無差別の技師 〜MAP技師は身体を全て取り返す〜 作:羊毛ローブ
「今日は立つぞ」
アンガードの一言に、ノエラは数秒ほど固まった。
「……ほんと?」
「ああ」
「ほんとにほんと?」
「何回聞くんだよ」
「だって昨日まで駄目って言ってたじゃん!」
「昨日まで駄目だったからな」
寝台へ腰掛けたまま、ノエラは自分の両脚を見下ろした。膝を曲げる。伸ばす。足首を動かす。左右で多少の差はあるものの、数日前には一つの動きを探すだけでも時間が掛かっていたのが、今ではかなりの割合で再現できるようになっている。
さらに昨日、それまで使ってきた腰や上半身の動きを邪魔なものとして止めるのではなく、新しく覚えた脚の動きと組み合わせる方針も決まった。
ならば次に確かめるべきことは、もう決まっている。
「ただし」
アンガードが人差し指を立てた。
「今日の目標は立つことだ。歩くのはその後」
「立てたら歩いていい?」
「話聞いてたか?」
「立てたら今日の目標は達成なんでしょ?」
「達成した瞬間に次の目標へ突っ込もうとすんな」
「けち」
「安全確認だ」
「おやおや、お嬢ちゃんは立つ前から歩く気満々じゃないか」
カーナが面白そうに笑う。
「だって歩きたいもん」
「それは見てりゃ分かるさ。ノエラは座ったままの練習をしてた時から、次は何だ、次は何だって急いでたからねぇ」
「そう?」
「そうさ」
カーナはそこで少しだけ声を和らげた。
「でも、何でそこまで歩きたいんだい?」
ノエラはすぐには答えなかった。
膝の上に置いた手で、新しい右脚の表面をそっと撫でる。
「……前から、自分の脚で歩いてみたかったの」
「ああ」
「みんなみたいに歩いてみたいし、走ってみたいし。自分で行ける場所も増えるでしょ?」
それは、これまでにも何度か聞いてきた理由だった。
けれどノエラはそこで言葉を終えず、少しだけ視線を落とした。
「それに……レーちゃんにも会いたいから」
「レーちゃん?」
「昔、森にいた子なの」
少し離れた場所でクリスの傍らにいたルーフェが、静かにノエラへ顔を向けた。
「赤くて大きな子でね。私が森まで行くと、ちょっと先まで行って振り返って待っててくれたの。それで追いついたら、背中に乗せてくれた」
「森の奥までか?」
アンガードが尋ねる。
「うん。私一人じゃ行けないところまで、いっぱい連れてってくれたよ」
ノエラは懐かしそうに笑った。
けれど、その笑顔はすぐに少しだけ寂しそうなものへ変わる。
「でも、ある時から会えなくなっちゃった」
「探したのかい?」
「探したよ。でも、私が一人で行けるところなんて少ないから」
ノエラは自分の二本の脚を見る。
「だから、もし自分で歩けるようになったら、今まで行けなかったところまで探しに行けるかもしれないって思ってる」
誰もすぐには言葉を挟まなかった。
ルーフェも何も言わない。ただ、畳んでいた青い翼が僅かに動いた。
「もちろん、それだけじゃないけどね」
ノエラは顔を上げる。
「でも、歩けたら会えるかもしれないでしょ?」
「そうか」
アンガードは短く答えると、ノエラの額を指先で軽く小突いた。
「だったら、なおさら焦るな」
「えー」
「探しに行けるようになっても、途中で転んで帰ってこられなくなったら意味ねぇだろ」
「……それは困る」
「だろ?」
「じゃあ、ちゃんと練習する」
「最初からそうしてくれ」
ノエラが笑う。
クリスは何も言わず、隣にいるルーフェへ一度だけ視線を向けた。ルーフェもまたノエラを見ていたが、それ以上の反応は見せなかった。
「よし。じゃあ始めるぞ」
寝台の正面には、ノエラが掴める高さへ頑丈な支えが置かれている。左右にはアンガードとカーナが立ち、正面ではエルヴィスが脚部MAPの反応を確認する。
最初から完全に体重を預けるわけではない。まず足裏を床へ着け、そこから少しずつ荷重を増やしていく。
「まず足の裏」
