無差別の技師 〜MAP技師は身体を全て取り返す〜 作:羊毛ローブ
一人の少女が泣いていた。
まだ幼さの残る、小さな少女だった。
人目につかない建物の陰に身を隠し、膝を抱え、小さな身体をさらに小さく丸めている。
「っく……ひっく……ごめんなさい……」
声を押し殺しても、嗚咽までは止められない。
「お父さん……ごめんなさい……」
何度繰り返しても、その言葉が父親へ届くことはなかった。
ここは、少女――ミラだけが知っている場所だった。
父親の前で泣けば、きっと父親は悲しそうな顔をする。
だからミラは毎日、誰にも見つからないこの場所へ来て、一人で泣いていた。
すべて、自分のせいだった。
父親からは、森へ一人で入るなと何度も言われていた。
森には魔獣がいる。
幼い子供が興味本位で足を踏み入れてよい場所ではないことくらい、ミラにも分かっていた。
父親と一緒なら、森へ入ることを止められたことはない。
それでも父は、ミラを連れている間、絶えず周囲を警戒していた。
一方で、父親が一人で森へ入った日は、帰ってきたときの雰囲気がどこか違っていた。
何をしているのだろう。
何を見ているのだろう。
ただ、それが気になった。
子供の好奇心から始まった、ありふれた悪戯だった。
ミラは父親を尾行することにした。
父は気配に敏かった。
普段なら、茂みに隠れた小動物の動きさえ見逃さない。
それなのに、その日は最後までミラの存在に気づかなかった。
幼いミラは、その不自然さを疑うこともなく、自分が上手に隠れられたのだと思っていた。
(ふふっ。私って、実はすごいのかも)
見つからないことが嬉しかった。
家へ帰ったら、父親へ自慢してみようかとさえ考えていた。
その考えは、父親の焦った声が耳へ届いた瞬間に消え失せた。
『ミラ!?』
父親は、なぜ娘がここにいるのかを問いただすより先に動いた。
ミラへ飛びかかろうとしていた狼型の魔獣との間へ身体を滑り込ませ、左腕を盾にするように突き出した。
すべては一瞬だった。
魔獣は父親によって討たれ、ミラには傷一つなかった。
ただし、父親の左腕は失われていた。
『ミラ、怪我はないか?』
『お、お父さんの腕が……腕がああああっ!』
利き腕だった左腕は魔獣に食い千切られ、その口の中へ消えていた。
討ち倒された魔獣を調べても、繋ぎ直せる形では残っていなかった。
『ん? 腕だけで済んだんだ』
父親は、痛みに顔を歪めながらも笑っていた。
『お前が無事で、俺も生きてる。それなら、どうとでもならぁ』
ミラを安心させるための笑顔だった。
大きくて、硬くて、鉄と煤の匂いがする、ミラの大好きな手。
その手で頭を撫でられると、いつも髪がぐしゃぐしゃになった。
そのあとには、両手で身体を持ち上げてもらった。
高いところまで抱き上げてもらい、怖いと言いながら笑うのが、いつものことだった。
けれど、もうその当たり前は戻ってこない。
大好きだったいつもの時間を、自分が奪ってしまった。
後悔しかなかった。
後から聞いた話では、どれほど腕のよい治癒術師であっても、一度完全に失われた腕を元へ戻すことはできないという。
切断された腕が残っていれば、すぐに処置することで繋ぎ直せる場合もある。
しかし父親の腕は魔獣に食われ、回収することができなかった。
存在しないものを、治癒魔法で作り出すことはできない。
父親は腕を失ったことを、しばらく周囲へ隠そうとしていた。
だが、著名な鍛冶師の利き腕がなくなったという噂は、すぐに町へ広まった。
工房を訪れる者の中には、純粋に心配する者もいれば、以前と同じ仕事ができるのか値踏みする者もいた。
父親の腕が一本になっても、作る品の質は落ちなかった。
ただ、どうしても時間がかかった。
一日に仕上げられる仕事は減り、納品は遅れ、注文も少しずつ減っていった。
それでもミラは諦められなかった。
父親のことも、この工房のことも。
工房を訪れる客を見つけるたび、その服を掴んで頼んだ。
『お父さんを治して』
ほとんどの者は困った顔をした。
優しい言葉をかけてくれる者もいた。
だが、父親の腕を元へ戻せる者はいなかった。
そんな中、一人だけ、違う反応をした青年がいた。
黒い髪と黒い瞳を持ち、鉄塊や珍しい素材を買うため、以前から工房を訪れていた青年だった。
『お父さんを治して』
青年はすぐには答えなかった。
泣きながら自分を見上げるミラと、火の弱くなった工房を交互に見る。
やがて、小さく息を吐いた。
『失った腕を元に戻せって意味なら、俺には無理だ』
その言葉に、ミラの目から新たな涙がこぼれた。
やはり、この人にもできないのだと思った。
だが、青年はまだ話を終えていなかった。
『だからって、何もかも諦める必要はない』
『……どういう、こと?』
