無差別の技師 〜MAP技師は身体を全て取り返す〜 作:羊毛ローブ
翌日。
「右膝……左に重心……足首……」
ノエラの右脚が床から離れ、昨日よりも滑らかに前へ出た。着地した右足へ慎重に体重を移し、今度は左脚から荷重を抜こうとする。
「左膝……腰……」
そこで動きが鈍った。
右足首が揺れ、それを直そうとして腰が大きく動く。今度は左膝への意識が抜け、身体が傾き始めたところで、すぐ傍にいたアンガードが肩を支えた。
「そこまで」
「まだいけた!」
「倒れ始めてから言うな」
「でも昨日より進んだもん」
「それはそうだな」
アンガードはノエラを支えながら姿勢を戻した。
昨日は最初の一歩を出したあと、次の脚へ繋げるところで完全に止まっていた。今日は左脚を動かそうとするところまでは進んでいる。進歩していないわけではなく、むしろ一つずつ見れば昨日より確実に良くなっていた。
「身体側の反応にも問題はないのである」
エルヴィスが記録から顔を上げる。
「各関節へ送られる信号も、昨日より安定している」
「じゃあ、もうちょっとで歩ける?」
「そこが難しいのである」
「何で?」
「今の話を聞いてなかったのかよ」
アンガードが苦笑する。
「一個ずつは昨日より良くなってる。でも、お前は相変わらず一個ずつやってるだろ」
「だって、やらないと動かないもん」
「今はな」
「またそれ」
ノエラは不満そうに口を尖らせた。
今日の訓練には、酒屋の裏手にある少し開けた場所を使っている。地面は事前に確認し、大きな石や凹凸も取り除いてあった。転倒した際の危険を減らすためでもあるが、室内より長い距離を取れることも理由だった。
自力で立つことそのものは、もう珍しくない。
ノエラは今も誰にも支えられずに立っている。
問題は、その先だった。
「もう一回」
「少し休め」
「まだ疲れてない」
「脚だけの話じゃねぇよ。頭も使いっぱなしだろ」
「頭?」
「右膝、左膝、足首、重心、腰。ずっと全部考えてるじゃないか」
横からカーナが笑った。
「見てるこっちまで忙しくなってくるくらいだよ」
「でも考えないと忘れるよ」
「忘れるんじゃないさ」
カーナはノエラの前へしゃがむと、額を指先で軽く突いた。
「ノエラは覚えすぎてるんだよ」
「覚えすぎ?」
「一つ一つ覚えるところまでは上手くいった。だから今度は、その一つ一つが気になって仕方ないのさ」
ノエラは自分の脚を見下ろした。
「じゃあ、考えないようにする?」
「それが簡単にできるなら苦労しないねぇ」
「じゃあどうするの?」
「それを今から探すんだよ」
「また探すの?」
「ここまでずっとそうだったろ?」
「……そうだけど」
ノエラは渋々、用意されていた椅子へ腰を下ろした。
足裏にはまだ地面の感触が残っている。膝を動かせば位置が分かり、足首を曲げればその角度も分かる。最初に脚を接続した時には、あまりに情報が多くて頭の中がうるさいと感じたものだった。
今では、その一つ一つを自分の身体から返ってくる感覚として理解できる。
できることは増えた。
それなのに、「歩く」という一つのことだけが上手くいかない。
「変なの」
「何がだ?」
「前の義足の時は、こんなに色々できなかったのに歩けたんだよ?」
「ああ」
「今の脚は膝も動くし、足首も動くし、立てるのに。一人だと歩けない」
「だから、できることの数だけで決まるわけじゃないんだろうな」
アンガードもノエラの脚へ目を向けた。
「前のお前は、少ない動きでどうやって歩くかを身体が知ってた。今はできることが増えた分、それをどう一緒に使うかをまだ身体が知らない」
「身体に教える?」
「そうなるな」
「どうやって?」
「だから、それを考えてんだよ」
「アンガードさんも分かんないんだ」
「分かってたら昨日のうちにやってる」
「そっか」
「何でちょっと嬉しそうなんだよ」
「私だけ分かんないんじゃないから」
「そういう安心の仕方すんな」
ノエラが笑い、アンガードも呆れたように笑い返した。
その様子を、少し離れたところからルーフェが見ている。今日もクリスの傍らで青い翼を畳み、訓練が始まってから一度もノエラへ近づいてはいなかった。
「休憩終わり!」
「早ぇよ」