「うん」
アンガードに支えられながら、ノエラは両足を床へ下ろした。
柔らかな皮膚に覆われた足裏が床へ触れ、自分の体重を少しずつ受け始める。
「……変な感じ」
「痛いか?」
「痛くない。床がいっぱいある」
「いっぱい?」
「座って触った時より、足の裏全部に床がある感じ」
「正常である。接触している面積が増えたことで、返ってくる感覚情報も増えているのである」
エルヴィスの説明を聞きながら、ノエラは足元を見つめた。
「じゃあ、少しだけ腰を浮かせるぞ。今まで立ってた時と同じでいい」
「脚は?」
「最初から全部考えるな。今は膝が曲がってることだけ分かってろ」
「うん」
ノエラは支えを握り、身体を前へ傾ける。
腰を前へ運び、上半身を使って重心を足元へ寄せる。そこまでは、長い間使ってきた義足で立ち上がる時と変わらない。
身体が寝台から浮いた。
その瞬間、右膝が大きく曲がった。
「わっ!」
アンガードとカーナが左右から身体を支え、ノエラは尻餅をつく前に寝台へ戻された。
「びっくりした……」
「痛みは?」
「ない」
「右膝も?」
「大丈夫」
エルヴィスが測定結果を確認する。
「運動信号が途絶えたわけではないのである。荷重が増えた瞬間、右膝を伸ばした状態で維持できなくなっている」
「曲げちゃった?」
「曲げたっていうより、伸ばした後に保つのが足りなかった感じだな」
アンガードはノエラの右膝を軽く叩いた。
「座ってる時は、膝を伸ばせばそこで終わりにできた。でも立つなら、お前の体重を受けながらその位置を保つ必要がある」
「ずっと伸ばしてるの?」
「力み続けろって意味じゃねぇ。倒れない位置を身体で保つんだ」
「……また難しくなった」
「だから今日やってんだ」
ノエラは少しだけ唇を尖らせ、それから再び支えを握った。
「もう一回」
二度目は、最初から膝へ意識を向ける。
腰を浮かせ、重心を前へ出す。
「右膝、伸ばす。左も……」
「全部口に出さなくてもいいぞ」
「今は言った方が分かるの!」
「なら好きにしろ」
身体が持ち上がる。
今度は右膝が耐えた。
両足へ体重が移る。
「……立ってる?」
「まだ俺らがかなり持ってる」
「どれくらい?」
「半分以上」
「じゃあ半分立ってる!」
「またその計算かよ」
それでもノエラは嬉しそうだった。
足裏から返る圧力、膝へ掛かる力、足首の角度、腰の位置。座っていた時には一つずつ確かめていたものが、立とうとした途端に一度に押し寄せてくる。
「いっぱい来る……」
「何が?」
「脚の全部。足の裏も、膝も、足首も。いっぺんに分かる」
カーナがノエラの表情を見つめた。
「嫌かい?」
「ううん。分かんなくなりそうなだけ」
「なら、今は整理しな。アタイも手伝うよ」
カーナの幻想魔術が身体認識へ触れ、押し寄せる感覚の中で位置関係を見失わないよう輪郭を支える。
足裏は床にある。膝はその上にあり、さらに腰がある。
カーナが存在しない感覚を与えているわけではない。ノエラ自身へ返っている情報を、本人が見失わないよう整理しているだけだった。
「少し右へ傾いてるよ」
「え?」
言われた瞬間、ノエラの腰が反射的に大きく左へ動いた。
「おっと」
アンガードが身体を支える。
「動かしすぎだ」
「いつもならこれくらいだもん!」
「ああ。それも今までのお前が身につけた動きだ」
簡素な義足では、脚自身が細かく姿勢を修正してくれるわけではない。そのためノエラは腰と上半身を大きく使い、崩れた重心を戻してきた。
「でも、今回は足首も使える」
「足首?」
「右に傾いたなら、腰だけで全部戻すんじゃなくて、足首でも少し支えられる」
「一緒に?」
「そう」
「膝も?」
「必要ならな」
「……多い」
ノエラは思わず自分の脚を見た。
「みんな、こんなに色々やって立ってるの?」
「普通はいちいち考えてねぇよ」
「ずるい!」
「ずるくねぇよ!」
