無差別の技師 〜MAP技師は身体を全て取り返す〜 作:羊毛ローブ
「もう一回」
ノエラが右膝を曲げた状態で寝台へ座り、目の前の自分の脚を見つめる。
「今度は見ないでやってみろ」
「えー」
「位置は分かってるんだろ?」
「分かってるけど、見た方が安心する」
「だから見なくても分かるか確かめるんだよ」
アンガードの言葉に、ノエラは渋々顔を上げた。
昨日、初めてカーナの補助なしで動かせた右膝。あの時は曲げた状態から、慣れ親しんだ「真っ直ぐな位置」へ戻ろうとしたことで、自分だけの信号をMAPへ届けることができた。
今日は、その再現から始めている。
「曲がってる」
「ああ」
「ここにある」
「それも合ってる」
「じゃあ……戻る」
ノエラの右膝が伸び始めた。
昨日ほど長い時間は掛からない。僅かに震えながらも、膝はゆっくりと伸びていき、やがて踵が寝台の上へ落ち着いた。
「できた!」
「できたな」
「昨日より早かったよね?」
「兄さん」
アンガードに呼ばれ、記録を取っていたエルヴィスが頷く。
「昨日の補助なしでの初回成功より、明らかに短いのである。動作そのものも安定している」
「ほら!」
「何で俺に勝ったみたいな顔してんだよ」
「昨日より上手くなったから!」
「それは認めてるって」
ノエラは満足そうに自分の右膝を撫でた。
偶然ではなかった。
一度だけ届いた信号が、今日はもう一度届いた。それどころか、繰り返すたびに動き出すまでの迷いが少しずつ短くなっている。
「じゃあ次だね」
「ああ」
「右足首?」
「違う」
「左?」
「左膝」
アンガードが答えると、ノエラの顔から少しだけ勢いが消えた。
「……最初から?」
「やってみなきゃ分からん」
「右でできるようになったから、左も勝手にできたりしない?」
「そんな都合よくいくか」
「やってみるだけならただだよ」
「まあ、それはそうだな」
ノエラは左脚へ意識を向けた。
右膝で覚えたように、まず場所を確かめる。左の膝がどこにあり、今どんな角度になっているのかを、返ってくる感覚から探していく。
「……ここ」
「合ってるよ」
カーナが答えた。
「じゃあ曲げる」
ノエラが左膝へ意識を集中させる。
しばらく待ったが、動かない。
もう一度試す。
やはり変化はなかった。
「ほらぁ」
「誰もすぐできるとは言ってねぇだろ」
「右ではできたのに」
「右だって何日掛かったと思ってんだ」
「でも、もうやり方知ってるよ?」
その言葉に、アンガードとエルヴィスが一瞬だけ顔を見合わせた。
「……確かにな」
「何?」
「いや。やること自体は右と同じだ。試してみよう」
アンガードが左脚を持ち、膝をゆっくり曲げていく。
「今、曲がってるのは分かるか?」
「うん」
「どのくらい?」
「これくらい」
ノエラが両手で大まかな角度を示す。
「じゃあ姉貴」
「あいよ」
カーナがノエラの身体認識へ触れる。
幻想によって存在しない動きを作るのではない。左膝がどこにあり、今どのような形になっているのか。その輪郭だけを、本人が見失わないよう支える。
「この位置が分かるね?」
「うん」
「だったら、右でやった時と同じさ。まず今の位置を覚えな」
ノエラが目を閉じる。
曲がっている。
左の膝が、自分の身体のそこにある。
「じゃあ、戻る」
反応はなかった。
「もう一回」
それでも動かない。
三度目。
左膝が僅かに震えた。
「あ」
「今のは?」
「信号を確認したのである」
エルヴィスが記録へ目を落とした。
「右膝の初回時よりも、明確な反応が早い」
「やっぱり右で覚えたから?」
ノエラが期待するように尋ねる。
「可能性はあるのである」
「じゃあ、そうなんだ!」
「そこまでは分からねぇよ」
アンガードがすぐに止めた。
「右で一回やったから手順が分かってるのかもしれないし、単に今日は身体の調子がいいのかもしれない。兄さんだって『可能性がある』って言っただけだ」
「むぅ」
「分かんねぇものを分かったことにすんな」
「じゃあ、分かるまでやればいい?」
「それはそうだ」
「じゃあやる!」
「休みながらな」
その日のうちに、左膝も動いた。