「もう休んだ!」
「三分も経ってねぇ」
「十分!」
「何が十分なんだよ」
「休んだの!」
「時間じゃなくて気分で決めんな」
それでも立ち上がろうとするノエラを見て、カーナが肩をすくめた。
「まあ、やらせてみたらどうだい。力み始めたら止めりゃいいさ」
「姉貴は甘いんだか厳しいんだか分かんねぇな」
「ノエラ」
「なに?」
「転んでもアタイは笑わないから安心しな」
「それ絶対笑うやつ!」
「よく分かってきたじゃないか」
「姉貴……」
再びノエラが立つ。
今度はアンガードも、最初から細かな指示を出そうとはしなかった。
「好きにやってみろ」
「え?」
「昨日から俺たちの言った通りにやりすぎてる。最初の一歩くらい、自分で好きに出してみろ」
「間違ってたら?」
「止める」
「転びそうになったら?」
「支える」
「じゃあ……やる」
ノエラは前を向いた。
右脚を出す。
そう思っただけで、昨日までに覚えたことが次々と頭の中へ並び始める。
左へ重心を移し、右脚から荷重を抜く。膝を曲げて腰を使い、足首の位置も確かめる。
考え始めた途端、身体が遅くなった。
それでも最初の一歩は出る。右足を地面へ着け、今度は右へ重心を移して左脚を出そうとするが、そこでまた身体が止まった。
「……何で」
できる。
膝も動く。足首も動く。重心だって移せる。
全部できるはずなのに、繋がらない。
「もう一回」
今度は左脚から始める。
一歩は出た。
だが、二歩目で止まった。
「もう一回!」
右から試しても同じだった。
「ノエラ」
「まだ!」
カーナの声にも首を振る。
「もう一回やったらできるかもしれない!」
姿勢を立て直し、再び前を見る。
けれど今度は、最初の一歩さえぎこちなくなった。考えれば考えるほど、身体のあちこちが別々のものになっていく。
「右膝……足首……左に――」
その時だった。
視界の端で、青いものが動いた。
「……?」
ノエラの意識が、自分の脚から外れる。
クリスの傍らにいたルーフェが、ゆっくりと歩き出していた。
「ルーフェ?」
クリスが呼ぶ。
けれどルーフェは止まらない。
ノエラの前を横切り、そのまま数歩先まで進む。
そこで足を止めると、ゆっくり振り返った。
「…………」
ノエラが動かなくなった。
ルーフェは何もしない。ただ少し離れた場所から、ノエラを見ている。
青い翼を持つ、今まで何度も目にしてきた姿。
それなのに。
その距離が。
少し先まで進んで、自分を待つように振り返る仕草が。
「……レーちゃん?」
小さな声だった。
アンガードがノエラを見る。
「ノエラ?」
返事はない。
ノエラの目は、ルーフェから離れなかった。
昔、義足で森の入口まで行った時。
赤い大きな身体が、自分より少し先へ進んだ。
本当なら、ノエラを置いていくらでも先へ行けたはずなのに、いつも少しだけ先まで進んでは振り返った。
ノエラが追いつくまで待っている。
急かすこともなく、迎えに戻ってくることもなく。
ただ、そこで待っていてくれる。
「…………」
ルーフェが一歩だけ進んだ。
そして再び止まり、ノエラを見る。
胸の奥で、何かが強く鳴った。
「待って」
ノエラが呟く。
ルーフェへ向かって。
「待ってよ」
一歩、近づきたい。
右膝をどう動かすのか。
足首をどこへ向けるのか。
重心をどちらへ移すのか。
そんなことよりも先に、一つだけ強い思いが浮かんだ。
追いつきたい。
昔、何度もそうしたように。
「ノエラ」
アンガードの声が聞こえた。
けれど、ノエラはもう自分の膝を見ていなかった。
見ているのはルーフェだけだった。
「待って!」
身体が動いた。
左へ重心が移ると同時に右脚から荷重が抜け、腰の動きに合わせて右膝が曲がる。足が地面から離れて前へ出ると、膝が伸び、踵が地面へ触れた。
そこへ自然に体重が移る。
「……え?」
誰かの声がした。
けれどノエラには、それが誰の声だったのか分からなかった。
右脚へ体重が乗ると左脚が軽くなり、腰の動きに合わせて左膝が曲がる。そのまま脚が前へ出て、再び足裏が地面を捉えた。
二歩目だった。
ノエラは止まらない。
右膝のことを考えていない。左足首も、重心をどちらへ移すのかも、一つずつ確かめてはいない。