アンガードが笑う。
「身体が覚えてるから、考えなくてもやってるだけだ。お前だって今までの義足なら、腰をどれだけ動かすとか毎回考えてなかっただろ?」
「あ……」
確かにそうだった。
最初の頃は、どう重心を移せば義足を前へ運べるのか何度も考えた。何度も転び、何度も失敗した。それでも続けているうちに、いつしか歩こうと思うだけで身体が動くようになっていた。
「じゃあ、これも?」
「そのうちな」
アンガードが答える。
「今はまだ、こいつらがお前の身体じゃ新入りだからな」
ノエラは自分の脚を見て、小さく笑った。
「いっぱい先輩に教えてもらわないとね」
「そういうことだ」
その日の訓練では、完全に一人で立つところまでは届かなかった。
それでも、最初は左右から身体の大部分を支えられていたノエラが、終わる頃には二人の手を軽く添える程度で姿勢を保てる時間が生まれていた。
◯
翌日も、その次の日も、荷重の練習は続いた。
両足へ均等に体重を掛ける。片側へ僅かに重心を寄せ、反対の脚から荷重を抜く。身体が傾き始めた時には、腰だけでなく足首や膝も使って姿勢を戻す。
最初は、一つへ意識を向けると別の一つが抜けた。
「右足に体重……足首……あ、膝!」
膝が曲がり、アンガードに支えられる。
「惜しい」
「今、足首はできてたのに!」
「だから次は膝も一緒にやる」
「一緒が難しい!」
「それを覚えるための練習だ」
別の日には、膝へ意識を向けすぎて身体全体が真っ直ぐに固まった。
「……動けない」
「力みすぎだ」
「だって膝が曲がったら倒れるもん」
「曲がらないように全部固めることと、立つことは違う」
「難しい!」
「知ってる!」
それでも失敗するたび、ノエラは何かを持ち帰った。
足裏へ掛かる圧力がどちらへ偏れば身体が傾くのか。膝がどの程度崩れれば姿勢を失うのか。足首を少し使うだけで、腰を大きく振らなくても重心を戻せること。
一つずつ覚えた動きが、少しずつ互いに繋がり始める。
そして数日後。
「手、離すぞ」
「待って」
「まだ何もしてねぇよ」
「心の準備」
「分かった」
ノエラは両足を床へ置いたまま、何度か深呼吸した。
正面には掴める支えがあるが、今は触れていない。アンガードとカーナも左右に立っているものの、ノエラの身体には触れていなかった。
「いいよ」
「本当に?」
「いい!」
「じゃあ、離すも何ももう離してるぞ」
「え?」
ノエラが左右を見る。
アンガードの手はすぐ近くにある。カーナの手も同じだ。
けれど、どちらも自分には触れていない。
「……今、誰も持ってないの?」
「ああ」
「嘘」
「嘘ついてどうするんだよ」
ノエラが慌てて正面へ視線を戻した。
その瞬間、身体が僅かに前へ揺れる。
「前」
エルヴィスが短く告げた。
「分かってる!」
足裏の圧力が爪先側へ寄っている。
いつもの癖で腰を大きく引きかけ、途中で止めた。
「足首……」
小さく修正する。
身体が戻る。
「膝……大丈夫」
両膝は伸びている。
腰も中央にある。
数秒が過ぎる。
誰の手にも触れていない。
「……私」
ノエラは前を向いたまま、恐る恐る尋ねた。
「立ってる?」
「ああ」
アンガードが答えた。
「自分でな」
ノエラは思わず足元を見ようとして、身体を揺らした。
「動くな動くな!」
「見たかった!」
「後で見ろ!」
「でも!」
「今は立っとけ!」
「立ってる!」
「知ってるよ!」
ノエラが笑う。その笑いで身体がまた揺れ、今度こそアンガードが肩を支えた。
「あー!」
「十分だ」
「もうちょっと立てたのに!」
「今のは成功でいい」
「何秒?」
「数えてねぇよ」
「エルヴィスお兄さん!」
「十一秒ほどである」
「十一秒!」
ノエラは嬉しそうに両手を握った。
「十一秒、一人で立った!」
「ああ」
「じゃあ次、歩く!」
「何でそうなる!」
アンガードの声が部屋に響いた。
