無差別の技師 〜MAP技師は身体を全て取り返す〜   作:羊毛ローブ

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その5


27話「覚えていること」

 

 

「もう一回」

 

 ノエラが右膝を曲げた状態で寝台へ座り、目の前の自分の脚を見つめる。

 

「今度は見ないでやってみろ」

 

「えー」

 

「位置は分かってるんだろ?」

 

「分かってるけど、見た方が安心する」

 

「だから見なくても分かるか確かめるんだよ」

 

 アンガードの言葉に、ノエラは渋々顔を上げた。

 

 昨日、初めてカーナの補助なしで動かせた右膝。あの時は曲げた状態から、慣れ親しんだ「真っ直ぐな位置」へ戻ろうとしたことで、自分だけの信号をMAPへ届けることができた。

 

 今日は、その再現から始めている。

 

「曲がってる」

 

「ああ」

 

「ここにある」

 

「それも合ってる」

 

「じゃあ……戻る」

 

 ノエラの右膝が伸び始めた。

 

 昨日ほど長い時間は掛からない。僅かに震えながらも、膝はゆっくりと伸びていき、やがて踵が寝台の上へ落ち着いた。

 

「できた!」

 

「できたな」

 

「昨日より早かったよね?」

 

「兄さん」

 

 アンガードに呼ばれ、記録を取っていたエルヴィスが頷く。

 

「昨日の補助なしでの初回成功より、明らかに短いのである。動作そのものも安定している」

 

「ほら!」

 

「何で俺に勝ったみたいな顔してんだよ」

 

「昨日より上手くなったから!」

 

「それは認めてるって」

 

 ノエラは満足そうに自分の右膝を撫でた。

 

 偶然ではなかった。

 

 一度だけ届いた信号が、今日はもう一度届いた。それどころか、繰り返すたびに動き出すまでの迷いが少しずつ短くなっている。

 

「じゃあ次だね」

 

「ああ」

 

「右足首?」

 

「違う」

 

「左?」

 

「左膝」

 

 アンガードが答えると、ノエラの顔から少しだけ勢いが消えた。

 

「……最初から?」

 

「やってみなきゃ分からん」

 

「右でできるようになったから、左も勝手にできたりしない?」

 

「そんな都合よくいくか」

 

「やってみるだけならただだよ」

 

「まあ、それはそうだな」

 

 ノエラは左脚へ意識を向けた。

 

 右膝で覚えたように、まず場所を確かめる。左の膝がどこにあり、今どんな角度になっているのかを、返ってくる感覚から探していく。

 

「……ここ」

 

「合ってるよ」

 

 カーナが答えた。

 

「じゃあ曲げる」

 

 ノエラが左膝へ意識を集中させる。

 

 しばらく待ったが、動かない。

 

 もう一度試す。

 

 やはり変化はなかった。

 

「ほらぁ」

 

「誰もすぐできるとは言ってねぇだろ」

 

「右ではできたのに」

 

「右だって何日掛かったと思ってんだ」

 

「でも、もうやり方知ってるよ?」

 

 その言葉に、アンガードとエルヴィスが一瞬だけ顔を見合わせた。

 

「……確かにな」

 

「何?」

 

「いや。やること自体は右と同じだ。試してみよう」

 

 アンガードが左脚を持ち、膝をゆっくり曲げていく。

 

「今、曲がってるのは分かるか?」

 

「うん」

 

「どのくらい?」

 

「これくらい」

 

 ノエラが両手で大まかな角度を示す。

 

「じゃあ姉貴」

 

「あいよ」

 

 カーナがノエラの身体認識へ触れる。

 

 幻想によって存在しない動きを作るのではない。左膝がどこにあり、今どのような形になっているのか。その輪郭だけを、本人が見失わないよう支える。

 

「この位置が分かるね?」

 

「うん」

 

「だったら、右でやった時と同じさ。まず今の位置を覚えな」

 

 ノエラが目を閉じる。

 

 曲がっている。

 

 左の膝が、自分の身体のそこにある。

 

「じゃあ、戻る」

 

 反応はなかった。

 

「もう一回」

 

 それでも動かない。

 

 三度目。

 

 左膝が僅かに震えた。

 

「あ」

 

「今のは?」

 

「信号を確認したのである」

 

 エルヴィスが記録へ目を落とした。

 

「右膝の初回時よりも、明確な反応が早い」

 

「やっぱり右で覚えたから?」

 

 ノエラが期待するように尋ねる。

 

「可能性はあるのである」

 

「じゃあ、そうなんだ!」

 

「そこまでは分からねぇよ」

 

 アンガードがすぐに止めた。

 

「右で一回やったから手順が分かってるのかもしれないし、単に今日は身体の調子がいいのかもしれない。兄さんだって『可能性がある』って言っただけだ」

 

「むぅ」

 

「分かんねぇものを分かったことにすんな」

 

「じゃあ、分かるまでやればいい?」

 

「それはそうだ」

 

「じゃあやる!」

 

「休みながらな」

 

 その日のうちに、左膝も動いた。

 