最初はカーナの補助が必要だった。だが右膝で行ったのと同じように、今ある位置を覚え、目指す位置を理解し、補助を少しずつ薄くしていく。
やがてカーナが完全に手を引いた状態でも、左膝はノエラ自身の信号で伸びた。
「できた……!」
「今のはアタイ、何もしてないよ」
「ほんと?」
「嘘ついてどうするんだい」
「じゃあ、全部私?」
「全部ノエラさ」
ノエラは左右の膝を交互に見た。
右だけではない。
左でもできた。
昨日見つけた方法は、一つの脚だけに偶然通じたものではなかった。
そこから先の訓練は、最初ほどゆっくりとは進まなかった。
数日を掛け、膝だけでなく足首へも同じ考え方を広げていく。もちろん、どこも同じ速さで動いたわけではない。右足首は比較的早く反応したのに、左では何度やっても信号が上手く届かない日もあった。
そんな時は、一度戻る。
まず触れた感覚を受け取る。そこに自分の身体があることを確かめる。今どの位置にあり、どこへ動かしたいのかを整理する。
それでも分からなければカーナが身体認識を支え、輪郭が掴めれば補助を薄くしていく。
最初の右膝で何日も掛けて探した道を、今度はノエラ自身が少しずつ辿れるようになっていた。
「左足首……下」
寝台から垂らしたノエラの左足が、僅かに動く。
「もう一回」
同じ方向へ、今度は先ほどより大きく動いた。
「できた!」
「再現したのである」
エルヴィスは記録へ書き込みながら、その脚をしばらく見つめていた。
「……アンガード」
「ん?」
「存在しなかった運動を、このように後から身体へ獲得させられるのであれば――」
「兄さん」
アンガードが途中で言葉を止めた。
エルヴィスが顔を上げる。
「今はノエラの話だけにしよう」
短い沈黙が落ちた。
何を言い掛けたのか、ノエラには分からなかった。
ただ、カーナだけは二人を順に見て、僅かに目を細める。
「……そうであるな」
エルヴィスはそれ以上続けず、再び記録へ視線を戻した。
「何の話?」
「今度だ」
「またそれ?」
「今、お前の脚より大事な話じゃねぇよ」
「私の脚の話だったんじゃないの?」
「だから今は、お前の脚だけ見てりゃいいんだ」
「変なの」
ノエラは首を傾げたものの、すぐに左足首へ意識を戻した。
「じゃあ、もう一回やる」
「ああ」
アンガードもそれ以上、その話を口にしなかった。
今ここにいるのは、何か新しい技術を試すための身体ではない。
歩きたいと願った、ノエラの身体だった。
◯
左右の膝と足首をある程度自分で動かせるようになった頃、エルヴィスが一つの疑問を口にした。
「そろそろ、以前の歩行動作について再検討すべきではないか?」
「前の歩き方?」
ノエラが尋ねる。
「そうである」
これまで、ノエラが脚を動かそうとした際には、長年使ってきた義足での動きが先に現れることがあった。
重心を左右へ移し、腰と上半身を使って義足そのものを運ぶ。
新しいMAPの膝を曲げようとしても、その意図より先に身体全体が動いてしまうことがあるため、訓練中は一度その動きを抑え、関節だけを意識する場面も多かった。
「でも、それって邪魔なんでしょ?」
ノエラが言う。
「前にも勝手に出てきたし」
「いや」
アンガードはすぐに否定した。
「もう消す必要はないと思う」
「え?」
「今までは、膝だけ動かしたいのに腰まで動くから、一回分けて考える必要があった。でも膝も足首も、それぞれ動かせるようになってきた」
アンガードはノエラの腰を指し、それから新しい脚を指した。
「なら今度は、分けたものを戻してみる」
「戻す?」
「お前の歩き方にだよ」
ノエラは自分の脚を見る。
「でも、前のは義足の歩き方だよ?」
「だから何だ」
「今の脚とは違うじゃん」
「脚は違う。でも、それを使って歩いてたのはお前だろ」
ノエラが黙った。
エルヴィスも頷く。
「ノエラ嬢には、脚を動かした経験は存在しない。しかし、歩いた経験まで存在しないわけではないのである」
「歩いた経験……」
「お前、今まで何年歩いてきた?」
アンガードに尋ねられ、ノエラは少し考えた。
「いっぱい」
「だろ?」
「でも、腰とか使って」
「それで歩いてたんだろ」