青年はミラの前にしゃがみ、目線の高さを合わせた。
『……そうだな。土産を用意してやる』
そこで青年は、僅かに首を傾げた。
『いや、今回の場合は見舞いの品か? まあ、そんな細かいことはどうでもいいな』
そう言って、ミラの額を指先で軽く小突く。
『とにかく、お前が俺に仕事を頼んだ。だったら、お前が今回の依頼人だ』
『いらい、にん?』
『俺に仕事を頼んだ奴ってことだ』
青年は立ち上がった。
『まずは俺の相方が、親父さんの身体を調べる。話はそれからだ』
それから数日後、灰色の髪をした女性が工房を訪れた。
青年に頼まれて来たのだという。
女性は父親の傷口や残った腕、身体つきを細かく調べた。
使っている道具、炉の熱、仕事をする時間、金属や薬品に触れたときの体調まで、何度も質問した。
父親は不思議そうな顔をしながらも、その調査に応じた。
女性は調べた内容を紙へ細かく書き留めると、それを大切そうに封筒へ収めた。
『これをアンガードへ届けるわ。あとは、あの人の仕事よ』
そう言い残して、工房を後にした。
一日が過ぎた。
三日が過ぎた。
やがて、女性が帰ってから七日目になった。
アンガードは、まだ姿を見せていなかった。
からかわれただけなのかと思ったこともある。
けれど、あの青年がそんなことをする人には見えなかった。
きっと見舞いの品を用意するのに、時間がかかっているのだ。
そう思おうとした。
それでも時間は確実に過ぎていく。
父親の仕事場には、使われることの減った道具が並んでいる。
以前なら一日中響いていた鉄を叩く音も、今では時折聞こえるだけだった。
それを見るたび、胸が苦しくなった。
あの青年も、できないことを口にしてしまっただけなのかもしれない。
一度抱いた希望を信じ続けることは、今のミラには難しかった。
幸せな時間が突然壊れることを、知ってしまったからだ。
希望はまだ遠くにある。
けれど、絶望はすぐそばにいる。
誰にも父親を助けることはできない。
そんな不安を抱えながら、ミラは今日も一人で泣いていた。
「ったく……確かに一週間まともに寝てなかったとはいえ、《
不意に、聞き覚えのある声がした。
ミラは顔を上げる。
「使わなければ、あなたはまだ作業を続けていたでしょう?」
今度は、柔らかな女性の声だった。
「だからって、気絶させる必要はなかっただろ」
「自業自得よ」
二人分の足音が近づいてくる。
「それにしても、本当にこんなところにいるのか?」
「あなたが言ったんでしょう。あの子なら、人目につかない場所に隠れているかもしれないって」
「まあ、あのおやっさんの娘だからな。人前では我慢すると思ったけど――」
建物の角から、黒髪の青年が顔を出した。
黒い瞳が、泣き腫らしたミラの姿を捉える。
「ミラか?」
「……アンガードさん?」
ミラは慌てて袖で涙を拭った。
だが、赤く腫れた目も、涙と鼻水で汚れた顔も、隠せるはずがなかった。
アンガードは、そんなミラの顔をしばらく見つめる。
「泣きすぎて、随分と変な顔になってるぞ」
「アンガード」
隣に立っていた灰色の髪の女性が、少し低い声で名前を呼んだ。
父親の身体を調べに来た女性だった。
「泣いている女の子にかける第一声が、それなの?」
「事実を言っただけだろ」
「言い方というものがあるでしょう」
女性はため息を吐くと、ミラの前へしゃがみ込んだ。
「ごめんなさいね。この人、腕はいいんだけど、言葉の選び方はあまり上手じゃないの」
「はいはい、悪かったよ」
アンガードが不満そうに眉を寄せる。
ミラは二人を交互に見たあと、アンガードへ尋ねた。
「今日はどうしたの? もしかして、すごいお医者さんか、治癒術師の人を連れてきてくれたの?」
父親を治せる者としてミラに思いつくのは、それくらいだった。
「違うな。前に言っただろ。土産を――」
アンガードは途中で言葉を止めた。
「いや、見舞いの品だったか?」
「この場合は見舞いの品が正しいでしょうけど、そこは全然重要ではないわね」
「それもそうだな」
そんなことを言い合いながら、アンガードは背負っていた大きな鞄を軽く叩いた。
中から、工具や硬い部品が触れ合う音がする。
「約束しただろ。見舞いの品を持ってきた」
「お見舞いの……?」
「ああ」
アンガードは、以前と同じようにミラの前へしゃがみ込んだ。
「詳しい話は、親父さんのところでする。案内してくれ」
三人は工房へ向かった。
久しぶりに訪れた鍛冶場には、以前のような活気がなかった。
炉の火は弱く、金床の上にも加工途中の鉄は置かれていない。
その中央で、一人の男が残った右腕だけを使い、道具の整理をしていた。
「おやっさん」
アンガードの声に、男――ドゥーガが振り返る。
「腕がなくなった割には、元気そうで安心したよ」