 最初はカーナの補助が必要だった。だが右膝で行ったのと同じように、今ある位置を覚え、目指す位置を理解し、補助を少しずつ薄くしていく。

 

 やがてカーナが完全に手を引いた状態でも、左膝はノエラ自身の信号で伸びた。

 

「できた……!」

 

「今のはアタイ、何もしてないよ」

 

「ほんと?」

 

「嘘ついてどうするんだい」

 

「じゃあ、全部私?」

 

「全部ノエラさ」

 

 ノエラは左右の膝を交互に見た。

 

 右だけではない。

 

 左でもできた。

 

 昨日見つけた方法は、一つの脚だけに偶然通じたものではなかった。

 

 そこから先の訓練は、最初ほどゆっくりとは進まなかった。

 

 数日を掛け、膝だけでなく足首へも同じ考え方を広げていく。もちろん、どこも同じ速さで動いたわけではない。右足首は比較的早く反応したのに、左では何度やっても信号が上手く届かない日もあった。

 

 そんな時は、一度戻る。

 

 まず触れた感覚を受け取る。そこに自分の身体があることを確かめる。今どの位置にあり、どこへ動かしたいのかを整理する。

 

 それでも分からなければカーナが身体認識を支え、輪郭が掴めれば補助を薄くしていく。

 

 最初の右膝で何日も掛けて探した道を、今度はノエラ自身が少しずつ辿れるようになっていた。

 

「左足首……下」

 

 寝台から垂らしたノエラの左足が、僅かに動く。

 

「もう一回」

 

 同じ方向へ、今度は先ほどより大きく動いた。

 

「できた!」

 

「再現したのである」

 

 エルヴィスは記録へ書き込みながら、その脚をしばらく見つめていた。

 

「……アンガード」

 

「ん?」

 

「存在しなかった運動を、このように後から身体へ獲得させられるのであれば――」

 

「兄さん」

 

 アンガードが途中で言葉を止めた。

 

 エルヴィスが顔を上げる。

 

「今はノエラの話だけにしよう」

 

 短い沈黙が落ちた。

 

 何を言い掛けたのか、ノエラには分からなかった。

 

 ただ、カーナだけは二人を順に見て、僅かに目を細める。

 

「……そうであるな」

 

 エルヴィスはそれ以上続けず、再び記録へ視線を戻した。

 

「何の話?」

 

「今度だ」

 

「またそれ?」

 

「今、お前の脚より大事な話じゃねぇよ」

 

「私の脚の話だったんじゃないの?」

 

「だから今は、お前の脚だけ見てりゃいいんだ」

 

「変なの」

 

 ノエラは首を傾げたものの、すぐに左足首へ意識を戻した。

 

「じゃあ、もう一回やる」

 

「ああ」

 

 アンガードもそれ以上、その話を口にしなかった。

 

 今ここにいるのは、何か新しい技術を試すための身体ではない。

 

 歩きたいと願った、ノエラの身体だった。

 

 

 左右の膝と足首をある程度自分で動かせるようになった頃、エルヴィスが一つの疑問を口にした。

 

「そろそろ、以前の歩行動作について再検討すべきではないか?」

 

「前の歩き方?」

 

 ノエラが尋ねる。

 

「そうである」

 

 これまで、ノエラが脚を動かそうとした際には、長年使ってきた義足での動きが先に現れることがあった。

 

 重心を左右へ移し、腰と上半身を使って義足そのものを運ぶ。

 

 新しいMAPの膝を曲げようとしても、その意図より先に身体全体が動いてしまうことがあるため、訓練中は一度その動きを抑え、関節だけを意識する場面も多かった。

 

「でも、それって邪魔なんでしょ?」

 

 ノエラが言う。

 

「前にも勝手に出てきたし」

 

「いや」

 

 アンガードはすぐに否定した。

 

「もう消す必要はないと思う」

 

「え?」

 

「今までは、膝だけ動かしたいのに腰まで動くから、一回分けて考える必要があった。でも膝も足首も、それぞれ動かせるようになってきた」

 

 アンガードはノエラの腰を指し、それから新しい脚を指した。

 

「なら今度は、分けたものを戻してみる」

 

「戻す?」

 

「お前の歩き方にだよ」

 

 ノエラは自分の脚を見る。

 

「でも、前のは義足の歩き方だよ?」

 

「だから何だ」

 

「今の脚とは違うじゃん」

 

「脚は違う。でも、それを使って歩いてたのはお前だろ」

 

 ノエラが黙った。

 

 エルヴィスも頷く。

 

「ノエラ嬢には、脚を動かした経験は存在しない。しかし、歩いた経験まで存在しないわけではないのである」

 

「歩いた経験……」

 

「お前、今まで何年歩いてきた?」

 

 アンガードに尋ねられ、ノエラは少し考えた。

 

「いっぱい」

 

「だろ?」

 

「でも、腰とか使って」

 

「それで歩いてたんだろ」

 

「……うん」

 

「なら、それはお前が覚えた歩き方だ。捨てる理由はねぇ」

 