「……うん」
「なら、それはお前が覚えた歩き方だ。捨てる理由はねぇ」
ノエラはしばらく何も言わなかった。
これまでは、新しい脚を動かそうとするたびに出てくる昔の動きを、邪魔なものだと思い始めていた。
新しい脚には膝がある。
足首も動く。
なら、今までとは違う歩き方を最初から覚え直さなければならない。
そう思っていた。
「……これ」
ノエラが自分の腰へ手を置いた。
「残していいんだ」
「残すんじゃない」
アンガードが答える。
「使うんだよ」
ノエラが顔を上げた。
「今まで歩いてきた身体なんだぞ」
腰も。
上半身も。
重心を左右へ移す癖も。
何度も転びながら、自分で覚えたものだった。
アンガードはその身体を指したあと、新しい二本の脚を軽く叩く。
「新しいのはこっちだ」
「……こっちは新入り?」
「まあ、そうだな」
「じゃあ、腰とかは先輩?」
「何でそういう話になるんだよ」
「だって昨日、身体で先に覚えてる方があるって言ってたじゃん」
「まあ……意味としては間違ってねぇけど」
ノエラが少し笑った。
「だったら、新入りの脚に合わせて全部やり直すんじゃないんだ」
「ああ」
「今まで歩いてきた身体に、こいつらを加える」
アンガードが言った。
「それを試す」
まだ立つことはしない。
ノエラは寝台へ腰掛け、両足を床から浮かせた状態で始めることになった。
「前の義足で、右脚を前へ出すつもりで動いてみろ」
「普通に?」
「普通に」
ノエラが身体を動かす。
重心は座っているため大きく移せないが、腰と上半身にはすぐに馴染んだ反応が出た。右側を前へ運ぼうとする、これまで何度も繰り返してきた動きだった。
「これ?」
「ああ。止めるな」
「膝は?」
「今度はそっちも足す」
「一緒に?」
「一緒に」
ノエラは少し不安そうに右脚を見る。
「また腰に負けない?」
「負けるとかじゃねぇよ。どっちもお前の動きだ」
「……やってみる」
もう一度、右脚を前へ出す時の身体の動きを作る。
腰が動く。
上半身が僅かに連動する。
そこへ、今度は右膝を伸ばす意識を加えた。
最初は膝が遅れた。
もう一度。
今度は腰を気にしすぎて、膝が止まる。
「難しい」
「だろうな」
「でも、前みたいにどっちか止めなくていい?」
「止めるな。両方使え」
三度目。
ノエラは右脚を前へ出そうとした。
長い間使ってきた身体が動く。
その途中で、右膝も伸びた。
「あ」
ノエラが止まる。
「今」
「ああ」
アンガードが笑った。
「一緒に動いた」
「……一緒にできた」
ノエラはもう一度試した。
腰と上半身が動き、それに合わせて膝が伸びる。
今度は最初より自然だった。
「私の歩き方と、この脚」
「ああ」
「どっちが正しい?」
「どっちもお前のだからな」
アンガードの返事は早かった。
ノエラは少しだけ目を丸くして、それから自分の右膝を撫でた。
カーナもその様子を見ながら笑う。
「存在しない動きを全部一から覚えさせるんじゃない。もう持ってるものへ、新しいものを足していくってことさ」
「足す……」
「ノエラが今まで覚えたことを捨てる必要なんかないよ」
「そっか」
ノエラは小さく頷く。
「私、一回自分で歩き方を作ってるんだもんね」
「ああ」
アンガードはその言葉に頷いた。
「だったら、今度もそこから始めりゃいい」
「じゃあ明日は立つ?」
「立たねぇよ」
「何で!」
「今日は一緒に動かせたばっかりだろ!」
「でもできた!」
「できた直後に次へ行くな!」
「けち!」
「安全確認だ!」
ノエラが頬を膨らませ、カーナが声を上げて笑う。
エルヴィスも記録へ新しい一行を書き加えた。
以前の歩き方を消す必要はなかった。
それは新しい脚へ置き換えるために捨てる古い癖ではない。
腰を使い、上半身を使い、重心を操って、ノエラ自身が今日まで歩いてきた証だった。
新しく覚えた膝や足首の動きは、その上へ加えていけばいい。
ノエラが歩くために必要なものは、最初から全て新しく作らなければならなかったわけではなかった。
彼女はすでに、一度自分で歩き方を作っている。
そして今、その歩いてきた身体へ、新しい脚が少しずつ加わり始めていた。