けれど、歩行練習をいつまでも先送りする理由も、もうなくなっていた。
自分で立てる。左右へ荷重を移せる。膝と足首も自分で動かせる。歩行に必要な動作は、一つずつならすでに揃っている。
翌日から、いよいよ支えありで脚を前へ出す練習が始まった。
「右に体重掛けたまま、右脚出そうとすんなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「左に乗せる!」
「そう」
ノエラはアンガードの腕を右手で掴み、反対側ではカーナに支えられている。
まず左脚へ重心を移す。
右脚から体重が抜ける。
「腰……」
「そこはいつも通り使え」
「うん」
長年使ってきた身体の動きで右脚を前へ運びながら、膝を曲げる。足が床から離れ、少し前へ出たところで膝を伸ばした。
「足首」
「分かってる!」
踵が床へ触れる。
「……出た」
「まだだ。今度はそっちへ体重を移す」
「右に?」
「ああ」
ノエラは慎重に重心を右へ移した。
足裏へ圧力が広がる。
右膝が僅かに揺れたものの、そのまま体重を受け止めた。
今度は左脚が軽くなる。
「左……」
同じことを繰り返す。
腰を使い、膝を曲げ、脚を前へ出し、膝を伸ばして床へ置く。
一歩。
そして、もう一歩。
「……歩いてる」
「支えありだぞ」
「でも歩いてる!」
「ああ」
アンガードは否定しなかった。
「歩いてる」
三歩目で足首が崩れ、ノエラの身体がカーナの方へ倒れた。
「おっと」
「惜しい!」
「三歩なら上出来さね」
「もう一回!」
「休んでからだ」
「今できそうなのに!」
「今、疲れてきてるから休むんだよ」
それから支えありの歩行は、少しずつ距離を伸ばしていった。
三歩が五歩になり、やがて部屋の端まで届くようになる。アンガードたちが身体を持ち上げる必要もなくなり、腕へ添えられた手は、倒れた時に支えるためだけのものへ変わっていった。
ノエラ自身が重心を移し、自分で脚を前へ出している。
そこまで来れば、次に何を言い出すのかは誰にでも分かった。
「ねえ」
「駄目」
「まだ何も言ってない!」
「支えなしで歩きたい」
「……何で分かったの?」
「分からないと思ったのか?」
ノエラは不満そうにアンガードを見る。
「もうできると思う」
「俺も、試すところまでは来てると思う」
「じゃあ!」
「ただし最初は一歩だ。俺と姉貴はすぐ横にいる。転びそうになったら止める」
「分かった!」
「絶対走ろうとすんな」
「走れないよ!」
「お前ならやりかねん」
「信用ない!」
「実績がある!」
カーナが二人のやり取りを聞きながら笑う。
「まあ、やってみようじゃないか」
ノエラは部屋の中央に立った。
自力で立つこと自体は、もう十一秒しか保てなかった頃とは違う。少し揺れた程度なら、自分で姿勢を戻せる。
アンガードとカーナが左右から一歩離れた。
「いつも通りでいい」
「うん」
「支えありでやったことを思い出せ」
「うん」
「右を出すなら、まず左へ――」
「分かってる」
ノエラは前を見る。
歩く。
それだけをすればいいはずだった。
まず左へ重心を移す。
「左……」
右脚から荷重を抜く。
「右膝、曲げる」
膝を曲げる。
「腰も……前」
右脚が少し浮く。
「足首……」
そこで、ノエラの動きが止まった。
「ノエラ?」
「待って」
右脚は宙に浮いたまま、左膝が僅かに揺れている。
「左の膝も伸ばして……重心は左で……右膝は曲げて……」
考えることが増えていく。
「腰は……」
自分で呟いた瞬間、今度は腰を意識しすぎて上半身が前へ出た。
「わっ」
アンガードが肩を掴む。
右足が床へ戻った。
「……もう一回」
「一度整理しろ」
「できる」
「できないとは言ってねぇよ」
ノエラは唇を結び、再び立った。
今度は右脚を出すことだけを考える。
左へ重心を移し、右膝を曲げる。腰を使い、足首の位置を確かめて右脚を前へ出す。膝を伸ばし、踵を床へ置くところまではできた。