それでも身体は、これまで何度も練習してきた通りに動いている。
昔から使ってきた腰と上半身の動きが身体を前へ運び、新しく覚えた膝がその流れに合わせて曲がる。足首が地面を捉え、体重を受け止めれば、今度は反対の脚が前へ出る。
三歩目。
四歩目。
「ノエラ!」
母親の声が聞こえた。
それでもノエラは止まりたくなかった。
「レーちゃん!」
ルーフェが待っている。
だから、追いつく。
最初の頃から何度も使ってきた、腰と上半身で身体を前へ運ぶ動き。何日も掛けて一つずつ覚えた、膝と足首の動き。
それまで別々だったものが、ノエラの中で初めて一つに繋がっていた。
歩くために膝を動かそうとしているのではない。
歩くために足首を動かそうとしているのでもない。
ただ前へ進もうとした身体が、そのために必要なことをしている。
最後の一歩が少しだけ大きくなり、ルーフェのすぐ前まで来たところで身体が揺れた。
アンガードが反射的に駆け出しかける。
しかし、その前にノエラの足首が動き、腰が僅かに戻った。
自分で姿勢を立て直した。
「…………」
誰も声を出さなかった。
ノエラもその場から動かず、目の前にいるルーフェを見上げている。
「レー……ちゃん?」
もう一度、今度は先ほどよりも近くで呼んだ。
ルーフェが身体を低くした。
前脚を折り、背をノエラへ差し出す。
昔と同じように。
「……あ」
ノエラの目が大きく開く。
森まで自分で歩いていき、追いついたら、いつもこうしてくれた。
身体を低くして、一人では行けない場所まで自分を背中へ乗せてくれた。
「レーちゃん……」
今度の声に、疑問はなかった。
ルーフェは言葉を返さない。
けれど顔を上げたノエラへ、静かに頭を寄せた。
「……ほんとに?」
ノエラは両手を伸ばし、その顔へ触れる。
「ほんとに、レーちゃんなの?」
ルーフェが目を細めた。
それだけだった。
けれど、ノエラにはそれで十分だった。
「ずっと……いたの?」
声が震える。
「私、探そうと思ってたんだよ」
歩けるようになったら、今まで行けなかった場所まで探しに行けるかもしれない。
昨日、そう話したばかりだった。
その相手は、ずっと自分の近くにいた。
「ばか」
ノエラがルーフェの顔を抱く。
「分かんないよ……こんなの、分かんないよ」
涙が一つだけ頬を伝った。
ルーフェは逃げず、ノエラに抱かれたままじっとしている。
誰もその時間を邪魔しなかった。
アンガードも、エルヴィスも、カーナも、クリスも。ただ、二人を見守っていた。
やがてノエラが顔を上げ、目元を腕で拭う。
そこでようやく何かを思い出したように、自分が来た方を振り返った。
「……私」
「ああ」
アンガードが笑っていた。
「歩いたぞ」
「一人で?」
「ああ」
「誰も持ってなかった?」
「誰も」
「カーナさんも?」
「アタイは何もしてないよ」
「エルヴィスお兄さん」
「測定上も、全てノエラ嬢自身の動作である」
ノエラは自分が歩いてきた場所を見る。
数歩どころではない。
アンガードたちがいる場所から、ルーフェのところまで、自分の脚で進んできた。
「私、膝のこと考えてなかった」
「ああ」
「足首も」
「ああ」
「重心も……途中から何にも考えてなかった」
「でも動いてた」
「うん」
ノエラは自分の脚へ視線を落とした。
「歩こうって思っただけ」
「それだ」
アンガードが頷く。
「これ?」
「ああ。俺たちが探してたのは、多分それだ」
エルヴィスも記録へ視線を落とした。
「個々の動作が消えたわけではない。全て実行されていたのである。ただし、ノエラ嬢はそれぞれを個別には意識していなかった」
「身体がやった?」
「お前がやったんだよ」
アンガードが答える。
「今まで歩いてきた身体と、新しく覚えた脚でな」
ノエラは少し考え、ルーフェを見た。
「レーちゃんに会えたから?」
「それだけじゃねぇ」
アンガードはそこだけは、はっきりと否定した。
「レーちゃんがいたから、お前は膝を動かせるようになったのか?」
「違う」
「足首は?」
「練習した」
「立つのは?」
「いっぱい練習した」
「荷重の移し方は?」
「それも」
「だろ?」
アンガードは笑った。
