無差別の技師 〜MAP技師は身体を全て取り返す〜 作:羊毛ローブ
翌日。
「もう休んだよ!」
「昨日から一晩経っただけだろ」
「一晩も休んだよ!」
「そういう数え方をするな」
朝から元気よく言い張るノエラに、アンガードは呆れたように返した。
昨日、カーナの補助を受けながらとはいえ、ノエラは初めて自分の意思で右膝を曲げた。
けれど補助がなくなれば、同じ動きをもう一度起こすことはできない。膝を曲げようとすると、身体は長い時間を掛けて覚えてきた腰と上半身の動きを先に使おうとする。
今日は、その続きだった。
「先に言っとくぞ」
「歩かない」
「立たない」
「立たない」
「一人で勝手に試さない」
「…………」
「何でそこだけ黙る」
「分かったよ」
「今の間が怖ぇんだよ」
ノエラが頬を膨らませる横で、カーナが笑う。
「まあまあ。今日は歩くどころか、一歩もいかないだろうさ」
「一歩も?」
「ああ」
カーナは椅子へ腰掛けたノエラの右膝を指した。
「今日の相手は、ここだけだよ」
「また膝?」
「昨日、一回動いたところだからねぇ。まずは一度できたことを、もう一度できるようにする」
「足の指は?」
「後」
「足首」
「後だね」
「左の膝」
「もっと後」
「全部後じゃん」
「全部いっぺんにやろうとするから、アン坊に止められるのさ」
「俺がまともみたいな言い方やめろよ」
「まともなこと言ってる時くらい褒めてやってるんだよ」
「時くらいって何だよ」
いつもの言い合いに、ノエラが笑う。
その少し離れた場所では、エルヴィスが昨日と同じ測定具を準備していた。両親とミラ、クリスも邪魔にならない位置から見守っている。ルーフェもクリスの傍らで青い翼を畳み、ノエラの右脚へ視線を向けていた。
「始めるのである」
「うん」
ノエラは姿勢を整える。
足裏はまだ床へ着けない。太腿から先は寝台の上へ預け、余計な荷重を掛けない状態のままだ。
カーナがノエラの額へ指を添えた。
「昨日と同じようにやってみな」
「右膝」
「そう」
「今は伸びてる」
「曲がった時は?」
「足が近くなって……膝がこっちに来る感じ」
「なら、そこを見失わないように」
幻想魔術が、ノエラの身体認識へ静かに触れる。
右脚の位置。膝の場所。伸びている現在の状態と、昨日自分自身が受け取った、曲がった時の感覚。
カーナはその輪郭を際立たせるだけだ。
「……曲がったところ」
ノエラが小さく呟いた。
右膝が僅かに震える。
少し遅れて、膝が曲がり始めた。
「動いた」
ミラが小さな声を漏らす。
「まだだ」
アンガードは膝ではなく、ノエラの腰と上半身を見ていた。
そちらは動いていない。
「兄さん?」
「信号は確認しているのである。昨日と同様、ノエラ嬢自身から出たものだ」
「よし」
膝が少し曲がったところで止める。
「カーナ」
「ああ」
補助を僅かに薄くする。
「そのまま、もう少し」
「うん……」
ノエラの表情が険しくなる。
膝の動きが遅くなった。
さらに補助を薄くする。
「…………っ」
身体が僅かに前へ傾きかける。
「腰」
「あっ」
ノエラが自分で気づき、止めた。
右膝も止まる。
「またやった」
「悪いことじゃねぇよ」
「でも膝は止まった」
「それはそうだな」
「やっぱり邪魔してるじゃん」
「昨日なんて言った?」
「……間違ってない」
「そうだ」
アンガードは即答した。
「お前の身体が、一番よく知ってる動きを選んだだけだ。悪者にすんな」
「悪者にはしてないよ」
「ならいい」
ノエラは自分の腰を一度見てから、右膝へ視線を戻した。
「でも、どうしたらこっちを選んでくれるの?」
「それを探してる」
アンガードはエルヴィスを見る。
「兄さん、どうだった?」
「補助が薄くなった後も、ノエラ嬢が動かそうとしていること自体は確認できるのである。ただ、その直後には腰や体幹側にも反応が現れている」
「膝へ何も出てないわけじゃない?」
「何も、とは言えぬ。ただし、昨日と同じ動作を成立させるには至っていない」
「なるほどねぇ」
カーナが腕を組んだ。
「動かしたい場所は分かってる。動いた時の感覚も知ってる。でも、アタイが手を離すと同じところへ一人じゃ戻れない」
