」

 

「じゃあ次は、一人でできたら全部?」

 

「そう簡単には――」

 

「アン坊」

 

「……今はそれでいい」

 

「よし!」

 

 ノエラの表情がすぐに戻る。

 

「もう一回やる!」

 

「休憩してからだ」

 

「まだ疲れてないよ」

 

「身体じゃなくて頭を休ませろ」

 

「見えないじゃん」

 

「見えたら怖ぇよ」

 

 ノエラが笑った。

 

 しばらく休みを挟み、再び試験を始めた頃だった。

 

「ねえ」

 

「何だ?」

 

「膝じゃなくて、脚を前に出すのは?」

 

「今日は――」

 

「やるんじゃなくて、聞くだけ」

 

「なら聞け」

 

「いつも歩く時みたいに、前へ出したいって思ったら駄目なの?」

 

 アンガードとエルヴィスが顔を見合わせる。

 

「……信号を見るだけなら、試す価値はあるのである」

 

「立つのは禁止だぞ」

 

「分かってる」

 

「本当だろうな」

 

「信用ないなぁ」

 

「昨日まで動かすなって言ってんのに、毎日『明日は?』って聞いてきた奴だからな」

 

「だって動かしたかったんだもん」

 

「ほら信用できない」

 

 ノエラがむっとして、右脚へ視線を落とす。

 

「やるよ」

 

 右脚を前へ。

 

 一歩。

 

 それは、これまで何千回も繰り返してきた動きだった。

 

「…………」

 

 身体が動く。

 

 重心をずらす。

 

 上半身を前へ送り、腰を捻る。

 

 MAPの右脚が、その動きに引かれて寝台の上を僅かに滑った。

 

「……あ」

 

 ノエラ自身が最初に気づいた。

 

「また腰だ」

 

「ああ」

 

「私、歩こうとすると勝手にこれやる」

 

「ああ」

 

 アンガードの返事は短い。

 

 エルヴィスは神経反応を見ながら、静かに口を開いた。

 

「新しい動かし方をまだ知らぬ。それだけではないのであるな」

 

「兄さん」

 

「すでに別の方法が、ノエラ嬢の身体へ強く定着している」

 

 ノエラは自分の腰へ手を置いた。

 

 これまで、自分を歩かせてくれた動き。

 

 転びながら。

 

 何度も。

 

 何度も練習して。

 

 ようやく覚えたもの。

 

「これ……邪魔なの?」

 

「そう単純な話じゃない」

 

「でも、新しい脚を動かそうとしても、こっちが先に出ちゃうんでしょう?」

 

「今はな」

 

 ノエラは少し黙った。

 

 視線が腰から、自分の脚へ落ちる。

 

「じゃあ……」

 

 声が先ほどまでより小さくなった。

 

「私が今まで覚えた歩き方って、間違ってたの?」

 

「違う」

 

 アンガードの返事は、考える間すらなかった。

 

 ノエラが顔を上げる。

 

「それが間違ってたら、お前は今日までどうやって歩いてきたんだよ」

 

「…………」

 

「俺たちが初めて会った日だって、お前は自分で家の外まで歩いてきた。転びそうにはなったけどな」

 

「それ言う?」

 

「大事なところだろ」

 

「転んだところは大事じゃない!」

 

「ならそこは忘れる」

 

「もう遅いよ」

 

 少しだけ、ノエラの顔に笑いが戻る。

 

 アンガードも笑ってから、続けた。

 

「今までの歩き方を忘れる必要なんかない。それは、お前が自分で覚えた歩き方だ」

 

「でも、新しい脚では?」

 

「もう一つ覚える」

 

「もう一つ?」

 

「ああ」

 

 アンガードがノエラの右膝を指す。

 

「今まで歩いてきた身体に、この脚の動かし方を増やすんだ」

 

「二つとも?」

 

「二つとも」

 

「できるかな」

 

 アンガードは少しだけ首を傾けた。

 

「お前、最初から今みたいに義足で歩けたのか?」

 

「無理だよ。最初は立つだけでも大変だったし」

 

「何回転んだ?」

 

「覚えてない」

 

「それでも覚えた」

 

「……うん」

 

「脚そのものを動かせなくても、腰も重心も上半身も使って、自分で歩けるようになった」

 

 ノエラは黙って聞いている。

 

「一回、自分で歩き方を作ってるんだよ」

 

「私が?」

 

「ああ」

 

 アンガードが、もう一度右膝を指した。

 

「だったら、今度も覚えるしかねぇだろ」

 

「……簡単そうに言うね」

 

「簡単じゃない」

 

「どっちなの?」

 

「難しい。でも」

 

 一度。

 

 指先で膝を軽く叩く。

 

「今日はもう、ここが動いた」

 

 ノエラも右膝へ視線を落とした。

 

 カーナの助けはあった。

 

 一人では、まだ同じ動きを再現できない。

 

 歩こうとすれば、身体はこれまで覚えてきた方法を真っ先に選んでしまう。

 

 それでも。

 

 右膝は確かに、ノエラ自身から出た信号を受けて動いた。

 

 ノエラがそっと右膝へ手を置く。

 

「……もう一回だけ駄目?」

 

「休憩」

 

「ちょっとだけ」

 

「休憩」

 

「一回!」

 

「休憩!」

 

「ケチ」

 

 頬を膨らませる。

 

 けれど。

 

 ノエラは右膝から手を離さなかった。

 

 今までの歩き方も、自分で覚えた。

 

 なら。

 

 これだって、きっと覚えられる。

 

 指先の下にあるのは。

 

 今日初めて、自分の意思で動いた場所だった。

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