しかし、そこへ体重を移そうとした瞬間、今度は左脚をどう抜けばいいのか分からなくなる。
「左……次、左を……」
右へ重心を移す。
右膝を保つ。
左脚から荷重を抜く。
その間にも足首が傾く。
「足首……膝……腰……」
身体が固まった。
「もういい」
アンガードが身体を支える。
「でも一歩は出た!」
「ああ」
「だったら次も――」
「出せると思う」
「じゃあ!」
「一個ずつならな」
ノエラが止まった。
エルヴィスが記録から顔を上げる。
「個々の動作そのものは成立しているのである」
「……全部できてる?」
「右膝も左膝も、足首も、荷重移動も、それぞれは可能である。支えがある状態なら、それらを連続して行うこともできている」
「じゃあ何で、一人だと歩けないの?」
ノエラの問いに、誰もすぐには答えなかった。
カーナが腕を組み、先ほどの動きを思い返す。
「支えがある時のノエラは、倒れることまで全部自分で気にしなくていい」
「うん」
「だから次の動きへ行ける。でも支えがなくなった途端、全部を自分で確かめ始めるんだよ」
「全部?」
「右膝はどうなってる。左足首はどこだ。重心はどっちだ。腰はどれだけ動かす。次は何をする。その全部さ」
アンガードが引き継いだ。
「一つずつ覚えたから、一つずつやろうとしてるんだ」
「それじゃ駄目なの?」
「駄目っていうより……」
アンガードは少し考えた。
「お前、今までの義足で歩く時に『次は腰をこれだけ動かして、その後に上半身を傾けて』なんて、一個ずつ考えてたか?」
「考えてない」
「歩こうと思ったら?」
「歩いてた」
「そういうことだ」
ノエラは自分の脚を見る。
「今は、歩こうと思っても?」
「膝を動かそう、足首を動かそう、重心を移そうって、覚えたことが全部別々に出てくる」
エルヴィスが静かに続ける。
「歩行に必要な個々の動作は揃っているのである。しかし、それらがまだ一つの動作として身体へ馴染んでいない」
「一つの動作……」
「歩く、という動作である」
ノエラは黙り込んだ。
膝は動く。足首も動く。立てる。体重を片脚へ移すこともできる。支えてもらえば、それらを繋いで何歩も進める。
何かができないわけではない。
足りない動きが見つかったわけでもない。
それなのに、一人で歩こうとした途端、覚えたことを一つずつ確かめなければ身体が動かなくなる。
「……変なの」
ノエラが呟いた。
「全部できるのに」
「ああ」
アンガードは頷いた。
「全部できる」
「なのに歩けない」
「今はな」
ノエラが顔を上げる。
「またそれ言う」
「何が?」
「今は、って」
「事実だからな」
アンガードは笑った。
「難しいのと、無理なのは違う」
「……それも前に聞いた」
「なら覚えてるだろ?」
「うん」
ノエラはもう一度、自分の両脚を見た。
以前は、動かし方そのものが存在しなかった。
今は違う。
歩くために必要な動きは、一つずつならもう身体の中にある。なら今度は、それを一つにする方法を探せばいい。
「明日もやる」
「ああ」
「明日は歩けるかも」
「それは知らん」
「そこはできるって言ってよ!」
「嘘はつかねぇよ」
「けち!」
いつもの調子に戻ったノエラを見て、アンガードは小さく笑った。
少し離れた場所では、クリスの傍らにいるルーフェが静かに少女を見つめている。
ノエラはまだ、その視線には気づかない。
自分で立つことはできた。支えがあれば、自分の脚で前へ進むこともできた。歩くために必要な動きは、もう彼女の身体の中に揃っている。
残っているのは、それらを膝、足首、重心、腰と一つずつ考えることなく、ただ前へ進むための一つの動作として使うことだった。
ノエラは、その答えをまだ知らない。
そして、歩けるようになったら探しに行こうと思っている相手が、すでにすぐ近くにいることも。