「昨日と同じだな」
「そうだねぇ」
ノエラがむっとする。
「じゃあ進んでない?」
「そう焦るんじゃないよ」
カーナはそう言ったものの、すぐには次の補助を始めなかった。
代わりにノエラの右脚を眺める。
「……アン坊」
「何だ?」
「昨日から、曲げることばっかりやらせてるね」
「最初に動いたのがそこだからな」
「逆は?」
「逆?」
「伸ばす方さ」
ノエラも自分の膝を見る。
「伸ばす?」
「ああ」
カーナが立ち上がった。
「今のお嬢ちゃんは、『伸びた脚』なら随分見慣れてるだろう?」
「見慣れてる?」
「ここ数日、ずっとその脚を繋いでただろ。寝てる時も、座って感覚を確かめてる時も、基本は伸ばした状態が多かった」
「……うん」
「曲がった膝は、まだ昨日覚えたばかりだ。でも、伸びた膝がどこにあるかなら?」
ノエラは右脚を見る。
「分かる」
「なら、一度反対から試してみようかね」
アンガードが意図を察した。
「曲げる方法を探すんじゃなくて、曲がったところから知ってる場所へ戻す?」
「そういうことさ」
「それで動くのか?」
「知らないよ」
カーナはあっさり答えた。
「だから試すんだろ?」
「それもそうだな」
アンガードが笑った。
「兄さん」
「異論はないのである」
「ノエラ」
「やる!」
「まだ説明終わってない」
「やる!」
「返事だけは早ぇな」
アンガードはノエラの右脚を両手で支えた。
「俺が膝を少し曲げる。お前は何もしなくていい」
「うん」
太腿と脛を支えながら、ゆっくりと膝を曲げる。
「分かるか?」
「曲がってる」
「ここで止めるぞ」
浅く膝を曲げたところで、アンガードはその位置を保った。
脚の重さで勝手に動かないように支えているだけで、膝を伸ばす方向へ力は加えない。
「カーナ?」
「今回は最初から手を出さないよ」
「え?」
ノエラがカーナを見る。
「アタイが手伝って曲げるんじゃない。今はもう、アン坊が曲げてくれた」
「うん」
「だから、その脚がどこにあるか確かめな」
ノエラが目を閉じる。
「右膝」
「そう」
「曲がってる」
「伸びてた時は?」
「……こっち」
「分かるかい?」
「分かる」
「なら」
カーナはノエラへ触れなかった。
「戻ってごらん」
「…………」
ノエラの眉が寄る。
「伸ばす?」
「そう思ってもいい。でも、難しかったら『伸ばす』ってやり方まで考えなくていいさ」
「じゃあ?」
「さっきまで、お嬢ちゃんの膝があったところへ戻す」
ノエラは黙った。
アンガードの手の中にある右脚は動かない。
エルヴィスが測定具から目を離さない。
「さっきまでのところ……」
ノエラが呟く。
「ここじゃなくて……」
曲がっている膝。
その位置は分かる。
そして、もっと前。
脚が真っ直ぐ伸びていた時の位置も、分かる。
「……戻る」
一瞬。
アンガードの指先へ、小さな変化が伝わった。
「っ」
声を出しかけ、止める。
ノエラは目を閉じたまま。
右膝が、ほんの僅かに伸びた。
誰も声を出さなかった。
アンガードは脚を支えたまま、視線だけをエルヴィスへ向ける。
エルヴィスの筆が止まっている。
「兄さん」
「……出ている」
低い声だった。
「カーナの補助は?」
「してないよ」
カーナは両手を見せた。
「触ってもいない」
「じゃあ」
アンガードがノエラを見る。
「ノエラ」
「……何?」
「目、開けていいぞ」
緑の瞳が開く。
「動いたぞ」
「え?」
「右膝」
ノエラが自分の脚を見る。
「ほんと?」
「ほんの少しである」
エルヴィスが答えた。
「だが、明確に伸びる方向への動作を確認したのである」
「私が?」
「ああ」
ノエラはカーナを見る。
「カーナさんは?」
「何もしてないよ」
「ほんとに?」
「嘘ついてどうするんだい」
「アンガードさんが動かしたとか」
「支えてただけだ」
アンガードは右脚を軽く持ち上げて見せた。
「重さで勝手に落ちたりしないように持ってただけ。俺から膝を伸ばす力は掛けてない」
「エルヴィスお兄さん」
「ノエラ嬢自身の信号である」
「…………」
ノエラが自分の膝を見る。
「私だけ?」
「ああ」
「本当に?」
「何回聞くんだよ」