「馬鹿野郎!」
ドゥーガは豪快に笑った。
「娘が無事なら、俺は元気に決まってんだろうが」
「そう言うと思った」
アンガードも小さく笑う。
ドゥーガは、アンガードの後ろに隠れるように立つミラへ目を向けた。
泣いていたことには気づいたはずだ。
それでも何も言わず、残った手を伸ばして、乱暴にミラの頭を撫でた。
「それで、今日は何の用だ? 鉄を取りに来たわけじゃなさそうだが」
「ああ」
アンガードは大きな鞄を作業台の上へ置いた。
「今日は、受けた仕事を仕上げに来た」
「仕事?」
「おやっさんの腕の件だ」
ドゥーガの表情から、笑みが消えた。
しばらく黙ったあと、隣に立つルアンナへ視線を向ける。
「この前、嬢ちゃんが俺の傷を調べていったのは、そのためだったのか」
「そういうことだ」
アンガードはミラを親指で示した。
「今回の依頼人は、この子だからな」
「ミラ、お前……」
「ご、ごめんなさい」
「謝るな」
ドゥーガの低い声に、ミラの肩が跳ねた。
だが、その声に怒りはなかった。
「ミラが謝る必要なんざ、どこにもねぇ」
「でも……」
「ねぇんだよ」
ドゥーガは、もう一度ミラの頭を撫でた。
それからアンガードへ向き直る。
「だがな、アンガード。俺の腕はもうねぇ。治癒術師にも無理だと言われた」
「知ってる」
「だったら、どうやって――」
「おやっさん」
アンガードは鞄の留め具を外した。
「俺がいつ、失った腕を生やすと言った?」
鞄が開かれる。
中には工具や複雑な部品が隙間なく収められていた。
その中央に、人間の左腕と同じ形をしたものが横たわっている。
肌の色。
指の長さ。
爪の形。
手のひらに刻まれた細かな皺。
どれも、ドゥーガの身体を調べた資料に合わせて作られていた。
肩口に当たる部分だけは皮膚に覆われておらず、保護された細い伝達線と、未完成の接続部が覗いている。
だが、それ以外は作り物には見えなかった。
ドゥーガは、作業台の上の腕を凝視した。
「これは……義手なのか?」
「ああ。ただの義手じゃないけどな」
アンガードは、右手の赤革手袋で人工の腕を持ち上げた。
「形を人間の腕に似せただけじゃない。筋肉、骨、神経、血管――腕を動かすために必要な働きを、人工的に組み上げてある」
「これが、本当に動くのか?」
「今はまだ動かない」
アンガードは迷うことなく答えた。
「外側はできてるが、おやっさんの身体へ繋ぐ部分は未完成だ。ここから先は、本人がいなきゃ作れない」
その言葉を聞き、ミラの表情が曇る。
ルアンナが、そっとミラの肩へ手を置いた。
「大丈夫よ」
「でも、動かないって……」
「今は、ね」
ルアンナは作業台の上の腕へ目を向けた。
「これは、MAPと呼ばれる技術で作られているの」
「まっぷ?」
ミラが涙の跡を残したまま首を傾げる。
「……どうして地図が関係あるの?」
アンガードが僅かに眉を寄せた。
「地図じゃねぇ」
「違うの?」
「
アンガードは、聞き慣れない言葉をゆっくりと口にした。
「長いから、それぞれの頭文字を取ってMAPだ。失われた身体の代わりを作るための、人工身体技術だよ」
「じんこう……しんたい?」
「簡単に言えば、作った腕を自分の腕として動かすための技術だ」
ミラは作業台の上に置かれた腕を見つめた。
「これをつけたら、お父さんは……また腕を使えるの?」
「そのために来た」
アンガードは短く答えた。
ルアンナは膝を曲げ、ミラと目線を合わせる。
「確かに、あなたたちは運が悪かったわ」
ミラが不安そうにルアンナを見る。
「森で魔獣に襲われ、お父さんは大切な腕を失った。起きてしまったことだけを見れば、とてもつらい出来事よ」
「……うん」
「でも、最悪ではなかった」
「最悪じゃ……ない?」
「ええ」
ルアンナは、作業台の前に立つアンガードへ目を向けた。
油に汚れた作業着。
目の下に残った、隠しきれない隈。
左手には黒い手袋、右手には使い込まれた赤革の手袋。
人付き合いは不器用で、自分の身体を大切にすることも知らない。
それでも、失われた身体をもう一度動かすための技術において、彼ほど頼りになる者はほとんどいない。
「だって、あなたは出会えたんだもの」
ルアンナは微笑んだ。
「現在、公認されている七人のMAP技師。その一人に」
失われた腕は戻らない。
起きてしまった悲劇も消えない。
それでも、その先に何を作るのかを選ぶことはできる。
アンガードは作業台の上の左腕を持ち上げ、ドゥーガへ向けて差し出した。
「さて、おやっさん」
黒い瞳が、静かに細められる。
「こいつを腕として使うには、まずおやっさんの身体側に、こいつを受け入れるための土台を作らなきゃならない」
「……つまり?」
アンガードは口元を僅かに吊り上げた。
「痛い目にあってもらうぜ」