「必要なものは、昨日までに全部お前の中にあったんだよ」
「じゃあレーちゃんは?」
「最後に、それを一個ずつ考えるのを忘れさせてくれたんじゃねぇか」
「忘れさせた?」
「追いつくことしか考えてなかっただろ」
「……うん」
「その時に、お前の身体が今まで覚えたものを全部一緒に使った」
横でカーナが腕を組む。
「いやぁ、これは面白いねぇ」
「姉貴」
「分かってるよ。今は技師の顔をするところじゃないさ」
そう言いながらも、カーナの目は嬉しそうだった。
「でも、ノエラ」
「なに?」
「一回できたからって、これで終わりじゃないよ」
「分かってる」
「おや。珍しく素直だねぇ」
「だって、もう一回やりたい」
アンガードが眉を上げた。
「今?」
「うん」
「レーちゃんを追いかけなくても?」
ノエラは少しだけ迷った。
それから、しっかり頷く。
「うん」
「いいぞ」
元の場所へ戻る時だけは、アンガードに支えてもらった。
疲労もある。感情が大きく動いた直後でもある。一度の成功だけで無理をさせる理由はなかった。
十分に休んだあと、ノエラはもう一度立った。
今度はルーフェを追いかけない。
数歩先に立っているのはアンガードだけだ。
「何を考える?」
アンガードが尋ねる。
ノエラは少し考えた。
「そっちまで行く」
「膝は?」
「考えない」
「足首」
「考えない」
「重心」
「……それも考えない」
「いいのか?」
「必要になったら身体がやるんでしょ?」
「やってみろ」
ノエラは前を向いた。
怖くないわけではない。
先ほどはルーフェへ追いつきたい気持ちだけで動けた。今度は自分の意思だけで、もう一度歩こうとしている。
それでも。
――歩く。
そう思った。
右脚が前へ出る。
続いて、左脚。
まだ少しぎこちない。
三歩目で身体が揺れ、足首へ意識を向けそうになる。それでもノエラは足元を見ず、数歩先のアンガードを見た。
そこまで行く。
それだけを考えて、もう一歩進む。
そして次の一歩で、アンガードの前へ辿り着いた。
「……できた」
「ああ」
「できた!」
「ああ」
「今度はレーちゃん追いかけてないよ!」
「見りゃ分かる」
ノエラの顔が一気に明るくなる。
「私、歩ける!」
アンガードは今度こそ、何も付け加えなかった。
「ああ。歩けるぞ」
◯
それから数日が経った。
まだ転ぶことはある。疲れれば動きは崩れ、ふとした拍子に膝や足首を意識しすぎて、動きがぎこちなくなることもあった。
それでも、ノエラは歩けた。
一度だけ起きた偶然ではない。
自分で立ち、自分で最初の一歩を出し、そのまま次の一歩へ繋げる。その動きを何度も繰り返せるようになった。
その日、ノエラは森の入口に立っていた。
アンガードたちも少し離れて同行している。まだ一人で森へ行かせるつもりはない。
けれど、ノエラの身体を支えている者はいなかった。
隣にはルーフェがいる。
「ここ、覚えてる?」
ノエラが尋ねる。
ルーフェは言葉を返さない。
「私は覚えてるよ」
昔、ここまでは自分で来た。
簡素な義足で、腰と上半身を使いながら何度も足を運んだ。
そして、この先からはレーちゃんの背中に乗せてもらった。
「昔はここから乗せてもらってたよね」
ルーフェがノエラを見る。
「今日は乗らない」
ノエラが笑った。
「今日は一緒に歩く」
森の中へ一歩踏み出す。
土の柔らかさは、家の床とも、整えられた訓練場所とも違う。足裏から返ってくる感覚も違い、僅かな起伏に身体が少し揺れた。
それでもノエラは止まらなかった。
ルーフェも急がない。
昔のように少し先まで進んで待つことも、背中を差し出すこともしなかった。
ただ、ノエラの隣を歩いている。
「レーちゃん」
ノエラが呼ぶと、ルーフェが顔を向けた。
「私、歩けるようになったよ」
返事はない。
それでもノエラは笑った。
「今度は、自分で行けるよ」
右脚を出せば、左脚が続く。
腰も動く。
膝も足首も、重心も、必要な時に必要なだけ働いている。
ノエラはもう、その一つ一つを数えてはいなかった。
ただ歩いていた。
昔、自分で覚えた歩き方も、新しく覚えた脚の動きも、どちらも失わずに。
自分の身体で。
森の中を、レーちゃんの隣で歩いていた。