「だって!」
顔が一気に明るくなる。
「私だけで動いた!」
「まだ一回だ」
「一回でも動いた!」
「まあ、それはそうだな」
「じゃあもう一回!」
「待て」
「何で!?」
「一回動いたからこそ、もう一回だ」
「同じじゃん」
「違う」
アンガードは笑わなかった。
「たまたまじゃないか確認する」
ノエラの表情も少しだけ真剣になる。
「……できなかったら?」
「できるまで探す」
「今日?」
「それは知らん」
「えー」
「そこで欲張るな」
アンガードが右脚を再びゆっくり曲げる。
先ほどとほぼ同じ位置。
そこで支える。
「カーナ」
「何もしない」
「兄さん」
「測定を続けるのである」
「ノエラ」
「……うん」
「今度はさっきより説明しないぞ」
「分かった」
目を閉じる。
曲がった右膝。
そこから、知っている位置へ。
「…………」
すぐには動かない。
ノエラの口元へ力が入る。
「曲がってて……」
アンガードは何も言わない。
「さっきは……ここじゃなくて」
腰が僅かに動きかける。
ノエラ自身が止めた。
「違う」
小さな声。
「そっちじゃない」
誰にも言われる前に、自分で。
「右の膝……」
待つ。
「戻る」
右膝が、ゆっくりと伸びた。
先ほどよりも、僅かに大きく。
「……っ!」
ノエラが目を開く。
「今!」
「ああ」
アンガードが笑った。
「今のも、お前だ」
「二回!」
「二回であるな」
「二回できた!」
ノエラが両手を上げかける。
「脚!」
「あっ!」
慌てて止まる。
その姿にミラが吹き出し、両親もようやく張り詰めていた息を吐いた。
クリスの横では、ルーフェがノエラの右膝を見つめている。
『……今のは、あいつ一人か』
「はい」
クリスが小さく答える。
『そうか』
それだけだった。
けれど、その青い翼はほんの僅かに持ち上がっていた。
「ねえ」
ノエラがアンガードを見る。
「これで全部?」
「何が?」
「昨日、半分って言ったでしょう?」
「お前が勝手に言ったんだろ」
「カーナさんと二人で動かしたから半分。今日は私だけだから全部」
「そういう話だったな」
「じゃあ全部できた!」
「右膝を少し伸ばしただけだぞ」
「でも全部!」
「……まあ」
アンガードはノエラの右膝を見る。
曲げることは、まだ一人ではできない。
足首も、足指も、左脚も。
そして、立つことなど遥かに先だ。
できないことを数えれば、いくらでもある。
けれど。
「そうだな」
「でしょ?」
「ああ」
アンガードが頷く。
「一つ目は、お前だけでできた」
ノエラも自分の右膝を見る。
「一つ目……」
「今日はそこまで」
「ええ!?」
「何で驚く!」
「まだできるよ!」
「今できたから終わるんだよ!」
「もう一個くらい!」
「明日!」
「ケチ!」
「何とでも言え!」
ノエラは盛大に頬を膨らませた。
それでも、その手はすぐに右膝へ伸びる。
掌で触れる。
昨日は、誰かに支えてもらわなければ動かなかった場所。
今日も、曲げる時にはカーナの助けが必要だった。
けれど、曲がったところから元の位置へ戻す動きだけは違った。
誰にも身体認識を支えてもらわず、誰にも膝を動かしてもらわず、自分の意思で二度、右膝を伸ばした。
「ねえ、アンガードさん」
「今度は何だ?」
「明日は二つ目?」
「できたらな」
「じゃあ二つ目やる」
「だから、できたらだって」
「できるまでやればできるでしょ?」
「……お前、そういうところだけ妙に強ぇな」
「だって」
ノエラは右膝から手を離さなかった。
「ゼロじゃなくなったもん」
アンガードの返事が止まる。
昨日まで、一人ではどうやっても届かなかった。
カーナの助けがあれば動く。けれど、補助を外せば同じことができない。
その間にあった境目を、ほんの僅かではあるが、ノエラ自身が越えた。
「ああ」
アンガードは笑った。
「もうゼロじゃねぇな」
ノエラが嬉しそうに頷く。
右膝を曲げることは、まだできない。
立つことも、歩くことも、まだずっと先にある。
それでも。
右膝を伸ばす。
たった一つ。
けれどそれは、生まれてから一度も脚を動かした経験のなかった少女が、自分だけで覚えた。
最初の一つだった。