 ノエラはしばらく何も言わなかった。

 

 これまでは、新しい脚を動かそうとするたびに出てくる昔の動きを、邪魔なものだと思い始めていた。

 

 新しい脚には膝がある。

 

 足首も動く。

 

 なら、今までとは違う歩き方を最初から覚え直さなければならない。

 

 そう思っていた。

 

「……これ」

 

 ノエラが自分の腰へ手を置いた。

 

「残していいんだ」

 

「残すんじゃない」

 

 アンガードが答える。

 

「使うんだよ」

 

 ノエラが顔を上げた。

 

「今まで歩いてきた身体なんだぞ」

 

 腰も。

 

 上半身も。

 

 重心を左右へ移す癖も。

 

 何度も転びながら、自分で覚えたものだった。

 

 アンガードはその身体を指したあと、新しい二本の脚を軽く叩く。

 

「新しいのはこっちだ」

 

「……こっちは新入り?」

 

「まあ、そうだな」

 

「じゃあ、腰とかは先輩?」

 

「何でそういう話になるんだよ」

 

「だって昨日、身体で先に覚えてる方があるって言ってたじゃん」

 

「まあ……意味としては間違ってねぇけど」

 

 ノエラが少し笑った。

 

「だったら、新入りの脚に合わせて全部やり直すんじゃないんだ」

 

「ああ」

 

「今まで歩いてきた身体に、こいつらを加える」

 

 アンガードが言った。

 

「それを試す」

 

 まだ立つことはしない。

 

 ノエラは寝台へ腰掛け、両足を床から浮かせた状態で始めることになった。

 

「前の義足で、右脚を前へ出すつもりで動いてみろ」

 

「普通に?」

 

「普通に」

 

 ノエラが身体を動かす。

 

 重心は座っているため大きく移せないが、腰と上半身にはすぐに馴染んだ反応が出た。右側を前へ運ぼうとする、これまで何度も繰り返してきた動きだった。

 

「これ?」

 

「ああ。止めるな」

 

「膝は?」

 

「今度はそっちも足す」

 

「一緒に?」

 

「一緒に」

 

 ノエラは少し不安そうに右脚を見る。

 

「また腰に負けない?」

 

「負けるとかじゃねぇよ。どっちもお前の動きだ」

 

「……やってみる」

 

 もう一度、右脚を前へ出す時の身体の動きを作る。

 

 腰が動く。

 

 上半身が僅かに連動する。

 

 そこへ、今度は右膝を伸ばす意識を加えた。

 

 最初は膝が遅れた。

 

 もう一度。

 

 今度は腰を気にしすぎて、膝が止まる。

 

「難しい」

 

「だろうな」

 

「でも、前みたいにどっちか止めなくていい?」

 

「止めるな。両方使え」

 

 三度目。

 

 ノエラは右脚を前へ出そうとした。

 

 長い間使ってきた身体が動く。

 

 その途中で、右膝も伸びた。

 

「あ」

 

 ノエラが止まる。

 

「今」

 

「ああ」

 

 アンガードが笑った。

 

「一緒に動いた」

 

「……一緒にできた」

 

 ノエラはもう一度試した。

 

 腰と上半身が動き、それに合わせて膝が伸びる。

 

 今度は最初より自然だった。

 

「私の歩き方と、この脚」

 

「ああ」

 

「どっちが正しい?」

 

「どっちもお前のだからな」

 

 アンガードの返事は早かった。

 

 ノエラは少しだけ目を丸くして、それから自分の右膝を撫でた。

 

 カーナもその様子を見ながら笑う。

 

「存在しない動きを全部一から覚えさせるんじゃない。もう持ってるものへ、新しいものを足していくってことさ」

 

「足す……」

 

「ノエラが今まで覚えたことを捨てる必要なんかないよ」

 

「そっか」

 

 ノエラは小さく頷く。

 

「私、一回自分で歩き方を作ってるんだもんね」

 

「ああ」

 

 アンガードはその言葉に頷いた。

 

「だったら、今度もそこから始めりゃいい」

 

「じゃあ明日は立つ?」

 

「立たねぇよ」

 

「何で!」

 

「今日は一緒に動かせたばっかりだろ!」

 

「でもできた!」

 

「できた直後に次へ行くな!」

 

「けち!」

 

「安全確認だ!」

 

 ノエラが頬を膨らませ、カーナが声を上げて笑う。

 

 エルヴィスも記録へ新しい一行を書き加えた。

 

 以前の歩き方を消す必要はなかった。

 

 それは新しい脚へ置き換えるために捨てる古い癖ではない。

 

 腰を使い、上半身を使い、重心を操って、ノエラ自身が今日まで歩いてきた証だった。

 

 新しく覚えた膝や足首の動きは、その上へ加えていけばいい。

 

 ノエラが歩くために必要なものは、最初から全て新しく作らなければならなかったわけではなかった。

 

 彼女はすでに、一度自分で歩き方を作っている。

 

 そして今、その歩いてきた身体へ、新しい脚が少しずつ加わり始めていた。

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